【ダイアモンド・キスはどこにある?】

    ダイアモンド・キスはどこにある?
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 肉屋に行けば肉が置いてあるように、ゲーム屋に行けばゲームが置いてあるように。
 “キス屋小町”がキスを取り扱っているということは広く知られた事実であった。
 だから、風紀委員でもある新田純司(にった じゅんじ)は今日も彼女を追いかけている。




「よし、こっちだな!」
 四つ辻をぐるりと見回してみると、左手の道から一人の青年がだらけた足取りで向かってきている。
 『あなたのお望みのキス、よろず取り揃えています』、これがキス屋小町のセールスポイント。
 余すところなく満足しきったであろう青年の弛緩しきった表情、これこそが彼女がそちらにいるという何よりの証拠であった。
「せんぱーい、待ってくださいよー」
 後ろから聞こえる泣き言を置き去りに純司は更に足を速めていく。再び四つ辻に行き当たった彼は鋭い目で三方を睨みつけるが、今度は先程のような手掛りはない。
「…むう」
 眉を寄せ、一瞬考え込む。こういうときにものを言うのは経験と勘。絶対の信頼を置けるほどの経験を積んでいるわけでもない。取り立てて勘に自信があるわけでもない。
 それでも純司は迷いなく直進する。速度は更に上がる。ほとんど走っているのと変わらぬ速度でしばらく進み、そして急にその足が止まった。
「!」
 純司の視線の先に、一組の男女がぴったりと身体を寄せあって立っていた。
 男の方は手前にいる女に姿を隠されて誰だか判然としない、が知っている人間ではなさそうだ。
 男に体を預けているような感じの女の方も純司に背を向けているため目立つサイドポニーとネイビーのブルゾン、そしてチェックのスカートくらいしか特徴らしい特徴は見て取れない。
「…ったく」
 こめかみを押さえ、一つ舌打ち。そして純司はわざと足音を響かせようとするかのような足取りで二人に歩み寄っていく。
 それに気付いたのか否か、くっつけあっていた顔を離した男が純司の姿を認め慌てて走り去る。
 純司はもはやそれには構わず背を向けたままの女の前に立ち、
「おい、小町」
「なによ」
 不機嫌そうな声と共に、サイドポニーが勢いよく跳ねる。
 純司に向き直った少女は確かに彼の探し人、キス屋小町こと七洞小町(ななどう こまち)だった。
「なによじゃない。いい加減そんないかがわしい商売は止めろっていつも言ってるだろ!」
「いかがわしいって失礼ね!」
 目を剥いて言い返す小町。
「キス屋なんて商売がいかがわしくなくて何がいかがわしいって言うんだ!」
「これはあたしの異能の鍛錬なんだってジュンも知ってんじゃない!」
 小町の異能、〈ディープ・サルベージ〉はサイコメトリーの亜種的な能力である。あるキーワードを聞いて対象が思い浮かべた記憶、そしてそのときに感じた感情や五感の感覚のような周辺情報まで含めたデータを一つのパッケージとして脳内に保存、あるいは力の流れを逆転させることで脳内アーカイブのパッケージを他者に体感させることもできる、そういう異能だった。
 正確に言うなら彼女のキス屋という商売はキスそのものを扱っているわけではない。客の持つキスの記憶を対価として客のリクエストに応じたキスの記憶をアーカイブ内から探し出して体感させる、そういうシステムだった。
 だから、小町の言い分にも一理以上のものはある。異能のたゆまぬ鍛錬もまた、この学園における異能者である生徒のあるべき姿の一つなのだ。
「そんな屁理屈を…」
「なによ!…あ、ご利用ですか、ありがとうございます」
 小町の前に再び客が現れ――今度は女性だ――彼女は純司を無視して応対を始めた。
「おい、話は終わってないぞ」
「はあ、彼のキスが乱暴に思えて不安ですか…そりゃ食べ物みたいにぱっと食べ比べてみるとかやりにくいですからねえ…。もう、仕事の邪魔だから帰って」
