【桜の花が開くまで 第二章 01】


第二章 卒業式の日

「いってきます」
 玄関の扉を開けると文字通りの快晴だった。爽やかな朝の風が流れ込んでくる。
 空気も冷たいが、日差しには温もりが感じられた。
 諸葉桜子は家を出た。今日は歩きで登校で自転車は使わない。だからいつもよりも早く家を出るのである。
 今日は竹上第一中学校の卒業式である。桜子は今日中学を卒業する。

 桜子の通う道場の師範剣崎尚正《けんざき しょうせい》と長野県警の井高、長野県庁職員の松尾が連れだってやってきた「あの日」から桜子の周囲はずっと慌ただしかった。
 あの日の翌朝、桜子が起きてきたのは既に日も高く上がった頃だったが――、両親と顔を合わせた所で桜子は双葉学園に行こうと思う、と告げた。幸広も聡実も特に反対はしなかった。何か納得しがたい様子だったが、それは桜子本人も同じ事で、家族三人の話はすぐにこれからどうするか、という事になった。
 茶封筒の中に入っていた書類を改めて読んでみると、入学の条件自体はそう悪いものではない、というのもわかった。
 まず、学生全員かどうかはわからないが、桜子については入学金も学費も免除される旨の事が明記してあった。それどころか学生手当が支給される事になっており、その中から寮費や食費、諸経費が抜かれた後に新しく開設される桜子の口座に残金が振り込まれる事になっているらしい。両親の経済的な負担が無いらしいという事に桜子はホッとしたし、聡実もいいじゃないのと喜んだが、幸広はそれを見て少し難しい顔になった。
「喜んでばかりもいられないけどな、これは」と、幸広。
「いいじゃないの。これで積み立ててたお金も大学入学の時にまわせるし」と、聡実。
「だがな、勉強させて食べさせて、金まで出してくれるというのは、何かあるだろ。勝手に休んだり出来ないって事だぞ」幸広は桜子が絡むと時々色々と情けなくなるが、それから離れた所ではいたって慎重な常識人なのだった。それでも権威には弱いが。
「そうだね――」桜子はパンフレットをぱらぱらと眺める。この学校におかしな所が多々あるのは既に感じていた。やはり体のいい収容所かも知れない、と桜子は思ったが、そこは両親が心配するだろうから、それと自分の師範を信じる事にして口には出さなかった。何かあるのは間違いないのだろうけど。
「でも、いいじゃない。あたし実は心配してたのよ。寮生活ってなっちゃうと家賃とか食費とかどうしよう、って」
「そうだな。それはそうだ」聡実の言葉に幸広も頷いた。
 四日後と尚正は言ったが、結局その日の夕方に入学の意志を伝える電話を掛けてみると尚正はあっさり捕まった。たまたま用事の合間に自宅を兼ねる道場に戻っていたらしい。忙しいのか、また留守にすると言っていたのだが。その一時間ほど後に松尾が車でやってきて、入学願書その他を置いていった。必要な事項を書き込んだ後でまた連絡をください、と松尾は言った。そうしたら取りに来るという事だった。
「ああそれと――」松尾は帰り際に幸広に言った。「お渡しした書類の中に書いてあったと思いますが、この事についての話は他言無用でお願いします。ただ、諸葉さんの会社の社長さんについては実はこの件については御存知でして、既にお話は通してあります」
「社長が?」幸広は驚いた。
「ええ、赤城商事は双葉学園の取引先の一つですが、ご存じなかった?」
「はあ――」
「まあ、部署が違うとわからんことばっかりですよな、ハハ。だが、ま、そういう事で。くれぐれも他言なさらず様に。信じる人も少ないと思いますが、混乱は避けたいので」
「わかっています」幸広は即答した。娘の立場が、あるいは自分たち夫婦の立場も危うくなる話だった。信じてもらえないならばたいしたことはないが、事実として広まると困った事になるのは容易に想像がつく。
「それとですね、桜子さんの学校の方に進学先の変更をお伝えしておきましょうか、こちらから。必要な書類もありますし。桜子さんが合格した高校への入学辞退についてはそちらからお願いします。やはり本人や家族でないとおかしいですし」
「ああ、それじゃお願いします」幸広はそう答えたが、返事をすると肩を落とし、はあ、とため息をついた。
「お察ししますよ。では――」松尾は一礼した後、去っていった。
