【ラルヴァハンター 後編】


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   四


『今日は研究室に泊まることになった。夕飯はいらない』
 それだけ告げると、野々村はすぐに電話を切ってしまった。早苗は深い溜め息を漏らし、受話器を置く。
 もう作ってしまった二人分の料理を見つめ、重い気分のまま椅子に腰を下ろす。こんな不安な気持ちの時にも野々村は傍にいてくれない。ずっと野々村の帰りを待って、夕飯を食べていなかった早苗だが、いざ一人で食べようと思っても恐怖からか食べ物が喉に通っていかなかった。
 コチコチと時計の針が進む音だけが、静かなリビングに響いている。
「阿頼耶さん。本当に何とかしてくれるのかしら」
 喫茶店で別れた後、阿頼耶から連絡は一度も来ていない。双葉学園の施設サイトにアクセスすると、阿頼耶の名前はたしかにあった。彼が対ラルヴァの専門家というのは嘘ではないだろう。だがもう時刻は午後九時を回ろうとしていた。
 あの手紙がただの悪戯や、人間違いであることを祈ろう。
 自分に子供はいない。だから狙われることもないはずだ。早苗は恐怖から逃れるために、もう寝てしまおうと思った。明日の朝になればきっとこの不安からも解消される。今日の夜だけでも乗り切れば、あとは大丈夫だ。
 早苗はお風呂に入った後、ネグリジェに着替えてベッドの中へと潜る。普段は野々村と二人で寝ているベッドも、一人だととても広く感じた。
 しかしいつまでも寝つけなかった。いつもより早く寝ようとしたこともあるだろうが、あの脅迫状が頭にこびりつき、眠ることができない。なんだか今日は特に熱く、むんむんと布団の中が汗だくになる。
「ダメ、眠れないわ」
 恐怖から逃れるために頭から布団を被っていたせいもあるだろう。寝苦しくて仕方がない。早苗はベッドから起き上がり、水でも飲もうと髪をかき上げる。
「その前に少し空気を入れ替えようかしら」
 少しでも新鮮な空気を入れた方が、気分も落ち着くだろう。下の階に行っている間だけでも窓を開けておこうと、早苗は寝室の窓を全開にした。入り込んできた夜の冷えた空気が頬を撫で、気持ちいい。
 暗闇の中、早苗は階段を下りて、台所へと向かった。ミネラルウォーターを一杯飲むと、火照っていた体にしんと水が染みわたっていくのが分かる。
 だがそうして再び寝室へと戻ろうとした時、家の電話が鳴り響いた。
 ドキドキと心臓を高鳴らしながら、早苗は時計を見る。寝つけないまま時間は経ち、今はもう夜中の二時だ。こんな時間に電話をかけてくる人がいるだろうか。
 あるいは、人ではないかもしれない。
 早苗は受話器を手に取るのを戸惑った。
 しかし野々村からの電話という可能性もあるし、こんな夜中にかけてくるほどの緊急の用事という可能性もある。
 いつまでも怖がってはいられない。早苗はがちゃり、と受話器を取った。
「も、もしもし……」
 声が震えているのが自分でも分かる。相手に言葉が伝わったかわからないほどだ。返答を待つ間、早苗はじっとりと汗を流す。
『もしもし。早苗さんですか。俺です、阿頼耶です』
 早苗はその言葉を聞き、ほっと胸を撫で下ろす。相手は人ではなかったが、恐ろしい相手ではなかった。
「こんばんは阿頼耶さん。でもこんな真夜中にどうしたんですか。こんな時間に電話なんて……」
 非常識ではないか。そう思ったが、今まで連絡を寄越さなかった阿頼耶が、この時間に何故電話してきたのか、怖くて聞けない。
『早苗さん。いいですか、今から絶対に外に出てはいけません。家の中に隠れていて下さい』
「え?」
『それと、窓も絶対に開けないでください。できれば雨戸をしっかりと閉めてください。今から俺もそっちに行きます。いいですか、どこかクローゼットにでも隠れて身を伏していて下さい。いいですね!』
 阿頼耶は息を切らせる調子でそう言って、電話を切った。
 意味が解らない。
 だが切羽詰っている様子だけは伝わってきた。彼は一体なんと言った。窓を、開けるな?
