【双葉学園レスキュー部の軌跡 蛟の四】



「ヘイ、そこの二人。フリーズ(止まれ)だ」

 市原くんに続いて輸送ヘリのタラップを登りかけていた私は、背後からの高い声に足を止め、振り返った。
 ここは学園の各棟屋上に設けられた大き目のヘリポートだ。
 学園には、外部からの注意を逸らす不可視結界が存在している。周囲から見られたくないものは大抵、学園内に設置されることが多い。
 周囲は出発準備を進める様々な声とヘリの駆動音で満たされていたが、私に投げかけられた少女の声は、その中でもよく通る剣呑さを備えていた。
 さて。あまり銃器には詳しくないけれど、自分に突き付けられたそれが、いわゆるデリンジャーと呼ばれる二連装式単発銃であり、それを構える少女が、噂に聞く暴君風紀委員長であることは分かった。
 今まで言葉を交わす縁には恵まれなかったけれど、顔だけは知っている。
 その名は山口・デリンジャー・慧海。
 先に乗り込んでいた市原くんが顔を覗かせ、うわっ、と露骨な声を上げた。
 噂だけを知る私と違って、何かしら実際の『現場』を見たことがあるのかもしれない。同級生だし。
 風紀委員長は銃口を外側に向かって振った。
 そこから降りろ、という意味だろうか。
「あんたらがこいつに乗っていい理由を、あたしは聞いてないんだけど?」
 ……聞いていたイメージよりはいくらか穏やかだ。少なくとも、撃つより言葉を優先している。
 しかし、風紀委員が出てくるとは予想外。
 今回は自衛隊の協力で部隊輸送を行うことになっていたので、すんなり乗り込めると思っていたのが間違いだったらしい。
 さて、どう答えよう。
「乗っていけない理由がないとも思いますが。部の活動からすれば――」
 瞬間、耳をつんざく発砲音。そして足元から火薬臭い煙が立ち昇る。
 なるほどね、と私は納得する。
 どうやら噂が脚色されていたわけではなく、今はたまたま抑制が利いているだけらしい。
 少なくとも、イラついてもギリギリ当てない威嚇射撃で済ませてくれるくらいには。
 そして射撃の意図は明白。手前の理屈を聞く気はない、ということだ。
「どっちの理由もないんなら、あたしの一存で決めてもいいってこと?」
 ああ、これはちょっと失敗したかな。
 こういう強引さを自分ももう少し見習いたい、などと私は余計なことを考える。良い案が浮かばないときは、ついどうでもいい思考に逃避してしまう。

 そのとき、意外なところから助け舟は現れた。具体的には後ろから。
「それじゃあ委員長さん、どうっスか? 神様に決めてもらうってのは」
 言いながら私の前に出た市原くんは、その辺の隊員から借りたらしい回転式拳銃を示す。
 そうして空の穴にひとつ飛ばしに3発分、弾を込める。それから格好つけるように、手首のスナップで弾倉を元の位置へと戻した。
 銃口で自分のこめかみをトントン、と小突く。
「こいつハジいて俺が死ななかったら、お咎めなしってことで」
 そういえば、彼は銃器の簡単な訓練も受けていたっけ。やたら芝居がかった様子なのは、注意を惹こうとしているのだろう。
 その仕草が示すことはひとつ。
 即ち、ロシア式自殺法、もとい運試し。
 こういういざこざでは、極端なことで相手を黙らせようとするのが、彼の悪いところでもある。
 けれど相手もさる者。へぇ、と少女は楽しそうに笑う。

「いいね。運なら勝てると思うわけだ。だったら――」
 彼女は空いた手から手品の様に弾を取り出し、眼にも留まらぬリロード。そしてその得物を、市原くんに投げ渡す。
「そんなに自信があるなら、そいつでやりな。あたしを楽しませてくれ」
 意地悪な笑み。やはり暴君という名は相応しいと思う。
 デリンジャーは銃口を連装にしただけで基本は単発式だから、運試しですらない。
 彼女が弾を込めていれば負け。込めていなければ勝ち。
 生殺与奪は彼女次第。これで引き金を引いて死ねば、たぶん彼はダーウィン賞を貰えるだろう。
 だが、市原くんは何も言わずに、その小さくて大きな銃をこめかみに当てる。


