【鈴曲】


※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。



  鈴曲 -レイキョク-  ラノで読む


 割れた月が青白く笑う。風の絶えた夜気には、にじり寄るような蒸し暑さが舌這わせている。
 サイテは腰を屈めると、あたりの地面に視線をめぐらせる。足跡や草木の折れた様子はなく、誰かがここを通ったり居を構えてる気配がない判断すると、立ち上がり大きく伸びをした。
「夜の静けさはどこも同じだな。東京もこれくらい昼夜に情緒があるほうがいいもんだが」
 周囲の四方を高層ビルと研究施設に囲まれ、どの建物もこの公園に立ち入る通用口はなく、そのすべてにそっぽを向けられていた。園内に大きく目をむけると、陽射しの当たる時間が少ないのかぽつぽつと雑草が生えているだけで、錆びた一組のブランコとおざなりに建てられている灰色の街灯があるだけだった。
「動くな」
 弛緩していた空気を正すように、か細くも凛とした声が闇間に響く。背後から聞こえた呼びかけにサイテは反射的に両手を頭の後ろに置き、
「いっでぇぇえええ!!」
 横合いから乾いた発砲音が鳴り、鉄球で殴りつけるに近い衝撃がサイテを襲う。直後、サイテの半身が宙に浮きあがるが、倒れかけのボーリングのピンのように姿勢を戻し、右足を地面に縫いとめる。
「弾いた?」
 首の長い街灯が見下ろす照明の中に現れた影は小さかった。山口・デリンジャー・慧海。円形の舞台に底冷えするほど月光を浴びたテンガロンハット、左右に束ねた金髪のツーサイドが揺れ、きらりと宝石のような碧い目に光が灯る。
 目標を仕留め損ねたことには意に介することなく、手元の拳銃も見ずに慧海は次弾を装填していく。
「今どきバイトのねーちゃんでも涼しい顔でスマイルくれるってのに。鉛玉とはご挨拶だな」
「ヤサカの報告どおりの外見だけど、人間に擬態するのに何か条件でもあるの」
 おーイテテ、とこめかみを手でさすりつつ、サイテは慧海に向き直る。慧海は答えを待つ素振りを見せず、拳銃をサイテに突きつけた。
 二人の頭上を風切り音が舞う。汚れた白壁をなぞったビルの屋上でしきり何かが飛び交っていた。サイテは舌打ちし、意識を上方へ向けると、慧海がトリガーを引くよりも先にノーモーションで力を振るった。
「そういうのは困るのよな同胞《はらから》。話し中はお行儀よく静かに待つべきだ」
 砂袋が二つ、音も無く落下してきた。正確には赤い猿の小さな顔に、腕に翼膜を与えたモモンガもどきのラルヴァ。それらが赤ん坊のように四肢を強張らせ、鳴き声一つあげずに地上に転がっている。一匹はサイテと慧海を結ぶ直線のちょうど真ん中、もう一つは慧海の背後に。咄嗟に慧海は眼前と背後のラルヴァたちへ目を配り身構えるが、二匹の動きがなんらかの力で封じられているのを把握し、その元凶であろうサイテを睨む。
 サイテは慧海との間に横たわっているモモンガラルヴァを一瞥する。モモンガラルヴァは瞬きすらできないのか、充血した目で怒りを示そうとするが、ひゅうひゅうと口から息が抜けていくだけでそれが発せられることはなかった。
「ラルヴァのアンタが、どういうつもり?」
 不審を表しながら、ここにきて慧海は拳銃を下ろし、返答を求めるかたちで詰問した。曲がりなりにもデミヒューマンラルヴァであるサイテが、まるで自分を助けるように行動したのが理解できなかった。
「きひひ、命拾いしたなカウガール」もっともらしく、必要以上にふんぞりかえり口の端を吊り上げながら言う。「オマエがオレを撃ってたらその瞬間にコイツらは飛びかかってた。なに、礼には及ばない。まあ、嬉しさ感無量で堪える涙を抑えきれないなら、オレの温かく広い胸でハグハグしてやってもいいぞ!」
 サイテは両腕を大きく広げて慧海を迎える用意をするが、慧海のある箇所に目を留めると、張り伸ばした腕をしゅんとさせた。
「あーでもそこはカウガールっつーか……グランドキャニオンだな」
 HAHAHAと個人的にナイスなアメリカンジョークを言ったつもりで上機嫌のサイテだった。しかし慧海は無表情に――周囲の闇より濃くどす黒い威圧感を放ち、有頂天のバカでもはっきり聞き取れるように丁寧に、これから判決を読み上げる裁判官のように、高らかに宣告する。
「ゲスに拝める朝日はないと思え」
 これより約六時間のあいだ、ラルヴァと風紀委員による(一方的な)追走劇が幕を上げ、幾多の犠牲の末、風紀委員の彼女のパートナーが止めに入るまでこれは続くことになる……。


