【俺の弟が気持ち悪すぎてしぬ 中】


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  俺の弟が気持ち悪すぎてしぬ 中


 それからはツグミのことも忘れ、至福の時を楽しんだ。
 俺は水分さんと町の喫茶店に入った。俺だけ自転車に乗るわけにもいかないので、一緒に歩いて町まで戻ってきたのだ。
 二人乗りを提案したが「ダメです!」とたしなめられる。怒った顔も俺にとってはご褒美である。
「高嶺の花」こと水分理緒さんとゆっくり会話できる日が来るなんて。
 最初のうちは、なんでもない日常生活の話やクラスの話をしていた。
 弟のツグミがいかに変態で気持ち悪いかを誇張をかけて力説したのだが、そんな話でも水分さんは「うふふ、健介くんったら!」と笑って聞いてくれる。
 やはり水分さんは、双葉島に舞い降りたかぐや姫か何かのような、神秘の権化としか思えない。
 なお、「健介」とは俺の名前である。俺は前田健介といい、中等部三年E組に所属している。
 つまり俺は双葉学園のマドンナに名前を呼んでもらっているのだ。めったにないことだろう。幸せすぎていつ死んでもいい。
「ツグミちゃんは健介くんが大好きなんですね」
「ウザいくらいですよ。さっきも大恥かいてきたんですから」
「お兄ちゃん好きなんだもん! でしたっけ? あらあら、まぁまぁ」
「き、聞いてたんですか」
 とたん赤面した。よりにもよって水分さんにまでしっかり聞かれているとは思わない。
 やっぱりあのとき那由多に殺してもらえばよかった。
「その、ツグミちゃんの話なんですが」
 涙目で頭をかきむしっていたところ、急に水分さんの顔つきが真面目なものになった。何だろうと思って俺も前を向く。
「健介くんとツグミちゃんは、二人で島に来たんですよね?」
「はい。ツグミが小三のときに異能が出たので、一緒に転入してきました」
「異能が発現したきっかけって、覚えてます?」
「え?」
 不思議なことに即答できなかった。
 そういえば、どうしてツグミは異能者だとわかったんだっけ?
 二人で送るこの生活があまりにも自然であるようだったので、当然のこととして俺は過去と向き合うようなことをしなかった。
 ツグミもまた、昔のことについて自分から聞いてくるようなことはしない。
「何でだっけ」
「はっきり思い出せなくてもいいですよ」
 水分さんはにっこり微笑んでそう言った。まるでこんな俺の反応を、さも当然の、予定通りの出来事として待ち構えていたかのように。
 確か家族でキャンプに行ったときのことだった。川でツグミと水遊びをしていたら、ラルヴァに襲われたのである。
 ラルヴァが発動キーとなって異能に目覚めるケースは多く、俺の知っているだけで学年の半分以上はそういう過程を辿ってきたのではないか。
「どんなラルヴァでした?」
「覚えてないんですよ」
「だいたいでいいです。大きさや種族だけでも」
「何かドラゴンっぽい大きなものでした。ああそうそう、その渓谷には竜の伝説がありまして、それが目覚めちゃったんだ」
 ピリッ、と右側のこめかみに頭痛が走る。俺は特に気にせず話を続ける。
「俺たちが襲われたんです。俺はツグミを守ろうとして木の棒で殴りかかったんですが、尻尾に弾き飛ばされて」
 水分さんは手帳を取り出していた。ボールペンのペン先を出したのを見るに、俺の話の内容を記述するのだろう。
 ちゃんと説明しなきゃなと緊張する。
「血だらけでしたよもう。腕を深く切っちゃって、血がどくどく出て。あーそうだ、ツグミが俺の腕を取って血を舐めたんだっけ。そうしたら――」
 突然、両側のこめかみに電気が走ったかのような強烈な痛みが走った。
 そしてとてつもない頭痛に襲われ、横に倒れかかる。
「健介くん!」
 俺は枕のようなものに頭を包まれ、しばらくそこに身を預けていた。
 やがて痛みが引いて体が楽になってくると、俺は水分さんに真正面から寄りかかっているのを理解する。
 顔面が水分さんの胸元にしっかり埋まっているのも。
