【考える葦のデマルカシオン】


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【考える葦のデマルカシオン】
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 独占欲とは、生物の本能の一つである。
 例えば獣の群れの中で最も強いオスがメスを集めてハーレムを形成するように、自らが欲するものを独り占めしたいという心情は生物に広く見られるものだ。
 そして、もちろん人もまた生物というカテゴリーの例外ではありえない。



考える葦のデマルカシオン



 一番星ヒカルは念動力を下向きに加速するように調整しゆっくりと降下していた。通常緩降下したいのなら重力に任せればよく、むしろ念動力は降下速度調整のための減速に使うものだが、ここではそうはいかない。
 現在、海面下約15m辺り。念動力により形成された自分自身と呼吸用の空気を内包する球殻は、浮力という形をとって頑として海底を目指すのを拒んでいる。
 そういうわけでヒカルは念動力のみで更に下にある目的地を目指し進んでいた。特に道行きに不安があるわけではない。一度ならず行ったことのある場所だし、そもそも宇宙にまで行ったことのある彼にとっては学園に程近い東京湾の底などちょっと遠出の散歩程度のものである。
(考えてみりゃあ、あの時の任務がきっかけだったんだろうな)
 その場所を見つけたきっかけは、異能発展性検証講習とか言う胡散臭い特別個人授業――要するに『お前の異能の応用技見つけてやるぜ』というお節介そのもの――で海に潜らされたことだった。今になって思えば、それは約一月後の宇宙での『笹ラルヴァ』調査任務に相応しいかの選考テストだったのだろう。
 ひやひやすることもあった任務だったが、別に誰を恨む気持ちもない。同じ念動能力者の友達を得ることができたし、それに――
(――――!)
 この光景を見るのも既に何度目だろうか。だが何度見てもその度に光景に圧倒され、自然と言葉も忘れ無心に360度全周に広がる情景を眺め回すだけになってしまう。
 かつての氷河期、幾多の川が集約して生まれた、後に東京湾となる盆地を縦断して流れる古東京川。やがて氷河期の終わりと共に海に沈んだこの川だったが、その一部が今も海底地形としてその名残を留めている。
 観音崎海底水道と呼ばれているその海底渓谷は潮の干満によって生まれる東京湾の潮流の大動脈の一つであり、様々な海棲生物が行きかう海の万華鏡ともいえる場所だった。
 ヒカルは周囲の魚を刺激しないようにゆるゆると降下していく。海水の厚さに遮られ光が色褪せていき、それと同時に彼を取り巻く碧い世界の底に濃紺色の蛇が深い眠りについているかのように見える景色が滲み出るように浮かび上がってきた。
 更に近づくにつれ、視線の彼方で濃紺色の蛇は延々と伸びる窪みの輪郭をくっきりと際立たせた谷の姿に変じていく。これこそがヒカルの目的地、観音崎海底水道だった。
 幾重にも重なる魚群のハイウェーを迂回しつつ、ヒカルは渓谷の内部へと降りていく。やがて、渓谷の壁面に大きく突き出した岩棚が姿を現した。
 岩棚の中央の小高い部分に腰掛けて見上げれば、全面パノラマで広がるのは水面で揺らぎながら降り注ぐ陽光と多種多様な魚たちの動きが織り成す紺碧のタペストリー。
 漆黒の宇宙で地球が球体であることを実感するという希少かつ神秘的な体験をした今でさえ、疑いなくこう思える。
 この…“楽園”の景色は最高だ、と。