「あっ」
 早苗は慌てて階段を駆け上り、寝室の窓を閉めようと飛び込んだ。
 窓の縁に、一匹のカラスが止まっていた。
「カ、カラス……?」
 カラスがいては窓が閉められない。どうにか追っ払えないかと、早苗は何か投げつける物を探した。だがそうしている間に、窓の外にたくさんのカラスが集まり始めていた。その数は十以上だ。
「うそ、どうして」
 どうしてこんなにもカラスが集まっているんだろう。
 カラスの群れはけたたましく鳴き、大きな羽音を鳴らして部屋の中へと一斉に飛び込んできた。
 早苗は絶叫した。言い知れぬ恐怖が体を支配し、鋭く突きだされたクチバシから逃れるために部屋から飛び出そうと扉に向かった。
 だがいつの間にか扉は閉まっており、鍵がかかっていないのにも関わらず、どれだけノブを回しても扉が開くことはない。
 ――閉じ込められた。
 そんなことに気づいた時には遅かった。早苗の柔らかな太ももに、カラスのくちばしがくいついてくる。鋭利なクチバシは肉を貫き、羽を舞わせながらついばんでいく。血が吹き出し、今まで感じたこともない痛みが全身を駆け巡ってきた。
 パニックに陥った早苗は、どうにかこの痛みから逃れようと、ベッドの中に入り込み、布団を頭から被ってカラスの猛攻を防ごうとした。だがカラスの勢いは止まらず、分厚い布団の上からでもクチバシが突き刺さってきて、いずれ食い破られてしまうだろう。
 どうして、どうしたこんなことに。
 これが脅迫状を出した犯人の呪いなのだろうか。でも脅迫状によると、狙いはいもしない自分の子供だったはずだ。なのになぜ自分自身が襲われるのだろうか。自分は恨みを持たれることをしてこなかった。もし恨みを持つのなら、野々村の方だろう。なぜ夫ではなく自分が攻撃されるのか、早苗には分からなかった。
「ガアガア」
 カラスたちはまるで共有の意志を持ち合わせているかのように、数匹でクチバシを器用に使い、布団の端を咥えた。そして思い切り布団を引っぺがす。
「ひい!」
 早苗にカラスたちは一斉に襲いかかる。このままでは食われてしまう。鳥葬されてしまうのではないかと恐怖し、一心不乱に走り出した。
 枕を振り回してわずかでもカラスのついばみを防ぎ、早苗は真っ直ぐ走っていった。
 だが、逃げ出した先に安息は待っていない。
 目を潰されないように顔を伏せて走り出したのが仇になる。
「え?」
 ガツンっと膝に堅い物がぶつかったと思うと、悶絶する暇もなく、自身の身体が傾き、地獄の底にでも落ちていくように、体が反転するのを感じた。
 早苗は開いていた窓の縁に足を引っ掻け、無様にも真っ逆さまに落ちていったのだ。
 夜の風を全身に受け、頭が地面へと急速度で近づいて行くのを理解し、早苗は死を直感した。例え二階の距離でも、頭から固い庭に落ちれば首の骨が折れてしまうだろう。最悪九死を免れたとしても、気絶して動けなくなってしまったら完全にカラスに狙われてしまう。どちらにせよ、早苗には何もできることはない。
 ――死ぬ。
 早苗は目を瞑って、ただ死を待った。
 しかし早苗を襲った衝撃は、地面との激突ではなかった。
 ふんわりと、優しい温もりが早苗の身体を包んでいる感じがする。誰かがぎゅっと自分を抱きかかえていることに早苗は気づく。
「ふう。よかった間に合って」
 目を開けると、そこには夜の闇でも映えている美貌があった。
 そこにいたのは阿頼耶だった。
 阿頼耶が落ちてきた早苗をギリギリのところでキャッチしたのだ。いい年をしてお姫様抱っこをされていることに気づき、早苗はこんな時でも恥じらいを感じてしまう。
「阿頼耶さん、どうしてここに」
「言ったでしょう、助けるって。でも遅くなってしまいました。今まで俺も、狂ったカラスたちとちょっと戯れていたものでね」
 そう言いながら阿頼耶は早苗を地面に下す。その時、早苗は阿頼耶の姿を見て声を失う。早苗もカラスによってボロボロにされていたが、阿頼耶はその比ではない。
