双葉学園都市の夜に、霧が立ち込めていた。
葦原譲里(あしはらゆずり)は、剣道部の用事で遅くなった帰路につきながら、不安げに周囲を見渡す。
彼女は異能者ではない。一般の生徒である。
故に、最近の学園都市部へのラルヴァ侵入や商店街炎上、異能者同士の闘争、
刀剣による連続傷害事件などの不穏な噂を聞き、不安に思うのも無理はない。
(大丈夫、って話だし……うん)
なにがどう大丈夫、なのかは考えないようにして、必死に自分を鼓舞する。
どうにも、この霧というのがよろしくない。
霧は視界を悪くする。世界を覆い隠し、見えなくさせる。
それは夜の闇が視界を塗りつぶすのにも似た恐怖を呼び起こさせる。
夜の闇は、光を照らせば消え去るだろう。だが霧というものは、その程度で消え去るものではない。
ただ、自然と消えるのを待つしかないのだ。人が易々と消せるようなものではない。
だからだろうか、不安を呼び起こす度合いで言えば、夜の闇よりも霧のほうが強く感じられる。
この霧のすぐ向こうに、ラルヴァが隠れているのではないか……
この霧のすぐ向こうに、悪の異能者が潜んでいるのではないか……
そんな不安に駆られるのも仕方ない。
頭を振り、譲里は一刻も早く家に帰ろうとして――
「!?」
違和感に気付いた。
濃厚な、血の臭いがする。
心なしか、霧すら赤い気もする。
そして霧の向こうに……
血まみれで倒れている女性と、その傍らに立つ、血濡れの刃を持った男の姿があった。
「――っ!?」
譲里は小さく悲鳴を上げる。
それに男は気付き、鋭い眼光を向けた。
赤く輝く、不気味な――人間のものではない殺気。
殺される、と譲里は思った。
男はゆっくりと、譲里の方に足を進める。
ぴちゃり、と地面の血溜まりに男の足が沈み、粘ついた水音がなる。
だがその時、霧が――ゆっくりと、薄くなっていく。
「!」
男の足が止まる。
慌てる様なそぶりを見せ、何故か男は後ずさり、霧の向こうへと消えた。
「……」
霧が晴れていく中、譲里はただ呆然とそれを眺める。
譲里を我に返したのは、倒れた女のうめき声だった。
「! まだ、生きてる……!」
譲里は慌てて、風紀委員会へと電話する。
「もしもし、風紀委員会詰め所ですか? はい、人が――襲われてて……!
はい、あれは――」
譲里は風紀委員に起きたことを伝える。
譲里は知っている。噂話の一つ。
いや、噂話というにはあまりにも古く、そして有名な――前世紀に実在したと言われる殺人鬼。
今もなお伝わる、恐怖の代名詞、その名前。
「切り裂き――ジャック……」
巨大な学園であるからには、当然部活に励む生徒達の人数も多い。
なにせ学園自体がひとつの都市である。
故に、メジャーな部活動においては、ひとつの部で部員全てをまかなう事は出来ない。
特に団体戦などのレギュラーの人数が決まっている運動部などは、それゆえに部活動自体を幾つもに分けている。
それは剣道部も同じである。
葦原譲里の所属するのは、第八剣道部。
そして今日は、第二剣道部との対校試合の日である。
「面ぇン!」
竹刀の音が武道場に響き渡る。
「一本! 勝者、第八剣道部――戒堂絆那(かいどうきずな)!」
審判の声とともに、歓声が湧く。
仲間達のところに戻った絆那は、面を外し、大きく息を吐く。
「――っ、はぁ……しんど。つーか危なかったぁ~」
「何言ってんだ絆那。余裕だったじゃねぇか」
「おう、見事だったぜ。ブランク感じさせねぇな」
仲間達が絆那の背中をバンバンと叩く。
「いた、いってぇよ!」
顔をしかめながらも嬉しそうに笑う絆那。
その時、彼らに向かって声がかかる。
「流石だね、戒堂くん」
爽やかな声だった。
そこに立っていたのは、長髪を後頭部でまとめた背の高い美少年。
それを見て、ここに集う生徒達が口々に言う。
「霧埼玖雀(きりさきくじゃく)……」
「第四剣道部の主将の……」
女生徒たちは熱い視線を送り、男子生徒は羨望や尊敬、嫉妬の視線を送る。
それを涼しげに受け止めた霧埼は、絆那に向かって笑顔を返す。
「嬉しいよ、君と戦えるなんて」
だが絆那は、
「……誰だっけ?」
嫌味でもなんでもなく、素でそう返した。
周囲が固まる。まあそれも無理も無いだろう。
霧埼の傍にいた、とりまきの生徒たちがいきり立つ。
「てめぇ、バカにしてんのか!」
だが霧埼はそれをやんわりと制する。
「余裕のつもりかな。それとも僕は眼中にないと?」
「いや、そうじゃなくて。あんたと戦ったことないよね?
