【青の落日】


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     0

 わたしは母を失い、異能の力と異形の家族を得た。

 あれは純然たる事故、第三者による加害も、異能もラルヴァも関係がなかった。
 冬の休日。母と二人で遊園地に出かけた帰りだった。父親はいなかった。母が結婚してすぐに、他界していた。
「おかー、さん……おかーさん……」
 自動車の窓から投げだされ激しく打ちつけられた身体はしびれてうまく動けず、雪の上にいるのに寒さは感じず、起き上がりかけた掌は真っ赤になるほど熱かった。
「いたい……よ」
 唇を切ったのか、服の袖で顔を拭おうとすると悲しいくらい血で汚れた。
「おか……さ……」
 どこにいるの、と言いたかったのに、喉がかすれてひゅうひゅうと息が漏れるだけだった。寝起きのように周りの様子がはぼんやりとしか分からなかった。頭がはっきりしてくると、今度は夜目に慣れてくる。
 片肘をついたままわたしは辺りを見回した。左手には細い林、右は木々を潜った少し先にアスファルトで舗装された道路がある。そしてもう一つ、街路灯もない夜の峠道でわたしの視界を照らすものがあった。
 白い冬の木立のなかで、そこだけが明るく、暖かかった。
「……あ」
 巨木が食いこんで前面部分がひしゃげた車のなかで、全身を炎に縁どられながら母は燃えていた。かなり後になってから、当時の状況を教えてもらうことができたが、わたしが見たとき、すでに母は事故の衝撃で即死していたそうだ。だから、焼けながら苦しんで逝ったのではなかったという事実が、唯一の救いだった。
 あれだけの炎に覆われても熱いの一言も発しない母。死をよく理解していなかったわたしは、それでも母が母でない何かに変化したことを、熱気になぶられている肌で感じていた。
 フロントガラスに前のめりに突きだした母の体は、熊のはく製みたいに平べったい質感でだらりと顔をうつむけていた。黒い煙が車内を這って噴き出していて、その表情は見えなかった。
 体が震える。かちかちという音が騒がしく、駄々っ子みたいに首を振るとそれは自分の歯の噛みあう音だと気づいた。
 新雪の上に肘を立てた。そこから体を引っぱって、また前に肘をついて。わたしは少しずつ車に近寄った。
 母の顔を見るまで、あそこにいる人が母だと信じられなかった。
 バチン! と重い大砲のような音が耳を貫いた。前輪のタイヤが破裂したのだ。一瞬浮き上がった車が崩れるように傾く。中にいる母が潰れたタイヤのほうへ動き、腕が滑って紫のほうへ伸びた。
 わたしは息を呑んだ。今度は悲鳴さえあげることができなくなった。
 母の手が、わたしを呼んでいた。衝撃でガクガクと揺れるたびに真っ直ぐに伸びた白い手が、わたしを誘う。
 わたしを守って、包んでくれた温かい手が。飽きずにいつまでも髪を梳《す》いてくれて、いつもわたしの手を引いてくれたあの優しい母の手が。呼んでいる。あの手が、母の手が手が呼んでいる手が手が手が死んだ母の手が手が死んだ死んだ母が死んだ手が手が手が手が手が呼んでいる死が死が死が手が母の手が死が呼んで――
「おかあさん……」
 わたしも母を呼んでいた。
 火花が爆《は》ぜた。
 それをきっかけに、恐怖や不安が、足の底にずぶずぶと沈んでいくような感覚があった。子どもながらに持ち合わせていた常識や理性が、千切れそうになりながらも、衰弱して、深く遠いところへ落ちていく。空《から》になったなった胸に沸いてきたのは焦燥感だった。
 一緒にいないと。あの手を繋いでわたしも一緒に。
 わたしは夢を見ているんだ。
 あの手を握ればすべてが終わる。そうだ、わたしは観覧車でうたた寝をしていた。母の膝を枕に、てっぺんを下り始めた頃になってようやく起きたつもりだったが、あのときの夢が続いているんだ。きっとそうに違いない。
 そうやって一心に念じると、もう痛みは感じなかった。切った唇や足の擦り傷は、ただの絵の具の汚れにしか見えなくなった。
 母はもう揺れていなかった。先に戻っていったのだ。ここではないどこかへ。
 立ち昇る火柱は、真っ暗な夜に呑まれていく。
「かえらなくちゃ……」
 自分が呟いた言葉に押されるように、這いつくばりながら母のいる車へさらに近付いた。
 身体中に照り返す炎の色が、大口を開けてわたしを待っていた。それでも、その口のなかには母がいた。怖くはなかった。
 ふいに、夜空に伸びる火柱が揺れた。
 冷徹な風を纏《まと》い、ぬっと夜の幕から浮き出たのは、大きな鳥だった。