 スーツはボロボロでほとんど半裸状態だ。肌の肉は大きく削り取られている。体中に痛々しい穴が空き、今でも血が流れている。
 おそらく彼もまた、カラスの襲撃にあったのだろう。それも尋常ではない数に襲いかかられたのだ。
 上着が食い破られているせいで、阿頼耶の異形の肉体がボロボロになったシャツの隙間から見えていた。人間ではないことを主張するかのように、無数の目玉が蠢き、牙や角が伸びている。
「……すいません早苗さん。俺の気持ち悪い体を見せてしまって」
「いえ、そんなことありません……」
 まさか阿頼耶の美貌の下は、こんなにも怪物に近い物だとは思ってもいなかった。ショックではないと言えば嘘になるが、早苗は傷つきながらも早苗を助けに来た阿頼耶のことを気持ち悪いだなんて思えない。
「阿頼耶さん、すぐに逃げましょう。あれが悪戯じゃないなら、隠しておくこともできません。誰かに助けを求めましょう」
 もう野々村に口止めされていたことなんて気にしている場合ではない。このままでは二人とも死んでしまうだろう。
「残念ですがそれはできません。敵は強力な結界を張っています。この敷地から出ることは不可能でしょう。俺がここに入って来られたのは、同じ呪い元である、この脅迫状を通行証代りにして、結界の隙間を辿ってきたからです」
「そんな……!」
 それでは助けも呼べないではないか。
 ここにいるのは無力な早苗と、満身創痍の阿頼耶だけだ。
 カラスたちはギャアギャアと泣き声を上げ、早苗の寝室から飛び出してまたもこちらに向かってきた。
「きゃあ!」
 カラスたちは黒い塊となりまたも突撃してくる。阿頼耶は早苗を庇い、なんとか第一撃を凌ぐ。だがカラスは滑空し、またこちらへと戻ってくる。
「大丈夫ですぜ早苗さん。これでも俺は化物《ラルヴァ》ですからね。結構タフなんです」
「でも」
「離れていて下さい。巻き込まれますぜ」
 阿頼耶は早苗を後ろにやり、怪我だらけの両手を構える。
 阿頼耶は右掌を振りかぶり、向かってくるカラスたちに向かって掌を叩きつけた。
 その瞬間、彼の右手がまるでスパークしたかのように音を立てて発光し、その一撃で数匹のカラスたちが地面に落ちた。即死したのか、ピクリとも動かない。阿頼耶のエナジードレインだった。
 だが残ったカラスたちは彼の攻撃を素通りし、ロケットのように阿頼耶の肉体に突き刺さっていく。だが阿頼耶はそれを待っていたとばかりに、自分に突き刺さって一瞬動きの止まったカラスに向けて、スパークを起こす。
「うおおおおおおお!」
 阿頼耶の掌に触れられ、クチバシを突き刺していたカラスたちは一瞬にして生命の糸が途切れた。阿頼耶の身体からクチバシが抜かれ、次々と地面へ落ちていく。
 阿頼耶は第二陣に備えてカラスたちの動きを目で追った。だがカラスたちは何を思ったのか、阿頼耶達から離れ、空中で集まり始める。カラスたちは黒い羽をくっつけ合い、溶けるように融合していき、やがて巨大な黒の塊へと変化していく。
 黒い塊からは大きな翼と、クチバシが現れる。足には鋭い鉤爪がギラリと光る。それは全長四メートルもある、巨大なカラスであった。
 だがそのカラスの胴体には人間の顔が浮き出ている。
「どうして、あたしの邪魔をするのよ……」
 巨大なカラスの胴体部分に現れた女の顔が、恨めしそうに呟いた。泣きボクロが特徴的な女の目は怨嗟に満ち溢れ、早苗を睨みつけている。
 だが早苗には彼女の顔に見覚えはない。恨まれる身に覚えは無かった。
「このラルヴァは……あの脅迫状……そうか、そういうことか」
 阿頼耶は一人納得したように呟く。
「阿頼耶さん。あれは一体」
「あれは、“姑獲鳥《うぶめ》”という怨霊です……」
 そう言った阿頼耶の表情は、どこか悲しげであった。阿頼耶は目で早苗に下がるように促し、女の顔を持つ巨大カラス――姑獲鳥と対峙する。
