【ラルヴァハンター 前編】


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 一


 野々村《ののむら》夫人こと、早苗《さなえ》のもとに一通の手紙が届いた。
 差出人不明の手紙は脅迫状であった。
 夜中のうちに投函でもされたのか、ポストの中の朝刊の下なっていたその手紙を見て早苗は気を失いそうになる。手紙はまるで血で書かれたような真っ赤な字で書き殴られていたからだ。元より体の弱い早苗は、このショックで軽い眩暈を感じ、扉にもたれかかりながら手紙を見返す。
 悪意を感じる脅迫状ではあるものの、その脅迫状の内容はどうにも的外れで、腑に落ちない物である。早苗は恐怖と同時に戸惑いも多く感じた。
『今日の晩、お前たちの子供を奪いにいく』
 これは一種の誘拐予告であろうか、あるいは殺人予告かもしれない。
 だが生憎、野々村夫妻の間には子供はいない。結婚して十年にもなるが、夫婦の間には子宝が恵まれなかったのだ。
 つまり奪われるための子供が存在しない。ゆえにこの脅迫状は成立しないのである。
「嫌だわ。悪戯かしら」
 まさか人違いではあるまい。
 脅迫状が送られてきたことは、今までの夫婦生活で一度や二度ではなかった。夫の野々村には何かと敵が多い。彼はラルヴァ研究者であるがラルヴァ差別主義者で、ラルヴァの危険性を学会に訴え続けていた。そのため一部のラルヴァ愛護者や宗教団体、ラルヴァの生徒やその親から敵意の目を向けられている。
 だからその手紙もそのような者が送ってきた脅しの類のものだろう。こうして脅迫状が届いたことはあっても、実在はこれまでなかったので、この手紙も気にする必要はないだろうと早苗は自身に言い聞かせようとした。だがどうにもこの手紙からは異質さを感じ、恐怖を拭い切れなかった。
 一先ず夫に相談しようと、早苗は身支度をしている野々村にこの手紙を見せた。
「ふん。いつものくだらん脅迫だろう。捨てておけ。そんなもの気にしていたらきりがない」
 野々村は脅迫状を一瞥すると、興味なさそうにネクタイを締めるのに集中した。これから彼は学園の研究室に出勤するのだ。朝の忙しい時間に余計な手間を取らせるなとばかりに、面倒くさそうな態度を野々村は示した。
「でもあなた……これはなんだかいつもと違う感じがするんです。警察の方に相談した方がよろしいんじゃないんですか?」
 おずおずと早苗が言うと、野々村は不快そうな顔で彼女を睨んだ。
「私に恥をかかす気かお前は。もう何度も警察には相談しているんだ。でもそのたびにただの悪戯だったじゃないか。また大騒ぎを起こせば学会でのいい笑いものだよ」
「でも……」
「でも、じゃない。大体この脅迫文を見て見ろ。私たちのことをろくに知らずにからかっているだけだろう。私たちに子供なんていない。お前みたいなのを嫁に貰ったおかげでな。わかったら早く捨てろ」
「……はい」
 不満はあったが、亭主である野々村には強くは言えない。自分はただの主婦なのだ。彼がいなければ今日の晩ごはんだって買えはしない。早苗は手紙を握り、見下したような野々村の目に耐えた。
 子供が出来ないのは早苗に原因があった。不妊治療をしようと野々村に相談したが、近所であれこれ言われるのが嫌だと彼は許しを出さなかった。その癖酒を飲むたびに子供ができないのはお前のせいだ、おかげで一族の笑いものだ。両親に顔が立たないと愚痴られていた。
 子供ができずに一番辛いのは早苗だというのに。
「いいか。このことは誰にも言うんじゃないぞ。面倒事はこりごりだ。この手のものは反応するだけ相手を調子づかせるだけだ。無視するのが一番いいんだからな」
 出かけ間際にそう言って、行ってきますも言わずに野々村は玄関を出た。早苗は「いってらっしゃい」と頭を下げて、ふうっと溜息を漏らす。
 こんな夫婦生活を自分は望んではいなかった。
 野々村も結婚する前までは良い人であった。だが年月が経つにつれて冷たくなり、研究が忙しいということであまり家にも帰って来なくなった。子供がいないのも夫婦生活に影響を及ぼしているのかもしれないと、早苗は思った。
 掃除や洗濯を終え、エプロンを脱いだ早苗は鏡台の前に座る。鏡には三十半ばを過ぎた早苗の姿が映っていた。