     1

 陽は沈みかけている。遠くに連なる山の稜線の縁取は夕焼けに燃え、空の端を焦がしていた。
 千代《せんだい》紫《ゆかり》は瓦礫の山を通り過ぎようとして、急に立ち止まり、崩れかけの建物の壁にぴたりと張りついた。
 離れた先でうるさく騒ぎながら歩く――大学生だろうか、紫よりも年格好は上に見える――地元の青年たちのグループが見えなくなるのを待って、紫は崩れかけたブロック壁の蔭から体を出した。
 紫は頭上を見上げ、なんとか読めることのできた立て看板には、ここに洋館型のお化け屋敷があったことが示してあった。
 少しの間そこに立ち尽くしていた紫は、まだ聞こえる青年たちの声を見送った。見送って、紫は彼らの行く道から右へ折れた。
 かつてここには遊園地があった。紫が生まれる前には閉園されたらしい。何かいわくつきでもなく、当時では珍しくもない経営破綻だった。
 閉園されてからもアトラクションや店舗は残っていたが、買い手がつかず放棄されたままだった。それから数年のあいだ若者の不法侵入が相次ぎ、小火《ぼや》程度だが放火事件が起こったりで、苦情を受けた市がやむなく買い取り、一部の建物を解体しはじめたところで市の財政も厳しくなり、再び放棄されたわけだ。
 この遊園地には、数ヶ月前から怪奇現象にまつわる噂が跋扈《ばっこ》していた。それは「園内を一人で歩き回る子どもの姿を見た」とか「突然大勢の人間の叫び声が聞こえてきた」とか「動力を失っているはずの観覧車が勝手に動いている」といったものだ。
 これといって独創的でもないありきたりな噂話であったが、古典的なパターンであればあるほど、人がそれに踏み込む敷居は低くなっていたりする。
 以前は放火対策のためもあってか、市から派遣した管理者が詰めていて、人の出入りは厳しく取り締まられていた。しかしこの案件が市から県へ、県から国へと|意図的《ヽヽヽ》にたらい回しにされ、紫の在学する双葉学園に依頼されてからは、遊園地周辺一帯を管理する関係者はすべて学園が手を尽くした人選でまとめられている。それでも表向きは、遊園地の跡地は立ち入り禁止の立て看板とロープで囲っただけの無人区域に指定されていた。
 紫は持っていたPDAの電話機能を使って尋ねた。
「本当に、大丈夫なんでしょうか。一般の人に異能やラルヴァを見られるのは避けた方がいいかと思うのですが」
 通話相手に小声で懸念を告げると、少し遅れて返答がきた。
『らいろうるれふよー。んぐ、敷地外で事後処理の担当さんが動いていますから。えと、ちょっと待ってくださいねー』
 女の子の声が遠ざかると、プラスチックの袋を漁る音が受話器越しに騒いだ。紫の質問に答えるための資料を探しているのではなく、菓子袋を開けている気がした。
『千代さんがさっき見かけた人たち、酒盛りの勢いで廃墟探検にやってきたらしいですからねー。事が起こっても、不法侵入で引っぱればあとはどうにでもなるそうです。それに、千代さんの……|オトモダチ《ヽヽヽ》? が見られても、酒に酔った幻覚ということで誤魔化せる。だそうです。あのー、オトモダチって誰ですか??』