 そして何の躊躇なく引き金を引いた。


 撃鉄が落ちる。
 ……そして、ヘリの駆動音という名の騒がしい静寂だけが残った。


「俺の勝ち、ですかね」
 勝ったというのに、少し意外そうな表情の市原くん。
「……あー、好きにしな。
 そんなに死にたいんなら勝手に死ね」
 そして、風紀委員長は興を削がれた様な顔で、つまらなさげにそう言った。

 そうして今度こそヘリに乗り込もうとしたとき、再び彼女が声をかけてきた。
「おい、あんたはあいつのボスだろ?」
 ……ボスという単語の解釈に少し悩んだが、上司くらいの意味なのだろう。私は頷く。
「部下が死ぬってときに随分とクールだったじゃないか。それとも、あんたもあいつと同じ自殺志願者?」
 そこで私は先ほどの表情が腑に落ちた。
 彼女はどうせなら、市原くんがどう勝負を降りるかを期待して、ああいう行動に出たのだろう。
 まあ普通、アレで引き金を引こうとする奴がいるとは思わない。
 だから彼女は自分に銃口を向けられる事態と、万が一本当に自殺されて得物を血と脳漿で汚される事態を避けるために、わざと弾を装填しなかった。
 こんなところだろうか。

 私はどう答えようか悩む。
 市原くんがやったことは単なるペテンなのだし、種明かししなくてもそのうちバレる。
 私はひとつ、意味深ぶった言葉を残すことにした。
「私からすれば、今の勝負は始めから負ける余地がなかったんです、委員長殿」


  *


 双葉学園にはふたつの裏の顔がある。

 ひとつは1999年以降急増してきた異能力者を教育・監視するという顔。
 そしてもうひとつが、同時期から看過しえぬ問題をもたらし始めた、ラルヴァと呼称する異生物群への実力的対処を行うという顔だ。
 双葉学園は両者を円滑に遂行するための仕組みのひとつとして、各地にちょっとした支部局を置いていた。
 それらはもちろん表向きは外部研修施設や傘下企業のように装う。むしろそうした表向きの顔が本業になっているところもある。
 こうした出張所を、代々の醒徒会は定期的に視察している。
 通例はそう大層な監察行為でもなく、顔見せや労いのようなものだ。実務については、やはり大人の方が強い。
 双葉学園高等部2年の時坂祥吾が、せっかくの休日に視察の雑用として同行していた理由は、単に学習単位が足りなかったというある意味で悲しく、已むを得ない理由であった。

 時坂祥吾は間が悪い。
 それは例えば、バスルームの扉を開いたらたまたま妹が入浴中、といった些細なことから、ATMを利用しようとしたら銀行強盗に巻き込まれる、といった一生に一度ある方が珍しいことまで。その内容は広範にわたる。
 そして彼は今、学園の支部局として使われていた3階建てのビルの一室で、床に伏していた。
 周囲は空き巣が入った様に物が散乱している。蛍光灯が砕けて用を成さないために、室内は薄暗い。
「……」
 右足を負傷し、そこらじゅうから嫌な気配を感じるものの、彼はそんな中で警戒しつつも、落ち着いていた。
 足の刺し傷は大したものではないし、どうやらこちらを殺す気はないことが感じられたからだ。
 だが同時に、下手に抵抗するのはまずい、とも悟っていた。

 なにせ、今の彼にはこの事態を打開する手段がなかった。
 なにしろ彼の頼みの綱は、事態に巻き込まれる少し前に、暇を持て余して観光に旅立ってしまったからだった。
 ……前にも似たような事態があったなぁ、と彼は思う。
 あとほんの数分だけでも一緒に行動していれば、あるいは彼らによって、すべての事態は収拾されていたかもしれない。
 だが。

 時坂祥吾は、間が悪かった。


 支部の建物がどこから沸いたか知れないラルヴァに襲撃されるという事態は、視察に訪れた醒徒会広報・龍河弾と時坂祥吾が、部局員とちょっとした懇談を行っていたときに発生した。
 時坂祥吾は龍河弾と共に、避難が遅れた一般事務員の救出を手伝うも、運悪く負傷。取り残されてしまった。
 携帯端末の情報から彼が健在であり、立てこもりの人質のような状態にあるらしい。

