【Es schmeckt gut! (1)】


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 Es schmeckt gut!



 学園都市より北東方向の低級居住区にて。


 夜闇は濃く、風は凪ぎ、音は失われている。
 視界に入るのはジャンクフードの包み紙、底の方に少量の内容物が溜まるペットボトル、昼間の外出を諌める双葉区警察署発行のチラシ、油に塗れた手拭い、水分を失い始めている吐瀉物、罅割れたアスファルト、島の開発当初に建てられたと思しき集団住宅、ここで生活する人間たちへの心理的効果を狙って備えられた花壇、集団住宅のくすんだ白壁にはめ込まれた昼間の外出を諌めるプレート、花の一本も植わっていない花壇の上に転がるサッカーボール、昼間の外出を諌める野球ボール。
 そして一人の女。
 残念なことに、どんな女なのか結局わからなかった。
 どんな女なのかがわかる前に殺してしまった。背後から近付き、首の後ろに右腕の刃を突きいれると、女は奇妙な吸気音と共に絶命した。右腕に断末魔の痙攣が伝わった。観察してみれば、どうにも気分の悪くなるような服を着ているように見える。こちらの気分を害するような気分の悪い服だ。これはよくない。
 実際は夜闇が濃くてよくわからない。でも気分が悪いのはよくない。
 とりあえず、もっと人目のつかないところへと運ぼう。
 よし、ここならいいだろう。
 服を切り裂くと、女の肌が露出した。脂分が少なく、肌理の粗い、がさついた不健康な肌だ。香水だか何だかの匂いもする。まるで淫売の肌じゃないか。ここにも昼間の外出を諌める文言が記されている。
続いて皮肌を剥く作業に移った。鋭い右腕を使えば造作もない。女の身体の前面は凸凹としている上に、弾力に富んでいて剥きにくいが、背面については朝飯前だ。身体に対して鋭角に刃先を入れて、そのまま滑らせればいいのだ。最初と二人目はかなり苦労したが、三人目となるともう達者なもので、他人に披歴したくもなるほどの出来栄えだ。
 尻のすぐ上辺りから背中の半分辺りまで右腕を滑らせると、何の抵抗も無く、刃がスライドしていく。作業の途中にも関わらず、もう我慢が出来なくなった。
 剥いだ皮の先端を左手で掴み上げると、赤く染まった皮の裏側が見える。まだ身体とつながったままのその皮は柔らかいゴムのような質感であり、光を当てれば向こう側が透けて見えるのではないかと思うほど薄かった。これは全く、技術向上の賜物である。
満面に喜悦を湛えながら、皮の裏面に舌先を近づける。どうにも興奮しすぎていて、荒くなった鼻息が皮を震わせた。そのせいで舌先に近づいたり離れたりとじれったい。
 べろり、とようやく満足に一舐め。
 蜜のような甘さと口当たり、脳を痺れさせるその香りが全身を支配する。
 嗚呼、たまらない。
 やはり皮と肉の間が一番旨い。栄養も一番ある。
 三十分ほどかけて食事を終え、残った部分を適当な大きさに砕き、周囲のゴミと一緒にビニール袋に入れて回収ボックスへと放り入れると、元は人間だったものが入っているとは思えないほどに軽い音がした。ボックス内ですし詰めになっている他のゴミとまるで違いがない。残飯としての全く正しいありように、軽い感動すら覚える。
 満足気に頷くと、この地区に設置された数少ない街灯から、昼間の外出を諌める光が発せられていることに気付いた。
 そして突然、頭の中にチャペルの音が響き渡る。頭蓋の中を反響して、気分が悪くなる。
 繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し。
 ああそうだ。これは昼間の外出を諌める鐘じゃないか。もうこんな時間だ。
 早く帰らないと、また罰として叩かれてしまう。いや、今は昼間だったろうか?わからない。何にせよ早く帰らないと。ラルヴァにでも襲われたらどうするんだ。人間の俺は……。いや、俺は人間だったか?