「先輩、緊急招集の、コールが、あったの、聞こえてないんですか!?4ブロック先で、異能者同士の、乱闘ですよ!」
 ようやく追いついた後輩が散々探し回ったのだろう、息を切らせながら純司に向け叫ぶ。
「!…すまない、今行く。おい小町、今日は運が良かったようだが次はこうはいかないからな!」
「はいはいばいばい。あ、お客様。それでしたらいくつかお奨めがあるんですけど…」
 こっちを見ることすらしない小町の態度に腹立ちを覚えつつも、今はそれどころではない。臍を噛むような思いで純司はその場を後にした。


 当然、風紀委員としての純司は小町を追いかけることだけにかまけているわけにはいかない。
 現在、純司の班は通常の業務の他にいわゆるナンパグループの調査を主に行っていた。
 それが『不純』でなければ異性交遊に関して風紀委員がとやかく言う理由もない。
 そして、その過程で様々な物のやり取りがあるのもごく自然のことであり、それに口出しする権利もない。
 だが、主と従が入れ替わってしまえば――物や金を得るために恋愛を利用するようになれば話は別だ。
 えてして人は他人の財布となると自分のものと違って使うのに遠慮がなくなるものである。そして、やり取りの規模が学生の扱うレベルを超えたとしたら…そこから様々な違法行為が生まれることは火を見るより明らかだ。
 『女性を誑かし金集めの道具に仕立て上げているグループがある』いくつかのルートからそんな情報が寄せられ、そのグループを炙りだすべく純司の班に命令が下された。そして今、純司は資料整理という名のうんざりする作業にかかっていた。
 本来働く必要のない時間帯である。様々な方面から集められたうんざりするほどの物量を誇る資料と、だから純司はただ一人で立ち向かっていた。
 チャットログがスクリーンの上を高速で流れ落ちていく。特にメンバー限定のチャットのような閉じられた場所では内輪意識が強く働くのか、外では決して出てこないような情報が(比較的)出やすい。
「?」
 スクロールする指が外れ、画面の動きが止まる。重要なワードに反射的に反応するようにして後は無心に作業を行っていたため――そうしないと精神的に辛い――改めて止まった画面を眺め…軽く首を振って他に反応した単語がないか舐めるようにチェックし、
「マジかよ」
 とばつが悪そうに頭をかいた。
――キス魔がキス屋を落としにいくんだってさ――
 どう見てもこれ以外に手を止めた理由が見つからない。そしてそれは純司の捜査脳がバグを起こしたということに他ならず、彼はこの場に誰もいないということに深く感謝した。
 キス魔というあだ名には聞き覚えがあった。かなり順位は下だが一応捜査線上に上がっている男だ。あだ名のとおりキスを極めつくしたと自称し自分のキスで落とせない女はいないと豪語しているそうだ。
「…少しは痛い目にあえばいいんだ」
 半ば中腰になっていた腰を椅子に深々と沈め、純司はそう一人ごちる。一応とはいえ捜査線上に上がっているということは風紀委員会の目が届いているということ。本当に危険になったら救いの手が入るという意味ではむしろ安全といえる。
 そうすればあの生意気なあいつも少しはしおらしくなって…
 そう結論付け、純司は再び資料との格闘に戻る。だが、思うように作業は進まない。意味のない場所で画面を止めてしまったり、逆にスクロールの速度を上げすぎで見逃してしまったり、挙句の果てにはうっかりウィンドウを閉じてしまったり。
 純司は苛立たしげに髪をかきむしる。集中できない理由はとっくに分かっていた。ただ、当の自分自身がそれを認めたくないだけで。
「あー、もう仕方ない!」
 勢いよく立ち上がる純司。
「生徒を犯罪から守るのが風紀委員の務め、気乗りしないけど放っとくわけにもいかないよなあ!」
 誰もいない空間にそう言い残し、純司は小走りにその場から走り去っていった。


 小町の行動は、純司にはなんとなく見当がつく。
 だから、彼女を見つけ出すことは簡単だった。
「なによ?またお説教?」
 問題は、どうやって彼女に話をするか。それを考えもしていなかったことに、純司は今ようやく思い至った。
