【ニコラス・ザ・ウォッチマン】


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 ニコラス・カーペンターはキリキリとする胃の痛みに耐えきれず、コートのポケットから胃薬を取り出して三粒口に放り込んだ。自販機で買ったミネラルウォーターで流し込んでいくと、錯覚かもしれないが、薬が胃に溶けていく感覚がした。
 ああ、嫌だ。仕事は嫌だ。心の中で愚痴を言いながらブロンドの髪を撫でる。
 ニコラスは幼い頃から神経が細く、ストレスに弱かった。二十九歳といういい大人になった今でも変わらない。
 そのためすぐに胃が痛くなったり体調を崩してしまう。特に生まれ故郷のアメリカの大地を離れて、ここ日本の双葉島に転勤してからというもの胃薬に頼りっぱなしである。
 慣れない土地での生活ということもあるだろう。だがそれ以上に今の仕事はニコラスにとって苦痛だった。
 しかし仕事が嫌だからと言って投げ出すわけにはいかない。
 愛する娘と妻のために働かなければならないのが大黒柱の辛いところである。
 ネクタイと気を引き締め、ニコラスは双葉の街の片隅にある煉瓦造りのアパートを訪れた。剥きだしの錆びた階段を上っていき、四階の部屋の前で足を止める。
 深く深呼吸。きゅうっと締め付けられる心臓に「頑張れ」と励ましの声をかけてから、呼び出しブザーを鳴らした。
 しばらくして「どちら様?」という男の声が部屋の奥からかすかに聞こえてきた。
「私、双葉学園研究施設からやってきたラルヴァ生活安全課のニコラスと申します」
「ああ、“ウォッチマン”か。鍵は開いてるから入ってくれ」
 ひんやりとするドアノブを掴み、ニコラスは扉を開いた。
 部屋の中は昼間にも関わらず薄暗かった。窓にブラインドをかけているせいで日の光が入ってこないようである。扉を閉めるとより暗さが強調された。
 ザザザ、と何かが這い回る音がそこかしらで聞こえる。それだけではなく、無数の羽音や咀嚼音が折り重なりコーラスを奏でている。吐きそうな不快感を覚えながらなんとか声を振り絞る。
「あの、電気点けてもよろしいでしょうか」
 闇の中にこれ以上いたら気が狂いそうになる。本来相手の部屋を訪ねてこんな図々しいことを言うことはないのだが、この場所は別だ。
「構わんよ。スイッチは扉伝いの壁にあるから」
 家主の声に従いスイッチを入れると灯りが室内を照らした。
「わあ!」
 ニコラスは尻餅をつきそうになったが壁にもたれかかり難を逃れる。
 それも仕方のないことだった。明るくなった室内を見渡すと、壁や床といったあちこちに無数の害虫や不快虫が這い回っていたからである。
「お、お邪魔します」
 虫を踏まないように気を付け、顔を青ざめさせながら家主の声が聞こえたリビングへと向かう。ここへ訪れるのはもう四度目であるが、恐らくきっと慣れることはないだろう。
 リビングに入ると、黒い人影がソファに座っていた。
「やあ、よく来たな」
 彼は新聞からニコラスへと視線を移して言った。
 その人影は人間ではない。数千匹という虫という虫が寄り集まり、人間のシルエットを形作っているのである。きちんと腕や足、指や顔の表情まで再現されている。
 彼は|蠢く者《スクワーム》と呼ばれるラルヴァだった。心臓部となる昆虫型のラルヴァが他の虫を操り人間の真似をしているのだ。その姿はおぞましく、十秒と直視できたものではない。
「こんにちはスクワームさん」ニコラスは彼に深々と頭を下げた。「月に一度の定期訪問でやってきました」
「別に来なくてもいいんだがな」
「そういうわけにもいきません。規則ですから」ニコラスはいくつかの書類とサンプル採取用のアンプルを取り出した。「これ双葉区住民更新手続きの書類です。郵便でもよかったんですが、ついでですので」
「字を読むのは苦手なんだがな」
「私がお読みしましょうか?」