 どうでもいい。帰ろう、チャペルの音の響いてくる方向へ。福音の源へ。
 道路のゴミを拾って、きちんと回収ボックスに入れたことを、昼間の外出を諌める居住区の人たちが感謝してくれると思うと、だんだんと気分が良くなってきていた。


                    *


 冬の朝という時間帯には、人間は二つの宿敵と戦わなければならないことを彼女は知っている。睡魔と寒気と呼ばれる、抗いがたき人間の天敵。彼らは容赦なく、彼らに抗する手段はあまりにも少ない。そして質の悪いことに彼らは鉄の同盟を組んでいて、同じく同盟を組んでいる目覚まし時計の号令一下、歩調を揃えて人間たちに襲いかかって来る。それに耐えるには、彼らの鬨の声を無視し続け、時間と太陽の女神が彼の軍勢を打ちのめしてくれるまでじっと耐えるしかない。
 それらのことを彼女は知悉していたが、スロースターターな彼女の意識は犯すべからざる失策を犯した。つまり、枕元の目覚まし時計の短針が文字盤の九に重なっているのを見て慌ててしまったのだ。
「ちょっと!……ッヤバッ!」
 今日は月曜日。確実に一限目に遅れている。今頃教室では、社会科のあの老教師が独創性の乏しい授業を行っていることだろう。彼に睨まれるのは何とも思わないし、どんな評価をされようが知ったことではないが、バツが悪いことには変わりない。
 急いで布団を飛び出し、四畳半の部屋で立ち上がった。天井にぶら下がる昔ながらの照明器具から垂れた点灯操作のヒモが、寝癖の激しい髪の毛に触れる。
 例の二つの宿敵が全身を苛んで思わず彼女は身を竦めたが、押し入れの前でハンガーに掛けられている学園の制服に手を伸ばすと、そこでようやく、自分のスコアボードにEの文字が灯っていることに気付いた。
 寒さではなく、怒りによって身体を戦慄かせる。
 何たる失策。何たる不手際。口に出すだにおぞましいが、口に出して再確認しない限り、一度火の点いた登校への意欲を抑える方法を知らなかった。

「今日から冬休みじゃないッ……!」

 自嘲と悔悟と悲哀を多分に含んだその言葉を吐きだした時、彼女こと隠善祈(いんぜん いのり)の意識と身体は今やすっかり目覚めてしまっていた。



 昨夜の私は今朝の私よりも賢かったので、翌日から学園が冬休みだということ知っていた。そこで賢かった私は時間とモチベーションの有効利用を思いつき、深夜特有の妙なやる気の続く限り作業を進めてしまおうと考えた。その結果布団に入る時間は大幅にズレ込むが、翌日から登校する必要は無いのだから問題は無い。
 そう。その時の私の考えは理に適っていた。事実、記事の作成はそれなりに捗ったのだ。
 ただ、翌朝の私がこれほどまでに間抜けだと予想できなかっただけで。
 結局、常よりも短い睡眠時間となってしまった。二度寝も考えないではなかったが、妙に目が冴えてしまったし、夕方まで眠ってしまい、生活のリズムが滅茶苦茶になってしまうのは望ましいことではない。新聞記者は何事にも即応できる姿勢を維持することが重要だ、とは尊敬する先輩の言だが、青春を謳歌せんと志す女学生が日常的に朝寝夜起きするのには賛成できない。それに、今日は重要な取材がある。新聞記者としての信頼を失わぬためにも、二度寝して寝過ごすわけにはいかない。
 布団を畳んで、軽い朝食を取った後、自分の記事の見直しを行うことにした。
 ジャージの上に半纏という出で立ちで、部屋の隅に置かれた昔の書生風な文机の前に座布団を敷いて座る。机の縁にはプライズで手に入れた愛嬌溢れるマスコットフィギュアたち。決して男の子には、女の子にさえ見せたくない光景ではあるが、長くもない経験上、これが一番温かいのだ。私は武士ではないので高楊枝を咥えて格好つける必要は無いし、それにここは私の家だ。
 文机の上で休止状態のノートPCを立ち上げる。昨日書きあげた記事をディスプレイに表示し、文章を推敲して軽く手直しを加えていく。一時間もすると、主観的には文句のつけようのない記事になった。あとは先輩たちのチェックに通れば、この記事は終わる。私が担当することになっているはずの記事はあと一つ。今日の午後取材する予定の件についての記事だ。