 先端に昇るほど柔らかそうで、底が重たげな入道雲が、真昼の青空を漂っている。目線を下げ、唐橋悠斗《からはし ゆうと》は隣を歩く二人の少女を見る。悠斗より背が少し低めな女の子は森村マキナといい、セミロングの銀髪を後ろにきゅっと結い上げ、サイドの髪は耳にかかるように下ろしている。彼女は双葉学園に不案内な悠斗のため、モノトーンなウェイトレスの制服を着たまま、喫茶店からこうしてついてきてくれている。
 仕事中に悪いと思った悠斗は彼女の申し出に、しきりに辞退しようとしたが、「いのりちゃんの初めてのお客さんですから」と押しきられるかたちになった。当の本人――倉持祈《くらもち いのり》は、店を出る前にマスターに渡された麦わら帽子を被り、マキナの手をしっかり握って歩いている。遠目に見れば、二人の姿は歳の離れた姉妹のそれと変わらない。マキナを気遣ってか、いのりは強く引っ張ろうとはせず、彼女の歩く速さに合わせていた。
 雲間から這い出した太陽が、街路樹にの葉にしがみつく露を熱い視線で招いている。
「なあ、店のことはいいのか?」
 悠斗は心配そうに訊ねる。一応は経営者でもあるマスターの許可が下りてるとはいえ、付き合わせるのには少し後ろめたい気分だった。
「どうせお客がいっぱいにならないから、だいじょーぶだよ」
 横合いから声が入る。麦わら帽子のツバを持ち上げて、いのりが上目づかいで悠斗を見た。いのりはあの喫茶店のマスターの孫娘だということを、道中でマキナから聞かされていた。
「それはそれでマズいんじゃないのか……」
「普通にお店を出すのと違って、ここは学園から助成金もおりたりしますし、学園側も生徒の利用する施設を取り潰すことは本意ではないですから」
「デカいとは言っても、結局ここは海に囲まれた島だし、いるのは大半は学生だもんな。東京もすぐそこにあるから、ガス抜きする場所がないと勝手に抜け出したりしそうだ」
「都内が近くにあるおかげで物流品は差がないんですよ。それに加えて物価は格段と安いですからよっぽど珍しい物でもない限りは、同じ品物はこっちで揃えるほうが便利がいいようにできてます」
 橋一つ越えた目と鼻の先には、いまだ衰えることもなく、華やかな賑わいを見せている首都東京。それらの甘い誘惑と釣り合いのとれる相応の飴は用意しなければならないだろう。
「ファーストフードやファミレスのような比較的全国規模の店舗は、異能やラルヴァのことを理解したスタッフが数人いれば、あとは学生で切り盛りできますし。そういうこともあって個人経営の店はそんなに多くはないんです」
「自営業となると、縁者に能力者がいたり、その店のオーナーが学園の事情を知ってないと難しいもんな。店を出したい人がいても、いちいち説明してそれで逃げられちゃ機密も秘匿もへったくれもないってことか」
「そういうことになりますね」
 悠斗が雑にそう締めくくると、細い目のままマキナは微笑した。
 小規模の社会を構築する上では、それを破綻させないために制約が多くなるのは仕方のないことではある。『ラルヴァ』や『異能力』の出現が顕著に確認され始めたのが、ほんの二十年前の一九九九年からだというし、急に対応しろというのは寝起きに冷水をぶちまけられるようなものだ。だから、理由もなく誰かを驚かせることのないように、人の出入りや情報を取り締まるのは当然だろう。ことに人の心に関する事柄は慎重にならなければならない。
 だが、ここに住む大部分の人間は、悠斗と同じ子供なのだ。子供にとって秘密とは、バラすためにあるようなものである。案外、学生が外部へ漏らす情報のほとんどは学園側には黙認されているのかもしれない。巷で広く知られる噂の都市伝説。いざとなれば握りつぶすこともできる、所詮は子供の戯言。
「学生優遇ってことは、バイト料も他よりそれなりに良かったり?」
 内心気になった悠斗は少し茶化すように、冗談交じりに訊いた。
「唐橋、いやしんぼう」
 ボソッと低いところから咎める声が聞こえたがあえて答えない。若い身空で一人暮らしをしている身にとっては、守銭奴だろうが金の亡者と言われようが切っても切れない話題なのである。
「働くのは今のお仕事が初めてなので、他のお店ではどうなんでしょうね」
 マキナは自分もよく分からない、というように小首を傾げながら言葉を返す。
「どうなんでしょうって、あの喫茶店じゃいくら貰ってるんだ」
「貰っていませんよ。マスターは勧めてくれるんですけど、わたしはあのお店の雰囲気やいのりちゃんのピアノが好きなだけですし、お手伝いさせてもらえるだけで十分なんです。それに」
 柔和に笑って、はぐらかすように言う。
「わたしはここでしか生きられないから」
 最後の言葉には、どこか自嘲するような響きだけが残った。