    2

 大きく手を広げ、タイミングが遅れて驚かせ仕損じたように、地上数十メートルの高さで鈴なりにゴンドラをくっつけた、焼け焦げた大輪の花のような観覧車が紫を見下ろしている。
 観覧車は動いていない。当然だ。人も、動力も、十数年前から絶えている。
 鉄柱は錆びつき、熟《う》れ落ちた実が動物に啄《つい》ばまれるように、乗り場に降りたゴンドラの窓はすべて割られ、人の手の届かない上にいくほど、清潔な旧《ふる》さを残していた。
 西日がゴンドラの窓から突き抜けているのを見ながら、PDAで時間を確認した。17時08分。
 そのとき、低い悲鳴が耳に聞こえてきた。さっきの青年たちの誰か、男の悲鳴だ。
 紫は声のした一角へ振り返った。複数人の怒声が響き、けたたましく走り回る音に遅れて、腹底から唸《うな》る獣の咆哮が園内に響き渡った。
「……早く終わらせないと」
 間違いは起こらないと思うけど、追い立てられる彼らが不憫だ。
 自分に言い聞かせるように、再び紫が観覧車に向き直ると、すべてが一変していた。
 ありし日の、過去の観覧車がそこにあった。
 虹色の花だ。初めてみたとき、ところどころ錆びついていた鉄柱には、中心からゴンドラへと伸びる一本一本が、赤黄緑青紫……と虹の配色になぞらえて塗装され、花弁にあたり、花の輪郭と呼べるゴンドラは空色に色づいていた。
 夕陽を浴びて、死んだように立ち尽くしていたあの観覧車の面影はどこにもない。PDAの時刻は17時09分を示していたが、秒単位の表示は52秒から凍りついたように動かなかった。
「幻、じゃない」
 アツィルト・ワールドと呼ばれる精神世界。独自の世界観を持ち、単独で成立する空間現象。それに似ていた。
 西日の残照は消え失せ、観覧車の隙間を埋め尽くすような|真昼の青空《ヽヽヽヽヽ》が、なぜか広がっていた。
 空だけでない、空そのものが光を発しているかのように、煉瓦《れんが》道やゴンドラの赤茶けた色彩にすら、薄い青が透けて見えた。
 人もいた。遊園地のマスコットキャラクターの着ぐるみが配る風船に集まる子供たち、はしゃぐ男の子に手を引かれて歩く母親、肩を寄せて観覧車の順番待ちをしているカップルや、ベンチで語らう仲の睦《むつ》まじい中年夫婦。人の群れ。
 紫はここに建っていた遊園地の――黄色い声に満ちた、絶えず人々を楽しませて笑顔にしてきた――当時の姿を知らない。けれど、いま目の前で脈動している人の流れ、途切れることなく、ジェットコースターのように駆け抜ける歓声を聞いていると、そのすべてが現実にあったことなのだと思えてならない。
 それぞれが、回って下りてきた観覧車の丸いゴンドラに乗り、昇っていく。
「乗りますか?」
 カップルを乗せて見送った大学生くらいの女性係員が、紫に明るく言った。
 紫は一瞬戸惑って、辺りを見渡した。観覧車に乗っていった客と係員以外の人々は、この青い世界に溶けていくように、紫の目前で音もなく消失していく。
 どうやら、ゴンドラに乗れということらしい。
 係員のすすめに従って、紫はゴンドラに乗りこんだ。係員の女性は扉を閉めると、笑顔で紫を送り出した。
 内部の装飾は、ナイト用の照明と、少しごわごわした座り心地のシートが対になっているだけのシンプルなものだ。タバコの吸い殻も捨てられていないし、シートに焦げ跡もなく、窓ガラスも割れずに綺麗にはまっている。
「それでは善《よ》き空中散歩を!」
 直後にその姿ぼやけ、背景に呑まれるように消え去った。紫をゴンドラに乗せた時点で、この過去の観覧車に、彼女を登場させる必要がなくなったからだろう。
 観覧車の客室であるゴンドラは、内側から扉を開けることはできない。一周すれば係員が開けてくれるはずだが、その役目であるはずの人間は消えてしまった。
「鬼が出るかラルヴァが出るか……」
 ゴンドラは低速でゆっくりと昇ってゆく。半分あたりの高さまでせり上がってくると、かつての遊園地の眺めがしだいに形をあらわしてきた。きらびやかな電飾のメリーゴーラウンドや、いくつものアトラクションの頭上を縦横にレールが敷かれ、最後はプールのような湖に飛び込む水上ジェットコースター。紫が通り過ぎたときには更地になっていたお化け屋敷などのアトラクションが、至るところにも建ち並んでいた。
 どことなく、アトラクションの造形はレトロな雰囲気のものが多い。
(遊園地全体がおじいちゃんみたい)
 当然のように、どれも多彩な色づかいの上に青が薄くかかっている。
 ゴンドラの窓から望める遠景のアトラクションに目をむけたのは数秒。
 顔の向きに従って紫が視線を戻すと、人間《ひと》がいた。襟のついた白いシャツに紺の短パンと、少し今風の装いから外れていた
「老人」という括《くく》りでしか形容できず、雑踏に紛れれば、二度と見つけることのできない、通行人Aであり、群衆の一部でしかない存在。そのくらい、目の前にいる人物には特徴らしい特徴が何一つなかった。
 老人は細い両眼を凝らして、紫にその視線を注いでいる

