【Es schmeckt gut! (4)】


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 嗚呼、苦しい。苦しい。苦しい。
 あまりにも苦しいので、既に感覚は喪われてしまっている。
 人間の密度と最低限にしか保たれていない衛生状況の為に、地下室の中の空気はヘドロのように凝り、酸欠状態の魚への理解を深めるよう私たちに働きかけてくる。天井に一定間隔で備え付けられた白熱灯は、本来の三割程度の光を発するのが精一杯なほどまで弱っており、申し訳程度付属する傘には埃が何層にも積っている。避け難く発生する汚物の臭いは部屋に設えられた換気孔の健気な働きと下品で強い臭いを発する消臭剤によって抑えられているが、それでも完全ではない。多種多様な汚物とカビのようなもので黒ずんだ壁や床を引っ掻いてみると、本来の姿を伺わせるような白い素地が顔を覗かせる。
 嗚呼、苦しい。
 そして、チャペルが鳴り響いた。
 私たちは栄養失調であちらこちらにガタが来ている身体を必死で動かし、黒ずんだ床に赤のスプレー塗料でいくつも描かれたサークルの中へと移動する。その半径は五十センチ程度。サークルの中心には数字が描かれており、私たちが着ている、もはや襤褸と呼ぶのに相応しい白の貫頭衣の襟元に描かれた数字とそれぞれ対応している。
 チャペルがきっかり十秒間鳴り続けた後、着流しの男たちが三人、カランコロンと騒々しく下駄を鳴らしながら、地下室へと降りてきた。
 点在するそれぞれ割り振られたサークルの上に立ち、林立する案山子のようになっている私たちに向かって頭目らしい男が怒鳴る。彼らが何を言っているかはわからない。ただ怒鳴られているという感覚がある。
 不機嫌を隠そうともしない男たちは、今日も定められた行動を繰り返す。一人が私たちそれぞれの前に白い錠剤三錠と黒い粉末が乗せられた小皿を並べて回り、一人がそれを飲み下す為の湯を並べて回り、頭目の一人はそれを監督した。
 監督していた男が号令を下し、私たちはその薬を飲み下す。
 男たちはそれを見届けると、その背後の壁面にある格子戸を開け、私たちの中で最も若い番号の人間をその先の部屋へと連れて行った。一分と経たない内に、格子戸の向こうから悲鳴と怒号が聞こえてくる。どうにも昼間の外出を諌めているらしい。奥でどのようなことが行われているのか、この地下室に閉じ込められた人間は皆理解していた。『抑圧』が行われているのだ。
 何しろ、これは私たちの日常の一部である。
 十分もすれば、今『抑圧』を受けている奴が出てきて、次の奴が連れて行かれる。
 私たちの誰もが例外なく『抑圧』を受けるのだ。
 私たちの数が変わることもない。一人欠ければ一人補われる。そういう決まりだ。
 全く、今日もいつも通りだ。



 そんな夢は忘れた方が良い。
 誰かにそう囁かれて、私はその夢の全てを忘れた。


                   *


 全身が暖かくて柔らかいものに包まれている感覚。自分の部屋のものとは違う畳の匂い。気分が軽くなるような香草の薫り。聞き慣れた、紙が捲られる音。瞼を優しく刺激する燈籠の灯。そして声。
「うぅ……」
 私はそれらを順々に感じ取りながら、身体を蠢かせた。
 仰向けに眠っていたことに気付かぬまま、無意識に上半身を起こす。
「お。気が付きましたね」
「ふぁい、おはよぅございます」
 誰かに声を掛けられたので、一応挨拶を返しておく。挨拶はしておいて悪いことはない。
 目を擦りながら、どうやら自分が布団で寝ていたことに気付く。自分の家で使っているものと似たような感触だが、掛け布団の柄が大きく違っている。いつも見ている赤を基調とした花柄ではなく、古風極まりない唐草模様。前時代的なものに魅力を感じる私とはいえ、流石にこんな布団を選んだりはしない。女子高生として。
