【幸か不幸か】


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「どうしておじ様はずっとお家にいるの?」
 シルヴィアの純粋無垢な疑問の言葉が、極楽島《ごくらくじま》直哉《なおや》の繊細すぎる心にぐっさりと突き刺さった。
「あのねだね、お姫様」
 パソコン画面を眺めていた直哉は、椅子を回転させてシルヴィアの方へと向き直る。
 シルヴィアは恋人の――と言ってもただの豚のぬいぐるみである――ナポレオンと一緒にままごとをしていたが、飽きてしまったのか青い瞳を直哉に向けていた。彼女の母親が縫い合わせて作られたナポレオンは年季が入っていて薄汚れている。
 できるだけこの小さな暴君を刺激しないように、ゆったりとした口調で言い聞かせるように言った。
「僕が家にずっといようがどうだっていいじゃないか。外は危険がいっぱいなんだ。きみだって外に出ないほうがいい。少なくとも僕がきみをここで預かっている内はね」
 その拍子に部屋の窓がガタガタと音を立てて揺れ、同時に獣の咆哮のような突風のうなり声が聞こえてくる。その音にびっくりしたのか、シルヴィアは「ひゃう!」と一瞬身を縮みこませたが、すぐにいつものふくれっ面に戻った。今日は台風でもないのにやけに風が強い。低気圧の関係だとテレビでは言っていた。
「ほら、外は風が強いし、何が飛んでくるかわからないだろう。こういう日はこうして家でくつろいでいるのが一番さ」
「でもみんなお仕事をするためにお外に出ているわ。おじ様は働かなくていいの? むしょくなの?」
「むしょく? ――ああっ、無職ね。まったくこのおませさんはどこでそんな言葉を覚えてくるんだ」
 ――なぜ自分がこんな子供を相手にしなければならないんだろうか。直哉は嘆くようにぼさぼさの鳥の巣頭を抱える。シルヴィアがいる間は日課のネットサーフィンだって限られるし、彼女を放って趣味に没頭するわけにもいかない。この年頃の娘は目を離せばすぐにどこかへと行ってしまう。
 シルヴィアは直哉の従妹の再婚相手の連れ子だ。従妹の旦那は北欧人で、シルヴィアもその血を受け継いでいる。青い瞳と、すべすべの白い素肌。きらめくようなブロンドの長髪がそれを表していた。しかし生まれは日本のせいか、シルヴィアは英語ではなく、日本語を覚えているようだった。会話に支障がないのは大いに助かる。
 従妹とその旦那が仕事の関係で数日家を空けることになったのだが、託児所は嫌だと駄々をこねたらしく、昼夜問わず家にいる暇な直哉が預かることになったのだ。
 半日ぐらいで寂しくなり「ママとパパのところへ帰りたい」と泣き喚くと思っていたが、案外そんなことはなく、すんなりとシルヴィアは直哉の家に慣れ、むしろ従妹とその旦那のほうが心配症で数時間に一回は電話をかけてくる始末である。
 シルヴィアはまだ六歳――正確にはまだ五歳だ。一週間後が誕生日らしい――の幼い子供だが、妙にませたところがあり、直哉は彼女の扱いに困っていた。
「今日はまだ火曜日だわ。みんなパパやママみたいにはたらいているのよ」
「みんながみんな働いているわけじゃないだろう。シフト制なら平日休みでもおかしくないしね。職種によるよそれは」
 シフト制とか職種などの言葉が六歳のシルヴィアにはわからないだろうと思いつつも、適当にあしらうように言う。だがお喋りが三時のおやつよりも好きな彼女はその程度でははぐらかされなかった。
「難しいことはわからないけれど、じゃあおじ様はどんなお仕事をしているの?」
「それは――」
 直哉は答えに詰まる。彼の肩書はラルヴァ遺伝子学研究者ということになっている。だがそれは数年前のことだ。コミュニケーション能力に欠陥を持つ直哉は研究所での上下関係に耐えられず、軽い人間不信に陥って辞めてしまった。それ以来数年間ほど貯金と父親の遺産を食いつぶしながら生活をしている。
 現在も自宅で研究を進めてはいるものの、それが実を結ぶことはなさそうで、仕事というよりもほとんど趣味の範疇でしかなかった。
「僕の仕事は自宅警備だよ。そうさ、僕はこの家を守っているんだよシルヴィア」
