【マリ旅に出る】


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 心を決めて、一歩前に出て、気になる子に声をかけるときの勇気。
 それはとても恥ずかしいことだが、強い興味が彼の背中を押していた。イチゴはただ酸っぱいだけでなく、思わず寄ってしまいそうな甘い香りも含んでいる。
 窓際の席にいて、いつも退屈そうに空を見上げている少女。平田広海は、今日こそはと自分を駆り立てて彼女のもとへ寄る。
「ねえ」
「なに?」
 広海は心に重たい衝撃を感じた。物憂げな少女――九重真璃と目を合わせたのは、これが初めてだったから。
「外行かないのって思って」
 今日の昼休みは週に一度の「学級遊び」のため、クラスのみんなは固まりになって昇降口に向かった。ドッジボールをするらしい。
 だが真璃はいつも教室に残り、こうして曇り空と時間を潰している。教室の後方に敷き詰められた机。さかさまに置かれた椅子。今日も彼女はその風景の中に組み込まれていた。
「楽しくないから行かない」
 そう言い放ち、もう一度窓のほうを向いてしまった。
「僕もあんまり楽しくないんだ」
 その広海の発言に、真璃が向き直った。目を丸くしている。
「何で?」
「運動嫌い。どうせ体育できる子が得するだけ」
「何か情けないね」
「う、ううん?」
 話がおかしな方向へ行ったことに気付き、広海は顔を赤くする。いつの間にか、わざわざ自分の情けない一面を明かしてしまっていた。
 でも、そのとき広海は真璃が微笑んだのを見た。
 彼女の笑顔を目撃したのは彼が初めてである。雲に隠れていた太陽が顔を出し、グラウンドを照らす。消灯された教室が金色の光で明るくなった。
 真璃が笑ったからだとしとしか思えない。広海はそう感じていた。
「顔、赤いよ?」
 そう指摘され、彼はいっそう縮こまってしまった。


 三年生になり、始めてのクラス替えを迎え、彼は真璃と出会った。
 おかっぱ頭に厚いレンズの眼鏡、くたびれた灰色のセーター、そして染みや汚れの見られるジャージのズボン。一日中自分の席に座って動かない様子は、まるで形のおかしな岩が教室の隅に置かれているかのようである。
 滅多に動かないその表情には、彼女のいかなる思惑や憂鬱も浮かび上がることはない。無口で笑わない子だったが、悪い性格の子供ではないことは誰でもわかっていたと思う。
 図工の授業のときだった。風景画を描こうということで、学校敷地内を自由に行動することが許された。みんな仲のいい友達同士で集まり、校舎やらグランドやら、様々なものをモチーフにして画用紙に鉛筆を走らせている。
 日陰になった寒い場所で、真璃は一人ぼっちで絵を描いていた。広海が近づいてきたのを認めると「あら」と言って鉛筆を止める。隣に座ったことに文句は来ない。
 先に口を開いたのは広海のほうだった。
「一人で描いてるんだね」
「いいじゃない。平田くんこそ、友達は?」
「屋上にいるよ。みんなそこで遊んでる」
「平田くんも混ざればいいじゃん」
「怒られたくないからやだ」
「私も」
 彼女はわざとらしく肩をすくめてみせた。
 真璃は作業をてきぱきこなせる子だった。もう下書きは終わっており、高台にある学校から遠くに見渡せる、海の風景が描かれている。
 彼女の横には筆洗いとパレットが並べられており、十二色構成の絵の具も、準備万端といったふうに置かれていた。
「白、全然使ってないね」
 広海がそう指摘したのも、目にも明らかに白の絵の具が、一度も手のつけられていない様子で存在していたためである。赤や黄や黒が減りの早くて目立つせいか、新品同様の状態上体であるそのチューブがとても気になった。
「使わないじゃない」
「使うよ。雲とか描けるよ」
「なら何も塗らなきゃいい」
 卑屈めいた発言に広海は気後れし、何も言い返せない。
 この子はあの空の雲に、色彩が無いと思っている。紅色、薄黄色、水色、灰色。時と状況によって様々な表情を浮かべるというのに。
「白は嫌なの」真璃はそう吐き捨てた。「あっても意味が無い色。あったって困らない。何に使ったらいいのかわかんない」
 広海は何となく、聞いていて辛くなった。
 真璃はいつもの退屈そうな目をして周りを突き放すときのような、冷めた態度でそんなことを言っているのではなかった。その横顔には、底知れぬ孤独が浮かび出ている。
 何とかしなければと広海は思った。
「意味なくなんかないよ。僕は好き!」
「……変な人」
 精一杯気持ちを込めて言ったつもりが、ため息混じりに素っ気無く返されてしまう。こうなると意地でも話を聞いて欲しくて、広海はなおも食らいつく。
「雲にもいろいろあるんだよ。空の色が滲んだのや、熱い夕焼けに染まったのとか」
「そんなのがあったら、見に行ってみたい」
「え?」
「空飛んでね、広海くんが言ったこと本当か確かめたいの」
 じっと遠くの空を見つめる、真璃。
 そのとき広海は不意に寂しくなった。どうしてなのかはわからない。とにかく寂しくて、自分を一人にして欲しくない気持ちになったのである。
 この子はいつかあの空へ帰ってしまうのかもしれない。このときそんな予感がしていた。
「嘘だったら、嫌だからね?」
 真璃は彼のほうを向き、不敵に微笑んでみせた。広海は「むぅ」と目を逸らす。
 ぱっちり開いた大きな両目は、みっともない眼鏡のせいでなかなか気付けないチャームポイントである。真璃の濁りのない、ガラスのような瞳に捉われてしまうと、広海はどうして彼女がクラスの男子に話題にされないのか不思議でたまらなかった。
 いつか言ってあげたいと思っていた。どこまでも素直で、素朴な気持ちを、そのままに。