戦った相手のことなら忘れないんだけど……」
戒堂絆那は、決してバカではない。頭のいいほうでもないが。
だが、剣道バカと周囲に称されるように、その記憶力や回転は剣道関連にのみ発揮される。
だから、戦ったことの無い相手のことなどあまり覚えてないのだ。
まあ、ある意味では確かに「眼中に無い」とも言えるのではあるだろうが。
「ああ、なるほど。確かに僕と君はまだ剣を交えていないな。
一度機会があったんだけど、それは流れたしね」
「……」
絆那は右腕を無意識に押さえる。
それは、絆那にとって忘れられない出来事を指していた。
そう、今でも思い出せる絶望感。
それに気付かずに、霧埼は笑顔で続ける。
「また機会を得られて嬉しいよ。なんたって君は――」
「“奇跡の剣士”」
霧埼の言葉を、少女の声がさえぎった。
「!?」
周囲がその声に注目する。
……それは、妙な二人組みだった。
いや、果たして「二人」なのか?
百八十を越すか越さないかの長身痩躯の男が一人。
サングラスをして表情はわかりづらいが、美しく端正な顔立ち。
学生服の上からもわかる、バランスの取れた体つき。
だが、その男は、十歳ぐらいの少女を抱きかかえていた。
それはまるでビスクドールのように美しい少女だった。
ドレスを着込んだ少女を、彼は抱えている。
そう、たとえるなら腹話術の人形遣いのように。
いや、おそらくそれは例えではなく、本当に腹話術師なのだろう。
彼は喋らず、ただその手に抱えられた彼女が、鈴のような声で、無機質に言葉を続ける。
「試合前日、ラルヴァに襲われ、右腕が重傷。神経を損傷し、医者には二度と剣を握れないと診断される。
それが一年前の話。
しかし、絶望的と言われたにも拘らず、傷を治して奇跡の復活を遂げる。それが三ヶ月前の話。
“奇跡の剣士”……人は貴方をそう言う。
興味深いです。異能の治癒能力を持つ医者ですら匙を投げたその腕をどうやって元に戻したのでしょうか」
「誰……だ?」
「私はリーリエ。この人は篠崎宗司しのざきそう》。
風紀委員会第十三課の者です」
「風紀委員が何でこんな所に……?」
「葦原譲里さんに、もう一度話を聞こうと思いまして」
リーリエと篠崎は、譲里の方を見る。
「え……?」
「なに葦原、お前しょっぴかれるようなことしたの?」
「違うわよっ! ……その、昨日」
「連続傷害事件を目撃したのです、彼女は。
風紀委員会はこれが異能者の仕業か、ラルヴァの仕業か判断をつけあぐねています。
それでもう一度詳しく聞いておこうと思いまして」
「そうは言っても……前に話したことが全てです」
「そうですか。
……所で、昨晩は霧が出ていたそうですが」
「それが何か……?」
「いえ、先日にひとつの街が霧に包まれて消失しかけた事件が起きまして。
それは無事に解決したのですが……もしそれがこの学園で起きたというのなら、大変だと思いまして」
ビスクドールの顔に微笑を浮かべ、リーリエは譲里を見る。
「……解決したんなら別にいいだろ。つーか何がいいたいんだあんたら」
絆那が譲里をかばうように口を挟む。
「いえ、ただの確認みたいなものですから。それに、素敵な人にも逢えましたし」
絆那に向かってリーリエは微笑む。
「腹話術の人形に言われても嬉しくねーよ」
「心よりの敬意ですので、素直に受け取ってください。