「結構だ。早く用事を済ませたまえ」
 スクワームに促されてニコラスはアンプルの針を彼の心臓部分に突き刺した。このアンプルは超科学の異能により作り出されたもので、ラルヴァのDNA情報やエネルギーを採取し、研究用のサンプルとして使用したり、彼らの健康状態などを管理するためのものである。
「終わりました。ご協力感謝します。それで、何か生活でお困りのことやお悩みのことはありませんか?」
 ニコラスは極めて事務的に言った。そうでもないと昆虫だらけの身体に触れたことに嫌気が差しそうだったからだ。
「困ることねえ。まあここでの生活は食うに困らないし天敵もいないからな。窮屈で退屈なのは仕方ないかもしれんが。ただ」
「ただ?」
「最近上の階がうるさくて敵わんのだ。どうにかならんか。天井が揺れるたびに俺の身体が崩れるんだよ、パラパラとな」
 ご近所トラブルか。それはまた厄介だ。
「わかりました。上の階の住人に一声かけておきます。私の仕事はあなたたちラルヴァにとってよりよい生活を与えることですから」
 そう言ってニコラスは立ち上がり、「それではまた来月」とスクワームの元を後にする。「じゃあな、ウォッチマン」と背後から声をかけられた。
 ウォッチマン――監視者《ウォッチマン》か。
 ニコラスは自分の仕事、ラルヴァ生活安全課の職がそんな俗称で呼ばれるのが嫌だった。別に自分はラルヴァを監視しているわけではない。それでも彼らからすれば自分は鬱陶しいのかもしれなかった。
 ウォッチマンの目的はラルヴァとの共存である。彼らの生活を補助し、保護することが使命だ。
 今はラルヴァの存在は隠ぺい隠匿されているが、いずれラルヴァと共存する未来がやってくる。そのための前段階として何百体もの害のないラルヴァを実験的に街で暮らさせていた。彼らの生活を支えるのがニコラスの仕事だった。
 双葉学園の研究施設にアメリカから派遣されてきたニコラスは、教授同士の派閥争いに巻き込まれてラルヴァ生活安全課へと左遷された。
 派閥争いやご機嫌とりに躍起になるよりは気が楽かもしれない、とニコラスは当初思ったものであるが、この仕事も結局はラルヴァのご機嫌とりが主な仕事だった。相手が人間ではないため余計に苦痛だ。ただ誰もやりたがらない仕事のため給料は研究員だったころよりもずっといいし、妻と娘を抱える身としては辞めるわけにもいかなかった。
「さて、次はデモニカさんのところだな」
 上の階に文句を言う前に、ニコラスはスクワームの三つ隣の部屋を訪ねた。ブザーを押すとすぐに扉が開いた。細い腕が伸びてきた彼の胸倉を掴み、勢いよく部屋へと引きずりこんでいく。
「いらっしゃいニコラスちゃん。まってたわよん」
 語尾にハートマークをつけて出迎えたのは古代バビロニアの悪魔であるデモニカだった。
 彼女は女子中学生のような小柄な容姿をしているが、髪の毛はボサボサで、五つの目玉がぎょろりと飛び出している。口は耳まで裂け、長い舌がニコラスの鎖骨を舐めた。
「ああ、デモニカさん。久しぶりです」
「デモニカちゃんって呼んでちょうだい。それよりも見てよこれ。今朝脱皮したばかりの脱ぎたてほやほやよ」
 そう言ってデモニカはニコラスの手を引っ張りながら室内へと案内する。部屋の中はスクワームと相反しピンクを基調としたカーテンやカーペットで明るいのだが、壁一面に貼りつけにされている人間の皮だけが異質で異常だった。
 デモニカは週に一度脱皮する。脱ぎ捨てた皮を綺麗に保存し、自分の壁に飾っておくのが彼女の趣味だった。ナルシズムもここまで極まると恐ろしい。
「ねえ、一度私の皮を着てみない? サイズなら気にしないで。ゴムみたいに伸び縮みするから。ねえ、ほら」
 今朝脱いだ己の皮を、デモニカはニコラスに押し付けてきた。「勘弁してください」と困りながら言うが、彼女はケタケタと笑っている。デモニカは嫌がらせでそんなことを言っているのだ。自分が嫌がるのを楽しんでいることをニコラスは知っていた。ラルヴァのストレス解消に付き合うのも仕事の一環である。