 私の所属する第八新聞部は学園非公認の組織である。非公認どころか、所属している私でさえその全貌については詳しく知らない。何故『第八』なのか。いつ頃成立したのか。部員は何人いるのか。その他諸々わからない。いずれ第八新聞部について調査して、それを記事にしてみたいと考えている。自己紹介記事ということになってしまうが、かなり面白い記事になるのは請け合いだ。非公認ならば学園から活動費を受け取っていないということだが、領収書を学園都市某所の安アパートの一角にある部室に持っていけば、タクシー代も経費として処理してくれるし、どこの誰だか知らないスポンサーさんは思想的な方向性を押しつけてもこない。こだわりと言えば、発行するのは紙媒体であることがそうかもしれないが、個人的にも新聞というのは紙媒体でなければ嘘だと思う。定期的に纏まりの無い記事の集合体をばら撒き、それなりの反響を受ける。そんな居心地の良い集団に所属して早一年と半年。私は高校生という身分の軽さを堪能しているところである。
 取材の前準備として、手帳を捲り、箇条書きにした質問をメモしておいたページに目を通す。残りのページがもう少なくなっている。取材の帰りにでも買い換えようか。
「こういうトコって初めてだからなぁ……」
 そのページには祈の女の子らしい丸文字で、今日の取材対象が記されている。
『古城調正房(ふるきちょうせいぼう)』
 その名と既存の情報から、どんな店だろうかと想像力をあちらこちらへ羽ばたかせている内に、いつの間にやら正午を過ぎていることに気付く。
 寝癖を黙らせ、自慢の長い黒髪をポニーテールへと纏める。化粧はしない。持って生まれた顔に過剰な自信があるのではなく、単に化粧の技術と知識に乏しいからだ。服装は双葉学園の制服で構わない。非公認とはいえ、部活動には変わりない。それに学園の制服を着ているだけで避けられる厄介事というのも少なくないのだ。狭い部屋で大きな存在感を放っている大鏡の前に立ち、軽くポーズをとってみると、ポニーテールが流麗に靡いた。
 祈は満足げな頷きを一つしてみせると、記者としては不似合いな大きさのスポーツバッグを担いで家を出た。


                    *


 房総半島にほど近い、双葉島南東部の外れ。学園都市領域を脱し、防風林の役割を担っている林を貫く林道を進むと、前時代的な光景が目に飛び込んでくる。双葉島中枢から最も距離のあるこの地区に存在するのは、古めかしい木造建築物の連なり。東京湾に面した島端まで1キロ足らずのこの街区は、学園都市の膝元にある商店街とは全く違った雰囲気の小規模な市場が、住民たちの生活の中心に据えられていた。街区の中心には円形の広場があり、気儘な露天商たちが不景気な顔でそこに店を並べている。
 祈は街の入口でタクシーを降りた。この辺りでは定期的にラルヴァの異形が確認されている上に人通りが極めて少ない為、緊急時の対応と安全性を売りにしているVIP御用達のタクシーを利用した。予想以上に高くついてしまったが、これも必要経費だ。歩いていける距離でもないだろう。
「五時くらいに迎えに来て欲しいんですけど」
 そうタクシーの運転手に告げ、連絡用にと自分の名刺を渡す。そこには彼女の部活動用の携帯電話のナンバーとメールアドレスが記されている。お返しにと自分の名刺を彼女へと渡す中年の運転手の顔は、妙にほころんでいた。それがプライベートなものではないとわかっていても、女子高生と連絡先を交換するという行為には喜びを覚えるのかも知れない。たとえ冬休みの最初の日にこんな場所をわざわざ訪れるような女子高生であろうとも。
 祈がその街区に足を踏み入れると、今やそのほとんどが埋め立てられた東京湾からの独特の香りと海風が空間を満たしているのを感じた。防風林のざわめきも聞こえる。
 昼間だと言うのに、随分と寒い。コートを着て来なかったことを後悔したくなるほどだ。