 早苗の容姿は二十代でも通じるほどに若く美しく、素朴な服の中には蠱惑的な肉体が収まっている。純白のブラウスは早苗の豊満な乳房を強調させ、ボタンが今にも弾け飛ぶのではないかと思われ、ロングスカートはきれいな曲線を描く腰つきを浮き立たせている。あどけなさを感じさせるふんわりとした亜麻色のセミロングヘアは、男の庇護欲を駆り立てるだろう。
 夫婦生活が冷めていても、未だに早苗は野々村に抱かれている。それは一重に早苗の肉体の魅力があるからだ。ゆえにそこに温かな愛情は感じられない。獣じみた性欲を解消させるように、野々村は乱暴に早苗の肉体を貪っている。しかしそれだけ夜の営みに励んでいても子供がきできることはなかった。
 これほど魅力的な容姿を持っていても彼女の体は野々村にしか捧げたことが無い。早苗は箱入り娘で、見合いで知り合った野々村以外の男を知らないのだ。
 それを不幸とは思わない。たった一人の夫だけに身を一生捧げることが女の幸せだと、幼い頃から家で教えられてきた。早苗の母親もまた、父親に従順な女だった。
 だがそれでも日々の鬱屈に限界を感じていた。
 そういう時早苗は、少しだけ贅沢をするようにしていた。夫に文句の一つも言えない気の弱い早苗でも、発散したいと思う時があるのだ。だがそれは人から見れば些細なことでしかないが、早苗にとっては大冒険だった。
「お財布も持ったし、そろそろ行こうかしら」
 誰に言うでもなくそう呟き、日焼け防止用の白の帽子を被って外出の支度をする。向かう場所は双葉区の商店街、その片隅にある人気の少ない静かな喫茶店だ。
 脅迫状を受け、心が落ち着かない早苗は、少しでも気分を紛らわせようとその贅沢をしようと思った。
 喫茶店でおいしい物を食べ、おいしいコーヒーを嗜む。夫が働いている昼間に、自分が喫茶店なんて少々気が引けるが、夜になれば夫が帰って来るし、昼にしか早苗の自由は無い。喫茶店の料理は決して豪華なものではなく一般的なものだが、これだけが早苗の楽しみだった。
 そのついでに商店街のどこかのゴミ箱に脅迫状を捨てよう。家のゴミ箱に捨ててもなんだか落ち着かない気がする。遠くにやってしまえばもう思い出すこともないだろう。早苗は脅迫状をブラウスの胸ポケットに入れて、家を出た。


   二


 平日と言うこともあってか、いつもは学生で賑やかな商店街も少しだけ寂しく感じる。早苗は足首が隠れるほどに裾の長いワンピースを風に揺らして、喫茶店の扉を開いた。
 カランコロンと扉の鐘が鳴り、ジャズが流れる喫茶店の中へと早苗は足を踏み入れる。無愛想なマスターは「いらっしゃい」と一言だけ呟くだけだが、どこか温かみを感じる声のように思える。
 いつもはこの時間、店内に客は少ないのだが今日は少し様子が違った。
 店の奥の席では金髪にアロハ、スキンヘッドにスカジャンという若干ガラの悪い男二人がコーヒーをがぶ飲みしながら何やら議論を交わしている。カウンターではスーツに帽子姿の長身の男がナポリタンを食べていた。食事中にも関わらず、両手には黒の手袋をしている、早苗に背を向ける形になっているため、どのような顔つきをしているかはわからない。
 少しでも静かに食事がしたい早苗は、彼らから離れた席についた。出来るだけ彼らのことは意識から外そうと思い、メニューへ目を向ける。するとウェイトレスが注文を取りに来た。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
 金属製のトレーを持った美人のウェイトレスに、早苗はエスプレッソとワッフルを注文する。ここのワッフルはふんわりと柔らかく、とても美味いのだ。
「かしこまりました。少々お待ちください」
 女の早苗でもうっとりするような色っぽい声でそう言い、ウェイトレスはマスターの方へと歩いていく。その足取りは優雅でとても綺麗だった。
 ああいう働く女性、というのも羨ましい。だが社会に出たこともなく今まで生きてきた早苗は、きっと自分が働きだしたとしても務まらないだろうと諦観していた。
「ふざけるなお前!」
 そうしてぼんやりとしていたが、男の怒声によって早苗のまったりとした時間は途絶えることになった。