「お前の恨みは全部俺が吸い取ってやる。だから早苗さんには手を出すな」
 阿頼耶はボロボロになったシャツを自分で脱ぎ去り、上半身裸になる。奇形的な魔人としての肉体が完全に露わになった。
「邪魔を、しないで――!」
 姑獲鳥は大きな翼を広げ、阿頼耶に向かって滑空する。そのスピードはとてもよけられるものではなく、さらには姑獲鳥が飛ぶことで発生する突風のせいで、ろくに身動きもできない。
「ぐう……ああっ!」
 通常のカラスとは比べ物にならないほどに巨大なクチバシが、阿頼耶の脇腹に突き刺さった。肉を裂き、内臓をも引きちぎって阿頼耶の腹部を貫通する。激しい痛みが阿頼耶を襲ったが、それどころではない。姑獲鳥は阿頼耶を串刺しにしたまま、空高く舞い上がったのだ。そして首の動きだけで阿頼耶をクチバシから振り解き、野々村宅の屋上へと思い切り叩きつける。 
 瓦の上を転がっていき、阿頼耶は腹部から漏れる腸を押さえながら、なんとか膝をつく。
 だが休む暇もなく姑獲鳥は突進してきた。今度は鋭い鉤爪で、阿頼耶の両肩を掴んだ。爪が体の中に食い込んでくる。わずかにでも力を入れられれば、すぐにでも阿頼耶の身体はバラバラになるだろう。
 姑獲鳥は阿頼耶を弄ぶように、空高く舞い上がった。
「死ね、死ね、死ね!」
 だが姑獲鳥が阿頼耶を解体する前に、彼は行動に出ていた。
 阿頼耶は引きちぎれそうな両腕を動かし、自分を掴んでいる姑獲鳥の足を両手で触れる。そして全力のエナジードレインを発動した。
 空を裂くような、落雷の如き怒号が響き、凄まじい生命の光が夜の闇を照らす。結界が張られているせいか、光りは外には漏れず、この野々村の土地だけにこの激しい光は輝いていた。
「うおおおおおおおおおおおお!」
 怨霊である姑獲鳥の生命を吸収するというのは、その恨みも祟りも全て受け止めるということであった。傷の回復どころか傷口が逆に広がっていくだけだ。
 エナジードレインを発動し続けることで、じょじょに姑獲鳥の身体は小さくなっていくが、同時に阿頼耶の身体も呪いに蝕まれていく。皮膚が裂け、肉が断たれていく。阿頼耶の肉体に、姑獲鳥の怨嗟は過負荷であった。
「いや、やめて! あたしはあの女の子供が欲しいのよ!」
 スパークの中、姑獲鳥は悲痛にそう叫ぶ。
「ダメだ。それだけは許さない。俺がきみの恨みを引き受けてやる。だからもうやめるんだ!」
 その言葉と共に、一層激しいスパークが起きた。
 その直後、静寂と闇が戻ったかと思うと、二つの人影が空中から地面へと落ちていく。
 阿頼耶と、そして姑獲鳥であった。
 地面に落ちた姑獲鳥はもうカラスの姿をしていない。阿頼耶に異形を形成する恨みのエネルギーを吸い取られ、人間の姿に戻っているようだ。
「阿頼耶さん!」
 早苗は彼の元へと駈け寄った。あの大怪我で、しかもあの高さから落下したとあれば命があるかどうかわからない。
 だが早苗が彼の頭を抱えると、阿頼耶はゆっくりと目を開けた。
「やあ。早苗さん……」
「よかった。無事なんですね……」
「そんなに、無事じゃないかも。結界は解けたはずだから、誰か助けを……」
 そう言う阿頼耶の怪我は、普通の人間ならば何度も死んでいるものであった。少なからず姑獲鳥の恨みのエネルギーを生命力に還元することができたのだろう。だがそれも付け焼刃にすぎず、すぐに治療をしなければ命は無い。
「憎い……どうしてあなたはあたしが手に入れられなかったものを……」
 はっと声のする方へ早苗は目を向ける。そこには姑獲鳥としての姿を保てなくなった怨霊がいた。彼女は制服を着た少女の姿をしている。
 その瞳からは恨みの色は消え、ただ哀しみだけがあった。
「きみの恨みも、憎しみもよくわかるよ。エナジードレインを使った時、きみがどうして早苗さんを襲うとしていたか、全部俺の中に入り込んできた」