 指揮を執る龍河から聞いたあらましを反芻しながら、誠司は支部局ビルの階段を慎重に登っていた。
 ちなみに同伴しているのは、後ろをついてきている市原和美だけだ。
 他の生徒はというと、ラルヴァがここから外に出ていかないように包囲を形成している。
 休日であるために、彼女たちを含んだ第一陣は若干、人手不足気味の状態だった。
「……センパイ。確かに早く終わらした方が皆喜ぶ、って言ったのは俺っスけど……龍河さんに大人しくしてろって釘刺されてたんじゃ」
 エレベータのフロアから廊下を伺おうと屈んだ誠司に、市原が小声で話しかける。
「……」
 誠司は答えない。ポケットから手鏡を取り出して、廊下の先を映す。
 三階の廊下は左側に外への窓が付いているが、西日が差し込まないために少々暗い。脱出の際に散らばったと思しき書類や、割れたドアガラスが散乱しているのが見えた。
 目的の部屋は、最奥から二番目。
「秋津がいなくなったのが気になるのは分かりますけど……少しくらいは、歩調を合わせた方がいいっスよ」
 普段の市原からすると珍しい協調的意見に、誠司が意外さを感じて顔を向ける。
 と、彼女はつい苦笑した。
 市原が、いかにも心配です、と言わんばかりに眉根を寄せた表情をしていたからだ。
「ごめん。……でも急いでるのは、秋津くんのことだけが理由じゃないよ。安心して」
「気になってることは否定しないんスね……」
 全然安心できん、と市原はため息。
 秋津宗一郎の失踪。携帯端末でその連絡を受けてから、誠司が焦っているのではないかと、彼はずっと気にしていたのだろう。
「そうだね。龍河広報のとった作戦は正しいと思う。こうして立てこもられている限りは、焦って突入する必要は確かにないし。
 中に人質がいるならば、尚更」
 ビルの廊下はそこそこ広いが、長物を好き勝手に振り回せるほどでもない。
 今回携行した鉄棍も、短く取り回して何とか、というところ。連携も取りにくい。
 これに対して篭城する下級ラルヴァ、通称『小鬼《ゴブリン》』にとっては、その小柄な身体を潜ませる場所がふんだんに存在する。
 個体としては大したことのない種だが、地の利と数を活かされると厄介だろう。
 つまり、これは人質を餌に救出隊を誘い込み、集団で襲い掛かる罠なのだろう、と誠司は思い始めていた。
 ここまで全く襲撃がなかったことから、人質のいる場所に戦力を集中させていることが考えられる。

 だが、ふたつほど疑問が残る。
「小鬼がこれほどの知性を発揮するのがまずひとつ。本来ヤツらは集団戦すら理解しないと考えられている」
 誠司は自然と、以前受講した課外講座の講師であった、あるラルヴァ研究者のことを思い出していた。
「そしてもうひとつが、それほどの知恵がありながら、何もアクションを起こしていないこと」
 この単なる篭城には、未来がない。もしこれが人間の立てこもり犯なら、逃走手段でも要求しそうなところだが。
 人質を拘束しない辺り、本当に釣り餌としか思っていないのかもしれない。
「センパイ、話が長いっス」
 市原がすっぱりと言う。まとめてください、ということだろう。
「……まあ要するに、知性があるかと思えば、その割に行動が無謀で無意味ってこと。案外、私の同類かもしれないね」
 市原がなんとも言えない渋い顔をする。誠司としてはそれなりに頑張った冗談だったのだが、彼にはウケなかったようだ。
「以上からひとつの可能性として考えられるのは。
 小鬼どもが我々を引きつける単なる囮、決死隊であるということかな」