 ふっと横目で声の方向を見ると、ガラの悪い金髪の男がスキンヘッドの男に掴みかかっている所であった。
「よくも俺の女に手を出しやがったな、このタコ入道!」
「お前が情けないからだ。あいつはおれのことを気に入ってるんだよ。あいつはおれのものだ」
「ふざけんな!」
 二人は怒鳴り声を上げながら口論をしていた。早苗はびくびくしながら、とばっちりが来ないように身を縮める。せっかくの息抜きなのに、嫌なことになった。唯一の憩いの場が乱され、早苗は気分が沈んでいく。
「このタコ入道が、いい加減にしろ!」
 癇癪を起した金髪は、テーブルの上のコーヒーを感情のまま薙ぎ払った。カップの中にはまだアツアツのコーヒーが入っていたが、カップごと宙を舞い、カウンターに座ってナポリタンを食べていたスーツの男の頭に直撃した。
 ゴスッと鈍い音がし、スーツの男は中に入っていたコーヒーを頭から被ってしまう。ナポリタンの上にカップは落ちてなにもかもが台無しになる。
「…………」
 何が起きたのか理解できていないのか、スーツの男はフォークを手にしたまま硬直していた。
「ちょっとお客さん! 喧嘩ならよそでやりな! そんなに騒ぐんだったら出て行ってもらうよ!」
 ウェイトレスはさっきまでの声とは違い、迫力のある言葉で諍いを始めた男たちをいさめた。男たちは一瞬びっくりし、舌打ちをしながらも席につく。
「……ったくろくでもないわね。ちょっとあんた大丈夫? びちょぬれじゃない。ほら、タオル持ってきたから」
 被害を受けたスーツの男にウェイトレスが近づくと、彼はがたりっとカウンターの席から立ち上がった。コーヒーで濡れた帽子を脱ぎ、その際に男の顔が早苗の目に映る。
「あっ……」
 スーツの男は、見惚れるほどの美青年であった。
 つんと尖った鼻と顎に、鷹のような鋭い目つき。ウェーブのかかった髪の毛からは、コーヒーがしたたり落ちている。
 整った顔立ちというよりも、独特な雰囲気を持ち、怪物染みた妖艶さを感じさせる。彼が立ち上がって初めてわかったが、体つきはカマキリのように細く、身長は百九十センチ近くある長身痩躯の大男であった。
 人間離れした美しさを持つこの男の口から、いったいどんな言葉が漏れるのであろうか。早苗は男から目を離すことができず、じっと第一声を待った。
 コーヒーをぶつけた金髪の男に対して怒りを示すのだろうか。それとも何か不平を漏らすのかもしれないし、あるいは泣き言を呟くかもしれない。
 だがスーツの男はウェイトレスからタオルを受け取る時にふっと彼女の両手を取って、こんなことを言いだした。
「ややあ! 上戸《うえと》さんじゃありませんか。ナポリタンに夢中で気が付かなかった。相変わらずお美しい。俺と結婚してくれませんか!」
 直後ゴンッ、というとんでもない音が店内に響いた。
 ウェイトレスに金属製のトレーで頭を思い切り殴られ(しかも縦に)、スーツの男は頭に大きなたんこぶを作ってそのまま床に倒れ込んでしまった。撃沈である。
「相変わらずバカなことばっか言ってるわね阿頼耶《あらや》くん」
 やれやれと、ウェイトレスはトレーを人差し指の上でくるくると回転させ、自分で拭けとばかりタオルを落とした。
「いたたた……いやあ、効くなぁ。上戸さんの攻撃は。あまりに気持ち良すぎて少しばかり天国が見えたよ。俺ほどの常連ともなると、こんな素晴らしいサービスを受けることができるんだね。最高だ」
「バカ言ってるんじゃないわよ。誰彼かまわずそんなこと言ってたら、あんた女にいつか刺されることになるわよ」
「仕方ないじゃないか。俺はね、美人を見たら求婚せずにはいられないんだよ。出会いっていうものはどこに転がっているかわからないからね」
 コーヒーの染みがついた帽子とスーツをタオルで拭きながら、ウェイトレスに阿頼耶と呼ばれたスーツの男は立ち上がった。コーヒーをぶつけられたことや、トレーで殴られたことに対して全く怒りを感じていないのか、へらへらと笑っている。
 早苗は阿頼耶という人物が、容姿とは異なり軽薄そうな変な男だと感じた。自分の人生の中で関わりを持ったことないような、いい加減で軟派な男に早苗の目には映る。
「マスター。コーヒー下さい」