 阿頼耶は早苗の手を振りほどき、ゆっくりと立ち上がって少女の霊のもとに近づいて行く。その足取りはフラフラで、もう歩くことが奇跡のような大怪我である。
「きみは、化けて出る相手を間違えたんだ。恨む相手を間違えている。早苗さんには何の罪もない。妬むのはやめるんだ」
 阿頼耶がそう言うと、少女は俯いて肩を震わせる。その姿を見て、さっきまでの恐ろしい化物と同じ存在とは早苗はとても思えなかった。
「阿頼耶さん。彼女は一体誰なんですか? 姑獲鳥って……」
「姑獲鳥は、子を身に宿したまま死んだ女が、世を恨み変化する怨霊です。そして姑獲鳥は時に、自分が産むことができなかった赤ん坊を、他人から奪おうとする」
「そんな、じゃあ彼女は」
 早苗はまだ中学生ぐらいであろうこの少女が、妊娠したまま死んだということを悟る。だがそれと同時に、早苗の頭に疑問が浮かんでくる。
「でも、私には子供なんて――」
 早苗が言いかけると、阿頼耶は早苗のお腹をすっと指差した。
「早苗さん。明日病院に行った方がいいですよ。きっと、おめでたです」
「え?」
 早苗はそっと自分の下腹部に手を当てる。
 聞こえるはずもないのに、トクン、トクンという生命の鼓動が聞こえてくるような気がした。
「赤ちゃんが――いる」
 まさか本当に自分は子を宿しているのだろうか。そういえば最近はもう子供ができることを諦め、検査をしていなかった。
 だがそれで納得がいった。あの脅迫状の意味も。
 姑獲鳥は『早苗がようやく孕んだ子供』を奪いに来たのだ。
「……あたしもあの人の赤ちゃんを産みたかったの」
 少女は顔を伏せながらぽつりとそう呟いた。それが彼女の本音であり、化けて出てきた理由でもあった。
 早苗は少女の霊に近寄り、そっと抱きしめる。
 少女ははっとしていたが早苗は離れようとしない。
「お願いです。私から、赤ちゃんを奪わないで。あなたの分まで、私は子供を愛して育てますから」
 早苗は涙を溢れさせながらそう言った。
 少女の霊も、声を出さずに泣いていた。


   五


 研究も一段落つき、学園の研究室で夜を明かした野々村はインスタントコーヒー沸かしていた
 野々村の頭にはラルヴァ研究のことばかりで、朝になったのに家に帰る気にもなれず、電話一本かけようとも思わない。
 ポットの湯を注ぎ、コーヒーを作った野々村はデスクへと戻っていく。
 だが野々村のデスクに、一人の男が座っていた。
 いったいいつの間に研究室に入り込んだのだろうか、そしていつの間にここに座っていたのかわからない。そのスーツ姿の男は、異様なまでの美しさを持ってはいるが、あちこち怪我をしているのか、包帯やギブスだらけで、松葉杖をついて椅子に腰かけている。
「ややあ。野々村教授。おはようございます」
「きみは、誰だ」
「俺は阿頼耶天良。飛縁魔っていうしがない化物です」
「……ラルヴァか。何か文句でもつけに来たのかね」
 どこかで見たことがある顔だと野々村は思った。確か学園の超常問題対策課の役員だったはずだ。それがなぜここにいるのだろうか。ラルヴァを否定する主張を行っているため、抗議でもしに来たのだろうか。だが野々村は脅しには決して屈しないと思った。
「いえ、俺は別にあなたがどれだけラルヴァを差別するような主張を繰り返そうが、どうでもいいんです。ですけどね、女性には優しくしたほうがいいですぜ。いや、あなたはもっと女性を大切にするべきだ」
「何を言っているんだきみは」
「あなたの過去を、少し調べさせてもらいました。あなた、昔ここに来る前は家庭教師をしていたみたいですね」
 阿頼耶の唇が怪しく動く。彼の言葉を聞き、野々村は心臓が止まりそうな気分になった。
 なぜ今になってそのことを話すんだこの男は。
「あなたが受け持った生徒の一人に、女の子がいたはずです。そして彼女は階段からの転落事故ということで、若い命を散らしてしまった」