     3

「……この人は」
 呟く途中で、紫は弾かれたように目を見開いた。
 遠雷のような、獣の遠吠えが聞こえた気がしたからだ。
 それに敵意が込められているのを気づいて、窓の外へ振りかえった時には、二度目に放たれた咆哮が、紫の耳にはっきりと届いた。
 白い鳳《おおとり》。翼をはためかせる姿は大の人間を遥かに超えた大きさで、狐のように尖った口先は真横まで裂かれ、およそ鳥には似つかわしくない獣の咆え声をあげながら、紫の乗る観覧車へ真っ直ぐに向かってくる。造られた青空を切り裂いて、鋭い犬歯を引きつらせ、怒りに猛《たけ》る咆哮がビリビリとゴンドラの窓を震わせる。
 獣の頭に、鳥の大翼を持つラルヴァだった。
「だめよクアロ、来ちゃだめ」
 クアロと呼ばれた白い鳳は、一度大きく羽ばたいて飛翔した。白い大翼を折りたたみ、観覧車の頂点にまで昇ってきた紫のゴンドラ目がけて、頭から急降下した。落下に近いスピードで、黒ぐろとした瞳いっぱいに紫のゴンドラを捉えると、翼を広げて上半身を仰け反るように反転し、その勢いで鉤爪を突き出した。
 それを不安げに見つめていた紫が、あっと思わず声を息を止めた。
 今まさに、その大きな鉤爪でゴンドラを掴みかけていたクアロの体が、横ざまに弾かれたのだ。
「クアロ!」
 叫んだ紫は、ゴンドラの窓に身体を寄せて、わずかに覗ける上空の様子を必死で見ようとした。
 クアロを払いのけ、全長数十メートルもある観覧車よりも大きな異形《ラルヴア》がそこにいた。
 まるで紙の人形だ。圧倒的な巨体であるにもかかわらず、劇場の風景幕のような、厚みや立体感がちぐはくで、その場に静止することができず、陽炎《かげろう》のようにぐらぐらと揺れている。 
「あれがこの世界の主……?」
 真っ白な人の形をしたシルエット、輪郭だけで表面に起伏のない紙みたいにのっぺらぼう。あれだけの巨体を保つだけの膨大な魂源力《アツイルト》があれば、周囲の記憶を留め、再生することが出来ても不思議ではない。
 クアロが咆哮をあげる。目立った外傷はなく、その力強さに紫は胸をなでおろした。
 再び舞いあがった白い鳳は、紫のいるゴンドラへ突進する。クアロにしてみれば、巨大なラルヴァが紫をゴンドラの中に閉じ込めているように見えているのだろう。
 人型のシルエットは、扇のように広げた手をゆっくりと動かし、小鳥をあしらうようにクアロを跳ね除ける。あくまでもゴンドラの前へ腕を突き出して、クアロの猛攻を防いでいた。
(わたしを守ろうとしているの?)
 ここにきて、紫の考えが確信に変わった。
 窓を叩いて、紫は声を張り上げた。
「お願い、ここから出して! そうしないと、|あの子《クアロ》は攻撃をやめない」
 ぼんやりと人の輪郭を映すラルヴァに向かって叫び、同時にクアロにも大声で訴える。「クアロ、やめなさい!」
 紙人形の巨体が揺れる。少しだけ、顔が紫に振り向いている気がした。
 けれど、唸り声を上げながら体当たりを続けるクアロに、ゴンドラの中の紫の声は届かない。
 きゅっと唇を結ぶと、紫はブレザーの内ポケットからPDAを取り出した。携帯と対して変わらない、手帳型のそれを手の中で回して、くるりと角の部分を突き出すようにして握りしめると、ゴンドラの広い窓ガラスに向かって叩きつけた。
 掌に食いこむ金属の感触に構わず、二度、三度と叩くうちに、ガラスに亀裂がはしった。最後に力一杯殴りつけると、窓枠にかかっていたガラスのほとんどが砕けた。青い空にそぐわない冷たい夕風を感じた。大小に砕かれたガラス片は、数十メートル下の地上へぱらぱらと落ちてゆく。
 ガラスで傷つけないように手をかけると、紫はゴンドラの外へ身を乗り出した。
「クアロ、わたしは大丈夫だから!」
 シルエットの頭部に近いところで旋回していたクアロが、紫に気づいた。
「良い子だから……少し、下で待ってて」
 大きく手振りで指示すると、犬歯を剥き出しに威嚇していたクアロの唸り声がやがて大人しくなり、クルルルと一声甘えるように啼《な》いて、観覧車の足下へ下りていった。
 ほうっと安堵のため息をついた紫は、あらためて紙人形《ラルヴア》を見上げた。すでにゴンドラは下へ下へと滑りおり始めている。
「ありがとう。わたしと、クアロを傷つけないでくれて」
 存在感の薄い体を波打たせながら、人型のシルエットは顔のない顔を紫に向け、見下ろしている。肩を落として、しょんぼりしている子供のようだった。
「えっ……」
 気がつくと、ゴンドラの中に老人はいなかった。かわりに、小さな男の子が同じ席に座っていた。襟のついた白いシャツに紺の短パンと、少し今風の装いから外れていたが、先の老人を見た感覚に似た、これといって特徴のない「子供らしい子供」という印象しか紫には残らなかった。
 あのごわごわしたソファーに深く腰掛け、素足に履いたスニーカーが床に届かず浮いている。男の子は紫を見上げたまま、無言で座っていた。
 紫は老人の変化に動揺しなかった。そして、窓の外で佇む巨大なラルヴァが、男の子の姿を介して、何を伝えようとしているのか、見極めようとした。変化は必ず状況を動かす。
「わたしは千代紫。双葉学園から、あなたに会いに来た」