「まさか……ラルヴァがそんなことをするって言うんですか?」
 彼の疑問はもっともだ。これはラルヴァが、明確にこちらを『敵性』として、意識しているということなのだから。
「ラルヴァの中にも、それなりの知恵を持つ個体は存在する。
 こちらを対等の闘争相手だと考える手合いがいても、まあ変じゃないと思うけど」
 囮という推測はまた、人質を後生大事に確保している理由にもなる。なにせ時間だけは稼げるからだ。
 しかも市街地であるから、下手に包囲を解くこともできない。
「まあ、市原くんが言ったことはあながち間違いじゃないんだ。
 何が起きるにせよ、何もないにせよ……解決が早いに越したことはない」
 携帯端末で時間を確認。既に進入から6分が経過。
 先ほど勝手にビルに入る前に、誠司が龍河に告げた時間は10分。それでも出てこなかったら死んだと考えて下さい、と言ってある。
 時間設定は別に無意味ではない。それ以上は日が落ちてしまう、と考えてのこと。
 そうなれば、今日中に事態を収拾するのは難しくなってしまうだろう。
 もう少し時間があれば、多少なり説明してから行動できたのだろうけれど、と誠司は思った。
 もっとも、意見が聞いてもらえたかまでは分からない。今となっては詮無い事だ。
「さて市原くん。そろそろ行ける?」
「ウッス、チャージはとっくに完了っスよ」
 誠司の言葉に、市原はぐっ、と握りこぶしを作って応えた。


 祥吾は、周囲の気配がざわめき始めたことに気づいて顔を上げた。
(…まさか、救援か?)
 右足を庇いながら半身を起こす。
 祥吾からすればありがたい事だが、それは同時に、この部屋に踏み込むということだ。
 彼は、周りの様子を注意深く伺いながら、声を張り上げた。
「おい! 中に小さいのがわんさかいるから気をつけてくれよ!」
 周囲に潜む小鬼は彼の声に反応しなかった。どうやら、逃げ出そうとでもしない限りは安全のようだ。
 果たして外に聞こえたかは分からないが、室内に無用心に入る危険性と、不意を突くのは難しいことが伝わればいい。
 彼はそう考えていたのだが―― 
 助けびとと思しき夏服姿の青年が、堂々と扉を開けてこちらに歩いてきたとき、流石の彼も絶句せざるを得なかった。
「見つけましたっ!」
 青年がそう叫びながら駆け出す。その瞬間。
 椅子の陰から。
 デスクの下から。
 天井の暗がりから。
 ゴミ箱の中から。
 引き出しからテレビの裏から隅から床下から戸の裏から――
 潜んでいた赤子ほどの亜人どもに殺到され、彼は全身をくまなく針の様なナイフで刺されていく。

 時坂祥吾の表情が歪んだのは、悔しさか歯がゆさか。
 誠司はそれを目の当たりにしたが、無視して部屋へと飛び込んでゆく。

 そして、最早鼠色のラルヴァの塊と化したそれがぐらりと揺らぎ。
 前に向かって、ずかずかと歩き出した。

「な――!?」
「あっはっは、驚かせて申し訳ないっス」
 悪びれずに笑う市原が両腕を振り回すと、数匹の小鬼がすっ飛んで、壁へと叩きつけられる。
 そして誠司が、組み付いて動きを止めたままの残りを棍で打ち払い、叩き潰す。小鬼はその膂力に比べれば、体組織がさほど強靭ではない。平たく言うと脆い。
「よっこらせ……っと」
「お、おい。大丈夫なのか?」
 怪訝そうな表情で市原を見る祥吾。彼を抱え上げた市原の身体は、自身の血で朱に染まっているからだ。
 だが注意して見れば、殆どの傷が即座に塞がり、完治していることに気づけるだろう。


 その身に宿った魂源力ほぼ全てを放出する市原和美の異能力とは、約30秒間の不死化能力。
 この間であれば、如何なる事象によっても彼は死ぬことがない。
 予め負った傷こそ治すことが出来ないものの、発現中は超絶の再生能力を発揮する。