 こうして桜子の双葉学園への進路変更があっさりと決まった。
 何の実感もないまま。

 卒業式の朝、桜子は下駄箱から自分のクラスにいく途中の階段の下で担任教師の中川梓に呼び止められた。母親の聡実よりも少し年上の女性教師である。担当している教科は英語。
「諸葉さん、ちょっと来て」
「はい」
 桜子は一階の階段から少し離れた所にある生活指導室に引っ張り込まれた。言うまでもなく問題を起こした生徒などが注意を受ける部屋だ。桜子自身は中学の三年間ではじめて入る部屋である。
 卒業式の準備で忙しい朝、この部屋の中だけは誰もいなくてシンとしていた。
「こちらにかけて」桜子と梓は机を挟んで向き直って座った。
「あなた進路変更するんですって?」梓は軽く座り直してから、やや改まった様子で聞いてきた。
「そうです」
「何故また急に――」
「それは――」桜子は言いよどんだ。何かうまい言い訳はないだろうか。
「もしかしたら、ご両親に何かあったの?」
「え、いえ、そんな事はありません」何かあったのは桜子本人であった。
「そう――、家庭の事情での進路変更なんでしょ?」
「はい」
「それならいいんだけど。ただ、この時期に――、特にあなたの場合はずっと東筑摩一本だったでしょ? 一応滑り止めは受けたけど」
「はい」桜子は顔を伏せた。今となってどこか遠い世界のようだったが、それでもチクリと胸を刺すものがある。
「どこにあなたが進学するのかは私もまだ聞いてないんだけど、聞いてもいいかしら?」
「えーと……、東京の学校です」桜子は言葉を選んで答えた。
「東京の学校――。なるほど……、そう、ご両親もそちらには行かれるの?」
「いえ、わたし一人です。寮に入る事になると思います」
「ふーん……」梓は桜子の様子をじっと見て、殆ど間を置かずに続けた。「わかりました。私としてはこれ以上聞かない事にします。あなたはもう卒業する人だし」
「はい」正直有難かった。
「でも、なにか相談する事が出来たら、電話でもしなさい。これは連絡先――。メールアドレスも書いてあるから」梓は名刺を取り出して桜子の前に置いた。
「ありがとうございます」桜子は名刺を手にとって制服のポケットの中におさめた。それを見て梓は立ち上がった。
「そろそろ式も始まるから、クラスの方に一度戻らないと。ああ、それと――、諸葉さん」
「なんでしょうか?」
「クラスのみんなにはどうする? あなたの進路変更、報告というか伝達しておく?」
「……いいえ。言っておいた方がいいかな、って人にはわたしの方から伝えておきますから」
「やっぱり気になるわねぇ」梓は苦笑しながら言った。「あなたは問題起こさないと思っていたから、最後の最後にあなたがここに座ってるってのは私にとってはまるで予想外だったわ」
「すいません」
「謝る事じゃないでしょう? それとも何か謝るような事をしちゃったわけ?」
「それは違います。そういう事じゃありません」
「それなら謝っちゃいけないわよ、諸葉さん。まあ、そうした方が良い時もあるかもしれないけど。これから先は――。じゃ、そろそろいきましょうか。急がないと間に合わないわね、これは」
「はい」桜子も立ち上がった。

 卒業式が終わった後の最後のホームルームが終わった。最後の梓の話には、既に涙目になっている女子が大勢いた。大勢というか大半は涙を流していた。男子も幾らかは涙が出ていたようだ。むしろ、いつもは先生にも生意気な口を叩いたり、問題を起こしたりしていた生徒達の方がそうなっていたと言える。
 そんな中でも桜子は悲しいとか感慨深さを感じるよりも、いや、そういったものを感じていない訳ではなかったが、別の事で頭がいっぱいになっていた。卒業式の間中もそればかり考えていたと言ってもよい。
 というのは――、
「桜子ちゃん」
 帰り支度をはじめた桜子に声を掛けてきたのは、同級生の竹井瑞穂だった。小柄で大人しく、運動は苦手だが成績はよい。典型的な大人しい優等生で、このクラスの中では桜子の一番仲の良い友達である。親友――、桜子としては親友なのだろうと思っている。この中学に入ってからの付き合いだったし、今までは特に隠し事も無い。高校も一緒に通うつもりだった。しかし、今は。
「ね、一緒に帰ろ」瑞穂は楽しそうだった。さっきまで、すぐ近くで他の友達とわいわいと騒いでいたが、その輪の中から抜けてやってきたのだった。