「お家を守るのが仕事? まるでお城を守る騎士《ナイト》様ね」
 そう言いながらシルヴィアはナポレオンを乱暴に振り回しながらテーブルについた。小さな彼女は椅子に座っても足が床に届かず、ぶらんぶらんとその素足を揺らしている。
「そうさ。これは大事な仕事なんだよ。僕の親父が遺したこの家を、悪い人たちから守らなきゃいけないからね。それにお姫様の子守りだって大事な役目だ」
「あら、わたしは大丈夫よ。だってもうすぐ六歳なんですもの。自転車にだって乗れるのよ。本当はわたし一人でお留守番もできたのよ。ね、ナポレオン」
 シルヴィアは瓶に詰まっている、宝石のような色とりどりのゼリービーンズを小さな手でいくつも掴みとり、無造作に口の中に放り込んでいく。豚のぬいぐるみにも「あなたも食べる?」と聞いているが、当然ながらナポレオンは答えない。
「でもおじ様、そのお仕事にはお休みはないの? 恋人とかとデートに行ったり、買い物に出かけたりしないのかしら」
 直哉は飲んでいたコーヒーを吹いてしまう。六歳児の口から「恋人」なんて言葉を聞くとは思ってもいなかった。自分の口からですら「恋人」という言葉が出た事なんてないかもしれない。
 直哉はもう二十五だというのに、未だに恋人の一人もできたことがなかった。妙なロゴの入ったシャツの裾をズボンに入れている彼の容姿は見るからに冴えない。それに加え、適当でいい加減な性格と、六歳児と言い争うほどに低い精神年齢、人間不信の気が直哉を女性関係から遠ざけているのだろう。どちらにせよ、自業自得である。
「おじ様、恋人いないの?」
「やめなさい。子供が大人をからかうもんじゃない」
「わたしは子供じゃないわ。もう大人よ。アルファベットだってもう全部書けるもの」
「そりゃあすごいな。僕は歌がなければ覚えられなかったかもしれない。いやあすごいなシルヴィアは。きっと将来とっても賢い子になるね」
「それで、おじ様は恋人いないのかしら?」
 話を誤魔化そうとしてもシルビアは直哉の恋愛遍歴が気になるようであった。恋愛ごとに興味を示すのは幼いと言ってもやはり女ということなのだろう。直哉はため息をつきながら正直に言った。
「いないよ。悪いけどきみが望むようなお話はできないさ」
「まあ。恋人がいないなんてさみしいわ。そうよねナポレオン。わたしたちってば生まれた時から一緒のカップルなのにね」
 シルヴィアは驚いたようにして豚のぬいぐるみに話しかける。どうして子供にバカにされなければならないんだろうか。直哉はボリボリと頭を掻いた。
「僕には恋人はいないし、外にも出ない。わかったらこのお話はおしまいだ。お昼寝の時間まで絵本でも読んでるといいさ」
「いやよ、だってわたしの家から持ってきた絵本はみんな読んでしまったもの。おじ様の家にある本はみんな難しくてわからないわ」
「そうかい。じゃあママゴトの続きでもすればいいじゃないか」
「それも飽きたわ。ねえおじ様、何か楽しいことを話してよ」
「はあ?」
 直哉は思わず変な声を出してしまう。シルヴィアは何か期待するような目で彼を見つめてきた。楽しい話と言われても、外にも出ず、人とも接しない自分に面白い話なんてできるわけもない。
「何も話せることなんてないよシルヴィア。少し早いがお昼寝しなさい。起きた頃には夕飯の時間だ。今日はクリームシチューだぞ、レトルトだけど」
「まだ眠たくないわ。お話をしてくれなきゃ眠れないのよ。いつもパパはわたしがお願いすればお話してくれるのよ。ねえ、おじ様お願い。お話してよ、お話。ナポレオンも何か聞きたいって言ってるわ」
 シルヴィアは椅子からすとんっと飛び降り、駄々をこねるように直哉のシャツの袖を引っ張った。
「わかった、わかったよ。そうだな――」
 こうなったシルヴィアを止める術を直哉は知らない。仕方なく頭の中にある情報を組み立てていき、彼女が喜ぶであろう話を考える。直哉はシルヴィアが大事そうに手に持っている豚のぬいぐるみ、ナポレオンを見てふと思い出す。
「じゃあ、今から“幸運の豚”の話をしてあげよう」
 直哉がそう言うと、シルヴィアは興味を示したように目を丸くして小首を傾げた。
「幸運の、豚? ナポレオンと同じ豚さん?」