 つまるところ。死んだら負けのバクチを打つには、最適な能力というわけだ。


「後退!」
 再び彼に飛び掛ろうとした小鬼を横薙ぎで叩き落とし、誠司が指示を飛ばす。
 三人は誠司をしんがりとして部屋を飛び出した。
「来た道は安全だから――」
 そのまま同じルートを、と続けようとした誠司の声が、ドアの破砕される音で遮られる。
 すぐ隣、廊下の一番奥にあたる部屋。その戸口から現れたのは、大型の犬とも狼ともつかない巨躯。
 その姿は影絵の様に黒く、肥大した四肢と巨大な爪は既存の生物を逸脱している。体高は1メートル超。そして、4匹の小鬼を従者の様に伴っていた。
 カテゴリ・ビースト。……恐らく中級。大雑把に犬系、と誠司は判断する。細かい種を特定できるほどの知識は、彼女にはない。
 犬と小人。異種のラルヴァどもが、静かに整然と歩みを進めて来る。誠司はその光景に違和感を覚えた。
 が、すぐに思考を切り替える。
 こいつらは要するに代わりの人質が欲しいのだろう。ついでに言うと、先程から特定の一人を、一斉に狙っている。
 一方味方の状態はというと、市原は連続して異能力を使えないため、時間切れの後は足手まといになりかねない。
「市原くん!」
 誠司は縦の一振りで牽制すると、返す一撃で廊下の窓ガラスを叩き割る。
 意図を理解した市原は誠司の方を見て逡巡。
 が、それも一瞬。身体を丸め、窓から外に向かって飛び出した。
 市原和美の不死能力は、当然自傷だろうと発動するし、肉体の酷使にも対応する。
 三階からの人を抱えた落下は足の骨くらい折れるかもしれないが、今の彼なら何の問題もない。

 窓から遠ざかる青年の悲鳴が聞こえた。
 だが誠司は一瞥もくれずに、ステップで後退しながら状況を分析する。
 こちらの備えは軽合金製の棍がひとつ。腰に折り畳み式警棒が二本。
 そしてブラウスの下に着込んである、防刃スーツ。
 見た目は薄いダイビングスーツの様で、ある高等部三年生の強化系異能力を元に製作されたらしい。
 ただし既存の防刃素材より薄く動き易く出来ただけで、強度は既存の物と大差がない。その割にやたら魂源力を吸うのでお蔵入りしたものを、彼女が引き取った形だ。
 時間を稼ぐか、無理をしてでも後退するか。

 そう考えた瞬間、前衛の小鬼二匹が完全なタイミングで同時に跳躍。左右から誠司の目元辺りを狙う。
 しかしタイミングが同時過ぎて、横薙ぎのスイングでまとめて壁に打ち付けられる。
 更にその隙を突いて黒犬が跳躍。
 だが誠司は棍を返しつつ前に踏み込み、少し屈んだ状態から、伸び上がる力を乗せた柄頭で腹部を打ち上げる。黒犬は唾液だか胃液だかを撒き散らしながら背後に落下。
 同時に足元に何かが組み付く感触。残る二匹の小鬼が太腿に取り付きナイフを突き立てるが、黒い防刃素材を貫通するには至らない。
 棍から手を離し、即座に警棒を抜いて叩き落す。ついでにきっちり踏み潰す。
 そして背後で黒犬が起き上がる。
 誠司は張り付く前髪を手で払い、向き直る。
 打撃はそれなりに効く。けれど倒すのは難しいかな、と彼女は値踏みする。どうにか振り切るしかない。
 距離を取り、棍を構え直す。そして。

 黒犬が突如、後ろから爆発した。
 誠司は咄嗟に屈んで避ける。犬は最奥の壁までぶっ飛んでいって、べしゃりと叩きつけられた。
 階段側から現れたのは、2メートルを超える、竜の如き隆々たる姿。
 気が立っているのか、全身がかすかに光を発している。
「どうやら無事みたいだな……。
 ったく、少しは後先考えて行動しやがれ!」
 龍河はズシズシと歩み寄りながら、怒声を上げた。かなり怒っている様だ。

 誠司は、それでも彼はこうして救援に来てくれると思っていた。
 ……それをアテにしていなかった、と言えば嘘になるだろう。
 つくづく自分は他力本願で、小狡いことだ、と彼女は考えた。

