【Es schmeckt gut! (8)】


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 意識を失った少女の身体をうつ伏せに横たえ、古城はその成果を見守った。
 少女が着ている双葉学園高等部の制服は、上半身が背中の中心辺りまで捲り上げられ、下半身はスカートと下着がずらされていた。光源パネルの光を艶めかしく反射するその健康的な肢体は、古城の獣欲をそそるに十分なものであったが、今は決して手を出せない。
 少女の肉感溢れる尻の少し上の辺り、背骨の形作るライン上に植え込まれたその物体こそが理由であった。
 彼の異能【統合(インテグラツィオーン)】によって少女の身体と融合させられたその物体は、まるで自分の意志を持つかの如く動き回っている。そして、実際にその物体が意志を持っていることを古城は知っていた。
「しかし、羨むばかりの才能だな……。いや、素質と言うべきか……」
 彼は愛しく思う少女の髪を弄びながら、愛情と羨望の籠った眼差しを向けた。
 他者への羨望が引き起こすのは、常に自己分析の波。多くの人間にとって、そういった自己分析は大いなる偏見と自己憐憫、あるいは自意識過剰を伴う歪んだものであることが多いが、古城の場合は違っている。彼は緻密であるが面白みの無い相対化しかできない。偏見や自己憐憫で歪めた程度ではどうにもならないほどの過去と悔恨が、彼の根底に厳然として根を張っているからであろう。
「まともに呼吸が出来るようになるまで三年、歩けるようになるまで五年、【統合】の補助なしに普通の生活を送れるようになるまで三年……」
 古城は、呪いのように過ぎ去った歳月を回想し、
「性能を全て引きだすのにあと数十年、それぞれの特殊能力を引き出すのにあと百余年、超克し、俺の目指す存在に到達するにはあと数百年程度で足りるか……?」
 業のようにのしかかる未来を推し量る。
 引き攣った笑いが零れた。そこには、自嘲と狂気が内包されている。
 最早、古城弥七の内臓系はその全てをラルヴァ器官及びラルヴァ由来の組織に置き換えられている。筋肉、骨格、血管、神経その他ほとんどについても同様であった。彼は紛うことなき人間でありながら、ラルヴァの身体に人間の皮を被せた存在なのだ。
 【統合】の力によって幾千、幾万ものラルヴァ由来の組織と統合を繰り返し、人間でもなく、ラルヴァでもない何かに変貌した、いや、変貌し続ける生物。
 複数の物体を拒絶反応無しに一つのものへと変える【統合】という異能の力。
 しかし、拒絶反応が出ないことと機能的であることはまるで違う。高位のラルヴァのパーツを手に入れ、どれだけ強靭で高出力のツギハギを手に入れたところで望む存在になれるわけではない。神の設計図を基に造られた人間という種が黄金の調律を保っているのに比べ、その身のなんと不細工なことか。その性能を発揮しようとすれば十分と保たないこの出来損ないの身体が、黄金の調和を手に入れるまでどれだけの時間がかかるというのか。それに、この試みは今でも一部で研究が続けられているらしい合成獣の生成や憑依型ラルヴァなどとは全くの別物だった。何しろ、基軸に人間の魂と魂源力がある。多種多様なラルヴァ由来の組織を完全に隷下に置き、支配しなければならない。
 だからこそ、意志の炎を絶やすわけにはいかない。
 唇を噛みながら古城は苦悶の表情を浮かべ、傍らに横たわる少女を見た。一度は学究に身を捧げて置きながら、過去の経験故に熱烈なまでに運命を信奉する彼にとって、偶然の出逢いなど有り得なかった。加えて、祈にとって古城との出逢いがそうであったように、古城にとっても祈との出逢いは所謂初恋というやつであった。
「だからこそ……」
 だからこそ彼女に出会ったのだ。自分と共に歩んでくれる彼女に。自分を遥かに上回る素質を持ち、先行する自分に追い付ける可能性を持つ彼女に。自分の恋した彼女に。

 人間とラルヴァの超克。その先には何があるのだろうか。
 それは極めて困難で、膨大な時間という代償を払わなければ辿りつけない場所だろう。
 それでも、二人揃えば何とかなるかもしれない。