 段々と意識が明瞭になってきた。
 右を向けば窓枠に障子戸が閉め切られていた。既に陽は落ちたのか、陽射しは当たっておらず、中の暖気を漏らさずに外の冷たい暗闇を遮る役割を果たしている。正面へと首を動かせば、年月を感じさせる桐箪笥。そして左を向けば、本を読みながら座る一人の男性。
 祈はブリキ人形のように上半身を彼のいる方向へと向けた。
「どうです、気分が悪かったりしますか?」
「あ……う……だい、じょぶです」
 脳の機能が完全に復帰した時、私は今の状況を激しい羞恥と共に理解した。
 そう。ここは私の家じゃない。この布団も、私のものではなく、きっと彼のものだ。
「いや、申し訳ありませんでした。私の見込みが甘かったために……」
「え?」
 済まなそうに頭を下げる古城の態度に困惑してしまう。ぐるぐると思考を巡らせるが、私は彼に謝られるような理由をすぐには思い浮かべることが出来なかった。
「貴女は『対会和』を服用した直後、倒れてしまったんですよ」
「あ~、はい。……思い出しました」
 そうだ。私はあの白い錠剤と黒い粉末を一気に飲んで、倒れたんだ。
 ぐらりと揺らいだ視界を思い出すことができたが、その後の記憶はない。恐らく、古城が介抱し、布団に寝かせてくれたのだろう。ここは店の奥にある彼の居住スペースらしい。
 古城に御姫様抱っこで運ばれる意識を失った自分の姿を想像して、祈は全ての感情が沸騰しそうになった。
「隠善さん。貴女はよほど『対会和』との相性が良い。良すぎたが為に倒れてしまったのです。医を生業とする人間としては、事前にその可能性を説明すべきでした。本当に申し訳ない」
 深く頭を下げ、土下座に近い姿勢で悔恨を表す古城。そんな彼の姿勢に、謝られている祈の方が困惑してしまう。自分よりも年上の男に、面と向かって、本当の意味で頭を下げられることなど生まれて初めてだった。ポーズだけの謝罪をする者は数多いるが、古城のその姿からは紛れもない思いやりが伝わってきた。
「いやっ、そのっ、どうか頭を上げて下さい。別にどこも悪くないですし、少し眠ってしまったぐらいで……ほ、ほら!」
 自分が全くの健康であることを示す為に、両腕を素早く動かしてシャドーボクシングのような動きをして見せる。風切り音と共に拳が空気を叩き、祈はその変化に気付いた。
「あれ?」
 両腕の動きが異常に軽い。
 ボクシングを始めとする打撃系格闘技を経験したことのない祈は、もちろんパンチの打ち方を知らない。事実、彼女のその動作は型について言えば、見るべき人間が見れば微笑みを催すような稚拙さであり、心無い者ならば一笑に付してしまうようなものであった。
 しかし、その軽快さについては見るべきものを見出したに違いない。効率や結果としてもたらされる破壊力などとは別の次元で、彼女の動きは驚くべきものだった。祈に何の気負いも無かった、というのは確かに原因の一つとしては挙げられる。しかし、だからと言ってここまで軽やかな動作が可能なのかどうか。
 第一、祈本人が驚いている。
 何だか身体が羽根のように軽い。腕一つ動かすにしても、妙にリラックスした気分が付帯されている。最近酷くなっていた肩凝りも嘘のように無くなり、身体全体がスッキリとしている。普段の生活でどうしようもなく感じている疲労が無いのだ。
「いつもとは違いますか?」
「はい、何だか……。凄い身体が軽いんですけど!」
 狐につままれたような顔で両手を開いたり閉じたり、肩を回したりしている私を見て、古城は安堵した表情で口を開く。
「『対会和』の効果ですね。先程説明したように貴女は相性が良いみたいですから、得られる効果もかなりのものだと思いますよ」
「凄い!何コレ!こんなの初めてです!」