「う~み~はひろい~なおおきいな~♪」
 人影の途絶えた南公園の更に南の端、海に面した柵の一番上の段に腰掛け、皆槻直は足をぶらぶらさせながら鼻歌を歌っていた。
 致命的に下手でもないが聞き惚れるほど上手くもない、ただ自分自身のためだけの陽気な伴奏曲だ。
「つ~きはのぼる~しひはし~ずむ~♪」
 今日の彼女の格好は常とは違いスプリングのウェットスーツの上にジャケットタイプの浮力調整装置(BCD)を纏い、首からは水中眼鏡がぶら下がっている。いずれもダイビング用の装備であった。
「う~み~はおおな~みあおいなみ~♪」
 直は足の動きを上半身に伝え、体全体に勢いを付けていく。片腕で水中眼鏡をかけ、準備完了、と頷く。
(それでは、行くとしますか)
「ゆ~れてどこま~でつづく~やら~♪っと」
 歌い終わりと共に大きく飛び出し、崖下に広がる海面にダイブ。慣らしも兼ねて軽く泳いだ後、直は体を海に沈め潜水を始めた。
 21世紀人である直にとっては実感の伴わない情報としての知識であったが、かつてこの東京湾は生活排水や工業排水で非常に水質が悪かったらしい。
 今は、と直はぐるりと左右を見回す。透明度の高い鮮やかな青の中で海草や小魚が踊り跳ねている。南の楽園には及ぶところではないが、泳いでいて心が浮き立ってくる、そんな海だ。
 東京湾浄化計画。学園都市島の建設開始と同時に始まったこの計画により、東京湾はその姿を生まれ変わりという言葉がふさわしいほどに大きく変貌させていた。
 実はこの計画には秘密裏に異能の力やその副産物が投入されていた。いつか訪れるであろう異能者の存在が公となる未来、その際にはこの東京湾自体が異能の力が人類にとって大きな助けになると示すモニュメントとなる――そんな思惑があるのだと言われている。
 そういう思惑はさておき、そこから生まれたダイビング向きの海を直は更に深く潜っていく。ボンベを使わないスキンダイビングでは十分な訓練無しでは一定の深度以上潜ることはできないが、亜空間に多量の大気を蓄積できる直の異能〈ワールウィンド〉がボンベの変わりとなり苦もなく進むことができた。
(こんなにいい海を、今独り占めにしている)
 なかなかに乙なものだ、と直は思う。
 この周辺の海域は機密保持のため海上・海中問わず外部の人間は立ち入り禁止となっている。島内の人間がスキューバダイビングで潜ろうとしても、そこには一つ大きな問題があった。
 突如、直の体が大きく流される。東京湾を循環する巨大な潮流に足を踏み入れてしまったのだ。
 普通の人なら遭難してもおかしくない勢いの流れである。だが直は動じることもなく足から高圧空気を噴射し潮流を突破した。
 潮流を越え更に深く、そこでは編隊飛行をしているような陣形で海を揺蕩うエイの群れが直を出迎えていた。直はしばしその群れと並んで泳ぎながら周囲をぐるりと見回した。
 そこでは、大きなものから小さなものまで数え切れぬほどの魚がおもいおもいに動き回り生命を謳歌している。
 陸ではあまり動物に好かれない直ではあったが、海の生物は陸のそれとはまた感覚が異なるのか、たいして直のことを気に留めていないようであった。
 動物がらみであまりいい思い出のない直にとってそれは好ましいことであり、この場所に対する思い入れを深める原因となっている。
 政治的な要因と自然的条件が重なり合い誰も訪れることのないこの場所を、直はお気に入りの場所として“秘境”と名付けていた。


 巨大な一幅の絵画の一角がいきなり千切られた、そんな違和感がヒカルの視線を一点に吸い寄せていた。
 目を凝らしてみると、魚群の一角が不自然に崩れている。意識を集中すると、不自然な気配がそこにあるのが感じられた。
 ヒカルはすっくと立ち上がり、念動力をその気配の方へ向けゆっくりと上昇を始めた。
 この“楽園”を汚すものは許さない、その思いが今のヒカルを突き動かしている。
 とはいえこうも魚が密集していると全速力で一直線とはいかない。迂回を繰り返しながら進むヒカルの姿は傍から見ればおっかなびっくりなようにも見えるが、これが彼なりの“楽園”に対する敬意の表現だった。


 のんびりとイワシの群れと戯れて遊んでいた直の表情が不意に引き締まり、鋭い視線が振り向きざまに放たれる。
 まだ視覚的には確認できなかったが、場所を転々としながら攻撃の機を窺うかのような気配が下のほうからじりじりと近づいてきていた。
(こんなところにまでラルヴァがいる…?)
 直の決断は早い。高圧空気の噴射で相手の方へと向かって進み始めた。
 この“秘境”で戦闘を行うのはあまり望むところではない、というのが直の本音ではある。
 とはいえそれが害をなす存在なら容赦をするつもりもない。その意思を体現するかのように直はほぼ一直線に泡の航跡を後にひき進んでいった。