 古城は異能を使った代償として発生した一時的な発作に耐えながら、愛しい彼女が試練を突破することを祈った。たとえ全てが運命によって定められているとしても、その想いは無駄にならないと信じたのだった。


                    *


 予想された通り、車両自体はすぐに見つかった。
 難しいはずはない。車両が発信しているマーカーの示す場所へと向かえば良いだけなのだから当然である。その価値を低く見積もられて久しいその道路は、酷い悪路と化していた。左右を防風林に挟まれ、凹凸と罅割れが散見されるその直線。双葉島は埋立地ではあるが、地盤の変動から完全に逃れられたわけではない。埋立地であるが為に発生する問題というのもあるのだろう。それをアスファルトの表面に浮き上がる傷跡が物語っている。
 二人で警察から貸し出された黒のセダンを降り(織姫は必要上の理由から、双葉島内に限ってあらゆる車両の運転を認められている)、周囲への注意を怠らないようにしながら、車両の反応が発信されている林の中へと足を踏み入れた。何という種類なのか澄斗にはわからないが、防風林はその葉のほとんどを枝につけたままだった。もちろん緑の鮮やかさはなく、くすんだ灰色をしている。注意深い人間が見れば、柏餅に巻かれている葉と極めて似た形状をしていることに気付いたであろう。
「この林の価値は何だと思いますか?」
 唐突に、織姫が問うた。こんな風に質問されるのは澄斗にとって珍しくはない。何か新しい知識を与えようとする際に、彼女がこういった形式を好むことを知っていた。
「防風林と言うくらいだから、海風を防いでるんじゃないですか?」
 全く独創性の無い回答ではあったが、澄斗には気の利いた回答をしようなどという気は最初からない。彼の気質から、基本的に波風を立てたくないからであった。
「確かに防風林としても役には立っているのでしょう。しかし、ここは東京湾に造られた人口島で、重要な建造物には最新の技術が使われています。本来、潮風などでどうこうなるような場所ではありません」
「建前ってことッスか」
「ええ。実際は房総半島からの目を遮ることを目的としているのでしょう。上空からの目は厳しく取り締まられていますが、水平線からの視線は距離がありすぎてどうしようもないことが多いですからね」
 なるほど、と澄斗は相槌を打つ。
 これは双葉島に限った話ではないが、異能者の為の特別な区域というのはどうしても機密保持の必要が生まれる。上空を報道ヘリが飛ぶことは有り得ないし(本土の報道機関には日本政府からの『資料映像』が定期的に供与される)、許可無く上空を侵犯する空間飛翔体に対しては最悪の場合撃墜まで視野に入れている。偵察衛星に関しては推測するしかないが、国家間の協定が結ばれていてもおかしくはない。
 しかし、野次馬やハイエナの類は水平線上にも存在する。本土の高層建築物や制限海域ギリギリに浮かべた船上から、好奇の視線を伸ばしてくる輩も零ではない。対策として、双葉島の沿岸部には何らかの映像カーテン等が配備されていてもおかしくはないが、防風林もその対策の一部として役立っているということだろう。
「まあでも、そのせいでラルヴァが――っとあれッスね」
 二人の進む先には妙にゴツゴツとした印象の車両があった。車体後部に爆発があったことを示す様々な損傷があり、車体前部には冗談を具現化したようなアーマースパイクが木洩れ日を鈍く照り返している。織姫の持つ小型のGPSディスプレイに表示される位置マーカーもその位置を示しているらしく、まず間違いなかった。
 しかしマーカー情報など無くとも、林で迷うことはなかっただろう。まるで重機か何かで薙ぎ倒されたかのような哀れな倒木が、悪路からこの場所まで直線的に並んでおり、並行に深い轍も刻まれている。捜索任務を与えられながら、そのあからさまな状況故に、捜索と呼ぶに相応しい捜索活動をしようがなかった。
 コーンロープを手にしながら、織姫は車両へと接近する。
「私が車両を調査します。金刃くん、アナタは周囲を警戒」
「りょーかい」