 辟易しながらもスクワームに行ったように、事務報告と定期的なサンプル採取を行った。
「ここでの生活で何かお困りのことはありませんか?」
 デモニカの血液を採取しながらニコラスは聞いた。
「そうね、特にないわ。ああ、そうだ。上の階のバカが最近ドタンバタンと暴れてて困ってるのよ。どうにかしてちょうだい」
「ああ、やっぱりそうですか。スクワームさんも同じこと言っていました」
「だって上にいるのってあのデカブツでしょ? 困っちゃうわ~」
 上の階に住む住人もまた調査対象のラルヴァである。ラルヴァ同士の隣人トラブルで争いが起きたら問題になるだろう。彼らのいざこざを解決するのもニコラスの仕事の内だ。
「じゃあ、今日のところはこれで。上に行ってきます」
「ああ、もう行っちゃうの? コーヒーぐらいだすのに」
「遠慮しておきます。じゃあ」
 逃げるようにニコラスは扉を閉めた。以前彼女の出したコーヒーに薬を盛られてベッドに押し倒されたことがあるので油断はできない。だけれどこれから上の階のラルヴァに合うことを考えれば、デモニカのところにいる方がよほど楽かもしれない。
 アパートの階段を上ったニコラスは、問題の部屋の前へとやってきた。ブザーを押す直前、激しい音が部屋から聞こえてくる。
 家具を壊すような音や、跳ねまわるような騒音だ。ニコラスはインターフォンに向かって声をかける。
「あの、安全課のニコラスですけど……どうかなされましたか?」
「なんでもない」とドスの利いた声が聞こえてくる。「早く入ってこい」
「は、はい」
 ニコラスは恐怖を覚えながら足を踏み入れる。
 部屋は荒れに荒れていた。
 壁紙は剥がれ、あちこちに穴が空き、フローリングの床もへこんでいる。家具のほとんどは原型を留めていないほどに破壊されていて、シャワー室からは水が溢れている。
 荒廃とした部屋の中心に、巨大な人影が立っていた。
 身長は二メートルを超え、ラルヴァ用に高めに設定されている天井に頭がつきそうになっている。全身が白い体毛に覆われており肌が一切見えない。丸々とした目玉と大きな口だけが覗いている。太い腕と太い足、太い胴体を持つ。
 彼は雪山に生息しているラルヴァ、雪男のイエティだった。
 確か北海道の山奥に生息しているのを発見され、保護されたという話である。
「あの、イエティさん。どうかなされましたか?」
「何がだ」
「何がって……えっと、部屋が荒れているようですけど」
「俺がやった。何か文句あるのか。この部屋は俺のものだ。どうしようが俺の勝手だ」
 イエティはニコラスの腕よりも太い人差し指で彼の胸をつついた。なんでもない仕草であるが、人間であるニコラスは肝を冷やす思いだ。
「はあ。まあ敷金も礼金も関係ありませんけど……下の階の人たちが迷惑しているみたいで、どうにかもう少し大人しくしてくれませんと」
「なんだと?」
「近隣住民から苦情も来ていることですし」
「うるさい!」
 イエティは声を荒げて壁を殴った。思わず「ひい!」と手にしていた書類を落としてしまう。
「ま、まあ。そのことは気を付けて貰えればいいので。あの、定期訪問と血液の採取に来ました」
「嫌だね。俺は注射が嫌いなんだ。さっさと出て行け」
「じゃ、じゃあせめて体毛だけでも」
「嫌だと言っているだろう。俺は機嫌が悪いんだ。さっさと出て行かないと……」
 イエティは荒い息で拳を握り締める。すぐさまニコラスは落としてしまった書類をかき集め「失礼しました!」と逃げ出した。
 怖い。恐ろしい。あんな大きな手のひらで腕でも掴まれた小枝のようにポキリと折られてしまうだろう。だいたいどうして自分がウォッチマンなんかをやらねばならないんだ。こういうことこそ異能者がやるべきだろう。
