【壊物機 第八話 後編】


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 ――おまえはナマエからダメなんだよなー
 ――え? どうして、おねえちゃん
 ――そんなしにそうなナマエだからよわいんだ
 ――ひどいよー……
 ――だからアタシがとびっきりツヨそうなナマエかんがえてやるよ
 ――いらないよー……
 ――いいからいいから、そうだな――■■■■だ!
 ――みょうじまでかわってるよー
 ――いいんだよ! つよくてわるそうで、しにそうにないナマエだろ!

 ||||||

 語来音色《ネロ》は自分を普通の人間だと思っていた。
 異能力者やラルヴァといった裏側の意味ではなく……単純に自分は平凡な人間だと思っていた。
 彼は両親を早くに亡くしている。それだけで十分に不幸で、平凡ではないはずだが、やはり彼は自分を平凡な人間だと思っていた。
 その理由は彼の姉と弟に起因している。
 年子の姉は、何と言うか、『漫画的な』人物であった。
 腕っ節が強く、豪快で、中学生の時には市内の全中学校の不良グループの頭目になる、なんてそれこそ漫画のようなことを平然とやってのけていた。
 そんな行動力に溢れる姉とは対極に、弟の灰児は極めて頭が良かった。四歳の頃には、小学校を卒業する音色よりも十年分は頭が良く、世間では神童とも言われていた。
 動と静、両面から常識外れの才能を持った姉弟をもち、彼はそのことを妬むでもなく……ただ、自分は普通だと思っていた。
 正しい意味でのみにくいアヒルの子と冗談半分に自分で言っていた。

 親を亡くしてからの生活も人と違う二人を支えることが自分の役目だと思い、過ごしていた。
 そんな彼の生活が大きく変わったのは彼が高校に上がったころのことだ。
 姉と弟。二人が揃って家を出たのである。
 弟の灰児はイギリスの大学への招待留学、姉は高校を中退して何かの仕事につき世界を飛び回ることになったらしい。
 二人の決断が両親を亡くした家の家計を助けるため……と言うよりは音色の将来のためだというのは彼にも薄々わかっていた。
 それでも一抹の寂しさを覚えながら、彼は特別でない自分は何をすればいいのかを考えて……医者になることを決めた。
 なぜその道を選んだのかは彼自身にもよくわからなかった。母親が病で亡くなったためかもしれなかったし、単純に人の役に立つ仕事に就きたいと思ったからかもしれなかった。
 何にせよ、彼は医者を目指して勉学に励み、一度浪人してから都内の大学の医学部へと進学した。

 そんな彼がある病にかかったのは大学に入って三年目のことだった。

 ・・・・・・

[気ニ、ナリマスカ?]
 導師が糜爛の心――内側の世界とやらを覗き始めて一時間もした頃、フェイスはメフィにそう問いかけた。
「…………」
 返事はしなかったが、メフィにしてみれば気にならないわけがない。彼女のマスターである糜爛の命は今、導師とフェイスに握られているようなものだ。
 行為が始まってからの一時間、彼女はずっと気を張って二人を見張っていた。
[心配ナラ、導師ノ頭ヲ使ッテ、貴女モ、覗イテミレバイイデス]
「頭?」
[ソレデ、導師ガ見テイルモノト、同ジモノガ、見レルデショウ]
「…………」
 双眼鏡なのだから、それも道理と言えば道理ではあるが……。
「そんなことを許していいんですか? 覗くふりをして近づいて、その双眼鏡の首を圧し折るかもしれませんよ?」
 導師の首は細い金属で成っている。これなら体重をかければ外見通りの力しかない今のメフィでも折れるだろう。
 挑発と皮肉を込めてメフィはそう言ったが、
[デキマセンヨ]
 フェイスは微塵も動じずに答えた。
[今、導師ヲ殺セバ、貴女ノマスターニ、ドンナ影響ガ出ルカ、ワカリマセン]
[何ヨリ、戦イヲ望ム『断片』ガ、ソウナラナイヨウニ、スルデショウ]
 その二つの要因から、メフィがこの場で導師を殺すことは出来ないと、フェイスは言った。
「あなた達はまるであの石が全てを動かしているように言いますね」
[ソノ通リ、デス。アレガ、動カサナイノハ、勝敗ノ、行方、ソレダケ、デス]
 それが彼らの妄信なのか、事実なのかはメフィにはわからなかったが、今導師を殺せば糜爛にもどんな影響が出るかわからないという第一の理由があるため、隙を突いて導師を殺すことは断念した。
 そして、フェイスの言に従うわけではないが、メフィにとっても……糜爛のルーツや心の内は知りたいことではあった。
 今日一日を通して垣間見たメフィの知らない糜爛の印象。喫茶店での会話に端を発した糜爛の背景や、心境の変化。それらの原因となるものを、彼女自身が知りたいと望んでいた

