【キャンパス・ライフ2 その3】

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「心の傷は、簡単に治らないの?」
 そう、幼い遠藤雅はきいた。彼の妹・みやこを寝かしつけてきた母・遠藤愛《えんどうかな》は、にっこりと雅の話を聞いていた。
「誰かそのお話を聞いたのかな? マサくん?」
「担任の先生。この頃、しょっちゅうこの話を聞いてるよ」と、雅はややうんざりとした調子で、担任の得意としている名文句を諳んじた。
『人の傷というものは二種類ある。一つは体の傷。もうひとつは心の傷。体についた傷は自然に治るけど、心の傷はそう簡単に治らない』
「先生のおっしゃるとおりね。心の傷はそう簡単に治せるものではない」と、愛は言った。「しかし、だからこそ私たちは存在し、能力を持っている」
 この頃の雅はまだ、母親の言う「能力」や「異能」の意味が理解できなかった。自らが治癒能力者であることを、自覚していなかった。
 それは小学校が夏休みに入ったばかりの出来事である。浮かれた全国生中継の音声が雑然と流れ出るなか、風鈴がのんびりとした夏の昼下がりを印象付けるよう、その音を響かせていた。
「簡単に心の傷は治らないからこそ、私たちは代々、治癒能力者としての役割を果たしてきたの。相手の苦しみ。悲しみ。怒り。すべてすべて受け入れて、気持ちを理解してあげる」
 能力について話をするとき、愛はいつも言葉の一つ一つに深い感情を込めて、ゆったりと歌い上げるように語った。「母さんはもしかして、魔法使いなのかもしれないな」。幼かった頃の雅は、そう夢見心地に思わされてきたものである。
「体の傷も、心の傷も、そういう意味ではまったく同じもの。複雑な原理や構造などないの。傷ついた人の痛みをきちんとわかってあげて、治してあげるのが、私たち雨宮《あめみや》家の指名なんだよ」
「つまり、心の傷は治すことができるってことだね」
「そう。私たちは、それができる」
 そう呟いてから、愛は下を向く。三児の母とは思えない彼女の童顔が、陰りを見せる。
「どうしたの? 母さん?」
「それでもね、私たちが治すことのできない類の心の傷もある」
 雅は小さな目をぱちぱちさせた。「母さんでも、治せないものもあるの?」
「うん。それは、大切な人を失ったときにえぐられた心の傷。これはね、大切な人が復活でもしない限り、私たちがどうやっても埋めてあげることはできないの」
 わかるような気がした。大切な友人や兄弟・恋人を、理不尽な殺され方をして亡くしてしまったとしよう。悲しみに打ちひしがれて苦しみ続ける彼らの心を、本当に理解して救ってやるには、その死や喪失をなかったことにしてあげるしかない。生き返らせて、彼らの前に戻してやるしかない。
「そんなことは、できるはずがないから治せない」
「マサくんの言うとおり。よく残された人が、テレビで、あの人を返してほしいって叫んでいるよね? あれこそが、彼らの本音。願い。気持ち。だけど、その気持ちは絶対に通じることはない。死んだ人間は絶対に生き返らない。私たちが話を聞いてあげたところで、どうにもしようがない。だから、彼らの心の傷はどうやっても治せない」
 太陽が厚い雲に隠れてしまい、電気の点いていない居間は薄い影に包まれた。風鈴はぴたりと止み、二人の間には静寂が降りている。TVの音声は、相変わらず一定の調子で流れ出ている。
「じゃあ、そうして深く傷ついた人たちは、どうしていけばいいの?」
 と、雅は愛にきいた。
「乗り越えるしかない。大切な人の死を乗り越えて、強くならなくてはならない。自分がこれからも生きていくための、糧にしなくてはならない。・・・・・・だけど、それが負の方向へ働いてしまうと、物事は悲劇へと導かれる」
 愛は、沈痛な面持ちでこう言った。
「恨み。憎しみ。負の感情に支配された人間は暴走を始め、さらなる悲しみを生んでしまうから」


 双葉学園の総合体育館で、エヌR・ルールはそいつと対峙する。