奇跡を起こした男、いい響きじゃないですか。私もあやかりたいですね」
その言葉に、絆那は目をそらして吐き捨てる。
「奇跡なんてない。そんなものがあったら、そもそも――」
「そうですか? では、その復活は“奇跡”ではなくて“必然”という事なのでしょうか。
その腕が復活するほどの必然――それは一体、何なのでしょうね」
「……」
そう笑いながら、篠崎とリーリエは道場を後にした。
残りの試合もつつがなく終了した。
なかなかに拮抗した戦いではあったが、第八剣道部の勝利だった。
道場を出て、絆那たちは帰路に付く。
その途中で、譲里が話しかけてきた。
「気にしないほうがいいよ? 確かに気味悪がる人たちもいるけどさ。
私達は、純粋に嬉しいもん。君が戻ってきてくれたこと」
「そーそー。やっぱみんな揃ってないとさー」
「うんうん、気合入らねーっての。あれだろ? ブルーがいない戦隊」
「戒堂は青かよ。じゃあレッドは誰よ」
「そりゃオレだろやっぱ」
「いや、お前はいっちゃん地味なグリーンだ」
「もうみんなレッドでいいだろ……」
「いや、それだとジャスティス性の違いでもめて解散するね」
「かっこよくね? 全員赤い赤戦隊」
「死ぬほどダサいわ! 北の大地かよ!」
少年達は談笑する。
絆那は笑いながら、それを眺める。
「何々、戒堂君のその顔、なんか孫を見るおじいちゃんみたいだよ」
「……あのな葦原。年寄りみてーに言うんじゃない」
「じゃあ女の子を眺めてニタニタするオジサン」
「誰がだよっ!」
ロリコン扱いされる絆那であった。
「……うん、よかった。さっきので大丈夫かな、と思ったけど。
ちゃんと元気だね」
「当たり前だよ。俺は大丈夫だ」
「うんうん。君なら大丈夫だよ」
譲里は笑う。それは彼女の口癖だった。
なんの根拠も無い言葉。
だがその代わり、何の疑念も含まれないその信頼に、剣道部の部員達は随分と励まされてきた。
「大丈夫、ね……」
絆那は小さく、繰り返す。
悪い気分は、しなかった。
「おーし、じゃあ俺らこっちだし」
「じゃあな。また明日なー」
交差点に差し掛かり、みなそれぞれの方向に別れる。
「あー!」
不意にそこで譲里が声を上げる。
「……やばいよー。道場に忘れ物……」
がっくりと肩を起こす譲里。
「あー、今から取りに行って来る……」
「ついて行こうか?」
「あ、いやいいよ。みんな疲れてるでしょ? 私一人で大丈夫」
そう言って譲里は急いで引き返す。
「……」
絆那はその後姿をしばし見て、そしてみんなと別れて家へと歩く。
五番地住宅街の八丁目――そこに差し掛かったとき、夕刻の町並みにひとつの人影を見た。
それは、数時間前に見たものと同じだった。
長身痩躯のサングラスと長髪の男。
その腕に抱えられた、美しい少女。
篠崎宗司とリーリエの姿だった。
「なんだ、またあんたらか」
絆那はそれをみて煩わしそうにため息をつく。
「あら、ミスターミラクル」
「呼び名がむちゃくちゃダサくなってんぞ、おい」
「……奇跡の剣士、はお気に召さないようでしたから」
そんな淡々とした姿に、絆那は肩を落としため息をつく。
「……戒堂絆那だ。名前で呼んでくれ」
「そんな、名前で呼べなんて……女の子にそんな台詞、それってつまり……」
「きっめぇんだよ! 人形操ってんの後ろのてめぇだろが!」