 車両の行き交いの多い交差点へ出た。三人で横断歩道の前に止まる。
「醒徒会のある校舎はすぐそこだろ? ここまででいいよ」
「本当に大丈夫ですか? もう校舎までは十分かからないですから、最後まで」
「だったら尚更だ。案内板も向こうに掛かってるし、なんとかなる」
「そう、ですか」
 見た目には他人がほうって置けない雰囲気を醸しているが、本人は世話を焼くのが好きな性質《タチ》なのだろう。マキナは残念そうに、分かるか分からないかの微妙な間をとった声は少しだけ沈んでいた。
 歩行者信号が青に変わり、スピーカーからカッコウの機械的な鳴き声が流れる。
「助かったよ」道路に踏み出して、振り向いて悠斗は言った。「いのりもありがとな」
「またね」
 それまで二人のやりとりを聞いていたいのりは、空いていたほうの手を振りながら悠斗を見送る。
「またお店に立ち寄ってくださいね」
「だから俺は」ため息をついて、悠斗は結局折れた。「わかったよ、善処する」
 悠斗は背を向けて今度こそ歩き始め、感謝をそこに押しやるように、後ろも見ずに手をあげた。歩道を渡り終え、悠斗は肩ごしから一度だけ背後を覗いた。まだ手を振り続けていたいのりと、その隣で静かに佇むマキナの姿が映った。


 大きな通用門を抜け、案内板に従って学園校舎を目指す。悠斗の歩くレンガ造りの赤茶けた遊歩道の隣には、道に沿って長い貯め池と噴水が点在している。離れた一角には涼しげな東屋《あずまや》や、植物園で見かける温室のような外観のコンサバドリー。どれも周囲の自然に溶け込むように設計されており、そのひとつひとつが立派な国立公園のようですらある。普段から清掃が行き届いているのか、目に付く施設のほとんどは真新しさを保っている。それがかえって誰の手垢もついていない、近寄りがたい寂れた印象を際立させ、悠斗はどこか勿体ない気がした。
「あら、そのやけに達観した横顔ながら心は年中反抗期な後姿は唐橋くん?」
「誰が」
 と、かけられた声に振り返ろうとした悠斗の頬に、ひんやりした細い指が押しつけられる。
「やーん、ヘンな顔ー」
「……いいからその指どけてくれ」
 声の主が楽しそうに悠斗から離れたとき、ふっと柑橘系のいい匂いがした。
「会うのはこれで三度目? でもちゃんと顔を合わせて喋るのは初めてよね。名前は――そういえば言ってないわね、弥坂舞《やさか まい》よ」
 舞は言いながら、胸の下で両肘を抱くように腕を組んだ。それがちょうど彼女の大きな胸を強調したかたちになってしまい、悠斗は鼻白んだ。わざとなのか、暑さのせいなのか、胸元までボタンが外された白のブラウスからは谷間が見え、黒いレースの下着がちらりとのぞいている。対してチェックのスカートは装飾をせず、すらっとした生足が伸びている。
「あんたは何しにここに来てるんだ」
 半分は、休日の学園になぜいるのかという意味で。もう半分は彼女の身なりを見て言った。
「何しにって、学園《ここ》は家みたいなものだもん。勉強だけの部屋《クラス》は好きじゃないけど、それ以外は居心地がいいもの。我が家に公私も何もないでしょ?」
 あっけらかんと言ってのける舞に一瞬納得しそうになった悠斗だが、ハッと我にかえり、
「だとしてもだらしないだろその格好は!」
 どこが、とははっきり指摘しないのは、それなりに悠斗も恥ずかしいからである。口に含めない分、語気が強まる。
「聞き捨てならないわね、その言葉。いつも適当に制服を羽織るだけの男のコには理解できないでしょうけど、女にとってのファッションは常に戦いよ。ちなみに言えば、あなたがさっきからちらちら見てるコレは見せブラって言うの」
 舞は胸元のレースの端をつまんでひらひらと振ってみせる。そのたびに柔らかそうなソレが震える。
「クソが! あどけない少年の心を弄ばないで!!」
 スンマセンしたーっ!! と平身低頭、そっち方面には弱い純情な悠斗だった。
「ふふふ、素直なのはいいことよ。ところで唐橋くんはどこに行こうとしてるの?」
「ああ、醒徒会のある棟を探してるんだ」
 こんなことをしてる場合じゃなかった。頭を上げて、平静を取り戻した悠斗が言う。
「そんなことだろうと思った。いいわ、お姉さんもちょうど醒徒会に用事があったから、一緒に行きましょ」