 視線の先には黒ずくめの少女がいる。手には長い鞭を持っており、床にぴしゃりと叩きつけた。赤い両目が彼をじっと捉えている。
「手加減などいらない。ふん、ぼくを粉々にできるものならしてみたまえ」
 サングラス越しの澄ました表情めがけ、さっそく鞭が弾丸のように飛んできた。ルールは横にステップを踏んで回避すると、背中を狙って帰ってきた鞭も俊敏に避けた。
 手元に戻ってきた鞭を手繰り寄せると、黒いドレスに身を包む少女はニッと微笑む。急に走り出し、その勢いのまま前方へ鞭を「撃つ」。
「!」
 ルールはとっさに上体を後ろへ逸らした。頭部があった空間を、音速でかすめていった。鞭はそのまま体育館の壁にドゴンと直撃し、弾痕のごとき大きな穴を開けた。
「・・・・・・それはいささかやりすぎではないか。成宮が卒倒するぞ」
「いーじゃん! 手加減などいらないっていったの、エヌルンでしょー?」
 ゴシック・ファッションの映える醒徒会書記・加賀杜紫穏は、ルールの至近距離に飛び込むとすかさず胸倉をつかみ上げ、豪快に放ってしまった。青白い光に包まれた加賀杜は、いともたやすく長身の彼を投げ飛ばしてしまう。さかさまになりながら、ルールは呆けたような顔を見せる。
「血塗れ仔猫が近接戦闘を行うとは聞いていない。勝手な真似を――」
 そのまま加賀杜と向き合ったとき、鞭の先端が真っ直ぐ自分に向けて発射されたのを見た。
 加賀杜は「所持している物の能力を大きく増幅させる能力」を最大限に発揮させる。手に握る市販の鞭を、対角線上にいるルールに向けて何発も振るった。驚異的な速さで右腕を振り回した。彼が頭を下にしたまま空中に留まっているそのうちに、蜂の巣にするつもりで一秒間に十発は叩き込んだ。
 ルールは頭部を護るべく、両腕でかばうようにして全弾を受け止める。あっという間に制服の袖がズタズタに破れ落ちてしまった。
 ずしんと、ルールの着地する轟音が体育館に響き渡る。それから彼は、感情も込めずにこう言った。
「そろそろいいだろう。鞭なんてオモチャなど恐れるに足らない。ぼくも本気を出させてもらう」
 加賀杜は聞く耳を持たず、次の攻撃に移っていた。大縄を縦に振って波を伝えるあの要領で、腕を振り上げ、鞭の先端をルールの頭上に宙高く打ち上げた。
 それから上手投げをするように肩をぶん回し、高く舞い上がった鞭を一気に振り下ろす! ルールの体を縦にぱっくり割ってしまうつもりで、彼女は稲妻を落とす。
 ほぼ鈍器といっても差し支えない先端部分を、ルールが両手でキャッチするその瞬間――、
 バチンと、異能力と異能力がぶつかりあって派手な爆発が起こった。
「きゃあ!」と、加賀杜は悲鳴を上げる。
「むむっ!」と、ルールもこの日初めて表情に衝撃の色を浮かべた。
 彼は手に触れた鞭を、原子レベルに分解してしまおうとした。物質を瞬間的に、それもダイレクトに原子レベルへ強引に断ち切ってしまうには、膨大な量のエネルギーが発生する。
 しかし、加賀杜の異能力がそれを許さない。異能によって強化された鞭はそうたやすく崩壊しない。それどころか、どんなに硬いものでも豆腐のように粉砕してしまう強度と威力を得ていたぐらいであった。
 手元に反動の直撃を受けた加賀杜は、眉を吊り上げてルールにこう怒鳴る。
「あっつーい! ヤケドしたらどうすんだよー! もう怒ったぞ、次は本気で撃ち込んでエヌルン粉々にしてやるぅー!」
「やれるものならやってみたまえ。粉々になったり粉々にしたりできるぼくを粉々にしようとは、面白いことを言う」
 今度はルールが正面から飛び掛る。セオリー通り、鞭の影響力が及ばない近接戦で決着をつけるつもりだ。「鞭など触れたその瞬間、分解してやる!」。
 一方、加賀杜も自分の力のすべてを鞭に注ぎ込み、ルールの小粋なサングラスをかち割らんとばかりに腕を振った。青白い火の玉のごとく、鞭の先端は突き進んでいった。
 焦げ付いた匂いが充満するなか、再び、学園最強クラスの異能力と異能力は、正面衝突を見せようとした――!