頬を染めるリーリエに、絆那が思わず怒鳴る。
「……人のスタイルにケチつけるのは人としてどうかと」
「うるせぇ人形愛好癖野郎。
で? なんでここにいるんだ。まだ何かあるのか?」
「いいえ、ただの住宅地への聞き込みです。貴方と会ったのは偶然です」
「……どうだか、な」
「それを言うなら貴方こそ何故?」
「何故っ、何が……」
「貴方の家は三丁目の方ですよね? ここは違いますよ。
むしろこの先は、そう――先ほどの道場へと向かう回り道ですね」
「……そうだったのか。道に迷ったかな」
「……そういう事にしておきましょう。
しかし、双葉学園の切り裂きジャック……ですか。なんとも物騒な名前ですね。
どうしてこの連続傷害事件の犯人が切り裂きジャックと呼ばれているか知ってます?」
「手口が刃物で……だからだろ? それで昔のロンドンの殺人鬼、切り裂きジャックみたいだからだって」
「そうですね。でも果たして本当に似てるだけ、なのでしょうか。
本当の意味で現代によみがえった切り裂きジャック……とか」
「馬鹿言え。何十年前だと思ってんだ、本人なんてとっくに……」
「ええ。でも本物が本人である必要は無い。
一人歩きし、物語となった切り裂きジャックの都市伝説、そのものだとしたら……」
「何が言いたいんだ、あんたら」
「霧は現実を覆い隠します。さながら目隠しをするように。
古来より霧は異界への呼び水とされてきました。
山や森、海で発生した濃霧の中に、人は妖精郷を見、怪物を見、幽霊船を見る。
かつて人は言った、そんなものあるはずがない、ただの幻だと。
ええ、昔なら今よりはるかにラルヴァの存在は少なく、また外へも出なかった。
なのに彼らは何故、怪異を霧の中に見たのでしょうか。
そう、彼らが見たのは、確かにただの幻、夢、錯覚なのかもしれません。
ですが。
彼らが見た、それは紛れも無い事実。ならそれが夢か現かなんて、どうでもいいことではないでしょうか。
霧は現実と幻想の境界を曖昧にする。
そしてそこから彼らは現れる」
「彼ら……?」
「物語は、何処から生まれると思いますか?
そう、人の心から産まれる。
それは現実を侵す夢。
物語は――現実になりたがっている。
それは人の心と結びつき、実体となる。欲望を叶え、自らが世界となるために。
それが現象体ラルヴァ、カテゴリーグリム……」
「ラルヴァ、カテゴリーグリム……?」
絆那はその名を反芻する。
不思議と、背筋に怖気が走った。
篠崎は、懐からファイルを取り出す。
「貴方のこと、調べさせてもらいました。
貴方を襲ったラルヴァの名は……「宝食《トレジャー》らい《イーター》」と呼ばれるもの。
人の大切なものを食べ、しかし本人を一度で死に至らしめることはない。
剣の道に青春をかけていた貴方は、右腕の神経組織を食べられました。
なるほど、傷ついたのではなく食べられたのなら……
なくなってしまった組織を、治癒する事などどんな異能者でも出来ません。
そして貴方は、動かなくなった手をずっと抱えて生きていく。それはとても絶望の日々だったのでしょう」
「……」
「宝食らいが獲物を生かすのは、そうやって生まれた人の絶望を糧とするから、という説もあります。
あるいは単に、性根が悪辣で、絶望した人を見るのが好きだから、という説も。
でも貴方は完全に絶望しきる事はなかった。
何故?