「あ、あれは悲しい事故だった。思い出したくもない。やめてくれ」
「やめません。その女の子は誰かとの間にできた子を孕んでいたのです。当時、それを苦に女の子が自殺したとも噂されたそうですね。結局その子の父親が誰なのかは、わからなかったそうですが」
 野々村の頭に少女の顔が浮かんでくる。
 自分を慕う、泣きボクロが似合ったあどけない少女。
「それがどうした。そんなこと、私には関係が無い」
「へえ。関係が、ない?」
 がたりと立ちあがり、阿頼耶は野々村に顔を近づける。吸い込まれそうな瞳に見つめられ、動けなくなった。
「関係がないなんて、本人を前にして言えますかね」
「は、はあ?」
 野々村の額から大粒の汗が流れる。すると、阿頼耶は急ににっこりとして、顔をふっと離して背を向けた。
「俺はこれで失礼します。あとは“当人同士”でじっくりと話し合ってください」
 最後にそれだけを言うと、阿頼耶は松葉杖でひょっこひょっこと歩きながら扉を開けて研究室から出て行った。
 野々村はどっと疲れが来たように感じ、倒れるように椅子に座り込む。
「な、なんだったんだ。なぜ今になってあのことを……」
 あれはもう二十年も前のことだ。
 まだ野々村が大学生のころ、大学講師とのつてで家庭教師のアルバイトをしたことがある。その時に野々村は、まだ中学生だった少女と関係を持った。
 若気の至りだったと、今にして思う。
 それまで多くの女性と付き合ってきた野々村にとって、その少女との関係も言わば遊びであった。だが少女は違った。
 彼女からすれば野々村は初めての相手で、そして運命の相手だと思っていたようだ。
 少女が妊娠したと言った時、野々村は焦りながらも堕胎を進めた。金も払うし、信頼できる医者も紹介すると。
 だが少女は頑なに拒否した。野々村の子供を産み、育てるのだと、そう言った。
 冗談ではない。これから大学を出て、研究者として生きていくのに、中学生を妊娠させたとあっては自分の人生は滅茶苦茶になる。野々村は我を失った。
 それからはよく覚えていない。確か激しい口論したと思う。気が付けば、少女は階段から転がり落ち、頭から血を流していて二度と目を開けることが無かった。自分の手に、彼女の肩の温もりが残っていたことに、野々村は恐怖した。
 結局、親が手を回して事故と言う形でこのことは終わった。
「そう、終わったんだ……」
 もうあのことは思い出したくもない。今はここの教授として研究に身を費やし、子宝に恵まれなくても家庭も作ったのだ。あのことは過去の話だ。
「先生……野々村先生……」
 声が聞こえた。
 もう忘れてしまっていた、か細い少女の声。
 顔を上げると、目の前に泣きボクロの少女が立っていた。あの時と同じ制服姿。あの時のように、頭から血を流している。
 野々村は恐怖のあまり声すら上げられず、凍ったように動けなかった。
 少女の冷たい手が野々村の頬を撫でる。
 そして彼の耳元で、そっと囁いた。
「野々村先生。奥さんと、子供をちゃんと愛してあげてください。あたしのように、階段から突き落としたりしないでね。じゃないとあたし――」












 野々村の研究室から出た阿頼耶は、痛む体を引きずって通路を歩きながら、これから野々村と早苗の関係がどうなるかを考えていた。
 あの晩、姑獲鳥との決着がついた後、阿頼耶は早苗に尋ねた。これからどうするのかと。だが早苗は微笑を浮かべて、こう答えた。
『あの人が過去に何をしたかは知りません。でも、私はあの人を愛しています。だって、あの人と私は夫婦ですもの。これからは家族三人で、絆を深めていきます』
 遠くを見つめる柔らかな瞳は母親のそれだった。阿頼耶が知らない“母”という存在を、すぐ近くで感じた。
 阿頼耶は冗談ではなく、本当に早苗に一目惚れをしていた。手助けをしたのも、あわよくばという打算が無かったと言えば嘘になる。