「え? あ、うん。帰ろうか」
「あー、でも桜子ちゃんは、多分剣道部の後輩とか待ってるんだよね。校門で。おじゃまかなぁ、あたし」
 そうだった。あの子達もいたんだった。そして、目の前にいる瑞穂。
 自分が東筑摩高等学校へ進学しないという事を伝えておかなければならない、と、個人的に思う友達が何人かいる。特に剣道部の後輩や友達、そして瑞穂。彼女達を裏切るような事はしたくなかった。
 双葉学園に行く事が決まってから桜子をずっと悩ましていたのはその事で、そして今も悩んでいる。
「ん――、そんな事無いよ。行こうか、それじゃ」
 教室の出口には梓が待っていて、出て行く生徒の一人一人に最後の挨拶をしていた。
「竹井さん、今年一年よく頑張ったね。先生、正直驚いたわよ。高校でもしっかりやりなさい」
「えへへ。はい、多分頑張ります」梓が差し出した手を瑞穂は自分の小さな手で握った。
「そこで多分はいりませんよ、竹井さん」
「はーい。わかりました。それでー、また遊びに来ていいですか?」
「いいわよ。ただ、出来る事ならいい話を聞かせて頂戴ね。遊びに来るのなら」
「うん、いえ、はい」
 桜子の番になる。
「諸葉さん」梓は桜子に手をさしのべた。桜子もそれを握る。
「はい」
「頑張ってね」梓はぎゅっと手に力を込める。
「そうします。一年間有り難うございました」桜子は手を握ったまま軽く頭を下げた。
「頑張りなさい」梓はもう一度繰り返した。
「はい」
 まだ人が大勢たむろしている下駄箱を抜けて外に出ると、そこに幸広と聡実が待っていた。瑞穂の両親もいた。「あたし行ってくるね」と小走りに駆けていく。
「卒業おめでとう、桜子」と幸広。目が少し潤んでいるようだ。続けて「おめでとう」と聡実。
「うん。ありがとう」
「お友達にはもう言ったの?」聡実が少し心配そうに言った。進路変更の事だろう。
「ううん――、先生にも言われたけど、どうするの、って」
「まあ、お前が決める事だ」と幸広。わたしは誰かに決めて欲しいんだけど、と思う桜子。
「――ま、友達だからといって、なんでもかんでも言った方がいいとか、そういうもんでもないからな」
「そうなの、パパ?」
「桜子が合格した時にね、パパねぇ――」聡実が溜息をつく様に言った。
「おい、やめろ。お前だって近所の人に――」
「わかった――、もういい」つまり、娘がどこの高校に合格したとか吹聴して歩いた、あるいは聞かれたら喜んで話した、そういう事なのだろう。桜子は思わずこめかみを押さえた。
「ごめんね、桜子」聡実がすまなそうに言った。
「いや、いいけど。これからパパ達はどうするの?」
「ああ、俺はこの後会社に戻る。仕事も残ってるし、社長にも呼ばれてる。お前の事で」
「そうなの?」パパの会社の社長さんが一体どういう事だろう。
「色々と説明を――、お、瑞穂ちゃん来たぞ」
 桜子が振り返ると、瑞穂が小さい身体で人の間をすり抜けながら近づいてきていた。人にぶつかる度に一々ふらついている。同級生ではあるのだがどこか妹みたいで可愛いなぁ、と桜子は思う。
「じゃあ、パパ、ママ、わたしいくから」
「お父さんとお母さんが離してくれなくて」と瑞穂は少し憤慨したように言った。「一緒に帰って、それでどこかでご飯食べようって言うんだよ」
「なんだ。それなら行ってこればよかったのに」校門の方に歩き出しながら、桜子は答えた。
「あー、桜子ちゃん、冷たい」
「冷たいかな?」
「冷たいよ。桜子ちゃんはクールだよね、今日も平気な顔してたし。あたしもちょっと泣いちゃったのに」
「そうかなぁ」桜子はちょっと考え込んでしまった。そう見えるのだろうか。
「おーい! もーろはー! ぶちょー! シカトしないでー!」右の方からなじみのある声が聞こえる。振り向くと女子剣道部の面々が少し離れた校庭の木の陰に集まっていた。声を掛けてきたのは松岡由希だった。彼女も今日卒業する。桜子が部長だった時の副部長であり、当時の女子剣道部のナンバーツー。桜子よりも少しだけ背が高く、髪型はショートカット。彼女は商業高校に進学する。家業の花屋を継ぐつもりらしい。
「そんなに大声で言わなくても聞こえてます」桜子は近づいて由希に言った。