 今回の話は捜査情報であり、つまりはそのまま話すと捜査に支障をきたす可能性がある。
 それよりなにより、ここしばらく風紀委員と指導対象者、追うものと追われるものとしてのみしか彼女と接してこなかったのだ。どう話を切り出せばいいのか、戸惑いばかりが先にたってしまう。
「いや…」
「?じゃあ何?」
「……今はオフだ。だからそれは関係ない」
 追い詰められてようやく搾り出した、苦しまぎれの芸の無い台詞だった。だが、どうやら偶然にもそれが正解だったようだ。
「あぁ、オフね。それじゃしょうがないよね。奇遇にもあたしも今オフなの。この頃会うたびに同じ話ばっかだったし、今日くらいはお互い仕事の話はやめにしましょ」
 胡乱げな表情が一瞬で笑顔に置き換わる。小町は陽気な声で近くのベンチを指差した。
「あ、ああ…そう、しばらく会ってないけど、おじさんやおばさんは元気してるか?」
「両方とも元気すぎるくらい元気。お母さんは今でもたまにジュンのこと聞いてくるよ。『うざいくらい元気ね』って答えてるから安心して」
「どこをどう安心しろと」
「事実を的確に伝えてるでしょ?」
 最初はまるでぎこちなく手垢にまみれた切り出し方しかできなかった純司だったが、拍子抜けするくらいあっさりと昔のような雰囲気を取り戻していた。
「…昔から変わらないよな、お前のそういうところ」
「あたしはずいぶん成長したって思ってるけどね」
「……いや、コメントは控えとく。何言われるか分からん」
「言ってるも同然じゃないの!」
 ただ、遠慮ない言葉のキャッチボールの中にもお互いの現在についての話を避ける配慮が暗黙の了解として密やかに組み込まれていた。自然、話は昔の出来事を中心とした流れになっていく。
「昔から変わらないといえば思い出した」
「何?」
「お前、昔からキスがどうとか言ってたよな。なんだっけかな、確か『ダイヤモンド・キス』だったっけ?」
「…覚えてたんだ」
 きょとんとした顔でまじまじと問い返す小町。
「インパクトあったからな。どういうことだったんだ、あれ。昔聞いたときは何を言ってるのかさっぱり分からなかったぞ」
「ダイアモンドって言葉には素晴らしいって意味もあるの。だから要するに最高のキスって意味。ほら、漫画とかでは主人公とヒロインが最後にキスして終わりってなってるでしょ」
「ま、少女漫画だけだけどな、そういうの」
「茶化さない。まあそんな漫画のクライマックスみたいな最高のキスをしてみたいなーって思ってたのよ。ほら、女に生まれた以上高みを目指さないとってあるじゃない」
「普通そこは男じゃないか、高みを目指すのは?…ってちょっと待て。じゃあお前がキス屋をやってるのは」
「もう、そういう話はやめって言ったじゃない」
 興ざめだと小町はため息をつく。だが幸いにも今回はそれ以上怒ったりはしなかった。内心胸をなでおろす純司に向け、空を見上げながら小町は言葉を続ける。
「ま、最初はそれがきっかけだったの。この学園都市島の中で誰かがダイアモンド・キスを知ってるかもしれない。それが駄目でも、いろいろなキスを集めていったら、その中からダイアモンド・キスのヒントが見つかるかもしれないってね」
「そう、か」
「でも、今はそれだけじゃないのよ?」
 意外な言葉に思わず純司は小町を見やる。天を見つめる小町の瞳は確かに何かを…彼女には見える何かを見据えていた。
「あたしが言うのもなんだけど、確かにキス屋って変な商売だと思う。でも、だからこそ人だったり、大げさだけど世界をあたしにしかできない角度から観ることができる。大変なこともあるけど、あたしはそれ込みでこの道を選んだ。だからその体験はきっとあたしの糧になるって信じてるわ」
(こいつ、こんな顔もできるんだな)
 ふらふらして危なっかしい女だとずっと思っていた。一応幼馴染であるのだから自分が面倒を見てやらなければと思っていた。
 だが、現実の彼女はそんな幻像を軽々と飛び越え、むしろ自分の先を走っているようで…。
(…!)