 だけど異能者はなまじ力があるためラルヴァが怯えるのだそうだ。だから自分のような非力な凡人が選ばれるのだ。たまったものではない。
 ニコラスはアパートから離れ、冬だというのに汗だくのまま近くのベンチに座った。するとポケットの携帯電話のバイブが震え、着信を見ると妻の一葉《かずは》からだった。
 ニコラスは一年前に同じ研究室に所属していた日本人女性である一葉と国際結婚を果たした。自分が再婚で子連れということもあり、向こうの親からは反対されていたが、それも過去の話である。
 通話ボタンを押すと優しい妻の声が聞こえてきた。
「ハーイ、ニコラス。今仕事中だったかしら」
「いや、ちょっと休憩中だからかまわないよ」
「そう。よかったわ。あのね、今日は何時に帰れるのかしら。それに合わせて夕飯を決めるから。まあ、メールでもよかったんだけど、ちょっと声が聴きたくて」
「ああ。それは僕も同じだよ。ちょっと気分が落ち着いた」
 それは本音だった。彼女の声は自分に安らぎを与える。
 二三会話を済ませると、ふいに一葉が言った。
「ちょっとあなた調子悪いのかしら。もしかしてまた胃が痛いの?」
「心配ありがとう。大丈夫だよ、薬飲んだから」
 嘘だった。もうとっくに薬など利いていない。
「無理しないでね。でもあなたやっぱりこの仕事辛いんじゃないかしら。最近顔色悪いし……あなたが倒れたら私もシルヴィアも悲しむわ。お金よりも仕事よりもずっと体の方が大事なんだから」
「ありがとう。でももう少し頑張ってみるよ。それじゃあ、愛してる」
 ニコラスは通話を切ると深い溜息をついた。今のは強がりだ。男としての見栄から出た言葉である。研究者だった自分に歩き回るこの仕事も、恐ろしいラルヴァとの対話も向いていない。
「おいニコラス。こんなところで何をサボってるんだ?」
 ニコラスがしばらくの間ベンチで目を瞑っていると、誰かに声をかけられた。目を開けると上司の黒澤がにんまりと笑っていた。
「す、すいません黒澤さん。ちょっと休憩を……」
 慌てて立ち上がりバツの悪そうな顔で頭を下げた。黒澤はニコラスと同じウォッチマンの一人である。もう五十歳になる年齢であるが、彼は若々しかった。狸のように肥えた腹をしているが、腕や足には筋肉がついている。
「いやいや、いいんだよ。冗談だから。俺たちだってたまには休まないとやっていけないもんな」
「は、はあ……」
 ニコラスは黒澤のことを尊敬していた。彼はラルヴァ相手でも臆することなく接し、彼らからの支持を得ている。年季の違いもあるが、彼自身の朗らかな人柄がそうさせるのではないかと思えた。
 神経質な自分とは正反対だ、とニコラスは思った。
「なあ、もう昼飯は食べたか?」
「いえ、まだ何も」と時計台を見上げる。もうとっくに昼は過ぎていた。全力疾走したせいか、体がカロリーを欲しているのか空腹を訴えている。
「そうか。じゃあ一緒に食べに行こう。たまには部下と食事でもして親交でも深めようかと思ってな」
「はは。なんですかそれ」
 ニコラスは笑いながら彼についていった。二人が入っていたのは近くのファミレスだった。家族連れや学生客が多く、大の大人二人だけで入るにはやや抵抗があったが、アメリカ人のニコラスと和食を好む黒澤が同じテーブルにつくには何でもメニューにあるファミレスが一番だった。
「いらっしゃいませ、ご注文は何にしますか?」
 注文をとりにきたウェイトレスはラルヴァだった。コッペパンのような体毛のない茶色い肉体を持ち、首がないせいで頭と胴体が一体化している。ぱちくりとした目で黒澤を見つめた。
「やあジャグちゃん。頑張って働いてるね」と黒澤は微笑みかけた。
「はい。黒澤さんのおかげでバイトにも受かりました。ありがとうございます」
「あの、この子は?」
「彼女は俺が受け持っているラルヴァの女の子だよ。ジャグヘッドっていうんだ。どうだジャグちゃん、こいついい男だろ」