 澄斗のその口調は軽いが、内心では緊張を高めていた。懐からモーゼルを取りだす。
 【三等犬】なるラルヴァがこの付近にいることは間違いないのだ。
 澄斗が車両の周囲をぐるりと歩くと、少し離れた場所にサッカーボール大の物体が見えた。黒土の地面の上に無目的に置かれ、表面には数枚の落ち葉が張り付いている。
 舌打ち一つ。澄斗はせり上がって来る嫌な予感を抑えながらその物体に近付き、そしてその予感は的中した。
 どう見ても、人間の頭部であった。
 ふと脳裏を掠めるのはラルヴァの遺骸強奪の際に見た、異形の頭部。比較してみれば、双方対照的であることに気付く。あのラルヴァが痛みや恐怖を感じぬままに死んだのに対し、この頭部に張り付いた表情からは後悔や絶望が伝わってくる。
「人間らしいといえば、……らしいな」
 そう呟いてから、澄斗は織姫を呼んだ。
 車両からは何も見つからなかったのか、織姫はいつもの無表情に憮然とした雰囲気を加味しながら近付いてきた。その手には彼女には馴染みの無いものが握られている。近付いてくる途中で、彼女は呼ばれた理由を察することが出来た。
「頭だけ、ですか?」
「みたいですね。死体を埋めたり隠したりするラルヴァがいるかどうかは知りませんが、頭だけ放っておくってのは理由がわからないッスね。ラルヴァに宗教意識じみたものってあるんですか?」
「聞いたことがありませんね。今までの【三等犬】関連の事例を鑑みるに、被害者は骨まで喰われています。これが【三等犬】の仕業でないというのも考えられなくはありませんが、この首筋についた傷跡は猛獣の牙によるものでしょうから、その可能性も低い。同じビーストラルヴァならば縄張り争いの可能性もありますからね」
 そう言いながら、織姫はその頭部をじっくりと観察したかと思うと、その手に携えたものを澄斗へと手渡した。
「上級監理官越智織姫の権限において、金刃澄斗の異能使用を許可します。あとこれ、渡しておきます。座席の下にありました」
 モーゼルを懐にしまった澄斗の両手にずっしりとその重さをかけたのは、レミントンM870。その信頼性の高さから、現在でも世界中で広く受け入れられているポンプアクション式の散弾銃であった。銃器が好きではあるが、突き詰めて詳しいわけではない澄斗でも知っているほどには有名な銃であった。
「これ、勝手に使って良いんですか?」
 普通はマズイだろう、そう思った澄斗は確認を取る。同時にシェルが入ってないことも確認した。
「私が許可します。【三等犬】退治に役に立つんじゃないですか?どの道、アナタの異能を使えば『発砲行為』にはならないでしょう」
 いやまあ、それはそうなんスけどね……。
「なら、存分に――」
 澄人が言いかけた時、上空から、二人の間に着地したのは灰黒の陰影。
 赤い瞳に発達した牙、大型犬と呼ぶにはあまりにも物騒なその姿。
 【三等犬】。その共通した認識を、二人は声には出さなかった。
 咄嗟の判断で二人はそれぞれの背後へと跳び退る。澄斗からすれば目の前に現れた【三等犬】の直線上には織姫がいて発砲出来ない。織姫からすれば、現れた【三等犬】の内の一体についてのみ注意を割くのは如何にも拙劣な真似だと知っていた。
 事実、彼女の判断は正しかったことを【三等犬】が証明した。
 二人の跳び退った方向、それぞれの背後から、残りの二頭が襲いかかって来る。わざわざ喰い残した頭部と最初に頭上から降ってきた一頭は心理的衝撃と視線の釘付けを目的とした陽動。この戦術的行動が出来るというのは【三等犬】の知能程度がそれなりのものであることの証左であった。
「ちぃっ!」
 澄斗は背後からの襲撃に対して完全に遅れをとった。慌てて左右に活路を見出そうとするも、この場は林の只中。そこには樹木が植え置かれ、逃げ場は著しく制限されている。
 彼が跳びかかってくる四肢動物から逃れる為には体勢を低くし、突っ込むように転がるしかなかった。辛うじてその突撃を逃れるも、首筋には熱い感触。こちらを振り向く【三等犬】の爪には赤いものが付着していた。