それは貴方を応援し、待っている仲間がいたから、ではないでしょうか」
「……だから、何だっての」
「その最後の希望を絶たれたとき――
貴方は、どうなるのでしょうか?」
「知るか。つーかやめてくれ、趣味が悪いぞあんた」
絆那は吐き捨て、篠崎の傍らを通り過ぎる。
リーリエはその後姿を見送りながら、言った。
「そうですね、趣味が悪いのは認めます。
でも、現実なんてそういうもです。それは貴方が一番よくわかっているはず。
そして、悪魔が成り代わった現実は、さらに醜悪にして邪悪です。
そう、その悪夢を打ち砕けるのは――
人の幻想だけです」
剣道場の扉を譲里は開ける。
誰もいない夕刻の道場は、なんとも不気味な空気を感じさせた。
「え~っと、バッグどこにやったかな……」
見回してバッグを探す譲里に声がかかる。
「これですか」
「え? ええと……霧埼さん?」
音も無く戸をあけて出てきたのは、霧埼玖雀だった。
「はい。忘れ物してたのに気付いてね。待っていたんです」
「それはどうも、ありがとうございます」
譲里は霧埼からバッグを受け取ろうと手を伸ばす。
その手を、霧埼は掴む。
「……え?」
バッグが床に落ちる。
柔和な笑顔のままに譲里の手を掴む霧埼に、譲里はどうしようもない不安を覚える。
それに気付かぬかのように、霧埼は言う。
「霧が、出ていますね、外。
こういう日って、うずくんですよ、僕」
「う、うずくって……何が? ていうか、ちょっ、離し……」
「何がって、こう……ね!」
霧埼の左手には、抜き身の日本刀が握られていた。
刃が煌めく。
「――え?」
霧埼は静かな、流れるような動きでその刀を譲里の襟元へとあてがう。
そして服の中に付き入れ、一気に引き降ろした。
「!!」
音も無く、その研ぎ澄まされた刃は譲里のブレザーからスカートまでを両断する。
ブレザーどころか、ブラジャーのフロント部分までをも白刃は切り裂いた。
そのふたつの膨らみ、その桜色の頂点までもがあらわになる。
「っ! い、いやあっ!」
もがいて暴れる譲里。
霧埼はその体を壁に押し付け、首筋に刃を当てる。
「――ひっ!?」
「……安心していいよ。僕は別に、君に淫らな事をしようというわけじゃない」
やさしく、安心させるように、霧埼は言う。
「ただ……」
白刃をゆっくりと動かし、譲里の乳房に、撫でる様に這わせる。
「っ……!」
鋼の冷たさに反応し、乳首が硬くなる。
「ただ……その美しい白い肌が、真っ赤に染まるのを見てみたい。
その柔らかい肉を切り裂く感触を感じたい。
それが僕のただひとつの欲望――!」
「!?」
譲里の目が驚愕に見開かれる。
――おかしい。何かがおかしい。
身長一八〇の長身。だが、どう見ても――二〇〇に到達しているような、巨体ではないのか?
メキメキと、霧埼の体が音を鳴らす。
筋肉が膨張する。脂肪のまったく感じられぬ、筋張った――巨大なミイラのような体躯。
流れるような黒髪が、白髪へと変わり、逆立ち、ささくれ立つ。
歯並びの美しい歯が、犬歯の尖った乱杭歯へと変貌する。
肥大した体に、上半身の剣道着が引きちぎれ、その螺子繰れ曲がった体があらわになる。
――怪物。
まさに、それは人型の怪物だった。
「ラル、ヴァ……!?」
「違うな……オレは、人間だよ……ククク、まあ――この力に目覚めたのは――最近だが、な」
「異能……者?」
「さあな。だがどうでもいいことだ。
オレにただ――大切なのは、この餓える魂を、滾る魂を満たすこと、だ――
肉を裂き、血を浴びるこの欲を――
さあ、オレの望みを叶えさせてくれ――」
刀を大きく掲げる。
目を見開き、端正な顔を狂気で歪ませる。
「霧よ! 我が物語に鮮血の彩りを!」
白刃が煌く。
それは一気に振り下ろされ――
「んなろぉおおおおっ!!」
――る、その直前。
戸を破り、人影が駆け込んできた。
「なっ!?」
それはそのまま、体当たりで掲げられた霧埼の手に掴みかかる。