 阿頼耶は床に落ちたカップを手に取り、マスターにコーヒーを頼んだ。マスターは読んでいた新聞を畳み、カップの中にコーヒーを注ぐ。そのカップは先ほどぶつけられたものだ。そんなものを手にしてどうしようというのだろうが、早苗はドキドキしながら男の動向から目を離せずにいた。
 阿頼耶はコーヒーを金髪とスキンヘッドが睨み合うテーブルの上に置き、手に持った日の丸扇子を広げながらこう言った。
「やあやあ。おまえさんたち。ケンカはよくない。これ、さっきの零したコーヒー。俺からの奢りだから飲んでくれ。くだらない諍いはやめて、コーヒーと料理の味を楽しもうじゃないか。人類皆兄弟。仲良くしましょう。わはははは」
 阿頼耶の顔面に、灰皿が飛んできた。
 鈍い音と共に鼻から血が噴水のように吹き出し、そのまま後ろにバタンと倒れてしまう。
「馴れ馴れしく話しかけるんじゃねえぞキザ野郎が!」
 灰皿を投げつけたスキンヘッドの男は、相当苛立っているのか倒れた阿頼耶のネクタイを掴み上げて無理矢理立たせた。だが身長差がありすぎて、胸倉を掴んでいても様になっておらず、どこか滑稽である。
「嫌だな。怒るのは体によくないですぜ旦那。ここは喫茶店。そういうことは無しにしましょう」
 笑顔でそう言った阿頼耶の後頭部を押さえ、スキンヘッドは思い切りテーブルの上の小倉トーストに叩きつける。
 美しい阿頼耶の顔はあんことクリームにまみれてしまった。阿頼耶はぺろりと長い舌を出して、顔についたあんこを舐め取る。
「うん。おいしい。勿体ないなぁ。こんな旨いものを潰しちゃって。あーあ、お皿割れちゃったよ。まあ、このお皿代は俺が払うから、ほら落ち着いてくれよ」
 怒ることもせず、阿頼耶はポンッと金髪の肩に手を置いた。
「お前なんなんだよ。邪魔するんじゃねえ!」
 金髪は阿頼耶の腹に全力の蹴りを入れた。その衝撃で阿頼耶の長身は、店の奥で震えていた早苗のもとまで吹っ飛んできた。
「え?」
 ガシャンっとテーブルの上に阿頼耶が転がってきたせいで、ワッフルとコーヒーが全部ひっくり返ってしまう。阿頼耶のスーツはもうコーヒーと小倉トーストとワッフルの蜂蜜で大変なことになった。
「いたたた……無茶するなぁ」
 テーブルの上に転がった阿頼耶は、頭を押さえながら帽子の誇りをパパッと落とし、かぶり直す。その際に帽子の底にたまっていたコーヒーが溢れて、またも阿頼耶の頭はびしょ濡れになった。
「あ、あの。大丈夫ですか?」
 阿頼耶のあまりに散々な姿に、思わず早苗は尋ねた。すると彼はバッとこっちを向き、阿頼耶のグルグルと円を描いたような瞳と、目が合ってしまう。
「なんて美しい人だ! 俺と結婚してください!」
 阿頼耶は早苗の両手を取り、またもやそんなことを言いだした。妖怪じみた美貌を持つ阿頼耶にそんなことを言われて早苗は生娘のように顔を真っ赤にしてしまった。
「きゃあ!」
 だが野々村以外の男性に手を触れられることに慣れていなかった早苗は、叫び声を上げて平手打ちをしてしまった。
「きゅう~」
 すると阿頼耶はとうとう気絶してしまい、椅子の上に崩れ落ちる。早苗はなんてことをしてしまったのだろうとおろおろとするだけだった。
「よし、これで邪魔な糞野郎はいなくなった。おいタコ入道。決着をつけようぜ」
「ああ、お前もあのスーツ野郎みたいに半殺しにしてやる」
 金髪とスキンヘッドは席を離れて今にもお互いに飛びかかりそうだ。
「あんたたち。二度も言わせるなよ。喧嘩は、よそでやりな」
 その二人の間にウェイトレスが割って入る。彼女を、男二人は睨みつけた。
「男の喧嘩に口出しすんじゃねえババァ!」
 同時にウェイトレスにそう言った直後、ウェイトレスの堪忍袋がブチっと切れる音がした。
 一瞬にしてガラの悪い男二人は店から放り出された。
「ったく。あの仔猫ちゃんと言い、最近はマナーの悪い客ばかりね」
 男二人をあっという間にボコボコにしたウェイトレスは、パンパンっと両手の誇りを落として通常業務に戻る。いったいあのウェイトレスは何者なんだろうと思いつつも、早苗は阿頼耶を気絶させてしまったことに責任を感じ、彼の頭を自分の膝の上に乗せ、おしぼりを額にかけてやった。
「まったく。そいつはトラブルを十倍にする疫病神だわ。お皿も割れちゃって、注文もめちゃくちゃよ」
 ウェイトレスは気絶して呻いている阿頼耶にそう言って、ぐちゃぐちゃになった早苗のテーブルを片付けていた。