 しかし。
 突然横切るようにばしゃんと通った、分厚くてクリアな水の壁。それが、ルールと鞭を急停止させた。
「はいはいそこまで。もはや想定訓練を逸脱していますよ、お二方?」
 醒徒会副会長・水分理緒は、半ば呆れ返りながら二人を注意した。ルールが「ふん」と言ってサングラスのずれを正すと、加賀杜も頬を膨らませてそっぽを向いた。あぐらをかいてゆっくり観戦していた龍河は、心底楽しそうにニヤニヤしていた。
 血濡れ仔猫の討伐に向けた想定訓練が、ここ体育館で行われていたのだ。鞭を振り回す、とんでもない強敵のイメージトレーニングに一役買ったのが、加賀杜紫穏の特殊能力であった。彼女は手に持ったものを強化することができる。
 ならば鞭を握らせたら、血塗れ仔猫と似たような戦い方ができるのではないか? 思い立ったが吉日、副会長は早瀬に体育館の使用許可を取ってくるよう命じた。ついでに雰囲気から徹底しようぜという意見がどこからか涌き出て、こうして加賀杜は血塗れ仔猫を思わせるゴシック・ドレスを着て訓練に臨んだのである。
 実際に血塗れ仔猫と遭遇した龍河が言うには、「んー? こんなお人形さんみたいな可愛いもんじゃなかったぞお? あの子はもうちょっと胸がボンとあってぐへっ」だそうである。鳩尾にグーを叩き込み、加賀杜は笑顔でそんな龍河を黙らせた。
「あははー。でも、こういう変った服装もたまにはいいよねー」
 頭に猫耳まで付けている加賀杜は、とても楽しそうにしてそう言った。猫耳をぴこぴこ動かし、尻尾をゆらゆら左右に揺らしながら、光沢を放つ床面にぱちんと鞭を打った。両目には赤いカラーコンタクトまで入れている。
 水分も思わず、そんな加賀杜の可愛らしい姿にくすっと笑わされてしまう。
 ・・・・・・しかし、彼女はルールのほうを向くと、穏やかな微笑をたたえながらこうきいた。それは見るものを魅了するものというより、見るものの背筋を凍りつかせてしまう、そんな残酷さがあった。
「それよりも・・・・・・。どうですか? 血濡れ仔猫の攻略はできそうですか?」
「問題ない。たとえ鉄砲のごとく鞭が飛んでこようが、鞭の雨がぼくに降りかかろうが、すべて『ザ・フリッカー』で分解してくれる」と、ルールは淡々とした調子で言った。「勝負の行方など目に見えている。馬鹿馬鹿しい」
「まあ、所詮その程度だしなあ。本体叩けばどうってことないただの雌猫に過ぎねえし」
「龍河さんのお話を聞くぶんには、お世辞にも大したことのない相手のようですね。飛んでくる鞭を真正面から断ち切って差し上げたら、いったいどんなお顔をなさるのかしら? ふふふ」
「怖い怖いっていうけど、どのみちアタシたちには話にならないレベルだねえ。対策なんて打つ必要なんてないと思ってたんだけどなー。あはははははははっ」
 まだまだ無邪気な醒徒会書記は、血塗れ仔猫のそれ以上に赤い目をして、不気味な哄笑を体育館に響かせるのであった。


「この町はのどかでいいわねえ」
 立浪みくは気分よく、鼻歌交じりに坂道を登る。途中で野良猫に会えば、自分も白い猫耳と尻尾を展開させて、仲良くにこにこと会話をしてきた。
 祖母の家へ帰る途中であった。両手にはスーパーの袋を握っている。食料品をたくさん買い込めば、当面はゆっくりと過ごすことができる。空気もとてもおいしくて、時間はゆっくり流れていく。彼女にとってこの町は天国であった。
 みくはこの夏、休養として祖母の家にいた。ただ祖父母は数年前に亡くなったので、家は廃墟となって残されていた。町役場に無理を言って、この夏、電気や水道・ガスを引いてもらった。
 ここは立浪姉妹の育った町でもある。彼女らは正確には、養子として老夫婦にもらわれた子供であった。みかとみきはそのことを理解していたが、末っ子のみくだけは、老夫婦を祖父母として認識していたのである。
 昔、姉に連れられてよく遊びに行ったおばあちゃんの家。みくはこの田舎町が大好きだった。
 だから、七夕の日に大きな心の傷を受けた彼女は、自分がゆっくり魂を休めることのできる祖母の廃墟で身を潜めていたのである。
 帰り際に銭湯に寄ったので、芯まで火照った体に夕暮れ時のそよ風が心地よい。山の木々は黒く際立ち、細い電柱の影が長く伸びていた。
 祖母の家に戻ると、着替えやバスタオルを片付けてから居間のテーブルに突っ伏し、頬をついた。蚊取り線香の匂いが部屋中に漂い、窓に赤い腹をしたヤモリが張り付いているのを見た。カレンダーを見ると、八月も終わりに近づいていた。
「学校、行かなきゃなあ」
 自分は島へ帰らなければならない。異能者としての生活を、再開させなくてはならない。そろそろ新しい住まいを確保するためにも、天国のようなこの土地を離れ、双葉島へ帰らなくてはならなかった。
 そして、自分には辛い辛い現実が待っている。どうしても向き合わなくてはならない現実がこれから待っている。
 ラルヴァ。今まで敵だと思っていたもの。まさか、自分がその一部だったなんて。
 みくが一番こたえたのは、やはりこれだろう。ラルヴァは異能者によってすべて殲滅させられるべきものだと思ってきただけに、この真実は彼女の存在・信念を根底から覆してしまう、残酷なものであった。
「私はどうやって、みんなと向き合っていけばいいのかなあ」
 不安は山ほどあった。みんなとこれまで通りに楽しくやっていけるのか?