 どうやら目抜き通りらしい一番幅の広い通りを妙にせかせかとしたペースで通り抜ける。
 建造物数棟ごとに、薄暗い路地が割り込んでいた。人の姿は疎らであったが、木造建築物の並びに無数に存在する、隙間という隙間から視線を向けられているような気がする。
 学園都市の雰囲気に慣れた祈の心の中は、未知への畏怖と好奇心がないまぜになって沸騰し、吹き零れそうなほどに不安定になった。怖いという気持ちを覆い隠すようにして、ジャーナリストとして堂々としていたいという矜持がある。そんな不安定さが表情や態度に出てしまっているだろうことを自覚して、酷く恥ずかしくなった。
 薄く赤面しながら中央広場まで辿り着くと、円形の広場で環状に露店が連なっている。めいめいの雑事に耽っていた店主たちが一瞬こちらをチラリと、しかし全員同時に見たので、思わず全身が固まってしまった。
 そんな彼女の隙を衝くように、それが起こった。
「アアアアアアアアアアアアアアァァァアァアァァッ!」
 露店広場から四方に伸びた通りのうち、東へと伸びる通りから奇妙な男が奇声を上げながら広場へと転がり込んできた。酷くみすぼらしい格好をしている。祈が通ってきた北へ伸びる通りで見た人物も露店の店主たちも、流行とは切り離されているが、それなりにしっかりとした格好をしていた。だが、この男の格好ときたら。手術着のような貫頭衣に酷い汚れが付着している。髭も無造作に伸び、脂っこい髪の毛に覆われた頭には、離れていてもわかるほどにフケがこびりついていた。一見して普通ではないことがわかる。
「アアアアァァアアァァァアァアァァァアアッ!」
 男の奇声がこだまする。風とざわめきがそれを攪拌して、更に不快なものへと変える。どんな忌まわしいラルヴァでさえ、こんな不快な声は出せないだろうと思った。
 耐えきれずに耳を抑えると、男が現れた東への通りから別の男たちが走りながら現れた。
 面立ちの良く似た三人である。彼らの顔は厳つく、外気に晒している生身の部分全てが節くれだっていた。こちらも一目でカタギではないとわかる。
 着流しに下駄といった時代錯誤な格好をした彼らは、奇声を上げて転がる男を囲い込み、何の予告も無しに彼に暴行を始めた。
「手間かけさせんじゃねえぞ!」
「鼠野郎が!」
「口を閉じやがれ!」
 口角泡を飛ばしながら口汚く罵る声が、塞いだはずの祈の耳にも聞こえる。あまりの衝撃に目を離すことが出来ない。
 奇声に苦痛の色が混じっている。それでも彼は叫ぶのをやめない。
 そして、どれぐらい経ったのであろう。着流しの男たちは痛めつけるのに飽きたのか、一通り暴行を加えた後に奇声の男に猿轡を噛ませると、革のベルトで動きを拘束してもと来た道へと引き摺って行った。
 その途中。彼が引き摺られ、芋虫のように身体をくねらせていると、ちょうど祈の方へ視線が重なった。その彼の瞳に宿ったもの。あれこそが狂気の炎というやつだろうか。 
 彼は引き摺られながらも彼女から視線を外さなかった。彼が目を合わせることが出来ない角度まで引き摺られた時、祈は呼吸の仕方を必死で思い出した。
「何なのよ、この街は……」
 彼女の疑問に答えるのは、遠ざかっていく奇声の残響だけ。
 広場に気味の悪い静寂が戻ってきた時、祈はもはや学園都市へと帰りたい気持ちになっていた。取材先への中止と謝罪、そして引き返して行ったタクシーへの連絡のために携帯電話を取り出そうとスポーツバッグをまさぐったその時。
「あの、すいません」
「うひゃああぁいっ!」
 突然に声を掛けられ、心臓が跳ね上がる。
 同時に、取り出しかけていた携帯電話も宙へ放り上げてしまい、お手玉のように転々と宙を舞わせてから拝むような態勢でキャッチした。
「ああ、申し訳ありませんでした」
 謝罪の念が籠められた声を再び後ろから掛けられた。
 引き攣ったままの顔をどうすることも出来ずに、恐る恐る振り向くことが出来たのは、前を向いていても景気の悪そうな露店商を見るだけだから。
「第八新聞部の方ですよね?隠善祈さん?」