 だから、彼女は糜爛の心を覗いた。

 ||||||

(来たのか)
(私も知りたいことがありますから)
(最初から見るかね?)
(人のマスターの過去を映画みたいに……。いえ、結構です。要点だけで)
(そうか。なら見ていくがいい。ここからが、彼が今の彼になった原因のはずだ)

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 医学部に進学した彼はそこで難解な授業内容に頭を捻りつつも仲間と遊び、姉弟との電話を楽しみながら、ごく普通の医学生として生活を送っていた。
 そんなある日の朝、目を覚ました彼は奇妙な息苦しさを覚え、咳をした。
 最初は季節柄風邪かと考えた。
 ところが、適切な処置をし、数日待っても息苦しさと咳は収まらず、仕方なく彼は自分が通う大学の附属病院の診察を受けた。医者の不養生だな、と言われるのは恥ずかしかったが背に腹は変えられなかった。
 しかし、聴診やレントゲン写真をとってもノイズはなく、影一つ映っていない。彼の身体には何の疾病もなかった。
 だと言うのに、息苦しさは日を追うごとに増すばかりだった。
 彼自身は経験がないのでわからなかったが、その息苦しさは……真綿でゆっくりと首を絞められる感覚に似ていた。

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(医者の卵だったんですね)
(そのようだ。意外かね?)
(そういえば、前に死体を見慣れているようなことは言っていましたね)

 ――悪魔ちゃんとのランデブーは鉄火場くぐること多いしねぇ。その他にも色々と

(そういうことだったんですね。あのときはヤクザの鉄砲玉でもしていたのかと思っていました。今の人相はこの頃と比べると雲泥の差で悪人面ですし)
(容赦のない意見だな。……と、続きのようだ)

 |||

 恒常的な息苦しさはあったが、熱や体の痛み、だるさといったものはなく、慣れれば日常生活を送るにはあまり支障はなかった。
 そのため、症状が軽くなった日を見計らって彼は授業や研修に参加していた。
 彼は真面目な学生だったのだ。

 ただし、彼の真面目さは彼に、そしてこの後、彼の手にかかる全ての人間にとって……決して良いことではなかった。

 彼がそれを発見してしまったのは、その真面目さゆえに教員でもある医師のカルテの整理を手伝っていたときだった。
 たまたま彼以外に誰もいなかったときだった。カルテを仕舞う最中、不意に息苦しさで咳きこみ、持っていたカルテを取り落としてしまった。
 彼は落としてしまったカルテを片付けようとして――偶然にも彼自身のカルテを手に取った。
 彼は自分のカルテを手にとって少し悩んでから、カルテを開いた。ページには先日撮ったレントゲン写真が貼られ、記入欄には自分の名前や生年月日、血液型、現在罹患している病気の名称が書かれていた。
 そこで、彼は疑問に感じた。
 なぜ、病気の名称が書いてあるのだろうか、と。
 彼の病は……原因不明のはずなのに。
 病気の名称の欄にはこう書かれていた。