「そうだ。だけど幸運の豚は普通の動物でもぬいぐるみでもない。ラルヴァさ」
「ラルヴァ?」
「ああ――ラルヴァってのは絵本に出てくるような怪物だ。『三匹のヤギのがらがらどん』に出てくるトロルだって定義上ラルヴァさ。もっとも、幸運の豚はその名前の通りに悪い怪物じゃなくて御利益があるものだけどね。ちょっとこれを見てみなよ」
 直哉は自分のパソコンを操作し、ラルヴァの研究データベースを開いた。その中の項目である『幸運の豚』のページをクリックする。すると、黄金色に輝いている巨大な豚の画像が表示された。
「わあ、すごい。これが幸運の豚さんね! ナポレオンよりもずっと大きいわ」
 シルヴィアはパソコン画面を見るために、椅子に座っている直哉の膝の上に腰を下ろした。体重はそれほど感じないが、ふんわりとした金色の髪の毛が直哉の鼻先をくすぐっている。幼子独特の体温と、ミルクのような匂いにくらくらする。
 直哉はシルヴィアが膝からずれ落ちないように抱きしめながら話を続けた。
「この幸運の豚は僕が一時研究に没頭したラルヴァでね。でも出現の確率が非常に低くて、僕もまだ実物を見たことがないんだ。日本での目撃例事態がまだ一桁しかない希少なラルヴァなんだよ」
「そんなに珍しい豚さんなの? わたしも見てみたいわ」
「見られたらいいんだけどね。幸運の豚は見つけた人間に福をもたらすと言われている。幸運の豚を見つけた人の中には大金持ちになった人や、不治の病が治った人もいるらしい。御利益の大小はあれど、みんな何かしらいいことが起きるんだと」
「まあ、それは夢のある話ね。おじ様も見つけられるといいわね」
「ああ、そうすれば今の状況もちょっとはよくなるかもね。でも、一つだけ気を付けないといけないことがあるんだ。それは“凶運の豚”の存在さ」
「凶運?」
「ああ、幸運の豚の亜種のようだけど、その御利益は正反対でね。必ず関わった人間に不幸を呼ぶと言われている」
「まあ、怖い豚さんね」
「凶運の豚の怖い所は幸運の豚とまったく同じ姿をしているという点だ。一目見ただけじゃ区別はつかない。目の前の豚が幸か不幸か、それは結果を見てみないとわからないんだ」
 幸運の豚だと思って喜んでいたら凶運の豚で、酷い大怪我を負ったという事例も聞いたことがある。目撃するのがどちらの豚なのかは、それこそ運次第だろうと直哉は思った。
「まあ、そんなわけでシルヴィアも金色に輝く豚を見つけても近寄っちゃダメだ。もしかしたらそれは凶運の豚かもしれないから」
「うん、わかったー」
シルヴィアは元気よく頷き、その際にブルっと体を震わせる。直哉から離れてとてとてと部屋の出口に向かって走っていく。
「おい、どこ行くんだ」
「まあ、レディに失礼なことをきかないでよ」
 シルヴィアは少しだけ顔を赤くしてスカートを抑えた。
「なんだ、おしっこか」
「バカ―!」
 デリカシーの無い直哉にナポレオンをぶつけて、シルヴィアはトイレへと走り去った。
「ふう、これで大人しくなってくれるといいんだけどな」
 シルヴィアがいると落ち着く暇もない。数日他人の子を預かるだけでもこんなにヘトヘトになるのに、自分は子育てなんて絶対できないだろうなと彼は考え込む。
 だがわずかな静寂も、すぐに打ち破られてしまった。
「おじ様―――――! ちょっときてー!」
 甲高い幼女の叫び声に、耳が痛くなる。次はいったいなんなんだ。
「なんだよシルヴィア! 何かあったのか? 紙でも足りなかったか!?」
「違うわ! 豚さんよ、大きな豚さんが庭にいるのよ!」
「はぁ? 豚ぁ?」
 ナポレオンはここにいるぞ、と直哉は床に落ちている豚のぬいぐるみを拾い上げる。だがそれでもシルヴィアは彼を呼び続けた。
 面倒と思いながら直哉は椅子から立ち上がり、シルヴィアの声が聞こえる廊下へと向かっていく。
 すると、そこには背伸びをして廊下の窓の外を必死に見つめているシルヴィアの姿があった。
「どうしたんだお姫様。夢でも見てるのか」
「違うわ、ほら、あそこの花壇のところ。あれってさっきおじ様がお話してくれた豚さんじゃないかしら」
「そんなわけ――」