 澄斗は片膝の状態のまま、レミントンの引き金を引く。火薬の音とは違う、空気を強く叩いたような音が二つ。林を構成する一本の樹が爆ぜ、木片が宙を舞う。だが、筒先に捉えられる前に【三等犬】には命中しない。灰黒の化生はまさに林立する障害物の陰から蔭へとその身を跳梁させ、散弾銃の射角どころか澄斗の視界から逃れに逃れる。加えてその四つ肢が人間には再現不可能な動きを可能とさせ、その動きの洞察を難しくした。
「動きがっ……!」
 澄斗は首の置かれた場所から更に距離をとる。織姫と澄斗、二人がコンビであるのは言うまでも無く互いを補い合う為だったが、この地形ではそれが活かせない。離れて戦わねば澄斗は射線を更に限定され、織姫は樹木に加えて澄斗という障害物を考慮に入れて、流れ弾の可能性に神経をすり減らしながら縄を振るわなければならないからであった。戦力の分散は望むところではないが、林の中に入り過ぎている。
「速すぎんだよっ!」
 澄斗は罵声と共にレミントンの引き金を引き続ける。【不可視の弾殻】があればこそ、装填の隙は生じず、何とかイーブンにまで持ちこめているが、常に五メートル以内に纏わりついて攻撃してくる【三等犬】は彼を翻弄し続ける。
 実際、散弾の数発は掠っていたが、その効果は極めて薄い。それは【不可視の弾殻】の特性故に避けようがない問題に起因していた。
 【不可視の弾殻】。金刃澄斗の魂源力を原料として弾薬を生成し、発射する能力。
 その手に発射機構としての装置がある場合に限り、筒先に不可視のエネルギー体を発生させ、銃砲の内部機構に全く干渉を受けずに発射する異能。初速、威力、弾種を含めたそのエネルギー体の性質は手にした銃器、砲の種類によって制限される。言い方を変えれば、手にした銃器で発射可能な弾薬ならば、あらゆる種類の弾薬の性質を持ったエネルギー体を生成、発射できるということ。加えて、発射機構の影響も受けない為に命中精度も一定している。
 一見すると極めて実戦向きで攻撃力に長けていそうな能力ではあるが、そこには致命的な問題がある。それは澄斗が生成できるのは弾薬そのものではなく、それに似せたエネルギー体であるということ。銃弾や砲弾が実際に金属の弾体を具えているのに対して、【不可視の弾殻】が生み出すエネルギー体にはそれが無いということである。
 標的にぶつかるまでは良い。しかしその後。依り処を持たないエネルギーはあらゆる方向へと拡散してしまい、標的が生物であれば、その体内に破片を残すことがない。銃だろうが砲だろうが、飛び散るその破片がもたらすはずの被害が無いのであれば、その価値は大きく低下する。特に獣やラルヴァを相手にする場合、被弾時の衝撃から来るダメージだけではどうしても心許ない。
 その欠陥のもたらす結果が、今ここに展開されている。
 本来ならばそれなりのダメージを強いるはずの散弾が掠っても、【三等犬】はその異常な回復力が手伝ってまるで意に介さない。もし本物の十二ゲージであるのならば【三等犬】の体内に鉛玉を残し、回復を遅らせているはずである。
 【三等犬】が今までとは違う動きを見せる。死角に回り込んだと思いきや切り返し、身体を大きく晒しながら突撃してきたのである。回復力を当てにしての、多少の損傷を計算に入れた特攻。澄斗の異能の欠陥に気付いた【三等犬】が戦術を変化させたと言える。
「糞ッ!」
 再び地面を転がる澄斗。だが、たとえ避けながら散弾を見舞ったところで与えるダメージはたかが知れている。ならば更なる攻撃力が必要。
 そう考えた澄斗が、自分に爪痕を残しながら宙を舞うラルヴァを追って引き金を絞る。
 乾いた空気が弾ける音。異能によって発射されたエネルギー体は先程までのように散弾として複数の粒状に分かれず、一粒の状態のままに【三等犬】の尻尾に直撃し、吹き飛ばした。
「GAahahhhh!」
 異形の叫び声が上がる。その隙に澄斗はレミントンを構え直し、追い打ちの銃弾を放つが当たらない。一体どれほどの回復力なのか、ラルヴァはよろめきながらも木の陰に隠れた。
 澄斗は構わず射撃を続ける。一発で木の幹に穴を穿ち、二発目で倒壊させる、陰にいた【三等犬】は衝撃に身を震わせながら次の木の陰へと移る。追って、そこにも穴が空く。
 どれだけ知能が高かろうが、スラッグ弾というものを【三等犬】は知らなかった。