「ごめんなさいね、やっぱり刺激が強すぎたかしら」
 はい、刺激十分で胸が苦しいです。
 顔は真っ赤になり、湯上りのときのように頭の中は茹で上がっている。まだ女性を知らない俺の分身は、きゅんきゅん発熱し、この切ない気持ちを処理してくれと泣き喚いている。そんな俺のかっこ悪い様子を、水分さんは何もかもお見通しであるかのように、妖艶に微笑んで見守っていた。俺はもうなすすべもなかった。「イケナイお人だ――」
 俺が落ち着いて椅子に座り直したのを見計らい、水分さんは話を続ける。
「では、そのときにツグミちゃんの力が目覚めたんですね」
「はい。あっという間にラルヴァを殺しちゃって腰抜かしました。性格も豹変して」
「性格が?」
「『よくもお兄ちゃんを!』とか『ウフフ、ノロマな恐竜さん』とか『あは。薄汚れた血。ツグミ吐き気がしちゃいそう』とか。聞いてるこっちが真っ青になっちゃいました」
「何か女の子みたいですねぇ」
「・・・・・・あれ」
 そう、水分さんに妖しげな笑みを向けられて言われて、俺は気づいたのである。
 先ほどのツグミの台詞は、今も俺の脳内に焼きついて離れないものをピックアップしただけのものだ。そのときの状況は明確に記憶していない。
 でも言われて見れば、その声は随分と女の子みたいな響きがしていた。
 小学三年生の男の子にしては妙にトーンが高くて、どこか甘ったるかったのである。女の子だと間違えられても無理はないぐらいだ。
 だがツグミは正真正銘「男」であり「弟」である。
 でも、日ごろの甘ったれた性格や発言は、まさに女の子のそれなんじゃないか?
 そう危険な想像をした自分が恐ろしくなる。そんなわけがない。ツグミは昔から男に決まっている。
 あいつはただ、ちょっと育ち方を間違ってしまった気持ちの悪いオネエ系男子に過ぎない。
「健介くん。本当に、ツグミちゃんは男の子なんですか?」
 俺は水分さんに答えることができなかった。
 それから少し経って喫茶店を出る。
 澄んだ冷たい冬の空気を、水分さんは大きなおっぱいを上下させておいしそうに吸い込んでいた。
 家まで送ろうかときいたが、これから学園に戻って調べごとをしなければならないそうである。住処をつかめる淡い期待は打ち砕かれた。
 泣き出しそうな(決して誇張ではない!)のを堪え、俺は別れ際にこう言う。
「楽しかったです! また今度一緒に」
「ねぇ健介くん。お母様の旧姓、覚えているかな?」
「は、はいぃ?」
 精一杯の勇気を振り絞ってやっと口にすることのできたお誘いの台詞を、突拍子も無い話題で逸らされた。
 俺はいじけたような視線を水分さんに送りつつ、拗ねたような口調でこう答える。
「あー何だっけ。そうだ、『イワオビ』だ」
「イワオビ?」
「ええ。岩の帯と書いて『岩帯』です」
「そう、やっぱりね」
「え? 何です?」
「何でもないわ健介くん。また今度教えてあげる。じゃ、気をつけてね――」
「ちょっと」
 慌てて声をかけたが、黒髪の女性はもう闇に溶け込んで姿を消していた。
「母さんの姓が、どうしたっていうんだ」
 母さん――岩帯ヒタキは古い家筋の出身だ。
 ポルトガル人が船に乗って鉄砲を伝えに来た、あの時代から続いているなどとは聞いたことがあるが、真相はわからない。
 岩帯家の子供は、時に日本人らしからぬ金髪と青い瞳を持って生まれた。母さんがそうだったし、ツグミもまた、それが当たり前であるかのように変わった風貌で生まれた。
 変わったことと言えばその程度だったので、水分さんが母さんの実家に言及する真意が、俺にはさっぱりわからない。
 そういぶかしげに首をかしげていたのだが、「また今度」とう魅惑的な一言を思い出すに至り、それからはすっかり幸せな気分でアパートへと向かった。
 さすがに真冬の十九時にもなれば、ツグミも帰宅していることだろう。


「あ、あららら?」
 アパートはまだ真っ暗だった。
 実はとっくに帰宅していて、わざと電気を消しているのか? ツグミも怒らせればそういったイタズラはするのかもしれない。