 心臓に小さな針が打ち込まれたような。そんなささやかな、しかし深く残る痛みが純司の体中を波紋となって広がる。
 だが、純司がその痛みの意味を自らに問いかける間もなく、別の衝撃が彼の体に伝わった。
「あ」
 ポケットから伝わるバイブレーション。今日の仕事の時間が迫っていることを伝えるアラームだ。
「どうしたの?」
「あ、いや…」
 名残惜しい。久しぶりに喧嘩腰でない話ができたこの時間を終わらせたくはない。その思いは強く心にあったが、そもそも自分を彼女のもとに向かわせたその原点、それが先に行動を予約したのはこちらとばかりに思いに反して体をつき動かす。
「ああ、なんだ。ちょっと噂に聞いたんだが、女を落とした数を競っているような馬鹿どもがお前に目をつけてるって話だ。ただでさえ誤解を受けやすいことをしてるんだから、って言うのもどうかと思うがお前も誑かされないよう注意しておけよ」
「………なによ」
 これで懸念は解消したとほっとする純司とは逆に、小町の声はあっという間に重く沈んでいく。
「どうした?」
「どうした?じゃないわよ!結局それが目的だったのね!いつもいつもジュンはそう!あたしのことを手のかかる厄介者扱い!!」
 それに気づいた純司の呼びかけ、それを契機に小町の怒声が炸裂する。
「オフだって言ったから、風紀委員じゃなくてただの新田純司として来てくれたってことだったから嬉しかったのに!久しぶりに昔みたいに話ができて楽しかったのに!」
 まるで反動が一点に集中したといわんばかりの強烈な怒りだった。気圧されて言葉を挟むことができない純司に小町は一方的に言葉を叩きつけていく。
「ジュンの…嘘つき!!もう二度とあたしの前に現れるなーっ!」
 最後にそう叫びを突き刺し、小町は後も見ずに走り去る。反射的に追いかけようとした純司、だが再び鳴ったアラームとそれに反応する風紀委員としての後天的な本能がその足を止めた。
 彼女を放っておけない、誤解を解きたいという思い。そして自分が抜けることで仲間に迷惑がかかるという思い。
 二つの思いの狭間にはまり込みその場に立ち続ける純司。
(どっちも大事なことだ…どうしたら…)
『大変なこともあるけど、あたしはそれ込みでこの道を選んだ』
 ふと、その言葉が一陣の涼風のように純司の頭を吹き過ぎていく。
「どちらを選んでもきっと後悔する…それでも選ばなきゃな」
 純司はそう顔を上げ停滞を振り切るように走り出す。
 …そして、純司は初めて風紀委員の仕事に現れなかった。


 腐れ縁の同士として、小町の行動は大体とはいえ把握しているはずだった。
 だが今ではどうしてそんな自信が持てていたのかさっぱり分からない。
 ただ闇雲に走り続けて一時間、ついに肉体が拒否権を発動し純司の走りは中断とあいなった。
「もう…こんな時間か…完全に…間に合わないな…」
 詮索や居場所確認で迷惑を増やしたくなかったので教師に呼び出されたとメールで嘘の報告をしていたが、純司はもとよりその嘘を押し通すつもりなどなかった。
 すべてが終わったら上司に包み隠さず報告し、あとは素直に処分を受ける気である。
 そう覚悟を決めてはいても、自分の不在の穴を埋める仲間のことを考えると心が痛い。
 心のどこかで馬鹿なことを、と自嘲する自分がいる。
 それでも、その声以上に彼を突き動かす力は強かった。
 拒否権を発動した肉体に精神の拒否権を発動し、純司は再び走り出す。
 更にあてどなく走り続けることしばらく、赤信号に足を止められ無為に耐えられず周囲を見渡した先に…いた。
 蝶が蜘蛛に絡みつかれている、最初に純司の脳裏に浮かんだのはそんなイメージだった。
 小町が男に抱き寄せられ唇を奪われている。いや、小町のほうもよく見れば男の顎に手をやり迎え入れているような形だ。
 まるで獲物を咀嚼するかのように、あるいは周りに見せ付けるかのように男は小町を抱きしめたまま体を小さくくねらせている。
 半身をもぎ取られたかのような感覚に支配された純司はその様子を呆然と立ち尽くしたまま眺めるしかなかった。
 やがて、一瞬のような、あるいはとても長いような時間の後ようやく二人の体が離れる。
「どう?これだけでも僕の凄さが分かっただろう?」
 どこかぬめぬめとした印象を与える声が響く。間違いなく、キス魔のあだ名を持つ男だった。
 キスを極めつくした、自分のキスで落とせない女はいない、そんな彼についての言葉が純司の頭の中をぐるぐると回る。
 どこか呆然とした感でその言葉を受け流す小町。幾分じれったげなキス魔の再度の問いかけで、ようやく彼女の目の焦点は彼に届いた。