不意打ちにバランスを崩し、二人は道場の床に倒れる。
「――戒堂君っ!?」
もんどりうって倒れた二人。立ち上がったその闖入者は、戒堂絆那だった。
「貴様……なぜ……!」
「やな予感がなんとなくしたからな。
つーか、一度遭遇したなら、次に狙われるかもしれねぇだろ」
そう。
『貴方の家は三丁目の方ですよね? ここは違いますよ。
むしろこの先は、そう――先ほどの道場へと向かう回り道ですね』
『……そうだったのか。道に迷ったかな』
『……そういう事にしておきましょう』
篠崎たちが言ったとおり、絆那は譲里を心配していたのだ。
連続傷害事件に遭遇した。
ならば、犯人は次は譲里を狙うのではないか――と。
「……誰だか知らねぇが、好き勝手してくれやがって……!」
学生服の上着を脱ぎ、譲里にかける。
「あれ、昼間の霧埼って人……」
「は、え、マジか?」
立ち上がったその巨体を見上げる。
――でかかった。
「面影ねぇだろ、これっ!」
言いながら絆那は竹刀を構える。
だが――
白刃が煌く。その一閃で、絆那の持つ竹刀は真っ二つに切り裂かれた。
「っ!」
「くだらねぇ――」
落胆の声と共に、返す刀が振り下ろされる。
それは、絆那の右肩から袈裟懸けに。
「――! いやああああっ!」
譲里の絶叫と共に、鮮血が迸った。
「――ふん、貴様と死合うのも楽しみにしていたが――とんだ期待はずれだ」
刀を振り、血を払う霧埼。
「やはり駄目だな。斬るのは女に限る」
そうして、譲里の方を狂気を湛えた瞳で見る。
その時、
「そうですね。女性に限るのは同感です。
最も、斬るなんて野蛮な趣味は理解できませんが。
女性はただ造詣を愛でるに限ります。
人は神の造りたもうと天上の美ですから」
そう、声が道場に響いた。
霧埼と譲里がその声の方向を見る。
絆那が壊した戸、そこに二人は立っていた。
篠崎宗司と、リーリエが。
「貴様、風紀委員の――」
睨み付ける霧埼の視線を涼しげに受け止め、リーリエは言う。
眼前の敵の名を、静かに。
「……カテゴリーグリム。『斬り裂きジャック』……
すでに第二段階、形成《イエツィラー》へと進んでいるようですね」
「いぇつぃ……らー?」
その言葉に譲里が聞き返す。
「活動、形成、創造、原型。
これはカバラの生命の樹セフィロートにおける、活動界、形成界、創造界、原型界に表される、世界の構造です。
カテゴリーグリムは現実になろうとする悪夢。
すなわち、生命の樹を逆流し到達し、自らが「世界」になろうとする。
そもそもカバラの魔術師たちの目的もまた、セフィロトを登り神へと至るというものですからね。
一説には、カテゴリーグリムと呼ばれるラルヴァは、超自然的に発生する「現象」ではなく「魔術」である……
という話も研究者の間ではあるのもまた、頷けます」
譲里には、言っている事はさっぱりわからなかった。
何を言っているのだろう。
目の前の男は、人間だったはず。それがラルヴァ?
その譲里の動揺を感じ取ったのか、リーリエが注釈する。
「彼は、異能者ではありません。あの変異は、異能の発現ではなく――ラルヴァに取り憑かれたものです。
人の欲望に取り付き、神話や寓話、都市伝説や噂話といった「物語」の原型《アーキタイプ》を再現する――
現象態ラルヴァ。最終的に様々な形態を取るためにカテゴリー認定不可。
あえていうなら、通称……カテゴリーグリム」
その言葉に霧埼が――否、霧埼だった「切り裂きジャック」が床を踏み砕き笑う。
「そうか、コレはそういうモノか――
だが悪くない。くくく、これか、これがラルヴァの力――!」
切り裂きジャックは哂う。
それはかつての霧埼玖雀とは似ても似つかぬ、変わり果てた狂気の姿。
否、それとも――それは彼の本性を映し出した鏡なのだろうか?
「醜い姿ですね」
「ほざけ! これが欲望なら、それに従い何が悪い!
オレはずっと燻ってきた、人を斬りたいという欲求――
それは剣士なら誰もがもって当然の剣士としての本能!