 割れた窓から流れてくる風は冷たかった。風で乱れた横髪を指で払うと、紫は平静な調子で自己紹介した。
 男の子は答えない。
 言葉がわからないはずはないのだ。紫の異能力は言葉を届けること、『ラルヴァと対話をする力』という一点に特化しているのだから、相手が沈黙しているのは他に理由があるからだ。
 ゴンドラはすでに下りきって、二度目の上昇をはじめている。外で待っていたクアロが、首を持ち上げてゴンドラの動きを追っているのがちらりと見えた。紙人形は乗り手を失ったロボットのように、棒立ちしたまま動かなかった。
 黙ったままの男の子に構わず、紫はとにかく喋ることにした。
「さっき、あなたにじゃれついていた鳥の子……『以津真天《いつまでん》』っていう妖怪として呼ばれていた、大昔からこの国に居た種類で、あなたと同じラルヴァなの。わたしはクアロって名前呼んでいるけど」
 それを聞いていた男の子が、初めて反応を示した。ぱちぱちと瞬きした後、紫を見上げていた顔をわずかに伏せ、
〔……ない〕と言った。
 声は直接、紫の頭の中に響いた。長いトンネルのなかで、何度も反響を繰り返しながら聞こえてきたような、遠い声だった。
「ない? 何がないの」
〔我には、名がない〕
 声なき声音は幼い男の子のものだったが、話し方は老人のそれで、不思議と釣り合いが取れていた。
「名前がない……」
〔名が、欲しい〕
 これには紫は素直に驚いた。ラルヴァが、名前に拘るなんて。
「どうして名前が欲しいの」
〔誰も、我を知らない〕
 つかの間、同意を求めるように紫を見つめ、
〔名が、ないから〕と、言った。
〔我が存在と意識を獲得したときから、我はここで、人を見てきた。
 人は、生まれたときから、名を持っている。名を呼び、呼ばれあうことで、己の存在を地につけ、生を実感している。そうであろう?〕
 すぐに答えることはできなかった。紫自身、そんな仰々しく考えたことはなかったから、この子供の姿を借りたラルヴァの主張が間違っているとも言えなかった。
 ふと、自分はどうなのだろうかと紫は考えた。喜ばしいことなのだろうか。名前を呼ばれることが、本当に嬉しいことなのか。
 本当に名前を呼んでほしい人には、もう紫は絶対に会うことができないのに。
 クアロとの訓練に寝食を忘れるほど没頭していると、だんだん正気と眠気の境が曖昧になってきて、突然、あの日の光景がデータ保存された映像のように、色褪せることなく再生された。体中に汗をかいて、背中を伝う冷たいものの感触に目を覚ます。昂《たかぶ》っていた感情の波が引き、疲れや眠気をすべてさらって、空っぽになった紫はいつも同じことを思う。
 わたしは今、本当に生きているのだろうか。
 母の呼ぶ声が途絶えたときから、わたしは死んでいたのではないのか。
 体はあっても、紫の心は焼け死んでいたように思えた。夜の木立に一際明るく燃える車の中で、母が紫にむかって手招いたあのとき――
〔名を〕
 思考に割って入るように聞こえた声とともに、男の子の目が強く光った。紫は浮かんできた疑問に蓋をして、気持ちを切り替えた。
「ま、待って、そんなに早くは出せないわ。……すこしだけ、時間をちょうだい」
 ペットにつけるような可愛らしいもの名前、それとも人間的な人名。なにか判断材料、もしくはそのまま名前に使えるような特徴を当たりをつけなければならないだろう。
 まだ十数年の人生のうちで、二度もラルヴァの名付け親になるとは思ってもみなかった。クアロのときは、幼いながらの直感で名付けていたが、出会ったばかりのラルヴァに適当な名をつけるのはためらわれた。
 何気なく窓の外、二度目の頂点にさしかかったゴンドラからクアロを見下ろし、目線をあげると、周囲のアトラクションが、青空の下で未だに青みがかった姿を保っていた。
 ふいに、言葉の切れ端が紫の頭の中をかすめた。その影を見失わないようにと、無意識が口をついて出ていた。
「青い過去、|Past the blue《青の過去》……パザル」
〔パザル……〕
「遊園地の過去を象《かたど》って作ったこの世界を初めてみたとき、夕暮れから急に青空になって驚いたの。それに雲ひとつない、夢みたいな青空で、空そのものが太陽みたいに輝いている気がして。過去の青空の遊園地。過去の青空、パスト・ザ・ブルー。縮めて、パザル」
 自分で言ってみて、なんだか照れくさくなった。
「ちょっと短絡的かな。ごめんなさい、思いつきで、何となく頭に浮かんできただけで」
 呟きが頭に響いた。
〔パザル、パザル……〕
 何度も言いなおして、自分の身体に隙間なく詰め込んで、馴染ませて。やがて、パザルの物言わぬ口もとに笑みが広がる。
〔良い、名だ〕
 それは静かな歓喜の声だった。
 りぃん、と大きな錫《すず》の音が、紫の頭のなかで一際盛大に響いた。刹那、平衡感覚を失ってよろめいた紫が見たのは退廃していく青い世界だった。
〔礼を言う、人の子よ。これで我は無二の存在に昇華する〕
 りぃんりぃんと脳の内側から突き破るように錫が一つ鳴るたびに、焼き焦がすようなあの夕焼けが、青空の裏側を炙《あぶ》りながら侵食していく。ゴンドラの内装は煤《すす》まみれになり、ガラス窓は長年の汚れで曇って、ぼろぼろのシートはクッション部分が飛び出していた。