「……この人、なんなんですか?」
 早苗はウェイトレスに尋ねる。喧嘩の仲裁に入ろうとして、酷い目にあっただけのろくでもない男。だが早苗は妙にこの男が気になっていた。
「その男はね、妖怪女たらしよ。あなたもあまり関わらない方がいいわ。面がいいのは妖怪の特性なだけで、中身はただのちゃらんぽらんよそいつ」
「酷いこと言うなぁ」
 ウェイトレスの声で目が覚めたのか、阿頼耶はゆっくりと顔を上げる。
「俺は妖怪女たらしじゃなくて“飛縁魔《ひのえんま》”っていうれっきとしたラルヴァなんだよ」
 電熱器で乾かしていた帽子を被り直し、阿頼耶は起き上がった。早苗は彼が言った言葉を、飲み込めずにいた。
「ラ、ラルヴァ……?」
 それは夫の野々村が研究し、そして嫌悪している人外の者の総称だ。魑魅魍魎に悪鬼羅刹、神話の悪魔や神に至る存在は実在し、今でも新種の怪物が発見されている。
 ラルヴァの中には人間に近い物や、意思の疎通ができる者もいる。そういう存在はこの双葉区で多く暮らしているのだ。
 だが野々村はラルヴァを信用せず、どれもが人間に害をなすものだという主義を貫き、ラルヴァの人権を否定していた。その姿勢に早苗は疑問を持たずにはいられなかったが、妻として夫を否定することは許されない。
 この目の前の男、阿頼耶もまた自身がラルヴァだと名乗った。確かにこの男の魔物染みた美貌は、人間でないなら納得がいく。しかしそれ以外の部分では、まったくもって普通の人間のようにしか見えない。さっきもチンピラにいいようにあしらわれていて、とても人外の者とは思えなかった。
「ええ。俺は“飛縁魔”の阿頼耶《あらや》天良《あまら》と申します。ラルヴァ、と言っても混血児《ハーフ》ですけどね。俺を生んだ母親が妖怪飛縁魔だったんですよ」
 扇子を開きながら、ちゃっかりと阿頼耶は早苗の隣に腰を下ろし、じっと早苗の目を見つめた。
「お名前を、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「え? い、いいですよ。早苗です。野々村早苗」
「早苗さん。見た目通りの可憐な名前だ。どうでしょう。この俺と一緒のお墓に入ることを前提に結婚してみませんか?」
「いや、その、あの……」
 ずいずいっと顔を近づけてくる阿頼耶に、早苗は困ってしまう。阿頼耶はまだどう見ても二十代前半の青年だ。自分とは十以上も離れているだろう。いや、そういう問題ではない。自分には夫がいるのだ。
「ごめんなさい。私、既婚者なんです」
 早苗はさっと薬指の指輪を見せた。阿頼耶の顔が凍った。
「い、いや。愛に障害はつきもの。既婚なんて二人の愛の壁にはならないのです。さあ、いまこそその指輪を放り棄て、愛の逃避行を――」
「いい加減にしなさい。この色ボケ魔人」
 ゴスッと、またもや阿頼耶はウェイトレスにトレーで殴られてテーブルに突っ伏した。
「はい。お客様。さっきのチンピラとこいつのせいで注文されたワッフルとコーヒーが台無しになっちゃったんで、これはサービスです」
 そう言ってウェイトレスはまたコーヒーとワッフルをテーブルに上に置いた。「勘定はこのバカに払わせますから」といい笑顔だ。
 早苗はワッフルを口に含む。柔らかな触感で、ふんわりとバターと蜂蜜の味が口いっぱいに広がっていき、それを熱々のコーヒーで流す瞬間は幸福と言えた。
 今日のティータイムは騒々しく散々だったが、こうしておいしいものを食べるとすべてを忘れられる気がする。
「臭う」
 だが、阿頼耶はテーブルに突っ伏しながら、鼻をひくひくとさせてそう呟いた。
「え? なんですか?」
「こいつは臭せえ。嫌な臭いがするぜ」
 がばっと起き上がった阿頼耶は、鼻を早苗の胸へと近づけた。匂いを嗅ぐかのように、鼻を動かしている。もう少しで阿頼耶の尖った鼻が早苗の胸に密着してしまいそうだ。
「な、なんですかあなた。私は臭くありません!」
 体臭がするのだろうかと思い、早苗は顔を赤くしながら阿頼耶から距離取った。女性に対して臭いなんて言うとは、なんて失礼な男だろうと早苗は彼に失望した。
「いやはや、違いますぜ早苗さん。臭うのは貴女の胸ポケットからです」