「そうかなー? なーんかそのままシカトして校門から出て行ってしまいそうな感じしたんだけど」
 由希はあっけらかんと、でもドキリとするような事をいう。
「うん、そうね――。確かにすっかり忘れてたわ」すまして言った桜子の言葉に、「えー、部長ひどい」とか「あたし達部長に嫌われてたんだ」とか口々に後輩達が言い始める。
「確かに諸葉は鬼だもんね」と由希。ですよねー、と一斉に後輩達が口を揃える。相変わらず懐かれている事で、と桜子は思った。さばさばした性格で融通の利く由希はいつも人の輪の中にいた。対して桜子は大抵の場合は、そういう所からは一歩引いた立場である。ダメだし役が桜子で、まあまあと取りなすのが由希だったのだから、しょうがないといえばしょうがないのだが。
 実際、桜子が部長だった時は、練習で手を抜く部員達にしばしば雷を落とした。当然、いじけたり不満を持つ部員も出てくるが、そういうのは由希が一手に引き受けてなだめてくれた。頼りになる副部長で、気の置けない友達。瑞穂以外で親友と呼べるかもしれないのは、桜子にとっては由希だった。
「まあ、わたしはどうせ鬼ですから――」
「すねないでよ、部長」由希がにやにや笑いながらいう。
「すねてないよ。清々してる所」
「ま、そういわずに。諸葉のボタンが欲しいんだって。今野と沢木が」どちらも後輩で現在の女子剣道部の部長と副部長である。
「わたしの?」
「はい」後輩達の中から一人前に進み出た。今の女子剣道部の部長で二年生の今野留実である。日に焼けた顔が緊張している。「代表で、という事で二人が貰おうかな、って」
「代表?」
「部長様は恐れ多いから、丸裸に出来ないって事でしょ」と由希。
「なにそれ?」
「あたしの見てよ」由希が着ている制服を改めて見直してみた。ブレザーのボタンが綺麗に無くなっている。袖についていたのが二つほど残っているだけだった。
「あたしはこんな扱いだよ。ハゲタカたちにむしられて、酷い有様でしょ」と由希が苦笑しながら言った。
「なるほど。じゃあ、二つでいいの? でも、これ取れるかな――」桜子はボタンを引っ張ってみた。糸でしっかりとつけられているので取れない。
「あたしがやったげる」と由希。見ると手にはハサミが握られている。
「どうしたの、それ」
「ああ、今野が持ってきた。気が回る後輩だよねー。で、諸葉さ――」
「うん?」
「もうこの制服着ないよね?」
「多分――、ちょっと――!」
 由希は有無を言わせず桜子の着ている制服から、殆どのボタンを素早く切り離してしまった。
「さー、後輩達よ。憧れの先輩のだよー。ちゃんとお礼を言うんだよ」手際よく後輩達に桜子の制服から取り去ったボタンをひょいひょいと由希は渡していく。
「さ、お礼」
「諸葉先輩、有り難うございました!」由希の音頭で後輩達は一斉に声を張り上げ頭を下げる。
「あ、ああ――。うん、あなた達もしっかりね」少したじろぎながら桜子は応じた。
「それでさ、諸葉。剣道部のみんなで打ち上げしようって話あるんだけど、どうする?」
「この後? うーん――」桜子はちょっと離れた所で自分を待っている瑞穂の方をちらりと見た。
「ああ、そっか。待たせちゃ悪いね。来る気になったら連絡して。場所教える」由希が桜子の様子を見て取っていった。
「わかった。それじゃ、みんな。わたしいくから」
「はーい」元気な後輩達だった。由希が桜子にヒラヒラと手を振ってから、後輩達の方に向き直る。
「ごめんなさい、瑞穂。待たせた?」桜子は瑞穂の所まで近寄って言った。
「ううん、多分五分も待ってないよ」
「そう? じゃ、いこうか」
「うん」
 帰り道の間、瑞穂は饒舌だった。「もう中学とはおさらばか、さびしいなぁ」とか「でも楽しかったね」とか、クラスの中では割と無口な方だが、桜子と二人でいる時や、桜子以外でも気を許した親しい友人とだけいる時は、結構瑞穂はよく喋る方である。それにしても、今日の卒業式の帰り道はずっと喋り続けていた。卒業式ということで少しハイになっていたのか、どうかそれはわからない。桜子の方は、本当に最初の方はともかく、歩くにつれて生返事が増えていった。
 進路変更の事を言わなくてはならない。流石に瑞穂にだけは告げておかないと。一緒に受験勉強を頑張ってきた仲間でもあり、それ以前に親友なのだし。そう思いつつ、歩きながらもずっと迷っていた。