 しかしやはり鍵はかかっている。
「どこで何やってんだ?」
 北風が吹きつけてきて俺は体中を震わせる。
 乾いた音を伴って通り抜ける、冷たい風。
 電柱に立てかけてある工事の看板が、バタバタと音を立てているのが、はっきりと耳に届く。
 夜にも関わらず、空は分厚い白い雲で覆われており、これから雪でも降ってきそうな静寂によって町じゅうは黙り込んでしまっていた。
「風邪引いちまうがな・・・・・・」
 とっとと部屋に入って熱い風呂に浸からないと、寒さでおかしくなってしまいそうだった。
 ツグミだって具合悪くしたら学校や家事どころじゃないだろう。ヤツの大好きなお料理だってできない。
 そういえば、と一つ思い出す。
 俺が料理をしない理由は、母さんに止めるようきつく言われたからだ。何より「包丁を持つな」とものすごい剣幕で怒られたことがある。
 あれは「刃物を持つな」という意味だったのだろうか。でもそれだと、小学校ではハサミやカッターナイフや彫刻刀といったものは使えた理由がわからない。
 そして母さん亡き後も、包丁はツグミがしっかり管理している。
 ツグミがいないときに、小腹が空いたので包丁を探してみたことがあったが、結局見つけることができなかった。俺は自分の家の包丁がどこにしまってあるのか全く知らない。
 とにかくツグミを捜さなければならない。とりあえず携帯電話を取り出した。
「あ、メール届いてら」
 ツグミからである。水分さんとの会話に夢中になっていたせいで、随分ツグミのことをほったらかしにしてしまった。少しだけ自分の行動を恥じる。
 受信時刻はほんの数分前だ。連絡は取れるようなので安堵の息を漏らす。
(ツグミがいなくなって、こんなにも心配してるなんて)
 無性に照れくさくなり、意地悪な文面を考えながらメールを開いた。
「早く帰って来いホモ男」にしようか、「もう怒ってないからご飯作ってください、俺の大事なバカ弟」にしようか、考えていたときだった。
 背筋が芯まで凍りついた。
『血塗れ仔猫に追いかけられてる。助けてお兄ちゃん』
 胸ポケットから小さな鍵を取り、自転車を引っ張り出して道路へと飛び出す。


「血塗れ仔猫? 嘘だろ!」
 俺は血相を変えて自転車を漕いでいた。
 乾いた冷たい空気をたっぷり浴びているので、自然に涙が生成されて後ろに流れていく。
 血濡れ仔猫は、今年の夏場に出現した凶悪なラルヴァである。
 俺の中等部でも四名被害者が出るという、忘れもしないおぞましい事件であった。
 血塗れ仔猫はとっくに醒徒会が始末したことになっており、冬になってようやくその忌まわしい名前が忘れ去られようとしていた。
 ところが「始末した」と言うが、実際は「この学園に通っている」という怖い噂が蔓延している。もしかしたらあの噂は真実だったのか?
 そういう想像をしてしまうのも、ツグミが生命の危機に陥っているからだ。
 あれよあれよという間に被害者が増えていった、あの夏の狂気。
 ツグミもその悲劇の螺旋に取り込まれてしまったとでも言うのか。
「冗談じゃねぇ!」
 悪い想像を振り払う。白い吐息がどっと口から漏れる。
 赤信号を認めたのでブレーキをかける。俺はモバイル学生証を起動させ、学園に通報を入れてから、ツグミの現在位置を照会した。
 モバイル学生証にはGPSが搭載されているので、少なくとも家族同士だったら面倒な手続き無しに情報が得られるはずだ。
 データが送られてきた。交差点の信号待ちがてら、それを確認する。
 島の中心から離れた外周沿いの公園に、ツグミはいた。


 音を立てないようにして暗闇を覗く。遊具のあたりやグラウンドには、人の影は見られない。
 しかし「ガサリ」という草むらからの音を耳にし、俺はそっと接近していった。
 そして俺は恐ろしい光景を目の当たりにしてしまうのである。
「むぐー、むぐー」
 ツグミが草むらの陰で、仰向けになって何者かに押し倒されていたのだ。
 ツグミに馬乗りになって口元を押さえているのは、まさにゴシック・ロリータらしき衣装に身を包んだ黒猫!