 シルヴィアの隣に立ち、窓から外を覗くと、確かにいた。 
 通常の豚の三倍の大きさをしている、黄金色の豚。それはまちがいなくデータベースに残っている幸運の豚――あるいは凶運の豚と同じだった。
「なんだって!」
 直哉は食い入るようにそれを見つめる。敷地内の庭に、確かに金色色に輝いている豚がいるのだ。だが、その喜びよりも直哉は別のことが気になった。
「あ、あの豚! 僕の花壇を食い散らかしているじゃないか!」
 庭にはガーデニングが趣味の直哉が作った花壇がある。様々な花が育っているその花壇を、黄金色の豚は踏み荒らし、もそもそと食べてしまっていた。
 直哉は急いで玄関へと走り、靴を履いて庭へと飛び出した。
 直哉の住んでいる一軒家は、牧羊的な風景が広がっている自然区域近くにあり、都市部から大分離れている。そのため近所にはほかの家はなく近隣の付き合いに悩むことはない。
 だが今回は裏目に出たようだ。こんなに巨大な豚が庭を荒しているのに、誰も助けてくれる人はいない。
「くそ、そこから離れろ豚!」
 これ以上被害を受けてたまるかと、直哉は自分の身体より大きな豚をおっつけて動かそうとしたが無謀であった。
「おじ様、それが幸運の豚なの?」
 直哉が豚に悪戦苦闘していると、ピンクのサンダルをつっかけてシルヴィアが駆け寄ってきた。ラルヴァを生で初めて見たのか、目をキラキラと輝かせている。
「ああ、だけどこいつは凶運の豚だろうな。だって僕の大切な花壇をこんな風にしてるんだよ、不運以外の何物でもないじゃないか」
「そうかしら。こんなにつぶらな瞳をしているのに、悪い豚さんなのかな」
「見た目は幸運も凶運も一緒なんだ。だけどこいつは間違いなく凶運の豚だ。まったく、この花壇を仕上げるのにどれだけ手間がかかったと思っているんか」
 だがとりあえずこれぐらいの被害ですんでよかったかもしれない。けれどこのまま庭に居座られていたら他にどんな不運が訪れるとも限らない。
「どうにかしてこいつを外に追い出さないとな」
 直哉がそう呟いていると、突風が彼ら二人を襲った。その拍子にシルヴィアのワンピースがめくれあがってカボチャパンツが丸見えになる。
「もう、意地悪な風さんね」
「ったく、この風はいつになったら収まるんだか……。風に飛ばされないうちにこの豚を追い出さないと。シルヴィア、キッチンの棚にあるシリアルをとってきてくれないか? 皿に牛乳と混ぜてな」
「ええ、まかせて。わたし料理は得意なのよ」
「シリアルは料理じゃない」
 シルヴィアは素直に直哉の言うことを聞き、家に戻っていった。
 双葉学園に連絡して、応援を呼ぶことも考えたが直哉は首を振る。こんな希少種がこんなところにいると知ったら研究所の奴らもきっとここに来るに違いない。辞めた手前、直哉は彼らと顔を合わせたくなかった。
「おじ様、シリアルを作ったわ」
「おお、サンキュー。ありがとう」
 直哉はシルヴィアの小さな頭を撫でてやり、皿に入ったシリアルを受け取る。それを餌に豚を庭から出て行かせようというのだ。
「おい黄金豚野郎! こいつをやるから花壇から離れろ!」
 シリアルの皿を豚の前に差し出してみると、フゴフゴと鼻を鳴らしたが、ぷいっと顔を逸らしてしまった。
「こっちだこっち。おいしーぞーケロッグだぞー」
 どれだけ必死に庭の外に誘導しようとしたが、豚は直哉を無視したままである。
「ねえ豚さん。あなたはいい豚さんなの? 悪い豚さんなの?」
 まったく動こうとしない豚の目の前にシルヴィアは立って、その大きな鼻先を優しく撫で回す。
「おいシルヴィア、近づいちゃダメだ。危ないぞ」
「大丈夫だよ、この子大人しいし――わあ!」
 言っている傍から大変なことが起きた。シルヴィアの股の間に、豚の鼻先がひっかかり、そのまま豚はシルヴィアを自分の背中まで押し上げてしまったのだ。
「わあ! わあ!」
 シルヴィアは転落しないように豚の背中にしがみついた。直哉はそれを見て顔を青ざめさせて、豚をぽこぽこと叩く。
「おい何してるんだ豚! シルヴィアをどうするつもりだ」
 豚はとても大きく、直哉が背伸びしても、ぴょんぴょんと飛んでも背中に乗っているシルヴィアには届かなかった。