「今日はよく引率される日だな」天井を見上げる頭を両手で支えながら、悠斗は呟く。
「ちょっとした遠足気分でいいじゃない」
 学園島についてからずっと、誰かに手を引かれて歩いている。根拠のない思い込みだが、悠斗が自分でどこか他所へふらふら歩き回ろうとしようとすると、道を示すように誰かが現れるのである。運がいいのか、それとも監視でもされているのだろうか。
「ほら生徒クン、目的地に着いたわよ」
 考えているあいだに悠斗と舞は部屋の前に着き、舞はここがそうよと教えると、また歩き始めた。
「用事があったんじゃないのか」
「んー、あたしはそっちの部屋じゃないのよ。別件で呼ばれてるから」
 また会いましょう。ふわりと髪を揺らしながら笑いかけ、悠斗の返事も待たずに舞は去っていった。急いでいたのを煩わせてしまったのだろうか。少しだけ悠斗は申し訳ない気持ちになった。
 悠斗は扉の前に向き直り、控えめにノックする。重厚そうな見た目に反して、棒状のドアハンドルを引くと扉は簡単に開いた。
 この大きな学園の生徒をまとめる組織であるから、あらかじめそうだとうとは思っていたが、醒徒会室はここの部屋だけで授業ができるくらい十分に広い。授業に使う机を寄せ集めて間に合わせたような空間ではなく、革張りのソファや厚みのあるガラスの応接机、そして数台のパソコン機器が並んでいた。一般家庭の消費者の悠斗から見ても、それらが相当に高価なものだとわかる。
「お帰りハヤハヤ~って、どちらさま?」
 この部屋でいちばんの役職の人間が腰掛けるのであろう、座り心地のよさそうなふかふか椅子には今、カチューシャをつけたショートヘアの女の子が座っている。 
「早瀬のヤツが言ってた極秘任務とやらは、つまるところ副会長の使い走りだったわけか」
 ぐるぐると椅子の背もたれにかじりついて回っている女の子の傍らで、資料を片手にキーボードへ打ちこんでいたオールバックの姿の少年が手を止めて、悠斗を検分するように見て言う。
「ようやくおでましだな。唐橋悠斗、で合ってるよな? ま、こっち来て座ってくれ」
 横合いからの声に振り向くと、ラガーマンのようにガタイのいい男が近くの椅子を引いて悠斗を促す。腰掛けると、男も長机を挟んで対面の椅子にドカッと腰をおろした。
「紹介がまだだったな、俺は龍河弾《たつか わだん》。醒徒会では広報をやってる。あっちでパソコンをつついてるのがウチの金庫番の成宮。隣で回ってるのが書記の加賀杜だ」
「龍っちゃんその人誰なの」
「聞いてないか? 理緒が言ってた『匂いつき』《スティンカー》の彼さ」
「ええー、アタシ姉御から何も聞いてないんだけど」
 不満だと言いたげに、加賀杜はさらに回転速度を上げていく。隣で作業を中断していた成宮は、その回転数を数えるように指でせわしなくキーボードを叩いていたが、ついにたまりかねて声をあげた。
「さっきから鬱陶しいんだよ、気が散るからやめろ」
「だって会長ってばいっつも座らせてくれないんだもん。今のうちにこのフカフカをたーっぷり味わっておかないと」
 加賀杜はべたーっと竿に干された布団のようにへばりつき、手足をバタつかせている。
「金ちゃんもホントは座りたいんじゃないのー」
「あのなぁ……」
 そんな二人に苦笑いして、龍河が陽気に言う。「面白いやつらだろ?」
「早瀬もそうだったけど、こんなんでよくまとまってるな」
 やいのやいの言い合いを始める成宮たちを眺めながら、悠斗はようやく言葉がでた。
「いつも緊張に揉まれてたらやってられないさ。いざとなれば頼りになる、それが醒徒会ってやつだ」
 がははと豪胆に笑い、龍河は椅子に大きく仰け反った。
「それで、学園観光は楽しめたか?」
「観光?」
 見て回ったといえば、早瀬に連れられて歩いた港付近のアーケードと喫茶店くらいだ。それからはマキナたちと一緒にまっすぐ学園まで来たし、学園散策も舞に会うまで道なりに歩いただけだった。