 誠司は龍河に謝罪の言葉を返しながら構えを解く。
 が、ガラスを踏む音に背後を振り返る。
 奥のドアから、更に数匹の小鬼。
「まだいやがるのか……!?」
 龍河が背後に気配を感じて振り返ると、退路となる階段側からも小鬼がわらわらと現れていた。
「こいつら、どこにいやがった……?」
「……多分、屋根裏ですかね」
 じりじりと半包囲され、二人は自然と背中合わせの格好になる。
「さっきの犬といい、恐らく周到に潜伏していたのかもしれません」
「つくづく変なことしやがるラルヴァだな。……逃げるにしても、一度包囲を散らさねえと」
 どうやら気を遣われているのか、と誠司は気づいた。彼だけならば、その必要はないからだ。
「来るぞ!」
 飛び掛ろうとする小鬼の群れに対して、誠司たちは身構え――



   Es kann die Spur
 ――我が地上の日々の追憶は


   von meinen Erdetagen
   永劫へと滅ぶ事無し


   Im Vorgefuehl von solchem hohen Glueck
   その福音をこの身に受け


   ich jetzt den hoechsten Augenblick. Geniess
   今此処に来たれ 至高なる瞬間よ――



「これは――」
 瞬間、誠司は死線の緊張とは異なる何かに、総毛立つのを感じた。
 何かが自分自身に干渉しようとする……いうなれば、侵略されてしまうような感覚。

 だがそれは結局、彼女の身体に入り込めずに拡散していった。



   Verweile doch! Du bist so schon
   時よ止まれ、お前は――美しい!



 そして気付く。世界の変貌を。

「こいつは……」

 静寂の中、龍河が呟く。
 彼と彼女の周囲には、今まさに飛び掛らんとする小鬼たち。
 だが二人の身体に辿り着くことはなく、空中に縫い止められたかの様に浮かんでいた。
 まるで、時の流れに取り残されてしまったかの様に。

「白昼夢か何か……ではない、ようですね」

 誠司は龍河と顔を見合わせた。
 思考は、何者かの異能力の発現である可能性を考えてはいる。
 だとしても、なかなかに劇的な光景だったのだ。

「……取り合えず、脱出しましょう」

 彼女はようやく、それだけを言った。


  *


「囮だぁ?」
 ビル前の路上。周囲に一般人の姿はない。
 ただ今回の件は、表向き『不発弾処理』と発表されているので、周囲にはちらほらと自衛隊員の姿が見えた。
 ちなみに掘り出される予定の不発弾も、既に用意してある周到ぶり。
 すっかり日が落ちた中、代えの上着を羽織りながら問い返した龍河広報に、私は答える。
「何のためかは分かりませんけど、このビルに可能な限り、注意を引き付けておきたかったのではないかと」
 先ほど黒犬たちに受けた違和感を、私はようやく理解していた。
 ヤツらは、実に一声も鳴かなかったのだ。
 それなりの知恵を持つラルヴァの中には、下位の個体をテレパスや暗示で統制するタイプがいる。
 そういう仮説があることを、やはり課外講義で聞いた覚えがあった。これは妙に統率・連携が取れていたことの説明にもなる。
 噂に聞く『金剛の皇女』に比べて、指示こそ雑だが強い支配力があるのかもしれない。
 問題はそのラルヴァが、何を目的にしているのか。考えが浮かばず、私は視線を泳がせた。

 市原くんは少し離れた縁石に腰掛け、買っておいたコンビニおにぎりを齧っている。私も何か貰おうと思ったけれど、見事におにぎりしかなかったので止めておいた。
 そして右へと視線を動かせば、そこにはどこか悪魔然とした、機械の巨体がある。……こう並べると、どこかシュールだ。
 その横に並び立つ青年の名は、時坂祥吾。
 下級ラルヴァだけなら突入せずとも殲滅可能、ということで、彼がビル内の小鬼を掃討することになっていた。
 何でも留めた『時間』を破壊のエネルギーにするということらしい。
 ……うん、さっぱり解らない。
 今回気分を悪くさせてしまったことの謝罪も含めて、今度詳しく、話を聞いてみることにしよう。