 気配が高速で突っ込んでくるのを感知したヒカルは急いでその方向に念動力の防御壁を設置した。
 慌てて体を翻す魚たちの脇を通り過ぎながら接近する直はその先に白く際立つ球体を発見し眉をひそめた。
 …邂逅は突然だった。
 その球体の中に人間がいるのが見えた直は慌てて飛び越えるように回避し、ヒカルはただその動きを目で追いかけていた。
(確か、彼は…)
(げ、あいつは…)
 互いに面識こそないが、相手の外見や大まかな能力は把握している。まさか自分以外の人間がという思いとこいつならここに来れるのも納得できるという思いと、二つの思考が同時に二人の脳内を走り抜けた。
(なるほど、亜空間とやらに蓄積している空気をボンベ代わりにしてるってか。だが…)
 どうにも気に食わない、とヒカルは思う。天体観測を趣味としているように、彼はこの“楽園”に対して『観る』ことを最も重視している。そんな彼にとって魚群を崩し魚に構わず突き進む直の姿は美しい風景をかき乱す邪魔者としか思えなかった。
(宇宙にまで行ったという位だから別に不思議でないけれど…)
 少々興が冷めるな、と直は思う。この“秘境”で海の生物たちとの触れ合いを何よりの楽しみとしている直にとって念動力の壁で海と一線を引いているかのようなヒカルの姿はあまりいい印象を与えるものではなかった。
(どこか他所に行ってもらおう)
 向かい合って海中を漂いながら二人はそういう結論に達した。
 水中では声も届かない。手段は一つ。まず相手を指差し、次いでその腕を上げて海面を指差し誘導するボディランゲージ。
(…………)
 奇しくも鏡写しのようにシンクロしたその動きは、本来の意図と異なり二人を硬直させる結果となった。


(どうしてくれよう)
 元来気の長い方ではないヒカルの中では苛立ちが確実に蓄積されつつあった。
 いっそ念動力で強制的に海面に送り返すか?という強攻策が脳裏をちらつく。
(彼に見られながら、と想像するとどうにも)
 元来あまり物にこだわる方でもない直も今回はかなり臍を曲げていた。
 流石に後輩相手にこちらから殴りかかる気にはなれなかったが、それ故に行き場のない感情が増幅されていく。
 お互いにその感情の源泉が“楽園/秘境”を独占していると言う満足感が崩されたゆえのものだと気付かぬまま、張り詰めた緊張がじわじわと膨れ上がり続ける。
 胸が締め付けられるような感覚が呼吸を早め、貴重な空気が段違いの勢いで消費されていく。
(やるしかないのか…?)
 プロのダイバーですらそう長くは居られない深度である。直はこの深度では常に呼吸のための空気の制御を続けなければならず、ヒカルの方は戦闘となると酸素の残量に不安がある。最悪共倒れの危険すらあった。
 それでも、せっかく見つけた“楽園/秘境”を明け渡してすごすご帰るという選択肢は存在しなかった。
 だから、後ろには下がれない。少しでも前に進めば――近接戦タイプの直と遠距離戦タイプのヒカルとの間の有利不利のバランスが崩れ――即座に戦闘開始の合図となる。
 進むもならず退くもならず、ただただ睨みあうばかり。
 いつまでもそうしているわけにはいかないとは双方ともに重々承知している。何か…それが些細なことであれこの場で何かが起これば状況が決定的に動く。それは予測をはるかに超えた定められた未来の事実だった。