 祈は布団を除けて立ち上がった。
 ほんのそれだけの動作でも、自分の身体がいつもとは違うことがわかる。無意識のように関節を動かす時に誰しもが感じているであろう、億劫さとでも表現出来るものが感じられない。密かに自慢に思っている健康的な両脚は力強く畳に吸いつき、何だか姿勢も良くなっているかも知れない。寝起きのはずなのに、気分も晴れやかだ。
 『対会和』の効果。
 身を以てそれを知った今、祈はここに通う御大尽たちの気持ちがわかる。
 相性の良さとやらが手伝っているとしても、若い自分でさえこうなのだ。老いて錆ついてきた彼らがどれほど『対会和』を重宝するか、想像に難くない。『魂源力の均整制御』、つまり調正とやらが人間の肉体と精神に及ぼす影響は予想以上に大きいらしい。
 浮かれた気分のまま、再びシャドーボクシングもどきを始めた祈は、いつの間にか軽やかな跳躍を交えたフットワークじみた動きも試す。黒髪のポニーテールが生き物のように躍る。合間に感嘆と称賛の言葉を交えながら、軽快な自分の動きを堪能する。
 一通り調正の素晴らしさを体感した祈は、難しい顔で彼女を見つめている古城に気付いて慌てて居住まいを正す。
「ご、ごめんなさい。あまりにも身体が軽いものですから……」
 我に返って謝った祈に、古城は思わぬ返答を返した。
「ああ、いや。見かけによらず大胆だなぁ、と」
「はい?」
「黒だとは思いませんでした」
 そう言ってニヤリと笑うと、何事も無かったかのようにお茶を啜る古城。
 祈は最初、彼が何を言っているのかわからなかったが、数秒後、制服の短いスカートで跳ね回った自分の軽率さと古城の率直さを赤面しながら恨んだ。



 外に出ると、もはや『古城調正房』の看板文字を読むのにも苦労するほどに暗くなっていた。風は未だに強く、塩の香りを御供に連れて、実際の築年数よりも古びて見えるこの街の木造建築物に辛く当たっている。
 時刻は四時五十五分。そろそろ帰りのタクシーが迎えに来る時間である。
 街の入口まで送るという古城の申し出を、祈は素直に受け入れた。それは単にこの街を一人で歩くのが心細いという理由だけではなかった。同じように連れ立って歩くにしても、昼間に『古城調正房』に案内された時よりも自分と古城の間の距離が縮まっていたことに彼女は気付いていた。もちろん、歓びと共に。
 来た時のような騒動も無く、街の入口に戻ってきた時には祈の心情も来た時とは全く違っていた。
 あれほど早く去ってしまいたいと思っていたこの街だが、今では離れ難く思っている。
 街全体に対して抱いている薄気味悪さは未だに変わらないし、昼に見た光景を思い出せば背筋に冷たいものが走る。それでもこの街に対して未練を感じるのは、隣に立つ黒の作務衣を着た男の存在が原因に違いなかった。
 まったく。こんな街で初恋を経験するなんて……。
 世間一般でいうカッコイイ男の子ならば、学園都市にも一定の割合でちゃんといた。クラスの女友達はそういった男の子の話題を好んでいたし、彼らと付き合って青春を謳歌していたりしていた。そういった話題に無頓着だった祈が、こんな辺境で生まれて初めての恋慕を薬売りの男に捧げるのは別段おかしいことではない。
 古城はそれなりに整った顔立ちで、見る人間によれば美形と褒められることがあるかもしれないが、祈にとってはそんなことはどうでも良かった。長い時間をかけて洗練され、無駄を削ぎ落とされたかのような鋭利な意志の強さを伺わせる双眸に、誠実で率直な態度。そして、どこか心地良い秘密めいた雰囲気こそが祈を惹きつけた要因に違いなかった。
 当然だが、古城に会った誰もがそんな印象を受けるわけではない。彼にしたところで、縁を持つ人間によって対応は様々だし、相手の受け取り方も同様に様々である。つまるところ初恋などというものは、自分に向けられている行動のみから相手を判断したところで何の問題も無いもので、盲目的なくらいが丁度良いのだろう。