「は、はい!その通りです!」
 混乱の為、あまりにも全力な挨拶を返してしまった。
 今度は声を掛けた男の方が吃驚して、呆気にとられたような表情を見せたが、未だに混乱している祈はそのことに気付かなかった。
 そのことをハッキリと認識して羞恥の念に苛まれるのは、声をかけてきた男性こそ彼女が取材を申し込んだ相手だとわかり、彼の店へと案内される道中においてである。


                    *


「どうにも運が悪かったですね」
 座布団に座る祈の前に茶を置きながら、彼は苦笑する。
 祈が案内されたのは、彼の店であり、本日の取材対象でもある『古城調正房』。
 例の円形広場から伸びる南方向への通りを歩き、木造長屋の並びを進んでいくと、その通りの終端、つまり祈がタクシーから降りた北側通り終端と線対象の位置に到着した。  
 祈は既に海を視界に収められる場所に至ってようやく、『古城調正房』と記された立て札を見つけたのである。その立て札は海風の強さとそれに抗する為に土台の上に乗せられた重石の重さの板挟みに遭って、ギィギィと小さく悲鳴を上げていた。
「ただでさえこの街区は学園都市とあまりにも空気が違いますからね。中てられてしまう人も多いんですよ。そこにあの騒動ですからね」
 柔らかい声で話しながら、次いで茶菓子を用意する店主。
「ああいうのは滅多にないんですけど…」
 店の造りは簡単だった。玄関である引き戸を開ければ、畳一畳分の土間がある。靴を脱いで板の間に上がると、中央には囲炉裏が配され、玄関から向かって右手と正面の壁には無数の抽斗を備えた黒い箪笥が置かれている。左手には何があるかと言えば、サッカーボールが三つは入りそうな竹籠や用途のよく分からない長物、小さな鎌や中華庖丁のような刃物がある。左奥にある扉は居住スペースへと通じているのであろう。
 祈は全方位から好奇心を刺激され、あまりに不作法だとは承知しつつも、あちこちに視線を飛ばすのを我慢することができなかった。それは、彼女の異能にも関係している。  
 彼女の異能がもたらすのは好奇心と探求心。それはいつでも、どこでも、あらゆる方法を使ってでも、止めることが出来ないものなのだから。
 店主である彼が自分の草臥れた座布団を囲炉裏の奥へと置き、囲炉裏の右に座布団を敷かれた祈に対して四十五度の位置へと腰を下ろした時、彼女はようやく本格的な取材を開始することができた。
「今日はお忙しい中、時間を割いて頂いてありがとうございます」
「いえいえ、お気になさらず。興味を持って頂けるというのは嬉しいことです」
「改めて、第八新聞部の隠善祈といいます。先程はお恥ずかしいところを……」
「いや、これはご丁寧に。『古城調正房』をやっております、古城弥七(ふるき やしち)といいます。私は名刺を持ってないんですよ。申し訳ない」
 祈の差し出す名刺を受取って、その視線を彼女と名刺の間を数度往復させた後、彼は率直に詫びた。
 驚いたことに、店主である古城弥七はごく普通の青年のように見える。驚いたことに、というのは些か失礼かも知れないが、漢方薬や東洋の医学知識めいたものを商品として扱う人間は良く言えば仙人のような、悪く言えば似非教祖のような容姿をしているイメージが祈にはあったのだ。事前の調査では、一部で評判の漢方薬品店だということしかわからず、店主についての情報は全くの零であった。
 実際に会ってみるとその平凡さに拍子抜けした、というのが祈の正直な感想である。
 黒の作務衣を着た古城は確かに痩せ型の体型ではあるが、繊細さや弱さのような印象をほとんど受けない。それは単に節制の結果であるといった感じで、その瞳からは意志の強さが感じられる。黒髪を短く刈り込んでおり、不潔さからは程遠い。年齢はいまいち読みづらい、二十歳前後であろうか。少なくとも、いい加減な人間ではないことはわかる。
 何しろ、私の異能が通じない。人間に対して自分の異能を行使するのは恐ろしいが、だからと言ってやめられるものではない。癌の危険性を説いたところで煙草を吸う人は吸うし、飲酒運転はいつまで経っても無くならない。