それに抗う理由がどこにある!」
その切り裂きジャックの言葉に、リーリエはため息をつく。
「カテゴリーグリム。現象体ラルヴァ、それは人の欲望と結びつき、その望みを叶える。
でもね。
人の欲望が、醜くおぞましいものだと、誰が決めたのかしら?」
「どういう――」
「貴方も知っていますね? 彼が腕を失い絶望した事。
それでも仲間の存在が、彼をまだ完全なる絶望の深淵へと落とすことはありませんでした。
そう、剣道部の仲間達。それが彼にとっての希望でした。
それを宝食らいは食らおうとして、彼と友人達が共にいるところを襲ったのです。
殺される。奪われる。食べられる。守れない。助けられない。
その絶望。
そして――
魂を突き動かす、切なる願いが彼に深淵を覗かせてしまった。
守りたい、という、ただそれだけの願い。
そのために、彼は――剣を再び握る腕を。敵を倒す剣を、守る力を欲し、望んだ」
その言葉の、果たして先か後か。
木張りの床を踏みしめ、立ち上がる音が三人の耳に届いた。
「――!?」
右肩から胸にかけての傷から血を流しながら、絆那が立っていた。
「バカな、致命傷――、!?」
切り裂きジャックは目を見開く。
絆那の傷口の中に、何かが蠢いている。
傷口を縫うように。斬られた肉を繋ぐように。
それは――植物だった。
黄金の根、黄金の枝。
血を吸い黒く染まった、黄金。
「バカな、なんだそれは!
オレの剣は確かに貴様を切り裂いた、アレは致命傷だ!
貴様は死ぬ、それが現実だ!」
切り裂きジャックが叫ぶ。
肉を斬り、骨を断ち、肺すら裂いた。
人ならば死ぬ。それが道理だ、と。
そして、絆那はそれに対して、血を吐きながら、ゆっくりという。
「かもな――確かに現実は重くて、容赦なく俺達の前に立ちはだかる」
「な……!?」
「しょうがない、諦めろ、これが現実だ――
みんな言うよ。そうやって諦めろ、って。
リハビリで苦しむ俺に、よくやったよ、だからもういい――って訳知り顔でな。
弱さを賢さと摩り替えて、諦めるなんて選択肢、俺は欲さねえ!」
その叫びと共に、絆那の何かが変わる。
右腕が軋む。
絆那の腕に走る古い傷跡から。何かが滲み出る。
それは影。それは枝。それは根。
「人の欲望に結びつきその願望を叶える現象、カテゴリーグリム――
それは彼の右腕に取り憑き、失われた神経組織に成り代わることでその願いを叶えた!
それは人体に根付く異物。
耳から芽吹く蒲公英《タンポポ》、目玉に生える草、臍から出るスイカの蔦、膝の裏のフジツボ。
人の血を吸い、肉に根を張る宿り木の怪異。
そして彼の強い願いは――いまだ覚醒しないその異能の力の源泉は、その力を自らのものとしました」
黒い葉脈のように脈打つそれは、質量を持って絆那の腕を侵食する。
腕から肩へ。肩から胸、首へ。
胸に到達した影の枝は、切り裂かれた傷口を侵食し修復する。
そして首から、頬へ、額へとそれは伸びる。
髪の右側が、黄金色に変色し、その瞳までも黄金へと変える。
絆那の持つ、切り落とされた木刀もまた侵食され、一本の剣となった。
「その銘を――黄金吸血樹(ミステルティン)」
リーリエが、その名を告げる。
カテゴリーグリム、黄金吸血樹――と。
そして、絆那が叫ぶ。
その剣の切っ先を、切り裂きジャックへと向けて。
「そんな現実は――幻想で切り開く!」
「ほざけぇえええっ!!」
切り裂きジャックがその巨体に似合わぬ速度で、跳ねる。
刃の鋭さに、巨体のパワーと速度を乗せた一撃。その一閃が絆那を襲う。
絆那は剣を構え、その斬撃を受ける。
だが、鍔迫り合いをさせる事も許さず、切り裂きジャックは次々と斬撃を繰り返す。
それはさしずめ、刃をまとった竜巻のように。
「くっ――!」
剣ではじき、直撃を避ける。
だがそれでも小さな裂傷は避けられず、それが積み重なるとやがて致命傷に追い込まれるだろう。
そして――
「ぐああっ!」
ついに、力負けして弾き飛ばされる絆那。
そのまま壁に叩きつけられる。
「ク、ク――無様だな!