 狩猟者とその獲物。捕食者と被捕食者。後者になってたまるか。
 引き金を絞りながら、金刃澄斗はそう考えていた。



 一方、越智織姫は突破口を掴めぬままでいた。
 何しろ彼女に襲い来る【三等犬】は二体。単純に比較しても二倍の戦力。統制のとれた連携を可能とするならば更に倍以上。むしろ、よくここまで持ち堪えたと称賛されてもおかしくはなかった。
 たった一人の織姫に対し、二頭の【三等犬】は常に挟み込む位置取りを保つ。一頭が前ならば一頭が後ろ。一頭が右ならば一頭が左。つかず離れず。地の利を活かして襲いかかり、一頭が殺されそうになれば残りの一頭が殺しにかかる。
「……考えていた以上に厄介ですね」
 不愉快さを隠しもせずに織姫は眉根を寄せる。
 既に五度目となる挟撃を辛くも避けたが、鋭い爪で切り裂かれたダークグレーの生地が舞うのが見えた。
 彼女の武器は黄色と黒の紐が絡みあったコーンロープ。その先端には煌めく刃が結びつけられている。そのどちらとも【三等犬】を傷つけるには明らかに貧弱な武装ではあったが、織姫はその直接的な殺傷能力について最初から期待をしていない。特に対ラルヴァ戦ともなれば尚更である。
 彼女の持つ攻撃力の真価はその異能。越智織姫の【斑の拘束】はコーンロープが巻き付いた対象の意識に干渉する。干渉、などと書類上には記載されてはいるが、それは【斑の拘束】についての精確な認識を遠ざけている。事実、遠ざける為にそのような表現を使っているのだから当然だ。馬鹿正直に『対象の意識への侵略、攻撃』などと書けば、それを問題視する人間が多く出てくる。それを避ける為の処置であった。
 しかし、その恐るべき異能も対象を拘束出来なければ発揮出来ない。
 黄と黒で構成された斑の縄が蛇のようにうねりながら木々の合間をすり抜け、灰黒の獣へと襲いかかるが、拘束は悉く失敗する。織姫がどれだけロープ術に長じていても、その技術には限界がある。林立する障害物を逆に利用しながら【三等犬】の死角を衝こうとしたところで、【三等犬】は彼女の操るロープよりも速く、鋭角的な動きで逃げおおせる。そして一頭にかまけていれば、もう一頭に喰らいつかれる。
 一頭に向けたロープを手繰り戻す間に襲い来るもう一頭。それを払うは鋭い剣閃。スーツの袖口からロープを伸ばす右腕とは対照的に、彼女の左手には一振りの小太刀が握られている。懐に隠されていたその武器は小具足術を修めた彼女にとっては馴染みの深い得物。
 斬りつけられた【三等犬】は怒りの咆哮を上げながら地面を転がるが、次の瞬間には体勢を立て直し、身体中に敵意を漲らせている。凄まじい回復力であった。
「首でも落さねば止まらないのですか!」
 織姫は苛立つが、かと言って首を落させるほど【三等犬】は馬鹿ではない。人間には無い回復力を有する二頭は多少のダメージを許容しながらも、常に連携した攻勢をかけ続けているだけで勝てるのだ。【三等犬】にとって、あらぬ方向から襲い来る斑の毒蛇は確かに脅威だが、強いて言うならそれにさえ気を付けていれば良いのである。
 二頭の畜生は牙を剥きだして、獰猛な笑みを浮かべた。
 既に挟撃は十回を超えた。獲物である少女は今まで喰らってきた人間の中で最高の性能を誇っているが、息は上がり始め、漸くその身体からは血が流れ始めている。少女が払い損ねた自分たちの爪が、その頬に傷を付けたのだ。
 少女の動きも当初とは変わっている。ロープによる攻撃回数は目に見えて減り、代わりに逃げ回ることに傾注し始めた。軽業師のように木の枝を利用しての三次元機動も織り交ぜているが、その目的は【三等犬】が喰ってきた人間たちと何ら変わるところが無い。
 つまり、逃げることに必死であるということ。
 そして【三等犬】は獲物を逃がさない。少女の進行方向へ常に回り込み、足踏みさせる。ロープの攻撃を避けながら、小太刀に斬り払われながらも爪を振う。脅威的な連携と回復力に加え、人間を遥かに超える持久力。どれだけ逃げようが、最後には獲物が膝を折る。
「全く……、本当に厄介な……」
 少々乱れた息を正しながら、織姫は唐突にその足を止める。