「ああ、大体は」
 悠斗は無難にはぐらかしておくことにした。もし見回ってないと言おうものなら、目の前の男はいますぐにでも悠斗を学園中連れまわすなんてことをやりかねない。直感だが、そういう押しの強い雰囲気が龍河にはあった。
「だったら話は早い」龍河は向こうで騒いでいた成宮に呼びかけ、「金太郎、もうできてるよな? こっちに寄越してくれ」
 成宮が持ってきたのは真新しい手帳だった。表紙には『双葉学園』とある。龍河はそれを受け取ると、長机の上に置いた。
「きみの生徒手帳だ」
「またその話か。なんで俺が編入することがすでに決定済みなんだ」
 まったく予期してなかった言葉だったのだろうか、龍河はワンテンポ送れて首をかしげた。
「どうやら理緒の悪い癖が出たみたいだな」
「姉御は肝心なところでどっか抜けちゃうからねー」
 龍河と加賀杜は頷きあい、勝手に納得してしまっている。
「たとえそうだとしても、こっちのやることは変わらないだろ」
 成宮は懐のポケットからもう一つ、薄いカードを取り出した。カードの端には電子タグのようなものが付属されている。それは悠斗の名前が書かれた学生証だった。どこで手に入れたのか、ご丁寧に顔写真まで貼られている。
「唐橋悠斗。あんたがこれを拒否する場合、学園《こちら》側は然るべき処置をとらなくちゃならない」
「脅してるようにしか聞こえないんだが」
 立ったままの成宮を見上げ、悠斗は非難の目を向けるが、彼は臆することなく続ける。
「最後まで聞け。あんたの異能は小事《しょうじ》を避けて大事を招く。例えれば可燃性の低い燃料だ。ちょっとやそっとじゃ燃えたりはしないが、発火すると小火では済まない、そういう類のものだ」
「だからここにいれば安全だ、拒否する理由はない。……体《てい》の厄介払いかよ」
 悠斗は吐き捨てるように言った。
「唐橋くん。キミはこの島を隔離された場所だと思ってない?」
 加賀杜の声はつとめて落ち着いていて、そこに悠斗を責めようとする意思はなかった。
「どんなに強い力を持ってたとしても、あたしたちは普通の人たちと変わらない。ひとりの弱い人間だもの。家も家族も友達も、みんな異能力で取り繕うことはできないんだよ」
 ささいな力でも、それは誰にも理解されることはなく、一度手に入れてしまえばずっと抱えていかなければならない。
 悠斗は知らない。加賀杜が記憶を失くし、名前以外に自分の出自に関わる過去を何一つ持っていないことを。
「ひとりで生きていけないから、あたしたちはここにいる」
 居場所なんだと。
 ――わたしはここでしか生きられないから。
 あのとき彼女が零した言葉が、悠斗の頭のなかに滑り込みゆっくりと馴染んでいく。閉ざされた瞳の奥底に、彼女はどんな色をたたえていたのか。あらためて疑問を反芻すると、胸の奥で思いのほかそれがすとんと落ちた。
 知りたいと思う。ここで暮らす人たちの物語を。ここでしか生きられないと言った彼女の言葉の真意を。
 知りたがりなのだ。今までずっと傍観者を決め込んでいたはずなのに、理不尽なリスクはあるけども、踏み出すだけの価値がここにはある。
「……何組だ」
「えっ?」
 うつむき加減に呟いた悠斗の言葉を、加賀杜が聞き返す。
「だから俺の編入するクラスは、何組かって聞いてるんだよ。言っとくけど、俺はあんたらに乗せられたんじゃないからな! これは俺の意思で決めたことだ」
 異能力は一つの重荷《しがらみ》。同時に生まれた、新しい可能性。種を育てる鉢植えの土は豊かで、そこに大輪の花を咲かせるにはまだ、この学園島は青い芽が出たばかりなのだから。


  ―終―


ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。