 意外にも阿頼耶はそう言って、早苗の胸を指差した。
「――え?」
「そこから臭いがするんでさあ。怪異の臭いが、恨みに満ちた怨嗟の臭いがね」
 さっきまでの軽薄な様子は一切なく、真剣な面持ちの阿頼耶の言葉に、早苗ははっとして胸を押さえる。
 この胸ポケットにはアレが入っているのだ。
 捨てる予定だった、差出人不明の脅迫状が。
「早苗さん。貴女、何かお困りのことがあるんじゃないんですか。人には言えない、だけどどうしても気がかりなことが」
「…………」
 早苗は口ごもる。確かに阿頼耶の言う通りだが、このことは野々村に口止めをされている。それだけではなく、初対面の怪しげな男に話すことではない。
「早苗さん。俺はこういう者なんです。何か困っているなら、力になれると思いますよ」
 阿頼耶は自分の胸ポケットから名刺を取り出し、テーブルの上に置いた。早苗はそれを手に取り目を剥く。
『双葉学園諜報局。超常問題対策課。人外係。双葉区担当。阿頼耶天良』
 そこにはそんな随分と長々とした肩書が書かれていた。
「阿頼耶さん。あなたは一体……」
「そこに書かれている通りですよ。子供受けする言い方をすればプロのラルヴァハンターってところですかね。もっとも、俺は当局の中でもまだ新人で、一番の小者ってやつですけれどね」
 冗談ともつかないことを言い、阿頼耶は扇子で自分を煽いでいた。
「ラルヴァハンター……」
 ラルヴァなのにラルヴァを狩る、ということなのだろうか。一重にラルヴァと言ってもその種族は数万以上に渡り、まだ確認されていない種族もいるので、同種族以外は仲間意識がないのだろう。同じ哺乳類でもライオンがシマウマを狩るのと一緒。人が、人を狩るのと一緒なのかもしれない。
「だから、何かあるのならばお話下さい。何か秘密をお抱えなら、情報は必ず秘匿しますぜ。そして貴女が抱えている問題も、絶対に解決させます」
 吸い込まれるような神秘的な瞳を持つ阿頼耶に見つめられ、早苗は彼の言葉にすがりたくなってきた。このどうしようもない不安を、一人で抱え込んでいたらいずれ心が壊れてしまいそうである。
 双葉学園直属のラルヴァハンター。それが本当なら、彼に相談してみようと早苗は思った。
 早苗は躊躇しながらも、胸ポケットから手紙を取り出す。
「これが今朝、ポストに入っていたんです。でもこれは悪戯だと思って、捨てようと思っていたんですが……」
 脅迫状の手紙を手にした阿頼耶は何を思ったのか舌を出し、ぺろりと手紙の文字を舐めだした。早苗はぎょっとする。
「これは、血文字ですね。だけどやっぱり人間の血じゃない」
「え?」
「言ったでしょう。怪異の臭いがするって。これを書いたのは人間ではなくラルヴァだ。しかも血からは凄まじい呪いの味がします」
「の、呪いの味? そんな、私たち誰かにそこまで恨まれるような――」
 いや、心当たりはあり過ぎる。少なくとも今までもこうした脅迫状は多く来た。しかも夫が阿頼耶のようなラルヴァを排斥しようと考えているからだ、なんて言えるわけがなかった。
「誰かに恨みを買わない人間なんてこの世には存在しませんぜ早苗さん。それがどれだけ理不尽な逆恨みであろうと、人間であろうと人外であろうと、誰かに恨まれて生きていくんですから」
「で、でも。その脅迫状はなんだか変なんです。文章を読んでください。『子供を奪いに行く』と書かれていますけど、私たち夫婦の間に子供はいないんです」
「……ほう」
 阿頼耶は手紙をためつすがめつ眺め、しばらく考え込んだ。
「確かに文面だけ見れば悪質な悪戯のようですが、ラルヴァが血文字で書いたとなるとどうにも気にかかるな。しばらくこの手紙を預かってもよろしいですか?」
「ええ。大丈夫です。でも、この脅迫状のことは誰にも言うなって主人から言われていて……」
「言ったでしょう。情報は秘匿します。呪詛を込めるようなラルヴァ問題は人間同士の問題以上にやっかいで複雑なものですからね。妬み嫉みや愛憎が絡んできます。知られたくないこともあるでしょう。だから俺みたいな単独で行動するラルヴァハンターが成り立つんです」
 脅迫状をしまい込み、阿頼耶は席を立った。
「必ず俺が貴女をお助けします。例え人妻であろうと、女性の救いになることが俺の生きがいですから」