 突如、水面から滴り落ちる光が褪せ、世界を包む蒼がその濃さを増した。
 下り坂に放り出したボールのように状況が速度を上げて動き出す中、二人の最初の行動は相手の動きを窺い隙を探る…ことではなくこの異変の原因を知るため天を見上げることだった。
「「!!」」
 瞬間、何もかもが二人の頭から吹き飛んでいた。
 巨大な不定形の塊が頭上を覆い尽くしている。いや、それは数万、数十万、あるいはそれ以上の数の魚が集った巨群だった。
 巨群は眼下で緊張を高めあっていた二人など知らぬげにうねうねとその形を奔放に変じ続けている。
 その動きは魚が七で海が三と言いたくなるほどの規模だった。光も消えるはずだ、と直はただただ呆然とその様を眺め続けている。
 ヒカルはというとついさっきまで戦闘も辞さぬ覚悟だったのはどこへやら、せっせと写真を撮り続けている。
 ファインダーで切り取られた景色の中には邪魔者は居ない、そう考えると現状全く状況は解決していないと分かってはいても少し安堵できる自分を感じていた。
(…ん?)
 今の思考の流れの中に引っかかるものを感じ、ヒカルはその部分を思い返し行き来する。
「…!」
 何かを思いついたヒカルはその考えをボディランゲージで直へと伝えようと試行錯誤を始めた。
 言葉なしで容易く伝えられるほど単純な内容ではない。意思のやり取りは幾度ともなく迷走した。
 だが、幸いにも直のほうも既に似たような考えにたどり着いていた。


 直は北上するスナメリを見つけ、緩やかに上昇しながら近づいていった。
 直のほうをちらりと見やったスナメリだったが逃げる気配もなくそのまま泳ぎ続けている。
(それにしても、この場所で喧嘩にならなくて良かった)
 腕を競い合う戦いは大好きな直ではあったが、こういう動機での戦いは今思えばいただけない。
 そもそもここで戦いをするということ自体がこの“秘境”に失礼な気がする。
 直はちらりと岩棚のほうを見やった。ヒカルが小高い岩の塊に腰掛けながらこちらに背を向けてカメラを向けている。
 その岩棚の中央に岩棚を真っ二つに分ける線が刻まれている。いや、岩棚だけではない。岩棚を越え、渓谷全体を二分するようにその線は延びている。
 二人がかりで異能を使ってせっせとこの線――世界分割線(デマルカシオン)を引いたことを思い出す。
――渓谷を二つに区切ってお互い相手側には不干渉ということにしよう。
 これが二人の和平案の概要だった。
 相手には近づかない、視界に入らないようにしていない扱いにすれば今までのように独り占め感は満たされる。
 欺瞞といえばそれまでだが、智恵の実を食べた唯一の存在らしい解決方法であるといえなくもない。


 ぐるりと動かしたカメラが偶然直の姿を捉えた。
 ファインダーの中で彼女はスナメリの尾びれに手をかけて一緒に泳いでいた。
 信じられない奴だと思いつつも、じろじろ見るのは協定違反なので慌ててカメラをずらし、本来の目標である魚の巨群――今では『元』だが――に注意を戻した。
 先程の魚の大群は何故か三つに分裂し、微妙に深度を違えながら悠然と回遊している。
 …彼としてはこちらの風景さえ乱さなければそれでいい、という思いであった。
 無論強制力のない口約束には過ぎないが、あの時目の前の自分より先にこの“楽園”のことを心配した姿を見てそこだけは信用してもいい、とヒカルは思っている。
(ま、できればあまり関わりあいになりたくないな。可愛げもねーし)
 これもまた偽らざる本音であった。
 と、分裂した大群の一つが偶然Vの字のような形となった。それが少し可笑しくて、ヒカルはその群れに向けて何度かシャッターを押した。
「…あいつに見せたら面白がってくれるかな?」
 いや、羨ましがるかも。そして思考は更に跳躍する。
(いつかここに連れてきてやりたいなぁ)
 距離も邪魔をしている。お互いの背負う立場も邪魔をしている。
 それでもきっとできる。ヒカルはそう信じていた。
 人間とは考える葦である。例え分かり合えないところがあってもお互いに益となる妥協を見出せる、そんな智恵があるのだから。



 独占欲とは、生物の本能の一つである。
 例えば獣の群れの中で最も強いオスがメスを集めてハーレムを形成するように、自らが欲するものを独り占めしたいという心情は生物に広く見られるものだ。
 そして、もちろん人もまた生物というカテゴリーの例外ではありえない。
 だが、自然の懐は広く、人には智恵がある。
 自らのことのみを考えず他者のために一歩譲ることができるのなら、全ての人間に自然の恵みを行き渡らせる事も不可能ではない。





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