 黒澤がそう言うと、ジャグヘッドは熱い眼差しをニコラスに向けてきた。ラルヴァといえど好意を持たれるのは嫌ではない。ニコラスは彼女に頭を下げた。
「うーんとね、ジャグちゃん。じゃあ俺はこの刺身定食をお願いするよ。ニコラスはどうするんだ?」
 ジャグヘッドに注文をしながら黒澤は言った。ニコラスも注文は決まっていたので、メニューを指さす。
「僕はステーキセットと、あとフライドポテトを大盛りで」
「はいかしこまりました」とジャグヘッドはニコラスを見つめながら厨房へと向かった。
「ステーキの他にフライドポテトも食べるのか?」
「え、ええ」
 面食らっている黒澤にニコラスが苦笑していると、すぐにジャグヘッドがフライドポテトを持ってきた。
「それじゃあ先にいただきます」
 ニコラスはフライドポテトを一本とり、口に運んだ。ああ、美味い。本場の味には負けるが塩が利いていて最高だった。熱々の内に食べなくては、とパクパクと食べていく。
「そんな脂っこいものばかり食べているから胃が痛むんじゃないか。俺はこの歳になってからその手のものは食べられなくなったよ」
「アメリカにいたときはハンバーガーとフライドポテトは主食でしたからね。でも最近は太らないように食べてなかったんですが」
「そうか。アメリカはいいところか?」
「ええ。こうして久しぶりにポテトを食べていると故郷を思い出します。広いアメリカの大地や、俺が育った孤児院のこととか。若い頃に遊んだロサンゼルスのことを」
 ニコラスはそこで酷く口の中に塩気を感じた。あれ、こんなに塩が利いていただろうか。と、思っていると、それは涙の味だと気が付く。
 いつの間にかニコラスは故郷を懐かしみ、涙を流していた。
「す、すいません。ちょっと変な気分になっちゃって」
「いや。気にするな。俺も何年か前に海外に単身赴任した時は、現地で日本の味噌汁を飲んだ時に実家が懐かしくなって泣いたもんだ」
「僕は、妻がいるこの国でずっと暮らしていくつもりです。でも、やっぱり時々はホームシックというのか、故郷の地が懐かしくなってしまいますね」
「そうか。きっとここで暮らすラルヴァたちもそうなんだろうな」
「え?」とニコラスは涙を拭いて目を丸くする。
「だってそうだろう。彼らは研究と保護という名目で彼らの故郷からこの狭苦しい人工の島に連れてこられたんだ。人外とはいえ、ホームシックになることもあるだろうさ」
「そう……かもしれません」
「だからこそ彼らが不自由のないよう、幸せに暮らせる手伝いをするのさ。俺はこの自分の仕事に誇りを持っている。俺たちウォッチマンはラルヴァと人間の橋渡しをする調停者だ。監視するだけが仕事じゃあない」
「…………」
 黒澤の言葉はニコラスの心に染み込んでいた。
 そうか。彼らも自分と同じなんだ。慣れぬ土地での生活に悪戦苦闘しているのだろう。人間の中で生きるのだってきっと大変なはずだ。
「ありがとうございます、黒澤さん」
「ん? なんか俺がしたか?」
「いえ。昼を食べたら、俺もう一度回りに行ってきます」
「おう。頑張れよ」
 にかっと黒澤は白い歯を見せ、注文した刺身定食に箸をつけた。
 食事を終えた二人はそれぞれ自分の仕事をこなすために別れ、ニコラスは携帯電話を取り出して双葉学園へと連絡を入れた。
「私、ラルヴァ生活安全課のニコラスですが、お願いしたいことがあります」

     ○

 数時間後、ニコラスは再びイエティの部屋を訪れていた。
 ブザーを鳴らしたが返事はない。しかし中から暴れるような物音がする。鍵がかかっていないため「入りますよ」とドアを開けた。
 玄関に入った瞬間、ニコラスの真横に椅子が投げつけられた。直撃はしなかったものの、木片が散らばり、頭に降り注ぐ。
「勝手に入るんじゃねえよ人間。ぶん殴るぞ」
 怒気を籠らせた声でイエティは言った。