 その横顔を見てふと、私は思う。
 遠藤さんと、龍河さんと、彼。今日はつくづく助けられてばかりだった。
 もっとも――普段は違う、などとは決して言えないのだけれど。
 そう思いながら頬を掻く私の前で、仕事を終えたらしい時計仕掛けの悪魔は、主の掌中へと還っていった。

 と、そのとき私は胸ポケットの辺りが二度、三度と細かく震えるのに気付いた。
 そこから学生証を兼ねている支給品の携帯端末を取り出す。
 表示窓には『顧問』と表示されている。私は龍河さんに一言断って、通話を始めた。
「……はい。先生ですか」
『やあ菅君。生きているようで何より。そっちは大体片がついた様だね』
 相手は声で春出仁先生本人だと知れた。
 ……電話越しならば、非常に感情豊かに感じるから不思議で仕方ない。顔を隠して話した方が人気が出そうだと思う。
 それにしても。
「つい今しがたのことですが。……耳が早いですね」
『ああ、こちらでも観測出来たからね』
「観測、ですか」
 鸚鵡《おうむ》返しに先生は無言で応える。
 それからある言葉を語り出した。

『葉の表に這う、小さな虫が払い落されて。
 そうして初めて、私はその裏の毒虫に気付く』
 彼は私の戸惑いを織り込み済みであるだろうに、すぐには意味解釈を語らなかった。
「……悪いですけど、私は文学者ではありませんから。
 突然詩文の趣味にでも目覚めたんですか?」
 婉曲な言葉を解するのも、異能力者と付き合うには大切だよ、と先生は笑った。
 私はある種の焦りを感じた。けれど理由は分からない。
 それはまだ形にならない、ただの悪い思いつきだから。
『……きみ宛ての伝言だよ。神那岐《かんなぎ》君の。
 秋津末那を名乗る者が連絡してきたことを含めて、君に優先して伝えて欲しいとね』
 神那岐とは、神那岐 観古都《みこと》。ラルヴァの存在を広域探知する魂源力感知結界の、要とも噂される少女。
 ――実家は中国地方。親族は、姉一人。
 線がおぼろげながら、推定というもので繋がった気がした。
「やはり、囮だったんですね」
『話が早くて助かる。どうやらそこから距離が近かったせいで、別個に観測出来ていなかったらしい。
 まことに「不本意」なことに、一番早く動けるのは君たちのようだ。どうせ君のことだから、喜んで先に行くだろうと思ってね』
 その含むところは色々と想像の余地があったけれど、今は捨て置いた。
「……車両を一台使います。ここからなら、ヘリを待つより早いでしょうから」
 返事を聞いて通話を終える。
「市原く――」
 振り向いて声をかけようとしたそこに。

「何を使うって?」
 怖いほどの笑顔で。
 龍河さんが立っていた。


  *


 長年過ごしてきた故郷の、古びて欠けた石段。
 駆け上がる足裏から伝わる感触に、秋津宗一郎は不思議な感情を覚えていた。
 聡いが幼い彼はまだ、ホームシックや郷愁というものを理解していない。
 けれどもどこか開放された爽快感に、全身がみなぎる気分だった。
 力強く最後の段を登り、同時に鳥居を越える。流石に息が切れ、彼は膝に手を立てて息を整えた。
「……」
 張り付く前髪を手で払い、顔を上げる。
 山の中腹に設けられた、小さめの堂。宗一郎と姉の住居は、ここから少し山を降りたところにある。
 寂れているが、定期的な手入れはされていた。
 辺りには何の音もない。人が居るのかさえ疑わしくなる静けさだが、彼に迷いはない。
 戸の前に立つ。
 彼はもう一度深呼吸し、はやる気持ちを落ち着かせた。
 姉が此処に来るよう指定した意図は、彼にははっきりと分かっていない。
 だが、どんなことがあっても。
「……僕が、どうにかしなくちゃ」
 呟きながら、彼は意を決して戸に手をかける。

 その未だ曲がらぬ想いに応えるように、夜の空気が冷えていく。
 彼にも姿は見えることのない『蛟《みずち》』。

 それは何も言わず。彼を取り巻くように、暗い虚空に踊っていた。







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最終更新:2009年08月19日 00:17
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