 『M型強迫性呼吸障害』、と。

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(M型強迫性呼吸障害?)
(……そうか、だから彼は……)
(一人で納得していないで私にも説明してください。字面は精神病のようですが)
(彼の記憶を見続ければわかるだろう。彼もきっと、知ることになったのだから)

 |||

 『M型強迫性呼吸障害』。
 自分の病気の名称を知ってから、そのことばかりが頭の中を占めていた。
 医師にどういう病気なのかと率直に尋ねるのは、どうしてか気が引けた。
 尋ねるのは自分が(自分自身のものとはいえ)許可なくカルテを盗み見た件を白状することであり……教えられていなかった、ということ自体が何か聞いてはいけない理由のような気がしたからだ。
 人に聞かず、医学書やインターネット、海外の論文などを頼りに調べてみたが芳しくはなかった。似たような名前の病気、あるいは似たような症状の病気は数あれど、どれも一致しない。お手上げだった。
 暗中模索の日々を送っていたある日、彼は気分転換に散歩に出かけることにした。
 息苦しさを抱えている彼に東京の空気はお世辞にもうまいとは言えなかったが、ずっと病院や自室の壁とにらめっこしていたのでは精神的に参ってしまう。
 そんな理由から、とりあえずは広い水平線と空が見たくなり、彼はバスに乗って東京湾に沿って敷設された遊歩道へと向かった。(一応免許と車は持っていたが、下手に発作が起きて事故でも起こしたら目も当てられないのでタクシーにした。結局その車――父親の遺したデロリアンにはほとんど乗らずじまいだった)
 観光地でもある遊歩道に到着したが、結局彼の望むような広い水平線は見られなかった。
 そう、東京湾には十年前からある『街』が作られていた。東京都の最も新しい区、『双葉区』だ。
 東京湾を埋め立てて実験的に作られた街。ただし、複雑な事情で出入りするには許可証が必要らしく、それが原因で出来てからの八年は色々な噂が立っていた。SFに出てくるような超科学都市だという噂や、あるいは逆に風水的に東京都を守るための魔術都市だという眉唾な噂もあった。
 今もまだ街のあちこちが建設中らしく、大河のような海を挟んで建設の音が聞こえてくる。
 彼は遊歩道に設置された真新しいベンチに座り、周囲に視線を巡らせた。
 街の開発と同時期にスタートした東京湾の浄化計画によって彼の眼下の海は綺麗な蒼に染まっていたが、彼が見たいのは綺麗な海ではなく広い海なのだ。この綺麗な海は泳ぐにはいいのだろうが、如何せん今の彼は病人であり、季節は夏にはまだ早かった。
 いっそのこと千葉にまで足を伸ばし、ホテルに部屋をとって泊りがけで思う存分に太平洋を眺めてやろうか、彼がそんなことを考えていると彼の座っていたベンチに、彼のすぐ隣に、別の誰かが腰を下ろした。
 彼がそちらを向くと、そこに座っていたのはうさぎの耳の■■だった。

 |||

(画像が荒れていますが、どういうことですか?)
(彼の記憶がこの出来事をよく覚えていないか、あるいは)
(あるいは?)
(誰かが私の能力にジャミングをかけている)
(…………)
(しかし、大筋を見ることは出来るようだ)
(……先を見ましょう)

 |||

 うさぎの耳の■■の変わった格好に彼は驚いた。今日この辺りでは仮装パレードでもやっているのだろうか、と張り紙や他の参加者を探したが見当たらない。
 それ以前に、観光地であるはずの遊歩道に今は彼とうさぎの耳の■■しかいなかった。
 不思議に思い、首を傾げている彼にうさぎの耳の■■は言った。
「何かをお探しかな?」
 人を、と答えると
「君が探しているのは『人』じゃないだろう? いやあるいは『人』であっているのかな、順序が跳んでいるけれどね」
 うさぎの耳の■■の言葉が彼には理解できなかった。
「君が探しているのは、これだろう?」
 うさぎの耳の■■が彼に差し出したのは一冊の医学書だった。それは彼の読んだことのない医学書で付箋代わりに押し花の栞が挟まっていた。
 君は本屋なのか、それとも医者かと尋ねると
「時計屋だよ。普段はここまで足を伸ばさないけど面白いものを見つけてしまったからね。それより、読まないのかい? それを読めばきっと止まり続けていた君の時間は進み始めるはずだよ」
 促されて、彼は栞の挟まっているページを開いた。
 そこには『M型強迫性呼吸障害』と書かれ――