 それを好機と見た二頭の【三等犬】は同期した動きで、突撃する体勢をとった。
 織姫が小太刀を振えば斑の蛇が精彩を欠き、ロープに集中すれば剣閃は浅くなる。どちらにせよ、機動力を自ら失った彼女が致命傷を受けるは必定。
 二頭の獣は弾かれたように動き出し、一頭は喉笛に、一頭はふくらはぎに照準を合わせた。四本の肢は地面を蹴飛ばし、生み出されるのは信じ難いほどの運動エネルギー。
 刹那、大気を切り裂くような音を聴き、彼らはその身体に走る冷たい波を感じた。
 砲弾のようにも見えた二頭の灰黒は突如としてその推力を失い、重力の影響を受けて黒土の上を転がる。噴水のように体液が吹き上がり、その空間を斑に汚す。
 【三等犬】はその現象を理解出来ない。
 何故、地べたに這いつくばっているのか。何故、二本の前肢が失われているのか。
 見れば、向こう側に倒れているのは、胴から真っ二つにされたもう一頭の【三等犬】。
「本当に厄介な敵でした」
 織姫のその言葉に込められた意味を【三等犬】たちは理解出来ない。失われた前肢は再び形成され、断たれた胴は見る間に修復される。
 四つ肢に力を込め、戦意の炎を燃やすその瞳に映ったのは絶望的な状況。
 上下左右、三百六十度に蜘蛛の巣の如く張り巡らされた銀の糸。林立する障害物を有効利用し、幾重にも展開された防御線にして囲い線。木洩れ日を反射して煌めく無情の凶器。そして蜘蛛の巣の中心に佇む金髪の少女。コーンロープが伸びるその袖口から、三本のか糸が吐き出されていることに誰が気付こうか。
 狩猟生物としての本能が二つの事実を即座に理解する。
 獲物は逃げていたのではなく、この陣を作り上げていたのだということ。鉱石が塗されているらしいその糸を足場にすることは不可能であり、自分たちの機動力をはそのほとんどを潰されたということ。
「さて、これだけの密度で張ってしまえばお互い動けないわけですが」
 織姫が言うように、銀の糸で編みあげられたその陣は、二頭の【三等犬】の動きを封じると同時に自らの動きも縛っている。当然、注意深く動けば避けられる程度の隙間は十分に残されている。だが、【三等犬】が注意深く動く時点で、それは機動力ではない。
「機動力と攻撃力が直結しているアナタたちとは違って」
 少女が腕を振り下ろせば、斑の蛇が宙を泳ぐ。
「私の攻撃は機動力の影響を受け難い」
 黄と黒の斑は糸の間を何事も無いかのようにすり抜け、先程胴を断たれた【三等犬】へと襲い来る。どうしようもなく背後へ跳んだ獣の背中に、展開されていた糸が喰い込み、自らが生み出した運動エネルギーが自らの身体を切り裂く為に働いた。
 果たして斑の蛇からは逃れ得ず、その胴体部分にコーンロープが巻き付く。
 口から泡を噴き出しながら、獣が絶叫する。
 織姫の異能によって精神を凌辱された【三等犬】は、張り巡らされた凶器に自らの喉を押し当てることを強制された。拒否は許されず、必死の形相で自殺する。
 ぶつん、という音が聞こえ、【三等犬】の頭部が転がった。しかし、切り落とされた頭部は溶けるように黒土へと吸収され、胴体からは再び首が生え始める。
「呆れた再生能力ですね」
 溜息一つ。織姫はその頬を伝う血を拭う。
「あまりやりたくはないのですが……」
 彼女は再生途中の【三等犬】を自分の傍へと呼びよせる。
 最短距離の直進を強制した為に、銀糸を避けること叶わない【三等犬】は、そこに辿り着く前に何度もナマスにされ、その度に再生を繰り返すこととなった。
 漸くその【三等犬】が織姫の前に到達して跪くと、彼女は今まで無視していたもう一頭を振り返る。その一頭も動きの取りようがないことを彼女は知っていたし、事実、憎々しげな視線を彼女に向けるばかりであった。
 織姫は決して他人の前では見せないような、嗜虐的な笑みを浮かべる。
「他にやりようが思いつかないのだから、仕方ありませんね」
 言いながら彼女は、支配下にある【三等犬】を新たな命令に服従させた。
「あそこにいるお仲間を喰らいなさい」



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