「どうだった?良かったかい?」
「いや全然」
「………はぁ!?」
 想像外の言葉にフリーズするキス魔(純司も別の意味でフリーズした)。そんな彼に小町は容赦なく追い討ちをかける。
「全然駄目。あんたのキスには心がこもってないの。たとえあんたが千のキスを持ってたって、あたしはそんなのもう要らない。もういいからさっさと帰って」
 無慈悲なまでの口撃にKOされたかに見えたキス魔。だが、不穏な気配を振りまきながら彼は再び立ち上がる。
「たまにいるんだよねえ、そういう分かってない娘。でもさ、僕のテクニックを持ってすればそういう余計なことは考えられなくなるから、さ!」
「きゃあ!」
 キス魔は小町の腕をねじりあげ、再び彼女を抱きしめようとする。
「おい」
 肩を叩かれ振り向くキス魔。その顔面に純司のパンチが炸裂した。
「暴行の現行犯だ」
 一撃で意識を刈り取られ、へなへなと崩れ落ちるキス魔。小町が純司を見上げ、一瞬二人の視線が絡み合う。だが、小町は勢いよく純司から顔を背けるとそのまま無言で駆け出しその場から消える。
「おい、頼む!待ってくれ!」


「待てよ!」
 公園の木立の中、ようやく小町に追いついた純司。その呼びかけも無視して逃げようとする小町の手を純司は感情のままに掴み取っていた。
「やめて!離してよ!」
「お願いだ、俺の話を聞いてくれよ!」
 押さえられた体の動きを代弁するかのようにサイドポニーがぶんぶんと振り回される。鞭打にも似た髪の乱打を受け続けながら、純司は必死に小町に呼びかけ続けた。
「さぞや気分がいいでしょうね!自分の警告を無視して馬鹿やってた女が言ってた通りに危ない目にあったんだから!」
「そうじゃないって!話聞けよ!」
「ああ、話ね、風紀がどうとかってありがたい話、とっくに聞き飽きたわよ!」
「違うって!その証拠に今は仕事の時間だけどさぼってる。だから今の俺はそんな話はしない」
「え…」
 一瞬、小町の体の動きがぴたりと止まり表情から険が取れる。だが、すぐに表情は元に戻り、小町は以前にも増して強い眼光で純司を睨みつけた。
「う、うるさい!もしそうじゃなかったとしてもジュンにいられるだけであたしは迷惑なの!お代も払えない人間がずっとうろうろしてるなんて営業妨害よ!」
「何でそんなこと分かるんだよ!」
 そう言い返したものの隠し切れぬ狼狽。攻守の入れ替わりを感じた小町はかさにかかって純司を攻めたてる。
「何年幼馴染やってると思ってるのよ。あんたがキスなんかしたことないってくらい分かるわよ。うちの売り物は見せるものじゃないから冷やかしお断り。さっさと帰って」
 帰れと言われてすごすご帰るくらいなら最初からここには来ていない。こみ上げる感情に沸騰しそうな頭で純司は考え続ける。
「帰ってって言ってるでしょ!帰って!」
「…あるぜ」
「え?」
「払うお代ならあるって言ってるんだ」
「……うそ…」
 感情が零れ落ち色のない呆然とした顔になる小町。純司がそんな小町を軽く引っ張ると、さっきまでの激しい抵抗が嘘のようにあっけなく彼女は彼の胸元に引き寄せられた。
「正確には後払いになるけど、いいよな」
 その言葉を残し、純司は小町の唇に自らの唇を押し付けた。
 思った以上に固い肉感、そしてそのすぐ奥の骨の感触。
 焦点を至近に合わせる。「それは秘密です」というゼスチャー風に差し込まれた小町の人差し指が唇をガードしていた。
 女の子らしい細っこい指一本というか細い守り。だがそれは純司にとっては絶望的な障壁であり、同時に衝動を冷ます差し水を純司に浴びせかけるものであった。
(なんて馬鹿なことしたんだろうな)
 切羽詰っていたとはいえ、これではあのキス魔と何も変わらない。驚愕に目を見開きこわばった表情の小町を間近に見せ付けられながら純司は後悔に苛まれていた。
 今更ごまかしても仕方がない。自分はこの少女が、七洞小町という少女が好きだったのだ。
 だが、それに気付くのがあまりにも遅すぎた。
(もっと前に気付いていたら…)
 と、こわばっていた小町の表情が緩む。ふ、と彼女の目が細まり、そして、人差し指が引き抜かれた。
(!)
 支えのなくなった純司の頭は重力に従いすとんと落ちる。そして、反応の暇もなく、二人の唇はまるで最初からそう定められていたかのようにぴったりと重なった。
 ただただ柔らかい。そして、その一点から驚くほどの熱が体中に拡散していく、そんな恐ろしいほどに激しい感覚が体を支配する。
(いいのか?)