 学園都市では飲んだことも無いような美味しいお茶を啜りながら、店の来歴や取り扱っている商品について訊いてみた。
 テンプレートな質問はつまらないが、店の紹介記事には重要ではある。
 すると、打てば響くような、といった闊達さはないが明快で平易な答えが返ってきた。
 平凡な取材も終盤に差し掛かり、祈の最もぶつけてみたかった質問をする時が来た。
 まわりくどい質問は古城の好むところではないであろう。ならば率直に。
「このお店には、かなりの上層階級の方が足繁く通っているとか。例えばこの島の開発計画者のリストに名を連ねる方々もいらっしゃったりするという情報があるのですが、実際のところどうなのでしょう?」
 これはとある情報筋からのタレこみであり、祈がこの『古城調正房』に興味を持つことになった原因でもある。正直最初は、こんな薄気味悪い辺境にそんな人物たちが通っているという話はどうにも疑念を抱かざるを得ないし、通っていたところでどうなんだと考えていた。つまり、彼女の食指を動かすまでには至らないタレこみであった。
 しかし、青臭く苦味のある果実が数日後には熟れて芳醇な香りを放つように、その情報もまた変化した。その情報を手に入れたのは、祈も含めた少数の情報喰らいたちの溜まり場と化していた、極めて特殊な招待制のSNSにおいてのことだったが、『古城調正房』についてのその情報が放出された数日後、唐突にそのSNSが解体されたのだ。それだけでは『古城調正房』が原因だとは断定できないが、その後、そのSNSの会員であり、祈と個人的に匿名での交流を持っているゴシップオタクの話によると、例の『古城調正房』のネタを流した本土在住のSNS会員が謎の急死を遂げたという。
 そんな話を聞かされた上に、冬休みの開始が重なり、熟れた果実に齧りつきたくなったという次第だ。私自身、救えない性質であることは重々承知している。
「うーん。お客様のプライバシーに関わることはちょっとね……」
 祈の質問に、古城はインタビューが始まってから初めて回答を拒否した。
「そこを何とかっ!」
「いやあ、そればかりはねえ……」
「何とかっ!」
 見苦しいくらいに喰らいつく。記者としては重要なことなのに、それを見苦しいと感じてしまうのは祈が情報については雑食悪食の癖にその運用手段についてはインテリジェンスのイメージが強いという齟齬に由来するものだろうか。
 身を乗り出してまで情報に肉薄せんとする祈の勢いに呑まれたのか、普段から押しに弱いのか。恐らくその両方なのであろうが。
「まあ、幅広い層のお客様方にご利用頂いているのは事実ですね」
 と、古城は示唆を含んだ答えを返した。
 やにわに祈は勢いづく。
「先程説明して頂いた限りでは、このお店には無数の素材があるとのことでした。権力のヒエラルキーの頂点付近を占める方たちは何を求めているんです?まさか、世間一般で手に入るようなものをわざわざここに買い求めているなんて事はないでしょう?」
「まあ、それは……」
「長命薬、不老不死の薬、それとも特別な強壮剤だったり?私、こういったお店に来るのは初めてなんですけど、何やら神秘的で……、浪漫を感じますよ!」
 入店直後から感じていた興奮を言葉にする。
 学園都市内部で生きていれば、超能力に魔術に超科学、超人からラルヴァまで、荒唐無稽な事物には事欠かないし。人生を前向きに過ごしていれば、刺激的でないはずはない。
 しかし、そんな中でも東洋の神秘と称されるような幻想は死んでいない。空気中の物質について数字とグラフを用いて説明され、生き長らえるのに必要な要素への変換方法を図示されるよりも、俗界から隔絶され、未踏の秘境にて霞を食べて生き続ける人間のエピソードを好む人間は今でも大勢いる。もちろん祈もその一人だ。
「昔からの定番じゃないですか!一通りの栄華を極めた権力者たちが求めるのは神秘的な事象!永遠の命だったり、錬金術の知識だったり、悪魔崇拝への傾倒だったり!」