何が守るだ、何が切り開くだ。てめぇは単なる偽善者だよ。
望むがままに斬り、殺す! それが本物の欲望だ!」
ゆっくりと、切り裂きジャックは絆那の元へと歩く。
死刑囚に恐怖を与える執行人のように。
そして刀を逆手に構え、絆那の心臓に狙いを定める。
「死ね――!」
振り下ろす。
その刃を、
「な、にぃ――!?」
絆那の右腕から伸びた、「枝」が絡め取っていた。
それは黄金吸血樹《ミステルティン》の枝。
侵食し、吸い取り、喰らい、奪い、収穫する――呪われしヤドリギ。
絆那が手にしたその異能の力は、“魂源力喰い”である。
故に。
その腕は、その枝は、眼前の敵に、否、“餌”に喰らい憑く。
「っ、は、離せ――おぞましいっ!!」
刀を持つ腕を振る。
だがその根は、刀を伝い、切り裂きジャックの腕にまで取り付く。
「ぐあああッ!」
たまらず刀を振り払う。
「刀を捨てたな、あんた」
そこに、絆那の声が響く。
「刀で人を切り殺すのが、あんたの欲望だったってな――
だがあんたは、刀を捨てた。てめぇの命惜しさに」
立ち上がった絆那が、一歩足を踏み出す。
そして切り裂きジャックは、逆に――一歩、後ずさった。
「何が本物の欲望だ。
貫けない望みには、何の意味も無えよ――てめえは、てめぇに負けたただの弱虫だ!!」
絆那が剣を構える。
その刀身から枝が伸び、そして――例えるなら蝙蝠の翼の被膜のように、あるいは虫の翅のように、魂源力の刃が形成される。
それは黄金の光。
それは黄金の呪い。
魂源力を喰らい尽くす、収穫の刃の一撃。
「や、め――」
切り裂きジャック――いや、霧埼が叫ぶ。
だが、絆那は容赦なく、
その刃を振り下ろした。
「まさに、刈り取るもの――寓話に対する死神《グリムリッパー》。
いえ、寓話騎士《グリムリッター》とでも言うべきでしょうか」
その様を見届け、リーリエは静かに言う。
カテゴリーグリム、「切り裂きジャック」は消失した。
霧も晴れ、これ以上彼の物語は広がらないだろう。
「そんな……戒堂君……」
推移を見守っていた譲里が呆然とした声を上げる。
無理も無い。
同級生が、目の前で人を斬ったのだ。
篠崎が、絆那の傍らに進む。
「――見事ですね」
リーリエが、それを見下ろして言った。
気《・》絶《・》している。霧埼玖雀の姿を。
「グラついていたから、切り離すことが出来たのか――
それとも、貴方のその力は、魂源力を食らう故に、姿を持たぬラルヴァの天敵なのか」
「……本っ当に気持ち悪いなあんた。どこまで知ってるんだか」
「さて、どうでしょう」
「で? 俺を倒したりしょっぴいたりするのか、風紀委員さん」
「理由がありません。風紀委員としては、貴方を補導する理由も無いですし。
この学園生徒としても――人を害さぬラルヴァに関しては、基本的にスルーですから」
「そうか」
そう一言だけ言って、絆那は道場の出口へと向かう。
「――あ、あの、戒堂君っ!」
譲里が慌てて声をかける。
だが、何を言えばいいのだろうか。
お礼?
いや、そもそも――目の前の彼は、本当に自分の知っている彼なのだろうか。
その逡巡を絆那は見て取り、そして一言、言った。
「お前なら、大丈夫だよ」
「――あ」
その一言に、確信する。
そうだ、何も変わってはいない。
何も――変わってなど、いないのだ。
返事を待たずに、街道絆那はもう日が暮れた外へと、立ち去った。
「――さてはて」
その一部始終を見ていた、何処かの誰かが高らかに言う。
「時が満ちる前に物語は閉幕を迎えました。
些か物足りぬ幕切れではありますが、先ずは目出度し目出度し――と」
それは道化。
それは語り部。
それは誰か。
それは彼か。
物語を紡ぐ者は、双葉の学園で笑うのだ。
「次なる物語は如何なるものか。
血沸き肉踊る英雄物語?
心切ない恋物語?
慟哭誘う恐怖劇?
悲嘆に暮れる詩?
それは――貴方しだい。
では、次なる物語で――お逢いいたしましょう」
――了――
最終更新:2009年07月19日 21:47