 そんなわずかばかりの疑問も目の前の瞳に否定され、純司はただただ状況に翻弄される。
 激流のような感覚に押し流されながら純司は思う。ただただ、今この時が嬉しかった。そして、そこにもう一つの嬉しいという感情が重なる。
 怒りと驚愕と困惑、それを下敷きにした歓喜の想い、それは純司には覚えのないものだ。
 その思いは水面に映る月の姿のようにゆらゆらと揺れ動く。
 『自分も今までは意識してなかった』、『ちゃんと見てもらえないのが悔しかった』、『でもそれは勘違いだった』…
(え、これって)
 それに応えるように小町の潤んだ瞳が揺れ、彼女の想いが異能の力で流れ込む。
『あたしは、あなたが好きです』


 早鐘のように胸に響くビートが心の声でなく酸素不足を訴える体の警告だということに思い至り、ようやく二人の長いキスは終わった。
 しばし空気をむさぼることに専念する二人。最初に口を開いたのは風紀委員として鍛えている分余裕のある純司のほうだった。
「お前ばっかり…経験…積みまくって…置いてかれるのが…嫌…だったんだよ…分かれよ馬鹿」
「そんなの…分かるわけないでしょ…馬鹿」
 そしてまた二人は酸素を取り込む作業に戻る。今度は先に口を開いたのは小町のほうだった。
「というか…」
「ん?」
「経験とか言ってるけど、あたしも初めてなんだよ」
「…え?」
「ああやってるのはお客がキスの記憶を思い起こしやすいようにするため、それだけ。お客とはずっと人差し指ごしだけなんだから」
「う…ごめん」
「そっ…かあ。ジュンにもそんな風に思われてたんだ、あたし…。…悔しいなあ…」
 純司に背を向けがっくりと顔を伏せる小町。純司が振り向かせようとするが、小町は弱弱しく首を振ってそれを拒絶する。
 うなだれる純司。一拍の時を置き、彼は拳を握り締め決然と面を上げた。
「本当にごめん。言葉じゃ信用されないかもしれないけど、どれだけ時間がかかっても絶対にその誤解は解くから、だからそんな顔はしないでくれ。お前がそんな顔だと俺も辛いか」
「しゃんとしろ風紀委員ーっ!」
 電光の速さで振り返った小町が放つでこピンの一撃。不意打ちを受けた格好の純司は無防備にそれを受けてしまい思わずしゃがみこんでしまう。
「もう。あたしは〈ディープ・サルベージ〉でジュンのキスの時の記憶をまるっと貰ってるんだから、ジュンがどう思ってるかなんて分かるに決まってるじゃん。そんなことも忘れてるのが風紀委員じゃあたし不安で仕方ないよ」
「お前…じゃあさっきのしおらしいのは嘘だったんだな」
「ご名答!」
「てめえ!俺がどれだけ心配したと」
「…でもね、それ以外は全部本当。あたしがジュンを好きだってことも、さっきのキスがあたしのファーストキスで…ずっと探してたダイアモンド・キスだってことも」
 まるで悪ガキのような悪戯っぽい表情が瞬時にどこか色めいた乙女の表情に変化する。その両方とも、そしてその移り変わりぶりにもどこにも違和感がない。まるで目の前で異能を使われたかのような狐につままれた感覚に純司は『女って凄いな』と舌を巻くしかできることはなかった。
「そう、なのか?」
「うん。あたし、いろいろ間違ってた。例えばダイアモンドが硬さを測るテストで一番硬いって認められたように、一番いいキスを測る客観的な基準があるって思ってたの。だから〈ディープ・サルベージ〉でキスの記憶を集め続けた…でもずっと何か違うなって思ってた。当然よね、そもそも根本的に勘違いしてたのよ」
 純司は相槌を打つだけで口は挟まない。彼女はそれを望んでいる、確信以前のものとしてそう分かっていたのだ。
「女がいて、男がいて、二人の時間や経験があって、そしてキスがある。条件が全然違うのに共通の答えなんてあるわけない。多分、とっくの昔にあたしはダイアモンド・キスを手に入れてたのよ。でもそれはその人のって意味だからあたしの欲しいものじゃないんだけど。そして、これがあたしのダイアモンド・キス。笑っちゃうくらいドタバタだったけど、むしろこれがあたしたちらしい…そう思わない?」
 確かにその通りだ、ゆっくりと立ち上がりながら純司はそう思う。今にして思えばずいぶんと回り道ばかり。苦笑いしか出てこない。