 私はいつかお姉ちゃんたちのように、学園のみんなによって処刑されてしまうのか?
 私はいつか、ラルヴァの血に目覚めて暴走してしまうのか?
 十二歳の少女は誰かに頼りたかった。逃げ出すよう祖母の家へ身を寄せたのも、それが本音だったからなのかもしれない。立浪みくは、自分がこれからどうしていったらいいのかがわからない。
 ふと、大好きな青年の笑顔が浮かび上がる。しかし、彼女は強く首を振って、それを拒絶するようかき消してしまう。
「マサには迷惑かけられないし・・・・・・こんなこと、知られたくない」
 みくはそう呟くと、寝室においてあったカバンから、自分のモバイル手帳を取り出した。
 まる一ヵ月半、電源を切っていた。外部との連絡手段を故意に遮断していたのだ。
 久しぶりに電源を入れると、例えば友達からのメールだとか、遠藤雅からのメールだとか、そういったものは一切届いていない。
「ま、メアドと番号変えちゃったら、来るはずもないわよね・・・・・・」
 それでも、そんな自分の寂しい行為に大きな孤独感を感じ、重たいため息が出てくる。
 その代わり、学園や担任から届いた重要メッセージは山ほど届いていた。内心とても嫌だったが、きちんと見ておかなければならない。案の定、七月八日から不登校であった立浪みくを心配に思ったり、連絡を要求したり、早急に学園へ顔を出すよう強く催促するものが、たくさん寄せられていた。
 肘をつきながら嫌々受信メッセージを閲覧しては、一つ一つ削除していく作業に追われていたところ。
 ふと、おかしなメッセージの存在に気づいた。やけにデカい容量ねと呟いてから、それが動画ファイルであることがわかってたまらず目を丸くした。
「会長からの一斉配信メッセージ? わけわかんない」
 みくはこの日に初めて、醒徒会会長・藤神門御鈴が学園生全員に向け、緊急に発信した声明を目にする。
「・・・・・・血塗れ仔猫? 何それ?」
 眉がぴくりと動く。みくは七夕の翌日に島を離れたため、血塗れ仔猫の事件をまったく知らなかったのだ。
「犠牲者七人って、大災害じゃない。うそ、やだ。私のいない島で、いつの間にこんなとんでもないことが起こってたの?」
 血濡れ仔猫の概要。衣服は黒い大型のドレス。赤い瞳。頭部に猫の耳(黒)が乗っており、尻尾(黒)も生えている。
 まるで私たち姉妹みたいね、とこぼしてから、みくは次の記述に凍りついた。
 血濡れ仔猫は「鞭」を装備している。その鞭は伸縮自在であり、対象を叩き、貫通し、粉砕することもできる。また、締め上げて体をちぎったり、潰したり、粉々にしてしまうことも可能。
「鞭って・・・・・・それじゃまるで、みきお姉ちゃんじゃないの・・・・・・!」
 立浪みき。三年前の「2016年上級ラルヴァ・学園強襲大災害」の直後、安否不明となっている立浪三姉妹の次女。
 容姿と武装が、あまりにも彼女と酷似しているのだ。みくは、モバイル手帳の握り締める両手に汗が滲んでいるのを感じていた。
「もしかして、これが、みきお姉ちゃん・・・・・・?」
 いや、そんなことはありえない。彼女は姉妹の中でも一番の怖がりで、心優しい人だった。そんな人が無差別に人間を襲撃し、それも、七人の少年少女を血祭りに上げるなんて。
 万が一悲しいことにそうであったとしても、だいいち、どうしてこのタイミングで事件が起こるのだろう? みきが失踪したのは三年前。一連の事件が起こるのは、今年の七夕の後だった。この空白はどうして発生したのだろうか。もしも血塗れ仔猫がみきだとしたら、この間、彼女はどこで何をしていたのだろう・・・・・・?