「つ、ツグミぃー!」
 俺は真っ直ぐ草むらに突っ込んでいった。
 非常事態は冷静になりましょうだの、助けを呼びましょうだの、学校で教えられたことの何と役に立たないことか。
 俺はツグミを救出すべく、雄たけびを上げながら血塗れ仔猫らしき人物に突進していった。
 真横から不器用なタックルを食らわせてやる。相手は意外とこんな攻撃で、あっけなく吹っ飛ばされていった。
「ツグミ、ケガしてないか!」
「お兄ちゃん! 怖かったよ~~~」
 大泣きしながら胸に飛び込んできたツグミを、ぎゅっと抱きしめる。
 どこの世界に、弟を可愛いと思わない兄がいようか。気持ち悪い奴だけど。
 ツグミはどこも怪我をしておらず、無事だった。ツグミの体の温かさが俺を安心させてくれる。そうして抱き合っていたときである。
「じゃ、邪魔しやがってぇ!」
 へ? と俺は声がしたほうを向く。
 今確かに男の声がした。妙に野太い声だった。
 よく見ると血塗れ仔猫らしき人物は妙にガタイが良くて、肩幅も胸板も広大なものを誇っている。
 さらに安物のスカートからは恐ろしく怒り昂ぶる雄そのものがそそり立っており、つい俺は「ひぃっ」と悲鳴を上げてしまった。彼の手にはジョークグッズの「鞭」が握られている。
「この人男だったんだ!」
 ツグミが驚いた様子でそう叫ぶ。
 俺は激しく脱力する。つまりこうだ。
 血濡れ仔猫に変装した男が、ツグミを追いかけまわしていただけのことだった。
 ツグミは怖がってしまい、相手が偽者であることをつかめなかったのである。すぐに暗くなってしまうこの時期では気づけないだろう。
 ツグミを見る。冬服の上着は紛失されており、ワイシャツ姿になっていた。
 そのワイシャツも破かれ、ボタンも飛ばされ、ほっそりした腰周りや薄い胸板が露出している。
 俺の視線に気づいたツグミは「見ないで」と顔を赤らめそっぽを向く。見ねぇよバカと、俺は自分の制服の上着をツグミに着せた。
 ますます情けなさで気が遠くなりそうだった。
 ツグミは黒ずくめの野郎に犯される寸前だったのだ。この島には変態しかいないのか。
「人の弟に何しようとした!」
 兄である以上は悪漢に毅然と対応せねばならぬ。ツグミは俺の左腕にしっかり寄り添い、恐怖に震えていた。
 強姦魔は頬骨の出ている長方形みたいな顔で、丸刈りをしている。
 ゴツい体育会系の面だが、表情そのものはすっかりオドオドアワアワしており、気の動転を露骨にしていた。
 ご丁寧にも猫耳カチューシャまで着けている。本物に殺されてしまえばいいと思う。
「う、うるせぇ。お前には関係ねぇ」
「ゲスが。ざけんじゃねぇぞ」
「僕のカラダはお兄ちゃんのものなの!」
「おめぇは黙ってろい!」
 気持ち悪い発言に出た弟にそう怒鳴ったときだ。ギラリという鈍い光が横目に入る。
 男がついに刃物を取り出したのを見たとき、さすがに言葉を失った。
 男がナイフをこちらに向け、震える両手で握り締める。
「く、来るんじゃねぇ」
「そうはいかねぇ。おとなしく風紀の懲罰台に乗るんだな」
 そう言って俺は無用心に前に出てしまう。
 この怯えようなら、大したことはないと思ったのだ。
 だが。
「わぁあああ!」
 ナイフがなぎ払われた。
 とっさに俺は首元を左腕で守る。ビッと腕に打撃の感触を覚えた。
 すぐに激痛が走り、まるで腕の中身が零れたかのように、ぼたぼたと草むらの上に血液が落ちたのである。
「お兄ちゃん!」
「大丈夫だ、ちょっと切っただけ」
 しかし、これで何かを吹っ切らせてしまったようだ。
 男はフーフー白い息を吐き出しながら歯を鳴らしている。両方の目がとんでもなく上下に開かれ、血走った目で俺を見据えていた。
 ヤバいとしか思えなかった。こりゃ本当に刺されるんじゃないか。
「お兄ちゃん、怖い」
「俺がついてる。守ってやるから」
 ツグミの手を握って俺は駆け出す。
 後から猛然と追尾してくる音が聞える。
 理性を無くした野獣の地面を蹴る音が、こんなにも俺の頭の中で響いて足を竦ませるものだったとは、思っても見ない。生命の危機から強く恐怖していた。
 そしてツグミの手はとても小さくて、細かった。


「どこに消えた!」
 体育会系の兄ちゃんは遊具の辺りを探し回っているようだ。
 ザッと砂を蹴って歩く音がなかなか離れていかず、じれったい。
 俺はツグミをしっかり抱き寄せ、滑り台に寝そべって隠れている。
 お互いに身体が細いのですっぽり隠れられた。だがもし相手がこちら側に来てしまったら、何の意味も無い。