 この日は塾があったので、宿題を済ませるため早く帰宅しようとした。横断歩道の信号待ちをしていたら、後ろから肩をとんとんと叩かれる。
「あ、マリちゃん」
「何で無視するの?」
 あっと広海は失態を自覚する。家路を急ぐあまり、途中で真璃を追い越していたのだ。真璃に言わせれば「待って」と呼び止めたそうだが、全然わからなかった。
「ヒロくんまでそうなんだ、ひどい」
「違うって、ごめん」
「知らなーい」
 信号が青になり、真璃は歩き出す。慌てた様子で広海が追ってくる。彼女はこっそり笑みを浮かべ、彼を従えていた。
 国道は緩やかな勾配に入り、ほんのひと時だけ林を突っ切る。二人の暮らす町は起伏が多く、まだところどころにある緑豊かな山や森林が、県によって保護されている。
 真璃はさらに足を速めて広海を引き離しにかかった。国道から林の中へと通じる、石造りの階段。彼女はひょいひょい上っていってしまう。
 広海は肩を上下させて、野うさぎを追って階段を上がる。頂上には祠があり、周辺に残されたわずかな自然を崇拝し、守り続けている。真璃を見失ってしまい、辺りを伺っていたところを「わっ」と背後から驚かされた。
「変な顔」
 瓶底眼鏡の少女は意地悪っぽく笑った。蓋を開けてみればこんなにもお茶目な子であり、広海はたじたじな気分になる毎日ばかりである。でも悪くはない。
 そのとき、二人とも「猫の鳴き声」を耳にした。
「上だ」
 真璃が指を差す。見てみると、はるか上空の枝に黒い仔猫が乗っている。降りられなくなってしまったようだ。
「しょうがない子」
 赤いランドセルが大木の根元に置かれる。身軽になった真璃は、突然木登りをし出した。それに広海はびっくりする。
「危ないよ!」
「大丈夫。得意だから」
 確かに彼女はすいすい登っていく。ぼんやり突っ立って見上げているうちに、真璃は瞬く間に黒猫のもとに到達した。そして片手で猫を抱き、彼女自身も降りようとしていた。
 しかし、そのとき靴紐が枝に引っかかってしまった。
「あ」
 彼女はさかさまになってしまう。瓶底眼鏡が振り回され、外れた。
「マリちゃん!」
 広海は青ざめた。枝がしなって激しく木の葉を揺らし、ひっくり返った真璃が降ってくる。
 ところが、奇跡が起こった。
 真璃の体が白く発光したのだ。すると速度が急激に落ち、彼女は緩やかに降下してくる。
 一分一秒が、広海の心臓の鼓動よりも遅い。木の葉が真璃を追い越し、ひらひら舞い落ちてきた。やがて彼女が目の前にまで降りてくると、広海は難なく真璃を抱きかかえるかたちで受け止め止めることができた。
 だが危機はこれで終わらない。仔猫や真璃のいた太い枝が折れて、広海たち目掛けて落下してきたのである。
「うわっ!」
 とっさに彼は右手で小石を掴み、枝を狙って投げていた。ハンドボール投げの成績が良くないことは百も承知であったが、無我夢中だったのだ。
 すると見事直撃したのか、枝はあと少しというところで粉砕される。細かい木屑が大量に降ってきた。運が良かったと、広海は額の汗を拭いながら安心する。
 腕の中の少女はまだ、ぼやけた光に包まれている。そして不思議な力の具現が収まったのち、少女はうっすら両目を開けた。
 目と目が合うと、広海はたまらず顔を赤らめた。素顔の真璃は広海の思っていた通り、両目のぱっちり開いた可愛い女の子だった。結局のところ何が起こったのか、全く理解が及ばないが、危機を乗り切ったことに彼は胸を撫で下ろす。
 だが真璃はというと、やはりそういう気にはなれないようだ。黒い瞳が一瞬で潤んだとき、広海は「えっ!」と驚愕してしまう。
「ふぇええん」
 広海に抱きつき、泣き出してしまった。
「怖かったよ!」
 もちろん、真璃の泣き顔を見てしまった人物は彼が始めてである。
 困惑と羞恥で、広海の頭の中がぐるぐる回っている。女の子の聞き慣れない泣き声と、黒猫が「みゃあん」と鳴いたのだけはきちんと耳に入っていた。