 すべてが元に還《かえ》る――あの、朽ち果てた夕暮れの廃園へ。

    4

 紫の眼を山の稜線から水平に差し込む夕陽が貫いた。錫の余韻がまだ頭を打っていた。
 こめかみを押さえた腕を、前のめりになるくらい引っぱられて、紫は振りむいた。パザルと目が合った。茜色の輝きを帯びた瞳が、
〔これから、我は消える。名をもらい、新たな生を受けた我は、もう以前の我ではない。新たな地へ、パザルとして相応《ふさわ》しい所で、我は還るのだ〕
 言葉が続く、
〔いま、我に残された力と存在はそこへ脈々と移りつつある。そうなれば、この鉄の滑車はまもなく崩壊する〕
 頭に聞こえるパザルの声とは別に、鋼鉄の花の節々から軋む一つ一つの悲鳴が、現実に聞こえていた。紫が割ったゴンドラの窓が傾《かし》いで見えるのは、感傷的な錯覚ではない。
〔最後にひとつ、そなたに頼まなければならないことがある〕
 腕を引く力がふっと抜けた。パザルの体が、指先から少しずつ融け始めている。
 紫が頷くと、パザルは消えかけの手の甲を紙人形《ラルヴァ》の巨体へ向けた。
〔あれを、打ち倒してほしい〕
「……どういうこと」
〔我が消えても、あれはここに残り続ける。あれは人から生まれ、時とともに地に還るはずであった記憶の残滓《ざんし》。それが因果の掛け違いで膨れ上がり、肥大化しすぎたためにあのような間違ったかたちで姿を得たのだ。あれは決して、時の風化で消えることはないのだ〕
 人々の記憶、想い出から生まれたラルヴァ。
 ラルヴァを生かし、育むためのラルヴァ。
 母と同じだ。紫を生み、育てただけで終わった一生。そう感じると、目の前のラルヴァに言わずにはいられなかった。
「あなたのお母さんみたいなものなのに。どうして、そんな簡単に切り捨てられるの」
 パザルは答えた。
〔あれに自我や意思はない。ここで生まれ、ここで死ぬ。それだけの存在なのだ〕
「わたしには分からない……あなたも一つの人格を得たからこうして生まれたんでしょう?」
 気がつくと紫は苛立っていた。「なのに、同情とか、名残惜しむ気持ちがあなたにはないの? ただ親の命を踏み台にするだけで、何も感じないのなんて」
 そのときのパザルの表情は、なんと言ったら良かったのだろう。子供みたいに驚いて、すぐに追いついて浮かんできた困った笑顔は老人のように穏やかだった。
〔未練がないわけではない〕
 紫に向けられた少年の瞳はどこまでも優しかった。
「だったら一緒に考えよう? あなたの生みの親を助ける方法を」
〔それはできない〕パザルは緩慢に首を振った。〔自然の理《ことわり》から外れているものは、正しい場所へ帰らなければならないのだ。あれも役目を終えたから、消えなければならない〕
 そして時間も残されていない。パザルの身体は腰のあたりまで消失が進んでいる。
 あの日からずっと、わたしは母の手を忘れられないのに、あなたは簡単に捨て去ろうとしている。
「……おかしいよ、こんなのって」
〔そなたが執着しているものが、我には推し量ることができない。だが、だからこそ、そなたに頼みたい。|あれ《ヽヽ》を生み出した因果の終端が我らの出逢いならば、新たな因果の始まりもまた、そなたの前に現れる〕
 狭いゴンドラのなかで、パザルは一歩体を引いた。
〔因果はめぐるのだ。この車輪の輪のように――〕
 光が、パザルが消えた。
 そして崩壊がはじまった。内なる芯を失った観覧車が傾きはじめる。
 束の間、振動するゴンドラの中で紫は両手でスカートの裾を握りしめていた。手を緩めると鳳の鳥獣の名前を呼んだ。
「クアロ!」
 紫の呼びかけにクアロが応えた。砕けた窓枠に足をかけ、ゴンドラから飛び降りた。飛んできたクアロは頭をさげて、その背に彼女を迎えた。紫はクアロの厚い羽毛の下を探り、細いベルトで組み合わせた騎乗帯を掴んだ。
「急いで離れて……高く、飛んで!」
 クアロの背に顔をうずめると、肩に強い衝撃が降りかかった。次に紫が顔をあげたときには、大きく傾き続けている観覧車が眼下に映った。その傍らに寄り添うように、白く巨大なシルエットのラルヴァが立ちつくしている。
「本当に、倒さなくちゃならないの?」
 不理解を口にしながら、それでも異能を持つ学園生としての役割と、自分に委ねられた願いを跳ね除けることはできなかった。
 パザルという意思を失った今、不動の姿勢を保ち続けている紙人形の巨体は、ラルヴァという異質な存在がゆえに、自《おの》ずから朽ち果てることさえも許されなかった。
 観覧車は、不自然なほどゆっくり傾いていく。沈没する船から逃げ出すように、土台や支柱の接合部のボルトが地上へ弾けて落ちていくのが見えた。
