【Es schmeckt gut! (5)】


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 広くなった額を神経質に撫で上げ、あんこ型の巨体を忙しなく動かす野間口貴俊(のまぐち たかとし)には周囲の誰もがうんざりしていたが、誰一人文句を付けることは無かった。色を失ってなお福々しいその顔には大雑把に配置された明太子のような唇があり、その隙間からは言葉にならないような呪文のようなものが吐き出されていた。
「星野の単細胞が……これは……社の信用に……警察への……」
 彼の呟きを正確に聞き取れる者は一人もいなかったが、事態の深刻さについてはその場にいる誰もが理解、あるいは洞察していた。
 この南東配車センターは、その名の通り南東部を担当する社のタクシーを常時管理し、指示や情報を与えることをその任としている。学園の教室二つ分程度の広さを持つ部屋の中で、ヘッドセットをつけた十人ほどの事務職員が割り振られたデスクに座り、パソコンのディスプレイと日夜睨めっこをしている。乗務員がここに来ることは少ない為に、隣の応接間は別としてかなり雑然としていた。
 その雑然の中で一番高い地位を与えられているのが野間口であり、二十分前、彼のパソコンのディスプレイに表示された情報こそが問題であった。
 二十三号車:乗務員 星野蹄次
       緊急対応システム作動
 マップ上の双葉島南東沿岸部に近いポイントで、通常走行時には青く表示されることになっている社の保有車両の現在位置を表すマーカーの一つが赤く変わっている。カーソルをそのマーカーに合わせると、そんな表示が出た。詳細な情報を見れば、アーマースパイクだけでなく、緊急回避攻撃まで使用したことが示されている。
 それを見た時、野間口は乗務員の正気を疑った。もしラルヴァが出現したと仮定しても、どれだけ交通量の少ない場所だからと言って、お飾りであるはずの指向性爆弾まで使用するなど馬鹿げている。要人警護車両のドライバーならば運転技術を駆使して状況を打開すべきだろうに。報告書には使わざるをえなかった状況だったと書かれるのだろうが、ふざけるな。何としても糾弾してやる。奴は、島内での爆薬使用について事後報告を通すのがどれだけ大変なのか全くわかっていないのだ。
 そう野間口が考えて、二十三号車の無線へと繋ぐが反応はなかった。次いで星野の携帯電話へとコールする。数回の呼び出し音の後、繋がった。
 正直、あれこれ理由をつけて無視を決め込むだろうと考えていた野間口は意外だった。
「星野乗務員、どういうことだ!」
 野間口の怒声にも返答は無い。ざわざわとノイズのような音が返ってくるばかりである。
 野間口は更に苛立った。さらに声を大きくする。
「おい、星野!貴様何をしたかわかってるのか!」
 またしても返答は無い。否、耳を澄ませばノイズ以外の音が聞こえてきた。
 それは獣のような鼻息と咀嚼音。獰猛に喉を鳴らす音も聞こえる。
 そこでようやく野間口は、星野蹄次が会社初の殉職者となった可能性について考えを巡らせた。緊急回避システムの使用が過剰防衛とならず、必死の抵抗の一手段とされるほどのラルヴァとの戦闘。そんなものに遭遇した場合のことに。
 受付担当の職員に呼ばれ、我に帰る。
 どうやら星野が迎えに行く予定だった客からの連絡らしい。
 受話器を取り上げるまでの十秒間に、彼はその脳内でもっともらしい弁解を用意しなければならなかった。