 夕飯の支度も忘れ、みくは長い時間をかけて考え事に没頭していた。垂れ流しにしていたテレビは夕方のニュースが終わり、非常につまらないバラエティ番組へと変わっていた。
「こんばんはー。押売新聞ですぅー」
 と、ここで玄関の戸をからから開ける声が聞こえてきた。集中力を横から断ち切られたみくは、非常に怒ってちっと舌打ちをした。
 勝手に戸を開けるなんて、これだから新聞の人間は! 
 障子を乱暴に開け放つと、図々しくも玄関に侵入している、ニタニタと気持ち悪い笑みの青年を見た。きっと変態でも妖怪でもラルヴァでもなく、心のこもった精一杯の営業スマイルなのだろう。ますます頭に血が上ってきたみくは、ギロリとこの頭の悪そうな青年をにらみつけた。
「あ、すみません。あの、新聞の契約についてなんですが・・・・・・」
「いらないわよ。突然何よ。あんた息がすっごく臭いんだけど? とっととそのヒキガエルのような気持ち悪い顔下げてくれないと、爪一閃じゃ済まさないわよ」
「そんなあ。立浪さん、先々月までずっと契約してくれたじゃないですかあ」
 みくは呆れ返り「は?」と目をわざとらしく丸くしてみせる。
「九月から三ヶ月間でよろしいでしょうか? では、ここに立浪さんのサインを・・・・・・」
「テキトーぶっこいてんじゃないわよ! 私今ね、すっごく機嫌悪いの。いらないって言ってんでしょうが! 日本語通じないなら直接おんどれの血で解らせてやろうかあ!」
「ひい! 何もそこまで言わなくていいじゃないですかあ・・・・・・」と、まだまだ幼さの残る新聞集金員は萎縮した。「ここの人、おっとりしてて優しくていい人だったのに、いつからこんなおっかないライオンが住むようになってんだろ」
「聞こえてるわよこらぁ!」
「ひゃああああ! わかりました、帰ります帰ります! 怖いよう」
「ガルルルルルル」
 両手を腰に当てながら、みくはその汗臭い背中がとぼとぼと闇に消えていくのを見ていた。
「フン! まったく、これだから新聞の人間は小汚くて小ざかしくて大嫌い!」と、玄関の戸を閉めようとする。「初対面だってのに、なーにが先々月までずっと契約・・・・・・」
 そのとき、みくははっとした。背筋を、悪寒にも似た衝撃が走っていった。
「ちょっとあんた! 待ちなさい! 私の話を聞きなさい!」
 サンダルをぺたぺた鳴らし、みくは走って彼を追う。
 呼び止められた青年は、サービス精神全開の満面な笑みを少女に向けた。
「え? ああ、新聞とってくれるんですか! ありがとうございます、これまで通り朝刊のみで三ヶ月でよろし・・・・・・ぶへっ」
 その気持ち悪い笑顔を、みくは躊躇せず平手打ちで潰した。
「そんなこと言いにきたんじゃないの。ねね、あんた。先々月までウチが新聞とってたって、どういうこと? あの家は廃墟なのよ? 住んでる人はいないのよ? 誰があの家にいたっていうの?」
 赤く腫れた頬をさすりながら、鼻血を拭って青年はこう答えた。
「え? あれ廃墟だったんですか? 嘘だあ、立浪さんずっと暮らしてたじゃないですかあ。二年以上はうちの新聞とってくれたじゃないですかあ。それもあなたとは違う、人が良くて優しくて笑顔の可愛くておっぱいの大きなお姉さ・・・・・・ほぎら」
 小汚い顔面に膝小僧をぶちこんでから、みくは愕然としてしまう。
 誰かがあの家に住んでいた?