 クルルル、とクアロが首をひねって紫に振りむいて鳴いた。
「そうよね……わたしが頼まれたことだから、最後まで面倒を見ないといけないね」
 紫が指示をささやき、紙人形の周りを飛行していたクアロが螺旋を描くように舞い上がる。ある地点にまで上りつめると、紫は騎乗帯をしっかりと握った。ふわりとした無重力感に紫の髪が浮き上がり、クアロの飛翔はそこで止まった。
 羽ばたきをやめたクアロは翼を広げたまま、白いシルエットのラルヴァに向かって急降下を始めた。加速がついてくると、張り伸ばした翼は少しずつ最適化された降下姿勢へと変わり、全身を引き絞った弓のようにしならせる。
 騎乗帯を掴む紫の手に力がこもった。
 次の瞬間には、クアロは紙人形のラルヴァの体を貫いていた。紫は短いトンネルを一気に駆け抜けたようなぞわりとした音の感覚がし、制動《ブレーキ》をかけたクアロが地表すれすれからほとんど垂直に飛び上がったとき、頭が反り返って、日の落ちた空に燃える赤が視界いっぱいに広がった。
 眩むような陽射しに目をそむけた視界の隅に、あの観覧車があった。ゴンドラの中に、ちらりと人影が映った。
 パザルじゃない、女と少女の影。
 背格好は小さいほうだが、年若い女は少女の母親らしかった。紫の髪を短く切り、もっと眼の線を柔らかくして、もう少し明るい性格だったなら、紫はああいう人の良さそうな女性になれるかもしれない。
 靴を脱ぎ、あのごわごわな座席に横になって母の柔らかい膝の上で目をこする少女。
 |あれはわたしだ《ヽヽヽヽヽヽヽ》。
 遊園地でさんざん遊び疲れた少女が眠ってからも、いつまでも髪を撫で続けている母の横顔は、紫の記憶にはない表情をうかべていた。
 母の、千代|紅子《こうこ》としての、幸福に満ちた眼差し。
「おかあさん……」
 呆然と、紫は無意識のうちに手を伸ばしていた。遥か地上の、今にも崩壊しそうな観覧車に向かって。
 観覧車はもう取り返しのつかない傾きをしていたが、吊り下げられたゴンドラたちは水平なままだった。
「お願い、いかないで」
 片手を離した拍子に、バランスが崩れそうになる。ぎりぎりのところでクアロが上手く支えてくれているのもかまわず、紫は叫んでいた。
「待って、帰ってきてよ!」
 母の手が止まった。一人娘の小さな頭に手をのせたまま、窓の外を振り仰ぐ。
 母と目が合った気がした。笑っていた。そんなはずない。あれは紫がラルヴァに触れて生まれた幻の追憶。過去の青空に、ただ目を細めているだけ。
 母が口を開く。声として耳に聞こえなくても、独り言のようにゆったりとした唇の動きは紫にも読み取ることができた。
(今日がいい天気で良かったね)
 何の意味もないつぶやき。辛くて、懐かしい声が紫の脳裏にはっきりとよみがえってきた。
「おかあさん!!」
 母は、母にしか見えない青空《そら》を眺めながら、また何か呟いて微笑した。そして、大切な宝物を愛でるように、その笑みは尾を引いたまま、膝の上で眠っている娘にむけられ――
 あとの姿は噴煙に呑まれ、紫の叫びは轟音に掻き消えた。観覧車の全体が一度に横に倒れたのだから、土煙や砂埃といった砂塵《さじん》の噴き上げた広さや量など、おびただしいものになっていた。
 立ち上る煙を嫌ったクアロが、鳴きながら身を捩《よじ》った。
 ぐらりと揺られたそのとき、紫の体のほとんどはクアロから離れてしまっていた。
 間延びした一瞬の間に、天地が逆さまに変わっていた。クアロが上空で激しく吠えたてていたが、それも紫が煙の中へ落ちたことですぐ見えなくなる。
 紫の横を地上で砕け散って飛びあがった拳くらいの石がかすめた。今まさに落下している自分とは逆に、小さな瓦礫の破片たちが舞い上がり、暗い空に消えていく。
 目で追おうとして紫が顔をあげたとき、別の石片が後頭部を強く打った。
 激痛に目がちかちかする。奥歯を噛みしめるほどの衝撃に声も出ず、自分の視界がしだいに暗やみ、遠く離れるように閉じようとしていた。クアロの鳴き声も、少しずつ篭《こも》って聞こえた。
 今度こそ、紫は死ぬのだろう。
 紫は自分の意思でそっと、眠るように両眼を閉じた。
 決して死にたいわけではなかったが、生きていたいわけでもなかった。あのとき死にそびれて、心だけがずっと彷徨《さまよ》っていたから。ここで肉体が死ねば、生きながら死んでいたこれまでの紫の人生の帳尻が合うのだ。
(あるべき所へ還る……)
 パザルがそうしたように、紫は今度こそ自分のいるべき所へ戻るのだ。
 落ちてゆく、紫の意識も深いところへ沈んでいく。
 激突する音を聞く直前、紫は意識を完全に失った。