 街の入口で迎えのタクシーを待つ間。傍から見ればとりとめのない、しかし祈にとっては心躍るような古城との会話を楽しんでいる内に、約束の五時を十分も過ぎても迎えのタクシーが来ていないことに気付いた。
「おかしいですね。携帯の番号も渡してあるのに……」
 古城との時間が増えたことに感謝しながら、それでも多少の不安を覚える。祈の利用した重装タクシーは高い料金を請求するだけあって、いい加減な会社ではない。少なくともネット上の評判や過去に利用したことのある客の錚々たる顔ぶれを見れば、そう判断できる。来た時のあの運転手が急病に見舞われたとしても、当然代わりの者が寄越される手筈になっている。
「こちらから電話してみたらどうですか?」
 古城の言葉に頷き、祈は運転手からもらった名刺に記された会社の番号にかける。あの運転手の携帯番号も記されていたが、電話口で弁解を聞かされるのは御免だったし、管理する会社に電話したほうが筋の通った説明が聞けると思ったからだ。
 口調だけは品格を感じさせるタクシー会社の受付担当に事情を伝えると、形式的な謝罪の言葉と共に、担当のドライバーと連絡を取るから待ってほしいという旨を告げられた。
 陳腐な保留メロディーが十数秒間流れ、電話口にでたのは先程の受付担当とは違っていた。野太い男の声で、自分は南東方面の配車を管理している人間だということを告げた。そこそこ責任ある立場の人間であるということらしい。男は野間口と名乗った。
 彼は、鈍い人間ならば電話を通してでも平身低頭の様が目に浮かぶようなわざとらしい口調でひとまず謝罪し、迎えの車を遣れないという現実とその理由を語った。
 ラルヴァの出現反応。それが原因であるらしかった。
 彼曰く、お客様の送迎の御約束は断固として履行すべきであるし、ある程度のラルヴァなど蹴散らせるだけの装備を重装タクシーは備えているのだが、出現反応を無視してしまうと警察との関係に翳が差してしまう上、暗闇でラルヴァに襲われるとお客様に心理的な負担を少なからず与えてしまう可能性があるということだった。
「つまり、迎えに来れないということですか?」
 不安と怒気と孕んだ祈の言葉に、野太い声はもごもごと応えた。
 我が社の負担でヘリを出すという案もあるが、その際には着陸地点やその他に色々と問題が生じる為に、結局九時過ぎになってしまう。そこはお客様のご要望次第で……。
 今日は風も強く、既に陽も落ちている。そんな中でヘリコプターを飛ばす困難さは祈にも想像できた。それに着陸地点と言っても、この古びた街の周辺に適した場所があるのかどうか判断がつかない。何より、わざわざヘリを飛ばして学園都市に帰るなどという芸っぽいやり方は避けたかった。自意識過剰かも知れないが、妙な注目はされたくない。
「少し考えさせて下さい。折り返し電話します」
 結局、保留することにした。
 電話を切り、どうしようもない不安から、隣に立つ古城を見上げてしまう。
事情を説明すると古城は弱ったような表情を浮かべたが、すぐに微笑へと切り替わる。
「とりあえず私の店に戻りましょう。ここは寒い」
 彼の提案に頷いた時、祈は迎えが来なかったことの良い影響だけを享受しようと決めた。
想い人と過ごす時間が増えたということを考えれば最悪というわけでもない。どの道今日から冬休みなのだから、私生活について小言を言ってくる人間もいないであろう。
 そんな祈の脳裏からは、迎えに来るはずだった運転手の顔など消え去っていた。



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