 そうしている内に瑞穂の家まであと少しという所まで来た。桜子の家はまだずっと先である。
「でもさ」瑞穂がちょっと声を大きくした。
「ん?」
「桜子ちゃんは人気あるよね。今日だって、制服のボタン殆ど無くなってるし」
「ああ、これ」桜子は苦笑した。運動部関係の『お約束』みたいなものなのだが。桜子自身もそういえば、去年は今日の後輩みたいな事を先輩に向かって言い出した事を今思い出した。先輩のボタンは今でもちゃんと机の引き出しの奥にしまってある。おかしな伝統というのはおかしいからこそ、しぶとく延々と続いていくのかも知れない。
「わたしも去年貰ったし。今の今まですっかり忘れてたよ。そういえば」
「そうなの?」
「そういうもの。部の伝統みたいなもんだよ。わたし部長だったし」
「へえー、じゃあ桜子ちゃんは東筑摩でも、また何かの部にはいるの? やっぱり剣道部?」
 桜子は返事に詰まった。どうしよう。
「ん?」
「ねえ、瑞穂」やはり言い辛い。
「なーに?」
「ええとね――、わたしちょっと瑞穂に言っておかないといけない事があるんだ」
「言っておかなければいけない?」
「うん、ええと――」桜子は空を仰いだ。今日は快晴だった。雲一つ無いとは言わないが、すっきりとした青空が広がっている。奇妙なほど周囲が静かに桜子には感じられた。
「わたしは東筑摩にはいかない」とうとう言ってしまった。今しかない気がしたから、だった。
「え?」
「東筑摩にはいかないよ、わたし」桜子は繰り返した。
「まーた、冗談言って。ちょっと驚いちゃったよ、あたし」そう言って瑞穂はアハハと笑った。
「冗談じゃないよ」桜子は瑞穂の方を向いて言った。「いけなくなったんだ、わたし」
「嘘でしょ?」瑞穂は桜子の顔を惚けたように見ていた。
「ううん。違う。わたし別の学校に進学する事になっちゃったんだ」
「だから冗談でしょ?」瑞穂は言い張った。二人とも足は止まっていた。
「違うの。そうじゃなくて。もう入学辞退もしてある」
「嘘でしょ?」
「嘘じゃない」
「冗談だよね?」
「冗談でこんな事言わないよ、わたし」それは瑞穂も知っているはずだ。
「なんで――、一緒に頑張ろうっていってたのに、試験も合格発表も一緒にいったのに」瑞穂はうつむいた。
「うん……」
「それに――、桜子ちゃん、東筑摩以外には行く所無いじゃない。滑り止めも蹴ったって言ってたし」
「うん……」隠し事は受験関係については桜子は瑞穂にはしてない。他の事も殆どしていない筈だ。だが、今こうなってしまった事については別である。話す訳にはいかなかった。
「だから行く学校無いじゃない」瑞穂は顔を上げた。目が真っ赤になっている。泣いていた。
「そうじゃないの。わたしね、竹上市から出るんだよ」
「え――」泣き濡れていた瑞穂の目が丸くなった。
「そう。四月から東京にある学校に行く事になったの。ホントにね、ホントに突然決まってしまったの。だから黙ってた訳じゃないんだよ、瑞穂」ここはわかって欲しい所だった。力がこもる。
「そんなバカな話無いよ! そんなの認める学校なんて聞いた事無いよ!」
 桜子は返事が出来なかった。つい数日前、自分が師範に向けて同じような事を言った記憶がある。
「でも――、あるんだよ。ごめん。だから、わたし東筑摩には瑞穂と一緒に行けないの。わかって」
「わかったよ……」瑞穂がまた顔を伏せて言った。
「え?」わかってくれたのか、と桜子は思った。足下がふらつくような感じがした。恐らくは安堵から。
「うん、わかった。桜子ちゃんはわたしと一緒の高校に行きたくないんだよ――」
「えっ? えええっ!?」予想外だった。
「わたしと一緒に学校に行くのがイヤになったから、別の所に行くんでしょう!」叫ぶように言った。瑞穂の小さな身体から感じられるのは強い怒りと悲しみ。それが何故か桜子にはとてもクリアにダイレクトに感じられて、それが彼女の身体を硬くさせた。
「きっとそうだよ! 今日だってそうだったじゃない! 剣道部の人とは仲良く笑ってたじゃない! あたしが話しかけても返事しないし、暗い顔ばかりしてたし、面白くないんでしょう、あたしなんて! 今までだってそうだった!」
「ちっ、違うよっ、それは全然――」桜子は頭が良く動かなかった。何故こうなる。口もなんだか動かしづらい。