                    *


 陶器製の火鉢の中で炭が爆ぜ、刹那的な橙色の火花が舞った。
 古城の居室であろう四畳半の和室に敷かれた唐草模様の布団一式の上で、祈は独りその動悸を激しくしていた。部屋の中央には自らが先程まで眠っていた布団が敷いており、燈籠の灯と火鉢の灯りは柔らかい明るさで、そして商売柄必然的に染みついたのであろう生薬や香草の残り香は気を鎮めてくれるような薫りで部屋を満たしている。暖かい昼間になら窓として機能するであろう障子戸は雨戸との二重構造となって冷たい夜気を締め出し、強い風に対する盾となっていた。障子戸の向かい側の一面には店へと通じる戸があり、今は閉められている。北向きの壁には古めかしい桐箪笥、その向かい側には隣の部屋との間仕切りである襖があった。その向こう側からは、古城が夕飯の片づけをしている音が聞こえてくる。
 先程まで、古城が手ずから用意してくれた夕飯を二人して食べていたのだが、実際、祈は夕飯の味など全くわからなかった。それは古城の料理が不味かったわけでも、祈が味音痴だったりしたわけでもなく、いざ食べようとした時に古城から出た提案のせいであった。
「今日はここに泊っていったら如何でしょう?」
 この一言のせいで祈は動揺してしまい、料理の味はわからなくなるわ、焼き魚の骨を喉につっかえそうになるわで散々であった。古城が食事の合間に様々な話題を投げかけていたが、動揺した彼女は頷いたり首を振ったりと終始無味乾燥な反応をしていただけで、口を開けば支離滅裂とはいかないまでも、ズレた回答をしていたことに違いは無い。その上、ごちそうしてもらったのだから後片付けくらいは手伝わせてもらおうと思い、皿を運ぼうとすればタイミング悪く(個人的に言えばタイミング良く)同じ皿を運ぼうとした古城の手を握って動揺してしまい、お客様なんですから、という一言で隣の部屋で休むように説得されてしまった。
 そして、後悔というものは先に立たないから後悔というのであって、頭を抱えながら肩を落として火鉢にあたる祈の様子は、一酸化中毒による頭痛で苦しんでいると勘違いされてもおかしくないほどどんよりとしていた。
そんな彼女の気分を変えるように、部屋の隅に置いたスポーツバッグの内部から一世代前に流行したJ-POPのメロディーと蚊の鳴くようなバイブレーション音が聞こえてくる。
 祈のプライベート用携帯のディスプレイに表示される名前は『西口明日美(にしぐち あすみ)』。
「もしもし、先輩ですか?」
 そんな捻りの無い問いかけに、幼さが多分に含まれた甘ったるい声が返ってくる。
「うんうん、先輩だよぉ。祈っちゃん今どこにいるのぉ、もう九時過ぎてるよぉ?部屋に遊びに行ったら鍵かかってるし、まだ取材中なのぉ?」
 一度聞いたら忘れないようなその声と口調に、祈は妙な安心感と懐かしさを覚える。半日しか経っていないのに、この街のインパクトがあまりにも強すぎて、学園都市での生活を忘れていたのだ。
 祈が今日中には帰れなくなった事情を告げると、明日美は心配そうに聞き返す。
「えぇ?じゃあどうするの?野宿?冬は寒いよぉ?」
「えぇっと、取材先の家に泊めて頂けることになって……」
「ふぅん。アレ?祈っちゃんが今日取材しに行ったのって『古城調正房』だったよねぇ?」
「え、えぇ……」
 思わせぶりな明日美の口調に、祈は思わずどもってしまう。
「祈っちゃんの事前調査でわぁ、店主の男の人が一人でやってるお店だったよねぇ?」
「ぐっ……」
 思わず呻いてしまい、祈は自分が失策を犯したことを悟った。
 何でもいいから、適当なでっちあげをするべきだったのだ。
「あぁあ……。そっち関係には鉄壁だった祈っちゃんが遂に墜とされちゃうなんて、先輩は悲しいよぉ」
 よよよ、とわざとらしさをアピールするような演技が電話越しにも伝わってくる。
 明日美は祈の男性関係についての鉄壁さと無関心さを知っていたし、祈は明日美が自分のそういうところを知っていることを知っていた。
「そ、そんなんじゃ!」
「いやぁ、会って半日の男の家に泊るなんてねぇ。普段の祈っちゃんからは考えられませんよぉ。フフフ、下着の趣味もそうだけど、芯のところではなかなか大胆ですなぁ」
「先輩!この街には宿泊施設が無いんですよ!それに下着は関係ないでしょう!」
「言い訳はいらないよぉ。私の知ってる祈っちゃんは、泊まる場所が無いからといって素直に男一人の家に泊まるようなコじゃなかったもんねぇ」
 反論しようとする度に、夕食の後に一晩泊めてもらうという古城の提案に同意した時の気恥ずかしさを思い出していた。提案した古城の方は大して気にしていない様子だったのが、喜ぶべきか悲しむべきか迷うところではあったが。
「折角の好意を無碍に出来ないだけです!」
 しかし弁解させてもらうならば、ここに泊ることになった理由は私の恋心から来るものだけではない。私を軽佻浮薄な女だと非難する人は、口を開く前にまず私と同じ体験をしてみればいいのだ。近代的で、混沌としているように見えてその実統制されている学園都市を離れ、第二次大戦前を偲ばせるような建造物の群れを訪れ、どうにも精神的に壊れているような人間をカタギには見えない別の人間たちが虐待するのを見て、夜になっても其処から帰れない。加えて、生まれて初めての恋愛感情を抱いた相手が宿泊を勧めてくれる。
 この状況で他にどのような手段が採りうるというのだろうか。
「ふっふっふ~、まあ頑張ってねぇ。今夜は随分と冷えるって言うし、人肌が恋しくなっちゃうかもねぇ」
「だ、だからっ……!」
「あ、漢方屋の記事はいいからぁ、ソッチの初体験談を記事にし――」
 これ以上続ければいずれボロがでてしまう。そう判断した祈は無理矢理電話を切った。
 双方ともわかった上での茶番だったのだから、後になって咎められることもないだろう。
 それにしても、我ながら思い切った決断であることは否めない。
 明日美先輩の言うように、以前の私ならば考えられなかったことだ。明るく奔放なキャラクターを演じていながら、男女関係に潔癖で女色趣味も持ち合わせない。人並み以上の容姿を自覚しながら、美醜に大したこだわりも持たずにいる。人によっては、その姿勢を傲慢なものとして受け取ったであろうか。
 一度恋慕を抱いてみれば、驚くほど簡単に意識は変わった。
 しかし、誰がその変化を情報として表すことができるだろうか。
 きっと誰にも、少なくとも今の私には出来そうにない。多種多様な情報が、多種多様の形態をとってこの世の中に溢れていることを私は知っている。人間の一生程度では決して獲得し切れないほどの情報量。その情報の全てを利用すれば、今の私の気持ちを、私の変化をカタチにすることができるのだろうか。どれだけ情報の形態が多様化し、どれだけ人間が発達しても、私のような小娘一人の初恋を正確に表現できる方法さえ見つからないのではないだろうか。
 そんなことを考えながら、私は襖と店側へと通じる戸を開けた。冬の冷気が容赦なく和室内を侵したが、隣の部屋には古びた台所で夕飯の後片付けをする古城が見えたので、心は暖かくなるばかりだった。どうしたかと訊かれたら、火鉢を使っているから換気をしようと思ったと応えよう。きっと古城は微笑を浮かべて頷いてくれるだろう。
 そう。至高の感情を前にして、余計なことを考えなくても良いのだ。

 恋愛について果断であるのは乙女の特権なのだから。




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