 その優しくも怪しげな微笑に、早苗はじんっと自身の女の部分が疼くのを感じた。


   三


 飛縁魔。
 または縁障女《えんしょうじょ》とも呼ばれるように、本来飛縁魔は絶世の美女の姿をした妖怪である。
 その美貌で男を堕落させ、家を没落させ、最後には命まで奪う。確認されている限り、江戸時代から存在していると思われる。
 飛縁魔は本来、男を利用し陥れるだけだが、稀に男との間に子を設けることがある。その間に生まれた人間と飛縁魔の子供からは男児が生まれ、その男児は飛縁魔としての特性を受け継ぎ、異性を魅了する存在へと育つ。
 その希少な男の飛縁魔が、阿頼耶天良である。
 その名前も双葉学園に来てからつけられた名前で、それまで彼には名前が無かった。
 阿頼耶は群馬の山奥にある、まだ古い風習の残る寒村に生を受けた。
 飛縁魔である母親は彼を生んだ後姿を消し、父親は物心つく前に病死した。両親をすぐに失い、名も与えられずに村で生きていた阿頼耶は“それ”と呼ばれることが一番多かっただろう。
 自分が魔の存在であることは、己の肉体を見れば一目瞭然である。顔は女を見惚れさせるほどに美しいが、彼の肉体には無数の小さな目玉や、牙が生えている。普段人から見えない部分は完全に異形そのものだった。そんな阿頼耶は、化物として村人に忌み嫌われていた。
 ほどなくして阿頼耶は村から追いだされ、浮浪児として生活している所を奇形児の男娼として売られた。幼いながらも顔は美しく、体は異形というアンバランスさに惹かれるものも多く、阿頼耶は女性客を取っていた。その男娼窟が潰れた後は、資産家の女にツバメとして囲われもした。飛縁魔としての特性なのか、彼に関わった女性はどれも不幸になっていったが、阿頼耶は十歳までそれを繰り返して生き延びてきた。
 そんな地獄のような日々は双葉学園からやってきたある女性によって救われた。
 ラルヴァを保護する任務に当たっていた彼女が、阿頼耶を助け出し、名を与えたのだ。彼女にとってはただの仕事でしかなかったかもしれないが、阿頼耶にとって彼女はかけがえのない恩人である。
 その時初めて、阿頼耶は女性が持つ本当の優しさを知った。
――だから俺は、これからの人生を女性に捧げると決めたんだ。
 それから彼は他の困っている女性を放ってはおけなくなったのだ。不思議とこの双葉の土地では様々な作用が働き、阿頼耶の飛縁魔としての特性も発動せず、女性を不幸にすることはない。
 だから今までの分まで女性を幸せに導こうと、阿頼耶は双葉学園の高等部を卒業した後すぐに超常問題対策課へと就職した。そしていずれは愛すべき女性を見つけ、幸せな家庭を作ることが阿頼耶の人生の目標であった。
 それ故に、今回も早苗のために阿頼耶は奔走していた。
 正規の仕事ではないので報酬も出ない。だが、それでも阿頼耶は早苗の頼みを聞き、誰にもこのことを話すことなく解決しようと思った。
 まずは早苗と野々村に恨みを抱いている者を探すべく、阿頼耶は情報収取のために街を歩いた。少し調べてわかったが、早苗の夫は反ラルヴァ主義者の研究者らしい。それならばラルヴァに恨みを抱かれてもおかしくはない。
「けどなぁ」
 脅迫状を見つめながらボリボリと阿頼耶は頭を掻く。この脅迫状の『子供を奪いに行く』という文面はやはりおかしい。血文字に含まれた呪詛の念から、これがただの悪戯で書かれたものとは思えない。明らかに殺意を感じる。
 この手紙の差出人の狙いがいもしない『子供』ならば、少なくとも早苗や野々村が狙われることはないだろうか。だがこの文面の通りに犯人が行動を起こすとは限らない。
 手紙には『今日の晩』と書かれている。
 夜まで時間はあとわずかだ。最悪早苗の身を守るために、護衛として寝ずの番をすることになるだろう。例え今正体がわからなくても、敵が早苗を襲いに来るとしたら、その時になればわかる。
「深く考え込んでも仕方ねえかもしれねえな」
 そうしているうちに、阿頼耶は人気の少ない、鉄橋の真下にやってきていた。周囲はまだ昼だというのに薄暗く、排水溝から洩れず水が、ピチョンピチョンと音を立てているだけである。
 なぜ自分はこんな寂しい場所に足を踏み入れてしまったのだろう。無意識のうちに足がここへ向いていた。