 ――――

 『M型強迫性呼吸器障害』
 エネミー症候群とも呼ばれる。
 分類は神経病とも、精神病とも言われており、珍しい症例ではあるが古くから存在する。しかし、現代の医学でも解明できていない。
 罹患者は呼吸器系に重い息苦しさを覚え、それが数ヶ月かけて段々と強まり喘息に似た症状を引き起こし、最終的には呼吸不全で死に至る。
 この病気の最大の特徴は次の点である。

 ・この病気は他者を殺害することで症状が改善される

 過去の事例としてはこの病気に苦しみ、パニック状態となった男性が妻を誤って殺害し、その症状が治まった例がある。しかし症状の緩和は一時的なことであり、一週間後に男性は症状がぶり返し、そのまま警察病院で死を迎えた。

 ・この病気には他者の殺害を除いて治療法が存在しない

 治療法はそれ一つしかない。法治国家において患者のために誰かを殺害させ続けるなどということは出来るはずもなく、また、罹患者自身もそれを拒否するケースが多い。
 この病気の罹患者は主に次の三例にわかれる。

 ・発作的に人を殺すも逮捕され、抑留中に死を迎える
 ・人を殺すも自責の念にかられ死を選ぶ
 ・自身の病気の詳細を知らず、そのまま死に至る

 そのため、現在の医学会ではこの病気に罹患した者には病気の詳細を知らせず、そのまま呼吸不全で亡くなることを容認している。

 ただし、罹患者は本能的に自分の病気を改善する方法を知っているはずである。

 ――――

 ページを読み終えて、彼は溜息をつき言葉を漏らした。
 馬鹿馬鹿しい、と。
 もっともらしいことは書いてあるが医学書の体裁になっていないし、人を殺さなければ死ぬ病気など妄言としか思えない。何より、自分は今まで誰かを殺したいと考えたこともない、と言えば嘘になるが、この病気になってそういった感情が強まったことはない。
 彼はそう言って本から顔を上げ、うさぎの耳の■■の方を見たが……誰もいなかった。
 うさぎの耳の■■は気配なく、その場から消えていた。
 そして彼が違和感を覚え、手元に視線を落とすと……持っていたはずの本が消えていた。
 彼は言いようのない薄気味悪さを覚えた。
 夢でも見ていたのか、それとも幽霊か何かに化かされでもしたのか。どちらにしろ気分は最悪だった。
 一刻も早くこの場を離れようと立ち上がると、靴底が何かを踏みつけた感触がした。
 足元を見ると、それは一輪の花――押し花だった。
 それはあの本に挟まっていたはずの栞だ。
 彼は、その花を知っていた。
 ヘムロック。
 痙攣性の毒花であり、哲学者ソクラテスが死刑を宣告されたときに飲んだ花。
 花言葉は――『死も惜しまず』

 |||

(…………)
(そういうことだ。彼が人を殺すのは病から、自分の死から逃れるための行為。人間としては間違っているとも言えるし、生物としては正しいとも言える。仕方がないと言えばそれだけのこと)
(はぁ)
(ん?)
(これ、違いますね)
(何がだ?)
(病気のせいで仕方なく? そんなわけがないでしょう。そんな理由だったら、金品を奪う理由も女性に乱暴する理由もありません。糜爛が今みたいになったのはこの病気が原因じゃありませんね)
(しかし)
(しかしもへったくれもありません。きっとこの後に本命の理由があるんですよ。ほら、場面が次に移っ……て……)
(どうした?)
(此処、この、場所は……)

 |||

 遊歩道で夢とも現実ともしれない出来事に遭遇したせいか、海を見る気力はなくなっていた。
 気だるさを感じ、息苦しさも強まっていた。早く家に帰って今日はもう寝てしまおうと、来たときと反対の路線のバスに乗った。
 湾岸線を通るバスの車窓からは『双葉区』と、区と本土を繋ぐ唯一の道である双葉大橋が見えていた。
 車窓にもたれるようにしながらボゥっと外の景色を見ていた彼は、窓越しに何かが聞こえるのを感じた。
 最初はバスのエンジン音に紛れて気づかなかったが、それは空気を叩く音――ヘリコプターのローターの音だった。
 すぐに音は騒音と言えるほど大きくなり、随分と低いところを飛んでいるんだなと彼は思った。