 ニコラスは震える足を必死に動かしながら彼の元まで歩いていく。イエティは「おい、しつこいぞ。いい加減にしろ」と睨み付けてきたが、引き下がるわけにはいかない。
「イエティさん。先ほどは失礼しました」ニコラスは彼に頭を下げた。「今度はあなたにプレゼントをお持ちしました。気に入ってもらえるかどうか、わかりませんが」
 そう言ってニコラスは一度玄関の外まで戻り、用意しておいた大きな箱を部屋まで引きずっていった。
「なんだそいつは。ウチに妙なもん持ち込むんじゃねえ」
「すいません。でも見てください」
 ニコラスは箱の蓋を開き、中の物を彼に見せる。
 箱の中いっぱいに雪がぎっしりと詰められていた。
 白い結晶が日の光を浴びてキラキラと美しく輝いている。
「こ、こいつは」
「学園側に無理言って北海道の雪を詰めてきてもらいました。あなたの故郷である雪山の雪です。そのために学園側に異能者をお借りしたりして、何枚も書類を書くことになって大変でしたけどね」
 ニコラスが微笑むと、恐る恐るイエティは指を雪の中に突っ込み、手のひら一杯に掴んだ。
 己の生まれた地の雪に触れ、イエティはしばらく黙った。
 ニコラスは彼がここ最近暴れている理由をホームシックにあると考えた。当たり前の話である。雪山で生まれ、雪山で育った彼がこんなコンクリートや鉄で囲まれた土地で暮らしていくのは息苦しいはずだ。
 もっとも、彼が暮らしていた雪山には作物は育たず、動物が絶滅したため、餓死寸前のところを学園側が保護したのであるが。
「どうでしょうかイエティさん。あなたが望むなら、私が上にかけあって別の雪山にあなたを帰すように頼みますが」
「いや」とイエティは首を振った。「俺が別の雪山へ行けばその山の生態系が崩れる。俺は山を壊したくないんだ。それに、暴れておいてなんだがよ、案外ここでの生活だって嫌いじゃないんだ。俺みたいなやつが人間と共存できるのは、今のところこの街だけだからよ」
 イエティは先ほどまでの怒気など失い、肩を落とした。
「そうですか。雪山が懐かしくなったらいつでも言って下さい。今度は北海道まで日帰り旅行に行きましょう」
「ははは。そんな無茶は言えねえよ。でも、ありがとうな、ウォッチマン」
 イエティがにっかりと笑ってそう言った。何度も彼を訪問したことがあるが、笑顔を見るのはこれが初めてかもしれない。
 自然とニコラスの顔も綻ぶ。胸が暖かくなってきた。
「いえ。私はあなたたちがより良い生活を送れるようにお手伝いをするだけですから。それでは、失礼します」
 ぺこりと頭を下げてニコラスは彼の部屋を後にした。
 気が付けば胃の痛みは消えていた。
 足取りが軽く、なんだか気分がいい。こんなのは久しぶりだ。


 一日の仕事を終え、ニコラスは自宅へと帰って来た。
「ただいま」
「パパ―! お帰りなさーい!」
 玄関で靴を脱いでいると六歳の娘であるシルヴィアが、ニコラスと同じ金の髪をなびかせて走り寄ってきた。
「おお、シルヴィア!」
「えへへへ。パパだー」
 ニコラスはシルヴィアを抱き上げる。娘をこうして抱きしめていると、一日の仕事の疲れが一瞬にして消えてしまうようだった。
「お帰りなさいあなた。すぐに夕飯食べられるわよ。今日はあなたが大好きなフライドポテトを揚げてみたの」
 シルヴィアを抱えたまま家に上がると、エプロン姿で一葉が出迎えた。キッチンからは美味しそうなフライドポテトの匂いがしてきて、今日食べたばかりだとは言えないな、と苦笑する。
「お仕事お疲れ様」一葉はニコラスのコートを畳みながら言った。「でも電話でも言ったけど、あなたが辛いなら――」
 ニコラスは彼女の言葉を遮るようにキスをした。
「大丈夫だよ。僕はこの仕事がちょっと好きになり始めたんだ」
 今度は強がりや見栄ではない。心からの言葉だった。

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