「それが東洋医学の漢方を通じた手法である可能性があっても?」
「おかしくはない!と、そう考えて取材を申し込ませてもらったんです」
 鼻息荒い祈に対して、古城は何やら考える顔つきで顎を揉んでから応えた。
「う~ん。そこまで興味持ってもらえてるんなら、試してもらってもいいかな」
「試す?」
「ええ。ウチが贔屓にしてもらっているのは、ある薬が原因なんですよ。オフレコということならば、試して頂いて構いませんよ」
「是非是非!」
 祈は予想外の申し出に舞い上がった。
 顔を紅潮させ、がっつくような態度になっているのを自覚したが、古城はそういう自分の態度を喜んでくれているらしいことがわかってきたので、取り繕うこともなかった。
 どんな薬か想像もつかなかったが、普通の方法では手に入れることのできない貴重なものだというのは常連のお大尽方のお墨付きだ。合法ではないかも知れないが、だからこそ心躍る。一番可能性の高いのは特殊なドラッグの類だろうか。
 学園都市内に細々と流通しているドラッグの内、メジャーなものは大概試したことがある。第八新聞部所属の記者にドラッグ通の顔見知りがいて、彼女に『社会勉強』として少量ずつ渡されたのだ。しかし、どれも中毒状態に至る前に飽きてしまった。どの薬も、情報という名の甘露には到底及ばなかったのだ。
 古城は自分の背後にある箪笥の小さい抽斗のいくつかをガサゴソと漁ると、紙片に小さく盛られた黒い粉末と二錠の白い錠剤を蒔絵の施された小皿に乗せ、祈の前に置いた。
 漢方薬を外見で判断するつもりはないが、決して美味しいものではなさそうである。
「これが評判の薬ですか?」
「ええ。みなさんに好評です」
「効能としてはどういったものが?」
「なんと、貴女の美しさに更に磨きがかかるのです」
「え?」
 あまりにも唐突だったので、それが基準点以下のからかい文句だということに気付くまで数秒を要した。
「か、からかわないでください!」
 反発と羞恥からくる赤面顔で抗議の声をあげる。今日は不意を衝かれてばかりだ。
「いや、失礼。貴女のように溌剌とした方と言葉を交わすのは久々なもので。で、これの本当の効能なんですが。『魂源力の均整制御』であると僕は認識しています」
 祈の反応に満足気な笑いを漏らした彼は、目の前の薬についてそう説明した。
「『魂源力の制御』というと、異能の制御精度向上ということですか?レッド・トランキライザーのような?」
 脳裏に浮かんだとある薬品の名を口にする。
 レッド・トランキライザーは、能力を暴走させた異能者に対して緊急的に投与される赤い溶液の鎮静剤の俗称である。事件現場において治安維持関係者が然るべき機関の許可を得て使用することがある。その後、更生・回復施設においてはイエロー及びグリーン・トランキライザーが使用される場合がある。それらの効能は魂源力の放出を抑制し、指向性を制御するというものだったはず。一部ではその副作用を危ぶまれている代物だ。
「まさか。この『対会和(トイフイホー)』はあんな乱暴な薬物とは違いますよ。この薬は中長期的に効果を発揮するものでしてね、異能云々ともあまり関係ないのです」
「『魂源力の制御』なのに異能が関係ないんですか?」
「異能を発現していなくても魂源力を持っている人はたくさんいますよ」
 古城は続ける。
「異能が未発現だったり、そもそも異能を発現する才に恵まれなかったり、異能と分類されないほどに微弱なものであったり、発現していても気付いていなかったり。そんな人たちも多かれ少なかれ魂源力を持っています。実際、『対会和』を買い求めに来るお客様の半分はそういった方々です」
 確かに、異能を持たずとも魂源力の保有を根拠にこの双葉島に編入してくる学生も少なくない。祈の所属するクラスも異能者と非異能者が半々といったところだ。魂源力の詳細は公開されていないし、研究中枢も実際にはほとんど解析出来ていないと聞く。
「なるほど。でもそういった人たちが魂源力を制御するということは、どういうことなのでしょうか?異能という形態をとらなければ、自覚することすら難しいというのに」