 次の瞬間、バスの前半分を押しつぶすようにヘリコプターが墜落した。

 彼が座っていたのは最後尾で、潰されずには済んだ。
 しかし、その悪運にどんな意味があるのか。
 バスは一秒後には横転し、そこから後続の車両を巻き込んで大事故に発展して彼は死ぬ。
 あるいは一秒後にはガソリンが爆発炎上して彼は死ぬ。
 そうでなくても一秒後には飛んできた破片が彼の身体を貫いて彼は死ぬ。
 彼の死は一秒後に確定し

 一秒後は訪れなかった。

 バスは横転しない。
 ガソリンは炎上しない。
 破片は彼を貫かない。
 全てが静止していた。
 人も物も音も、彼以外の全てが静止していた。
 あまりに不自然な光景に、また夢を見ているのかと呆然としていた。
 そして静止した世界に、彼以外に動くものが現れた。
 墜落したヘリの中から、雛が卵の殻を破るように、何かが現れた。
 それは――悪魔だった。
 漆黒のクロームと輝く黄金で造られた身体。
 暴力と美しさを一体化させた造詣。
 そして、中央の心臓が如き時計の意匠。

 それは――時計仕掛けの悪魔だった

 それを初めて見たとき、彼は言葉、呼吸を失った。
 自らを常に苛む息苦しさが失せてしまうほどの衝撃。
 周囲の生存者……静止した者達と同じように声を上げることも挙動することも叶わない。彼は、静止した時の住人に溶け込んでしまっていた。

 ヘリから現れたのは悪魔だけではなかった。
 女性。白衣を着た、彼より少し年上の女性が悪魔の作ったヘリの裂け目から現れた。
 その女性は失敗した、もう少しだったのに、追いつかれる、と言葉を漏らしていた。
 それから女性は悪魔に周囲の警戒をしろと命令した。そして悪魔は女性に従って、すでに半ばはみ出していた身体を完全に車外へと出した。
 どうやらこの女性が……あるいはこの女性が従えている悪魔が今起きている現象の原因らしいと彼は悟った。
 彼は女性に声をかけようとした。何が起きているのかと尋ねようとした。
 しかし、彼が言葉を発するより早く、その女性はナイフ――機械仕掛けの奇妙な形状のナイフを取り出し、一番近くにいた息がある――今は静止している乗客の男性を刺し殺した。
 刺された男性は抵抗も、苦悶の声を上げることもできず、そのまま風化するように消えてしまった。
 足りない、このままじゃ時間が足りない、逃げ切れない、永劫機に時間を。憑かれたようにブツブツと呟きながら、女性は乗客を順に刺し殺した。
 彼は喉から漏れそうになる声も、悲鳴も、咳も、呼吸も全てを再度止めなければならなかった。今度は自分の意思で、必死に。
 殺される。もしも、自分が動けることを知られたら、真っ先に殺される。そう確信した。
 しかしそうして、他の乗客の中に紛れていても死んでしまう。
 きっと女性は乗客を全員殺すだろう。何かの目的をもって何人も何人も殺すだろう。
 自分は最後尾だから殺されるのは最後かもしれない。最後には殺される。
 恐怖で足が震える――それを懸命に抑えこむ。少しでも生きながらえるために。でも結局は殺される。
 死ぬ。
 彼の順番だった。
 女性は右腕を引いてそのまま突き込んだ。
 彼は女性の右腕を左腕で掴んだ。
 予想外の出来事に理解が追いついていない女性から彼はナイフを奪い取って女性の心臓を刺して殺した。
 とても的確で、正確で、何てことのないように彼は女性を殺した。
 自分が動いたらその瞬間はきっと隙ができる、奪ったら狙うのは心臓、頭は頭蓋骨があるし首の血管を切ってもすぐには死なない、心臓を狙うなら肋骨に邪魔されないように下から刺し込む。
 そんな風に冷静に考えて、医学で学んでいた人体の知識も使って事を成した。
 終わった後も、女性が死んだら止まっている今が動き出すかもしれないとすぐにバスから降りて避難した。
 事実、直後に堰き止められていた時間が動き出し、バスを中心に大事故の様相を呈した。
 その惨状を眺めてからようやく、彼は脳裏に疑問符を浮かべた。

 ――なんで俺は殺したんだ?