 不可思議な出来事から土日を挟み、月曜日がやってきた。
 この日、広海はたまたま遅刻をしてしまった。朝寝坊である。両親は共働きで早朝から不在なため、いつも彼は一人で起床し、身支度をして朝ごはんを食べ、小学校に向かっている。
 楽しい夢を見ていた。真璃と一緒に何かに乗っかって、空を飛んだ夢である。
 それは洗練されたデザインの飛行機だったか、丸くて柔らかいクジラの背中だったか、ほとんど覚えていない。広海はいつまでもその夢を見ていたかった。
 と、そのようなことがあったので今日はいつもよりも早く給食の時間がやってきた。お昼に流れる音楽が途切れ、教室の話し声しか聞えなくなる。
 広海は何気なく話題に出すといった感じで、友達にこんなことをきいてみた。
「九重さん、休みなんだね」
「九重? 一組の九重えつこのこと?」
「何言ってんだよ、ウチの九重さんだよ」
「頭大丈夫か、お前」
 食パンにイチゴジャムを塗りたくっていたその手を、止める。
 そのとき広海は、これはただの欠席でないような気がしていた。非常に悪い予感がする。
 彼の感覚は異常なぐらいに研ぎ澄まされていた。巨大な歯車がゴトリと音を立てて動き出したのを、確かに広海は聞いたのである。いきなり立ち上がり、担任のデスクに置いてあるクラス名簿を開く。
 無い。
 九重真璃の名前が、無い。
 信じられないあまり、気が遠くなってしまいそうであった。
「どうしたの、平田くん?」
 そこに女性の担任教師がやってきた。広海がいつも私生活で一人ぼっちであることを知っており、何かと気にかけてくれる優しい人である。
「そうそう平田くん。悪いけど、今から視聴覚室に行ってくれない?」
 唐突過ぎる担任の指示。ぞわりと、背中の毛が逆立つような感触を覚える。
「今日の朝の会に、東京から来た偉い方の『お話』があったんだ。平田くんは遅刻しちゃったから、まだ聞いてないよね?」
 広海は最後まで担任の話を聞かなかった。逃亡するかのように教室を出る。
 靴を履き、昇降口を飛び出す。グラウンドを駆け抜けて校門を抜ける。学校なんてどうでもよかった。得体の知れない巨大なものを、広海は全力で振り切らなければならなかった。
 何が彼をそこまで駆り立てたかというと、それは悪い勘であり、悲しい予感であることに他ならない。広海たちの運命は動き始めた。彼はそのことを自覚していた。
 国道。スーパーの前。製鉄工場の脇。鉄道の大踏切。慣れ親しんだ町を駆ける。
 やがて、彼は潮の匂いに迎えられる。