 意外とツグミも華奢な体をしていた。身長を越されてから、あるいは声変わりを終えてから、俺はこの弟を気持ち悪いと思って近づけることも許さなかった。可愛い弟は消滅したと思い込んで、ろくにツグミの姿を見ることもしなかった。
 でも俺の思っていた以上にツグミの体は細くて、肩幅も無く、胸板も薄い。
 ガッチリしている、というのは俺の思い込みに過ぎなかったのである。
「お兄ちゃんのカラダ、あったかい」
「バカ、んなときに気持ち悪いこと言うんじゃねぇ!」
 囁き声でそうしかりつける。
 我が愚弟は上半身から下半身まで、隈なく隙間なく身体を密着させていた。両目がひどく潤んでいる。ツグミもあの強姦魔と同じぐらい怖かった。
 一本一本絡み合う指と指。ツグミが俺の手を強く握る。
「お兄ちゃん、覚えてる?」
「何だよ」
「前もこんなこと、あったよね」
 ツグミが過去の出来事に言及するのは珍しいことだった。いや、恐らくこれが初めてだと思う。
 ツグミは血だらけの俺の腕に触れ、俺の血を指先ですくってからこう言う。
「どっかの山奥で、怖い恐竜に襲われて。そしたら僕の中のすごいのが目覚めてね、一気にやっつけちゃったんだ」
「ああ、俺もよく覚えてないけど、お前の言うとおりだと思う」
「すごい力だった」
 俺はツグミを見た。何かを心から欲し求めている、切なげな横顔。
 指先にすくった俺の血を、突如として口に含む。まるで貪るように硬い指先を舐め、しゃぶり、吸い尽くす。
 ぽっ、と親指を口から放したツグミの顔は非常に紅潮していた。続けてこう言った。
「どんどん力が湧いてきた。体中が熱くなってね、すごくエッチで乱暴な気分になった。それに」
「それに?」
「僕やっぱり、男の子じゃないよ!」
「お前・・・・・・っ!」
「こんなの僕のカラダじゃない! 僕はずっと戻りたかった! だけど戻れなくてとってももどかしいんだ!」
 ツグミが何を言っているのか、話を聞いたその瞬間こそはわからない。
 さらに言えば、ぶん殴りたくなってくるような変態的行動もその意味がわからない。
 しかし、後からじんわりと浸透していくように、俺の理解が追いついてこようとしている。
 違う。俺も何かに目覚めつつあるのだ。
 封印された悲しい出来事を解き放ち、ありのままの姿に回帰するときが来たのだ。
 俺の秘められた記憶や魂源力が、激しくそう主張している。声をますます大きくして。
「お兄ちゃん、戻して」
「戻す? どういうことだ」
「僕すっごく変なこと言ってると思う。けど、そういう気持ちでいっぱいなんだ」
「お前らぁ!」
 野太い声が俺たちの秘密の会話を止めてしまう。
 二人でぴったり寄り添っているところを、黒ずくめの強姦魔は輝きの無い瞳で見下ろしていた。
 こんな恥ずかしい現場を見られてしまい、死にたくてたまらない。
「・・・・・・う、うらやましいじぇねぇかぁ! 俺がやりたかったことをぉ」
 死ぬならコイツをブッ殺してから死のうと思った。
 男はナイフを俺たちに向ける。黒くくすんで見えるのは、俺の腕を切りつけたからだ。
 滑り台の前に立たれてしまい、俺もツグミも逃げ道を絶たれてしまった。冗談を抜きにして、本当に死んでしまうかもしれない。
 ツグミは俺のワイシャツの肩の辺りを掴み、涙を散らしながらこう懇願する。
「お兄ちゃんならわかるはずだよ? 僕を元に戻して!」
「元に戻すって、どうやって」
「僕がずっとお兄ちゃんとしたかったこと、わかるでしょ?」
「ま、まさか」
 ツグミは小さな唇を俺に向けてきたのだ。俺は絶句した。
 ふざけんなとしか言いようがない。ツグミとキスしろと言うのか!
 こんな倒錯した行為で何か封じられているものが解き放たれるなんて、あまりにもひどすぎる。
 けれども、そのとき俺はツグミの唇に遠い過去の記憶を感じ取った。


 俺は真夏の渓谷でひたすら泣き叫んでいた。
 全身に真っ赤な血を浴び、大声で泣いていた。「どうしてこんなことに!」
 そう言うのも、ツグミと母さんが血だらけになって倒れているのだから。
 楽しいはずのキャンプは、惨劇以上の狂った何かに変貌を遂げてしまったのだ。
 あの頃はまだ、ラルヴァも異能も何もかもが空想の世界のものだった。だから、悪夢なら早く覚めてくれと、とにかくこのひどい光景を拒絶するしかなかった。
 そんな俺の―― 僕の肩を、父さんが叩いたんだ。



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