 ナイフを奪うだけで十分だったはずだ。
 それなのに、確実に殺すための動作を何の躊躇いも葛藤もなく、彼の手は完了した。
 女性は何人も殺した。あのままでは彼も殺されていただろう。しかしそれは彼が女性を殺す理由にはならない。倫理と道徳により否定されるべき、拒否すべきだった行為だ。
 しかし実際には、あっさりと、倫理と道徳が出る間もなくやっていた。

 ――これは……駄目だよな
 ――俺は普通なのに、これは駄目だ
 ――俺は普通なのに、何でこんなに…………落ち着いてるんだろう?

 人を殺したばかりなのに、彼はスッキリとしていた。
 まるで胸一杯に高原の空気を吸い込んだような……違う。
 ずっと水の中に潜り続けて、死ぬ寸前まで潜り続けて、やっと息継ぎをできた。そういう風に感じていた。
 身体ではなく心が。
 『M型強迫性呼吸障害』に冒された身体が、ではない。そんな肉体の息苦しさの解消などどうでもいいほどに、彼の心はこの上なく満ちていた。
 飢えた獣が久しぶりに……否、初めて食事を得たように。
 『M型強迫性呼吸障害』。そんな病気が何だというのだろう。そんなものは単なる付け合わせで、引き金の一つに過ぎなかった。
 彼の心はそんな病気がなくても本能的にいつも誰かを殺したがっていた。
 罹患者が覚える殺害の本能など、罹る前から持っていたのだ。

 結論を言えば、彼は根っからの――人殺しだった。

 彼は自分を普通だと思っていた。
 正しい意味でのみにくいあひるの子だと自分で冗談半分に言っていた。
 しかしそれは勘違いで、半分だけ正しかった。
 彼の精神と魂は生まれたときから普通ではなかった。
 彼はみにくいあひるの子で……あひるでも白鳥でもなく人殺し。
 それが彼の正体だった。
 『M型強迫性呼吸障害』にかかっていなければ、あの日カルテを見なければ、あの医学書を読まなければ、『悪魔』に出会わなければ……きっと彼は一生自分の正体に気づくことはなかった。

 ――これは、駄目だ。これじゃ、駄目なんだ

 自分自身の正体に気づいてしまった彼は、動揺した。
 彼の心は人を殺したときの平静を知ってしまった。もう元には戻れない。
 しかし、いくら心が人殺しの正体に気づいても、彼の人格はこれまでの人生を生きてきていた普通の、善人だ。
 むしろ、こんな心の持ち主がどうして今まで普通の善人として生きてこられたのか。
 彼はこれまで人を殺してはいけないと謳う倫理や道徳を守って生きてきた。渇望はあれども、彼はそれを無視し続け、気づかずに生きてきた。
 しかし彼は人を殺した。もう無視はできない。ストップもかけられない。
 殺すことによって心と身体の苦しみから解放された彼を、心と身体と人格のアンバランスが責め苛んだ。
 このままでは死んでしまう。
 人を殺さなければ心と身体が死んでしまう。
 人を殺しても人格が楔となり、心が裂けて死んでしまう。
 なら、どうすればいい。
 精神の生と死の狭間で考えて、彼は……。

 ――おまえはナマエからダメなんだよなー
 ――そんなしにそうなナマエだからよわいんだ
 ――だからアタシがとびっきりツヨそうなナマエかんがえてやるよ
 ――いいからいいから、そうだな――■■■■だ!
 ――いいんだよ! つよくてわるそうで、しにそうにないナマエだろ!