 まるで誰かに操られているように――
「……しまった、誘われたか!」
 脅迫状を持っていたことが仇となった。呪詛の手紙から、阿頼耶の気配を逆探知していたのかもしれない。阿頼耶は敵の誘導によって助けの来ない狭い場所へ追いやられたことにようやく気付く。
「どこだ。敵はどこから来る……」
 阿頼耶は襲撃に備え周囲を見渡した。だが周囲には誰もいない。気配もない。ただフェンスの上からカラスがこちらをじっと見ているだけだ。
「カアカア!」
 カラスがクチバシを大きく上げて鳴きだした。
 それに呼応するように、仲間のカラスが一匹、また一匹と集まってくる。どうやらここはカラスの集会場らしい。
 カラスはどんどん増えてき、異様な光景が広がっていく。
 まるで双葉区中のカラスがここに集まっているかのように、空からカラスが降りてくる。そして再びカラスが雄たけびを上げた瞬間、無数のカラスたちは黒い塊となり、阿頼耶へ向かって飛翔した。
 激しい羽ばたき音を響かせ、カラスたちはクチバシを尖らせながら阿頼耶へと突貫する。阿頼耶はジャケットを振り乱し、防ごうとするが、カラスたちのクチバシは容赦なく阿頼耶の身体に突き刺さってくる。
「ぐぅ……」
 一体なぜカラスたちが自分を襲ってくるのだろうか。カラスはもう一度突貫を繰り返すために一度阿頼耶から距離を取り直す。その間にふと、手に持っていた脅迫状が蠢くのを阿頼耶は見る。
『邪魔をするな』
 脅迫状の血の文字は、そんな言葉に変化していた。
 どうやらあのカラスもこの脅迫状の主の仕業らしい。カラスを操るとはいったい相手は何者だろうか。阿頼耶は防戦一方になりながらも頭を巡らせる。
 だが考えている暇もなく、黒の羽によって視界は遮られ、阿頼耶は串刺しになった。鮮血が飛び散り、阿頼耶の苦痛の絶叫が虚しく響く。
「ぐう……殺生は出来る限りしたくなかったんだがな……仕方ない。悪く思うなよ、カラスたちよ」
 阿頼耶は手を覆っている黒手袋を脱ぎ捨てた。それは阿頼耶の力を押さえこんでいる拘束具の一つである。
 そして飛びかかってくる一匹のカラスに向かって、掌を叩きつけた。
「ギギャアアアァ」
 阿頼耶の手からスパークが起きた。青白い輝きは、バリバリと凄まじい音を立てていく。だがこれは電撃ではない。生命の灯が、爆ぜている音と輝きだ。それと同時に、カラスによって負わされた阿頼耶の傷が、わずかに塞がる。
 これが飛縁魔としての阿頼耶の異能――“生命力吸収《エナジードレイン》”である。
 飛縁魔は淫魔《サキュバス》と近しい存在だ。飛縁魔は触れるだけで生気を直に吸い取ることができる。だがカラス一匹の生命力では、血を止めることが精いっぱいで、傷を治すまでには至らない。未だにクチバシで刺された痛みが、阿頼耶の身体を支配している。
「来いよ。全員吸い尽くしてやるぜ」
 阿頼耶は飛んでくるカラスたちに一匹一匹狙いを定め、エナジードレインを使いながら叩き落としていく。
 だがそれでもこの数相手には手が回らず、一匹倒すたびに、十の怪我を阿頼耶は負っていた。消耗戦である。
 だが最後の一匹を叩き落とし、阿頼耶はようやく事が済んだとその場に膝をつく。
 阿頼耶の周囲には、数十匹のカラスの死骸が落ちている。大量の黒い羽が舞い落ち、異様な光景を作っていた。
「はぁはぁ……こいつぁ、動物保護団体にでも怒られるかもしれねえなぁ」
 苦痛を誤魔化すように、阿頼耶は誰が聞いているわけでもないのに軽口を漏らす。だが実際ギリギリだった。野性の鳥のクチバシというものは、思ったよりも鋭く、不規則なカラスの動きを見切ることは不可能だった。何度眼球を抉られそうになったかわからない。
 動けるようになるまで少し座っていよう、そう思っていたが、そうもいかないことに、阿頼耶は空を見上げて理解する。
 真っ黒な巨大な塊が、空からこちらへ向かってやってきていた。
 近づくにつれそれが何か分かる。百匹近い、カラスの群れだ。
「おいおい。冗談じゃあねえ」
 阿頼耶は顔を青くしながらも、帽子の埃をパンパンっと落として被り直す。そしてカラスと対峙するように、ゆっくりと立ちあがった。






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