    5

 頬を撫でる夕陽の蜜色の温もりが遠のいて、紫は目覚めた。日は沈み、夜に染まっている空の果てでは青い燐光が瞬いていた。
(生き、てる……?)
 夢のなかにいるような感じがした。それだけ頭はぼんやりしていて、体は言うことを聞かない。
 しかし時間がたつにつれて意識が回復すると、血液が体中の照明を点けて周るように神経にスイッチが入った。起き上がろうとして頭痛に体を強張らせた紫は、そのまま横に手だけを動かす。柔らかく、温かい羽の感触にちらりと目をやった。
「また、助けられちゃったね」
 白い毛羽を立ててくすぐるように何度か撫でると、紫の下でクアロが気持ちよさそうに喉を鳴らした。
「生きてた」
 何気なく呟いた事実が、もう一つの意味を持って紫の胸にこみ上げてきた。
「生きてたんだ、わたし……」
 紫は短く微笑《わら》った。ほとんど笑い声にはならず、くつくつと可笑しさを噛みしめるような笑い方に、いつも一緒にいるはずのクアロが戸惑って、首を一生懸命に上へ回して紫の表情を覗き込もうとしている。
 今の紫は、母と手を繋いで遊園地をはしゃぎ、母の膝で甘えていた頃に戻っていた。再び死の際《きわ》に立たされて、ずっと置き去りにされたままだった紫の心の半身を引き寄せたのか……。
「もう、そんなに動いたらまた落ちちゃうでしょ。あは、はは……」
 両眼にあふれていた涙が零《こぼ》れそうになって、慌てて手で眼を覆った。泣き笑いの顔で、笑い声をはずませている口だけは隠さずに、紫は笑い続けた。
 遠くから迎えのトラックの音が聞こえてくる。クアロを乗せて帰るための、ラルヴァ専用の運車だ。
「帰ったらクアロの大好きなリンゴ、ご褒美にカゴいっぱい食べさせてあげる」
 言って、クアロの背中を優しく叩いてやると、
「クルルルー!」
 尾羽をぱたぱたさせながら、クアロは夜空に向かって何度も嬉しそうに鳴いた。



 -了-


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