 祈の疑問に、古城は同意するように頷く。
「異能を持たない人が自己に内在する魂源力を自覚するのは確かに難しい。私も、察するに隠善さん、貴女も異能者ですからね。そういった人たちの気持ちを理解するのは難しい」
 その逆も然りだけどね、と祈は心の中で相槌を打つ。
 彼女は本土にいる時分に異能が発現したクチなので、異能を理解できない人間との摩擦を、その身をもって経験していた。
「しかし、魂源力が人間に内在するエネルギーである以上、それが人間の身体と意識に影響を与えないはずがない。相互に影響し合っていると想定される。病は気から。肉体と精神は共鳴し合い、片方がもう片方の影響を受ける。ならば魂源力は。そう考えれば、この薬の『魂源力の均整制御』という効能も多少わかってくるんじゃないんでしょうか?」
 その説明に、何ともつまらない結論が祈の思考の中で鎌首を擡げ、口を衝いた。
「つまりは日頃の健康維持の為に魂源力についても気を配るということですか?」
「まさしく。魂源力を調正、ああ、調正というのは僕の造語ですが、調正する効用を持つ薬というのは、世間にほとんど流通してませんからね」
「そう……、ですね」
 祈は溜息を吐きたくなった。全身に鉛のような徒労感が充満していくのがわかる。
 もう、なんてこと……。
 謎めいた秘境で作られ、権力者たちが求めていた神秘の薬が単なるサプリメントだったとは。しかし、考えてみれば確かに道理ではある。健康は長命や不老不死に次いで貴重であるとともに失われやすいものだ。医療機関だって特権階級向けの治療プランを用意しているし、健康は今や金で買うものだというのは周知の事実だ。
「うぅ……、サプリメントですか~」
 礼を失することだとわかっていても、不満げな声を出してしまう。
 そんな彼女を見ても、古城はむしろ申し訳なさそうな顔で笑うだけだ。
「まあ、健康な若者の人たちからすれば、あまり価値を見出せないでしょうし、そうであっていいと思いますよ。若い身空で健康に気を遣わなければならないのは不幸なことです」
 十分若く見える古城だが、年寄り臭いことを言っても妙に様になっていた。
 恐らく、どんなことでも彼の言葉ならば尤もらしく聞こえるのだろうと祈は思う。
 そんな不思議な印象が彼にはある。年齢が読みづらいからだろうか。自分と同い年だと言われても納得できてしまうが、精神的な部分ではきっと大きく水をあけられているだろう。しかし不快ではない。抱擁感というか、自分に兄がいたらこんな感じなのだろうか。彼自身、馴れ合いを好んでいるようには見えないが、礼節と距離感を保つことには長けていそうではある。この辺鄙な土地で様々な客層を相手にして生きていく内に必要とされ、身に付けたものだろうか。
「それで、隠善さん」
「はひぃッ!」
 意識があらぬ方向へ飛んでいた。
 古城の言葉で不意に我を取り戻す。
 赤面するのは今日で何度目だろう。目の前の男性について思いに耽るあまり、現実を忘れて思考の網に絡まってしまうなど。もう記者などやめてしまおうか。
 そんな私に気を遣ってくれているのだろう。古城は奇怪な返事を気にした風もない。
「どうです、試してみませんか?」
「は、はい。もちろん!」
 もちろん!の部分を必要以上に強調してしまった。
 目の前には『対会和』なる薬。
 ここまで散々赤恥をかいたのだ。ここはひとつ挽回のチャンスではないか。
「二種類同時に。お茶で飲み下すといいですよ」
 口を真一文字に結び、カクカクと頷きを返す。
 決意が変わらぬ内に白い錠剤を口に含み、追って黒い粉末を含んだ。
 口内に強烈な苦みが広がるその寸前、私はお茶を一気飲みすることによって、それらを臓腑の内へと流し込む。
 直後、僅かな達成感と共に古城の反応を確かめようとした瞬間。
「あ、れりゃ?」
 私の意識はぐらりと、大きく揺らめいた



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