 だがあの夫婦の間に自分が入る余地はどこにもない。どれだけ野々村が最低な男だとしても、早苗は野々村から離れることはないのだろう。
「悲しいけど、失恋に慣れててるからなあ俺」
 自分を慰めるように独り言を呟き、双葉学園の研究施設を歩いていく。自分もいずれはあのように家族を作るのだ。それだけが阿頼耶の望みであった。
「あっ」
 ふと通路の向こうから見知った顔が歩いてくるのが見えた。
 長い髪の毛を後ろに結い、男勝りな印象を受ける二十代後半の女性。その髪の先は、わずかに白くなっている。
「那美《なみ》さん!」
 阿頼耶は右足を骨折しているのも忘れ、その女性――難波《なんば》那美のもとに駆け寄った。松葉杖が足に引っかかり、スっ転びそうになる。
「やあ、誰かと思ったら阿頼耶くんじゃないか」
 ノンフレームのメガネをくいっと指で上げて、那美は足を止めた。
「お久しぶりです。珍しいですね。那美さんがうちの研究施設に来るなんて」
「たまには私も自宅から出るさ。家に籠って研究三昧じゃあ、ミナのやつもうるさいしね。それに今日は資料を取りに来る用事があったんだ」
 そう言う那美の脇には、確かにラルヴァに関する資料が挟まっている。
 那美は市外の邸宅を研究所にしているラルヴァ研究者だ。この双葉学園の卒業生であり、凄腕の異能者だった。そして何より“|荒神の手《ゴッドハンド》”を身に宿し、半ラルヴァとして人間の世界で生きている阿頼耶の先輩とも言えた。
 十年前。悪徳研究者の所に売り払われ、拷問染みた研究に付き合わされていた阿頼耶を保護したのが彼女である。
 それ以来阿頼耶は那美のことを恩人として慕っていた。
 那美にとって阿頼耶は、多くの救い出してきた人間、あるいはラルヴァの中の一人であろう。だが例え彼女にとって自分がその他大勢の一人であっても、阿頼耶が那美への恩を忘れることはない。
 そして自分の初恋が那美であったことは墓まで持っていくつもりだ。自分では彼女のパートナーになれないことを、阿頼耶が一番よく知っていた。だから阿頼耶は新しい恋と出会いを求め続けているのだ。
「しかし、酷い怪我だな阿頼耶くん。また無茶をしたんじゃないか。きみが卒業後、超常問題対策課に就職するとは思っていなかったよ」
「はい。でもこんな怪我をするなんて、俺はまだまだ未熟です」
「ふむ。それで、首尾はどうだったんだ」
 那美はなにげなしにそう尋ねる。
「上々です。大事な人を、守ることができました」
 那美の問いに、阿頼耶はまるで母親に満点の答案を見せる無邪気な子供のような笑顔で答えた。満足しきった顔である。
「そうか。偉いな。誉めてあげよう」
 そう言って那美は阿頼耶の頭に手を乗せた。そしてくしゃくしゃっと、荒っぽく頭を撫でる。那美からすれば阿頼耶は十年前と同じただの子供なのだろう。
 だがそれが阿頼耶にはとんでもなく嬉しい。子供扱いされようが、こうして那美に褒められることは至上の喜びであった。こんな大怪我をしてまで、戦ったことがこれで報われた気がする。
「那美さん」
「なんだ」
「今から、俺とお茶しませんか?」
 那美はきょとんっ、とした。
 だがくすりと笑い、
「すまんな。これから仕事でな。その後はミナと用事があるんだ。また今度な」
 そう言って断った。阿頼耶もふっと笑みを浮かべる。
「そうですか。残念です。それでは、またいずれ」
「ああ。元気でやれよ」
 そうして那美は反対方向に歩いて行き、阿頼耶もまた松葉杖をひょこひょこ動かして前へと歩きはじめる。
「じゃあ一人で喫茶店にでも行くか」
 今度こそ愛し愛される女性《ひと》を求めて、女たらしの魔人は今日も街へ出向くのであった。



 完


※一部他キャラをお借りしました。



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