「ヒロくん」
 物憂げな少女は驚いた様子も見せない。海岸沿いの県道で、景色を一望していたところだった。高台よりも海岸のほうが、一面の空を眺めるには絶好の場所である。
 彼女を取り巻く人間たちが、異様な雰囲気をかもし出していた。みな広海よりもずっと年上で、高校生ぐらいの人たちであった。脇には黒い車が置かれている。
「この子、どうして!」
 女の人が焦りを見せ、広海に近づこうとする。しかしリーダーらしき男の人がすっと左手を伸ばし、「やめとけ」と制止を促した。上機嫌に微笑んでいる。
 彼らは、広海と真璃のやりとりを見守ることにしたのである。
「もしこれでお別れって言ったら、どうする?」
「……」
 広海は下唇を噛み締める。真璃を見つめる視線の力は、強い。
「私ね、もう二度とヒロくんに会えないんだ」
 けど、広海にはわかっていた。自然と了解していた。
 真璃が自分たちとは違う子で、不思議な能力を持っていて、いつの日か自分の前から姿を消してしまうことを。彼女は大空へと舞い上がり、手の届かないところへひらりひらり飛んでいき、長い旅に出てしまうのだ。
「どうしても行かなきゃならないんだね」
「うん」
「待ってるよ」
 今度は真璃が黙った。じっと広海を見つめながら。
 やがて広海はとうとう我慢できずに、その場で泣き出してしまった。大粒の涙が、乾いた砂に覆われた歩道にいくつも落ちていく。
 それでも彼の想いは一貫していて強かった。一生懸命、自分の大好きな女の子に、自分の言葉を伝えようとする。
「一生待ってるよ。ずっとここで待ってるからね」
 そんな彼の口元を、そっと真璃の唇が覆った。
 ぎゅーっときつく抱きしめられる。きちんと立っていなければならないのに、今にも頭が丸ごと熱で溶け、腰が砕けて全身が崩れてしまいそう。
 眼鏡の少女は口を離すと、一つだけ小粒の涙を流しながらこう言った。「すきだよ」。
 広海はというとぼろぼろ大泣きをしながら、真璃に笑った。くしゃっとした明るい表情を、真っ白な上下の歯を、心からの笑顔を、愛しい真璃に見せてあげた。彼女も微笑みで応える。
 真璃は黒い車に乗り込んでしまった。もう振り返って広海を見ることは無い。彼が切なげな表情を浮かべて、車のテールランプを見つめていたところであった。
「いいガールフレンドだな」
 先ほどのリーダー格のお兄さんが、広海のところに近づいてきたのだ。
「会えるといいな。いやお前たちならできる。また会えるよ」
 そして、どん、と両手を広海の両肩に乗せる。彼の手は熱くて、分厚くて、とても大きい。広海ににっこりとして、力強い口調でこう言った。
「だからヒロミ、絶対にマリちゃんのこと忘れんなよ」
「うん」
 きちんと彼の目を見て、広海は堂々と首を縦に振る。
 視界がぼやけ、広海は白く透き通ったお昼過ぎの空へと、吸い込まれていくような感覚を抱いた。それまでのきれいな思い出が色彩を失って薄まり、さざ波の音が遠くなっていく。


 強い波の音が広海を起こした。
 彼は浜辺で寝転んでいた。いつからそうしていたのか、覚えていない。
 目の前はあかね色に染まっており、携帯電話を見ると、夕方の18時を過ぎていた。もうすぐお惣菜の宅配がやってきてしまう。早く家に帰り、一人でご飯を済ませ、明日の塾に向けて勉強をしなければならない。
 飼い猫のシロの世話もしないといけない。先週の金曜日、広海が下校途中に拾った黒の仔猫である。とても可愛かったし、両親も優しく理解を示してくれたので、一人で世話をすることを条件に飼い猫として迎えることができた。
 だけど、ふと、広海は素朴に疑問を覚える。
「どうして黒いのに、シロなんだっけ」
 それは自分がずっと守っていかなければならない、大切な思い出であり、しるしであるような気がしていた。


 砂に覆われた階段を上がり、県道に出る。赤信号で立ち止まったとき、広海は舌先にほのかな甘みを感じた。
 彼の唇には、甘酸っぱいイチゴの味が残っていた。



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