「あなたは異能力者……いえ、永劫機の奏者《マスター》の資格を持つ人間なんですね」
 座り込んだ彼の前に見たことのない黒い美少女が歩み寄ってきた。
「私のマスターは死にました。私の契約は終わりました」
 彼は視界の隅で捉えていた。あの悪魔がこの少女へと変じる瞬間を。
 この少女はあの悪魔だ。
「貴方が、私の次のマスターになるのですか?」
 彼は少し考えてから……頷いた。
「私との契約で貴方は自分の時間を削ることになります。よろしいですか」
 彼は頷いた。
「わかりました。私は十二時の永劫機、メフィストフェレス。貴方が望むなら伴侶のように、召使のように、あるいは奴隷のように仕えましょう」
 黒い少女――メフィストフェレスは彼に名乗り、誓い、そして問いかける
「マスター、貴方の名前は?」

「――我楽糜爛。見ての通りの……『悪人』だ」

 彼は自分自身の記号《名前》を変えて、自らの道徳を無視し、悪徳を是とする『悪人』に成り切る道を選んだ。
 生き続けるために。
 他者の死も惜しまずに。


 |||

 ――悪人になってしまいたかったからだよ

 ――善人だと死んじまうから

(…………)
(『悪人』にならなければ死ぬから、『悪人』になる。しかしその行為こそ、それまで培った道徳があれば本来不可能なはず。矛盾している)

 ――家族がいるのに俺みたいになるとおかしいかい?

 ――悪人だから愛を知らないわけでもない

(きっと)
(?)
(きっと本来の彼は、こうして糜爛と名乗っている『悪人』の糜爛の方です。けれど、それは糜爛と名乗ったときまで、ずっと隠れていた。それだけ、彼は家族の中で愛情深く、穏やかに育てられてきたんです。彼の狂気が、出る隙なんてなかった。本当なら、死ぬまで糜爛は、糜爛にならなかった)
(…………)
(そんな彼が『悪人』になってしまった、自分の正体に気づいてしまった原因は病気と)

(悪魔《私》です)

(彼が本当に生きるはずだった人生を、壊してしまったのは、私です)


 ――気にすんなよ、悪魔ちゃん
 ――俺は今の俺になれて満足してるからさぁ


(…………え?)


 ||||||

 回想ではない声が聞こえた直後に、メフィは全ての景色が一瞬で書き換わるのを目撃した。
 彼の――我楽糜爛の記憶の世界から、現実の室内へと。
 視線を向ければ、糜爛の右腕が拘束具を引き千切り、導師の首を圧し折らんばかりに握り締めていた。
「スッキリした」
 糜爛はそんなことを呟き、左手と両足の拘束も強引に引きちぎって立ち上がる。
「すげえスッキリした。いやほんとすげえ。初めて殺したときくらいスッキリした。まぁ本当に殺してきたんだけどさ、夢の中で」
「グ、おぉ……」
 ニヤニヤと笑いながら首を締め続ける。機械であっても首を絞められると苦しみを覚えるのか、導師は苦悶の声を上げている。
 背後のフェイスは導師を人質にとられているため動けないでいた。
「今の夢さ、お前のお陰だろ? ありがとよ、お陰で色々再確認できたわーマジ感謝。人間だったら速攻でぶっ殺してたわ」
 そう言って糜爛はメフィの方を向く。
「悪魔ちゃん。やっぱ今朝からの俺は悪魔ちゃんが言った通りおかしかったな。ちょーっとぐちゃぐちゃ未練たらしく考えすぎてたわー。そうだよなー、今の俺が俺だもんなー、引きずられすぎちゃあ……駄目だよなぁ。センチメンタルも、道徳も、何もかもさぁ」
「糜、爛?」
 思わず、問いかけるような口調になった。
 メフィは糜爛が『悪人』だと知っている。外道だともよく罵る。最悪だとは何度言ったかわからない。
 それでも、違う。
 今の糜爛は、これまでの糜爛と、違う。
 今朝からのブレが、否、それ以前からあった人格のブレがない。
 これまでの粗とも言えた部分――心と人格の擦り合わせが不十分ゆえに生じていた無理な人格構成《キャラクター》――がない。
 完全に人格の、『悪人』の、人殺しの、我楽糜爛のピースが嵌っている。
 記憶を遡行して気持ちの整理がついた、とでも言いたげだ。
 メフィは理解した。
 彼の正体は、記憶の中で見たあの瞬間ではなく……今此処で完全に姿を現したのだ。
「さぁて、何がどうなってんだか実はさっぱりわからねぇけどとりあえず」
 獰猛な笑みを浮かべ、導師を床に叩きつけながら糜爛はフェイスに宣言した。

「殺してやるからかかって来いよ」

 壊物機
 続
ツールボックス

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