「おじ様!」
「待ってろ、今誰かを呼んでくる!」
 もう体面を考えている場合じゃない。このままじゃ彼女が危ない。混乱しながらも直哉は急いで学園に連絡を入れようと家に戻ろうとしたが、その暇もなく今度は豚が走りだして柵を超えてしまったのだった。
「だあ! で、出ていくんじゃねえ!」
 さっきまでは出て行かせようとしていたが、シルヴィアが一緒にいるなら話は別だ。あんな巨体で走っていたら人目に付く前にいずれシルヴィアは振り落とされてしまう。
 敷地内を出て芝生の上を走っていく豚を、直哉は追いかけた。これだけ必死に走ったのは何年振りだろうか。腿の筋肉が痙攣しそうで、すぐに息が上がって心臓がバクバクと脈打っている。しかも突風が向かい風になって、走るのは困難である。
 やっぱりあの豚は凶運の豚だったんだ。
 花壇を荒らしただけじゃなくて可愛いシルヴィアまで連れ去ろうなんて……彼女がいなくなったらとても堪えられない。
「止まれよ! シルヴィアだけは返せ!」
 直哉が倒れそうになりながらそう叫ぶと、目の前を走っていた豚は走りを緩め、そしてゆっくりと止まってしまった。
「ウソだろ……」
 言葉が通じたとは思わないが、これはチャンスだった。直哉はなんとか豚に追いついた。
「お、おじ様ぁ……うわ~ん」
 豚の背中にしがみついていたシルヴィアは大泣きしてしまった。よっぽど怖かったのだろう。ませていると言ってもまだほんの小さな子供だ。
「やれやれ、心配させやがって。ほら、また豚が走りださないうちに飛び込んで来い」
「うう、でも……」
「大丈夫だ。受け止めてやる」
 シルヴィアはわずかに躊躇したが、意を決したように豚の背中から飛び降り、手を広げた直哉へと落ちていった。
 ドスンっと激しい音を立てて尻もちをしたものの、なんとか無事にシルヴィアを抱きとめることができたようだ。
「うわ~ん。怖かったよおじ様~」
 泣きじゃくって鼻水をシャツにこすりつけてくるシルヴィアを「よしよし」と直哉は背中を撫でてやった。
「まったく、とんだ凶運の豚だった――」
 と直哉が言いかけた時、今日一番の激しい突風が吹いた。直哉の眼鏡は風に飛ばされ、シルヴィアの金の髪が旗のようになびいた。直哉はシルヴィアが飛ばされないように強く抱きしめる。
 そしてその直後、激しい破壊音が周囲に響き渡った。
「な、なんだよこれは!」
 直哉は信じられない光景を見た。家の際に生えていた木が、今の突風によって折れてしまい、そのまま家にぶち当たったのだ。木は家の屋根や壁を突き破り、半壊させてしまったのだ。
「…………」
 直哉はパクパクと金魚のように口を動かすしかなかった。
「お家……壊れちゃったね」
 数十秒後、シルヴィアがそう呟いたの聞き、ようやく直哉は放心状態から戻ってきた。
「ああ! なんて不幸なんだ! やっぱりこの豚は幸運の豚じゃなくて凶運の豚だったんだな。畜生!」
 そう怒鳴りながら豚がいた場所を睨むと、まるで最初から何もいなかったかのように巨大な豚は消えてしまっていた。
「一通りのことを仕出かすとあの豚は消えるのか……」
 希少なラルヴァの新しい生態を発見しても喜びではなく大きな溜息が漏れるだけである。
 怒りを向ける相手も消滅してしまい、直哉はがっくりと項垂れた。
 しかし、シルヴィアは涙と鼻水を拭い、さっきまでの泣き顔から一転して、とても明るい笑顔になってこう言った。
「違うわよ、おじ様。あの子はやっぱり幸運の豚なんだわ」
 なぜかそんなことを言うシルヴィアに、直哉はクエスチョンマークを浮かべる。
「なんでだよ、こんな花壇を荒らされて家を壊されて……シルヴィアだって豚に連れてかれたじゃないか」
 直哉がそう言っても、シルヴィアは首を横に振るった。
「あの豚さんがわたしたちをここまで連れてこなかったら、今頃わたしたちは家の中でぺっしゃんこになっていたわ。きっとあの子はわたしたちを助けてくれたのよ。それにおじ様もようやくお外に出ることができたでしょう?」


 (了)




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