「しかしなんだな、俺とのキスが最高とかそう堂々と言われると…その、とても嬉しいんだが少し気後れするものがあるな」
「…だったら、もう一度試してみる?」
 そう言って目をつぶる小町。鈍感だとか言われることの多い純司だが、さすがにその意味を取り違えることがあろうはずもない。
 とはいえ勢いに突き動かされるのとそうでないのとでは天と地ほどの差がある。純司はしばし逡巡し、唾を飲み込み、なめくじが這うほどの速度でゆっくりと小町に近づき、まるで壊れ物に触るかのように彼女の頬に手をやり、軽く突き出した薄紅色の小丘に狙いを定め…
「キス屋さーん!キス屋さんはいませんかー!」
 決意と共に純司の唇は空振りした。
「ごめん、続きはまた後で、ね」
 純司の脇をすり抜けた小町がその声のほうに行こうとする。彼はその彼女の肩に手をやって引きとめた。
「分かってるって。本当のキスはこれからもジュンとだけだからね、そう心配しないでよ」
「ああ、ありがとう…じゃなくて。いや、もういいだろ?」
「何が?」
「キス屋だよ。お前がこの仕事に意義を感じてるのは良く分かった。けどさ、その…なんだ、もうお前の目的のものは手に入ったんだろ?一番の目的が達成されたんだから続けるかどうか考え直してみてもいいんじゃないのか?」
 自分のキスを素晴らしいと表現するのに気恥ずかしさを感じてごまかす純司。常の小町ならからかっていたところだったが、どうやらダイアモンド・キスを手に入れた後のことは全く考えていなかったようで彼にとっては幸いなことにその隙はスルーされた。
「う、そうよね…」
 目を閉じ顎に手をやって考え込む小町。やがて目を見開いた小町はじ、と純司の目を見つめ口を開いた。
「あたし、間違ってた」
「そっか、これでキス屋もめでたく廃業だな」
 苦労した追っかけっこの思い出。それも今にして思えば懐かしい…と思い出に浸ろうとしていた純司。だがそこに小町の次なる言葉が炸裂する。
「今まで最高のキス一つがあれば他のは要らないって思ってた。でも違う。人はパンのみに生きるにあらず、じゃないけどいくら最高のキスでもそれだけじゃ味気なさ過ぎるし、それにあたし結構コレクター気質あるみたい」
「おい、じゃあ」
「うん。だからこれからもキス屋は営業継続ってことで。行ってくるねー!」
「待てって…!」
 伸ばした手をすり抜け、小町は走り去ってしまう。こちらに手を振るかのように揺れる彼女のサイドポニー、それを目がけ走り出した純司だったが、すぐにその足は止まった。
「そうだよ、な」
 堅苦しい面の強い自分とは正反対の彼女が、自分の手の上に納まらない、そんな彼女が好きなのだ。それを無理に縛りつけても彼女本来の魅力を削ぎ落としてしまうだけ。
 だったらこれからも彼女に振り回され続けよう、そう決めた純司はゆっくりと声のほうを目指して歩き出す。
「仕方ないよな、惚れた方が負けなんだから」
 負けを認めることすら楽しい。半日前の自分なら想像もできなかったことだ。俺も少しは成長したかな、そう純司は思う。
「というわけで熱烈なキスをお願いしたいんです」
「ふーむ、なるほど…」
 大分近づいてきたようで、小町と今回の客である少女との会話がはっきりと聞こえだしてきた。
「いやいや、あなたは運がいい!」
「え?」
「それならちょうどぴったりなのがありますよ。しかも取れたての新鮮なやつです」
 …熱烈なキス…取れたて…
「おい!」
 まるで朝霧が太陽に散らされるように、純司の小さな悟りは一瞬で吹き散らされ消え失せる。顔を引きつらせた純司は島中に届けとばかりの大声で叫んだ。
「それは!それだけは他人に見せるなぁぁ!!」




 肉屋に行けば肉が置いてあるように、ゲーム屋に行けばゲームが置いてあるように。
 “キス屋小町”がキスを取り扱っているということは広く知られた事実であった。
 そして、彼女の恋人である新田純司は今日もそんな彼女を追いかけている。




    おしまい。



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最終更新:2010年11月28日 15:27
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