 ありえない話だ。あの家は、祖母が死んでからずっと廃墟であったはずだ。
「それ・・・・・・本当なの?」
「あががが・・・・・・歯が、歯がぁ・・・・・・。本当ですよう。僕がずっと集金を担当してきたんだから間違いないですって。いつも『あうう、ちょっと待っててくださいね。お夕飯のしたくしてたものですから、うふふ』って愛想よくお金持ってきてくれましたよ。あなたとは違って。
 それよりも、これからも新聞とってくれるんですよね? 私とあなたたちの仲ですもの、洗剤やお米をいっぱいサービスして、ジャイアンツの観戦チケットも付けちゃいましょう。では、これまで通り三ヶ月の契約でよろし・・・・・・」
 禁句が流れた瞬間、みくの瞳が点のごとくぎゅっと絞られ、小ぶりな牙が露になった。
「・・・・・・私は竜党よ。ドラゴンズファンよ! この糞ウサギの差し金があああああああああああああああああああああああああああ」
 少女の瞳が金色に輝いた。爪がじゃきんと伸び、白い抜き身がみせるあの恐ろしい光を放つ。
 夜の帳が下りた集落に、新聞集金員である青年の絶叫がこだました。


 その後、みくは押入れの中身を手当たり次第ひっくり返していた。
「まさか、まさか、みきお姉ちゃんはこの家にずっと・・・・・・!」
 やがて、彼女は二年半ぶんにも及ぶ、立浪みき名義の領収書を発見する。確かに最新のものは、今年の六月のものであった。まめな性格である立浪家の次女だけあり、みくの思ったとおり、新聞の領収書はすべて律儀に保管されていた。これで証拠はつかんだ。
 どうりで、廃墟のわりに手入れが行き届いているはずであった。ずっと安否不明だった実姉の足取りが、ここに来て解明を見せる。三年前の大事件のあと、立浪みきはこの家に身を潜めていたのだ。少なくとも六月の終わりまではここにいたのだろう。
 どうしてみきはあの事件の後、この家にやってきたのだろうか。島から逃げ出すように、隠れるように暮らしていたのだろうか。だが、今のみくなら姉の気持ちが理解できる。
「今の私と同じよ。みきお姉ちゃんも、みんなに迷惑をかけたくなくてこの家に来たんだ・・・・・・」
 畳にお尻をつけて座り込み、しんみりと領収証の山を眺めていた。と、押入れの奥に、A4サイズの大学ノートが数冊、保管されているのを発見した。みくは四つんばいになって押入れに入り、そのノートをすべて取り出した。
「えっ・・・・・・この字は・・・・・・! ああ・・・・・・!」
 表紙には、みきの書いた昔懐かしい文字で、「日誌」の単語がつづられていた。


 双葉学園大学一年生・遠藤雅に、会長からじきじきに呼び出しがかかった。
「暑い中よく来てくれたな遠藤雅。申し訳ない」
「いいえ、気にしてません」と、雅は愛想よく笑顔を少女に向けて言った。「やっぱり血塗れ仔猫の件でしょうか?」
「うむ。遠藤はあいつと遭遇して、うちの龍河とともに一戦交えているからな。醒徒会として、一つ聞いておきたいことがあるのだ」
 藤神門御鈴は、デスクに丸まる白虎の背中を撫でながらそう言った。「遠藤雅。お前は私たち醒徒会に、何でも協力してくれるよな?」
「ええ、もちろんです。訓練のときはお世話になっていますし、与田のときの恩もありますし」
 ありがとう、と御鈴は礼を言う。白虎も「がお」と返事をしたような気がした。
 隅から隅まで締め切った部屋の中でも、セミの鳴き声がしみこんでくるよう聞こえてくる。ツクツクボウシが遠くで鳴いている。そう、夏は終わろうとしていた。身の毛のよだつ恐ろしい夏は、終わろうとしていた。
「が、その前にな。遠藤には一つ、知っておいてほしい学園の過去の出来事がある」
 雅は疑問符を頭上に置いた。知っておくべき過去の出来事。いったいそれは何だろう?
 御鈴はデスクに置いてあった、分厚い書物を開いた。それから絵本を読んで子供に読み聞かせるよう、三年前に起こった痛ましい事件について振り返る。


『2016年上級ラルヴァ・学園強襲大災害』
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最終更新:2009年08月01日 17:41
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