「違わないよ、わかってたよ。ずっと前から知ってたよ!」
「わかってない、わかってないよ、瑞穂……」そうじゃない。
「そうだよ――。あたしわかってないもの! だからもういいんだよ! 今までありがとう、桜子ちゃん!」
 瑞穂はそれだけ絞り出すように桜子に言葉をぶつけると、泣きじゃくりながら、走っていってしまった。
 近くを歩いていた買い物かごを下げたおばさんが、桜子の方を非難するように見た。が、桜子があっけにとられている様子を見て、怪訝そうに首を何度か捻りながら、脇を通り過ぎていく。
 後を追うべきだ、と気がついたのは瑞穂の姿が視界から消えた後だった。そして走った。瑞穂の家がどこにあるかはよく知っている。
 いつもなら、普通の状態なら、百メートルくらい離れた所から追いかけても、たとえ瑞穂が走って逃げてもすぐに追いつく筈だった。桜子はやはり県下でも中学の女子剣道の中では実力者として通っていたし、部でやるよりも厳しい稽古も師範につけて貰っている。中学三年男子の平均よりはまず間違いなく体力はあったし、運動部で活躍している男子と比べても、そう引けは取らない自信も桜子にはあった。華奢で運動が苦手な瑞穂に追いつく事なんて、ちょっと先行されていても、いつもならばまるで難しくないはず。
 しかし、今は、何かふわふわした、足下がおぼつかない感じがする。そう長い距離とは言えないのに、何故か瑞穂の家が遠く感じられた。そもそも瑞穂の姿が前の方に見えない。あの子はあんなに足が速かったのだろうか。
 息を弾ませながら、瑞穂の家の前まで桜子は走ってきた。このあたりは割と大きくて立派な家が多い。瑞穂の両親は竹上市では割と規模が大きいと言える不動産会社を経営している。
 白い南欧風の塗り壁で囲まれた、瀟洒な意匠がそこかしこにある大きな家。それが瑞穂の家だった。
 息せき切って走ってきた桜子はインターホンを押した。呼吸を整えて声を掛ける。
「もしもし、諸葉ですけど」
 返事がない。暫く、待ってみる。もう一度押して、また呼びかけてみる。静かだった。
 だが、桜子にはなんとなくだがわかる。瑞穂は家の中にいる。多分息を殺している。応対する気はないのだろうが、それでも誤解は解いておきたいと、桜子は思った。
 ちょっと玄関から離れて、道路に出てみた。瑞穂の部屋がどこにあるかはわかっている。白い出窓がついている二階の部屋だ。何度か入った事がある。女の子らしい可愛い部屋だった。
 出窓の奥は白いレースのカーテンで隠されていて見えない。じっと見ていると、カーテンの向こうで何かが動いた気がした。瑞穂だろう、と桜子は思った。携帯電話を掛けてみる。
 繋がった直後に、コール音が一度鳴った。が、出た次の瞬間に切られてしまった。もう一度掛けてみる。同じ結果だった。もう一度。やはり同じ。
 瑞穂――。
 話くらいはちゃんと聞く気がないのか、と桜子にも怒りがフッとわいた。
 だが、一体何を説明すればいいのか、とまで思いが至った所で急速にそれもしぼむ。話してどうなるものでもない。これは言わない方がどちらにとってもいい事だ、というのは、井高や松尾にわざわざ念を押されるまでもなく、桜子にもわかっていた。漠然とだが、はっきりと言える。知らせない方がいい。特に瑞穂には。
 何を言うべきか、何が言いたいのか、桜子にもよくわからなかった。
 しかし、よくわからないなりに何か言いたい、話をしたいという気持ちのままに、暫く桜子は瑞穂の家の前にいた。時々、携帯電話も掛けてみたが、全てさっきと同じ対応だった。インターホンも返事はない。
 結局、一時間ほど桜子はそうしていたが、瑞穂と話をする事は出来なかった。
 疲れた身体を引き摺るようにして桜子は帰ったが、その時になって、学校での幸広の言葉が思い出された。
 (――なんでもかんでも言った方がいいとか、そういうもんでもないからな)
 そうかもしれない、と桜子は歩きながら思った。



つづく

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最終更新:2010年08月10日 16:33
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