【シャイニング!5】

 爽やかな朝。
 起き出した町のざわめきに、小鳥の可愛らしい声が混じる。
 晴天の空から降り注ぐ陽光に朝露をきらめかせ、青葉を広げる庭の植木たち。
 爽やかな朝。大事なことなので二度言いましたよ。
「……これが朝食かい?」
 テーブルの上に並んだ豪華絢爛な料理を前にして、明日羽が呻く。
 そこには麻婆豆腐やエビチリ、チンジャオロースといった日本人に愛されている中華料理が並んでいた。
 マーボー豆腐はぷるんとした以下略。
 わかりやすく言うとそれは昨晩の余り物だった。
 油でテカるピーマン。胃袋を締め上げる山椒の匂い。べったりとチリソースが染みて膨れた海老。
 夕飯として見れば豪華で美味しそうな料理の数々も、起き抜けではさすがに見るのも辛い。しかも、すでに昨日たっぷり味わった品々だ。
 明日羽は、中国人が朝食にお粥を食べるのに、重大な理由があるような気がした。
「いやー、作りすぎちゃってさ。テヘ」
「テヘじゃないっての。なんで昨日食べた分と同じだけ出て来るんだよ」
「お昼にはお弁当に詰めて持っていくよ」
「まだあんのかよ……」
「おかわりもいいぞ!」
「……俺は大好物だからいいんだけどさ」
 普通に食卓について食べ始める敏明を見て、何故か巡理は上機嫌で頷いて、彼と自分の分を皿に取り分ける。
 うんざり顔の明日羽はお湯を沸かし、永谷園のお茶漬け(梅)を用意した。それにお新香だけで済ませるつもりだった。
「あれ、昨日と同じー? まあ美味しいからいっかー」
 遅れてやってきた春亜は特に悩むことも無く敏明らと並んで食卓に着く。
 明日羽は少女の身体をしばし眺め、たぶん油は全部偏った部分に付くのだろうと納得する。自分はきっとほとんど身につかないタイプだ。そういうことにしておこう。
 昨晩とあまり変わらない食欲を見せる同居人たちに、明日羽は妙に疲れた声音で一言こぼす。
「……みんな若いな」
「センパイも一個しか違わないじゃないか」
 明日羽は眉を下げた笑みで応え、一人さらさらとお茶漬けをかきこむのだった。

 双葉邸の住人たちが揃った登校風景は、三度目にしてかなり賑やかなことになっていた。
 敏明、巡理、明日羽、春亜に、偶然居合わせた敏明のクラスメートの大渡が加わって五人ものグループが出来ていた。
 五人が古い警察ドラマよろしく横並びになっていると確実に道を塞いで迷惑なので、自然と二人と三人に別れて歩道を行く。
 前を行く男二人の会話は部活動についてだ。
「今日から二週間の仮入部期間だってよ。毎日違うとこ覗けるんだと。俺はゲーム部以外はあんま興味ないけど」
「俺はどうするかな……そういえば、本田君は?」
 敏明はふと思い立って訊ねてみる。
 先日、生徒指導室に呼び出された本田君は指導教員の説教を遮り、いかにエロゲーが素晴らしいかということを一生懸命説いたという。
 特に紅白の衣装に身を包んだ巫女を触手で快楽責めにして異形の子を産ませることの素晴らしさを声を大にして語った。なお、巨乳がモアベター。
 彼の言葉にいたく感動した先生はその日ソフマップへ走ったらしい。
 ちなみにその熱弁は指導室の外まで漏れ、たまたま通りがかった風紀委員見習いの耳に届いていた。本田君は懲罰台に送られ、良い笑顔で気絶していたとか。
 そんな彼の前にはなぜか山盛りのチャーハンが供えられていたという。本田君が目が覚めてから食べてみたところ「冷めてたけど味はまあまあ」ということだった。
 それはさておき、昨日の部活動紹介ではエロゲプレイング宣言する部は存在しなかった。当然だが。
「本田はパソコン系の全部回るとさ」
「やっぱりか」
 それでエロゲ同志を探そうというのだろう。
「お前はどうするんだ? 俺と一緒にゲーム部行くか」
「まぁ……考えとく」
 大渡や本田のように素直にオタ趣味の部活に入ってしまえばいい。
 だが、後ろを歩く同居人たちの存在があるために、見栄を張りたいという思考が邪魔をするのだった。
 それに……と、敏明は想像を巡らせる。
 そういう類の部活の連中に同居人の存在がバレてしまえば、昨日の友は今日の敵となるだろう。
 現に、にこやかに話しているように見える大渡も、チラチラと後ろを気にしては表情を固くしていた。センパイを見て別のとこ固くするなよ、と敏明は念じる。
 そして、お定まり的に考えて、バレない保証などはこれっぽっちも無かった。
「死亡フラグを自分で追加するのは馬鹿馬鹿しいよな」
「あん? どうした?」
「いや、こっちの話。とりあえず、部活は仮入部期間に考えとく」
「そんなこと言ってると結局帰宅部になったり……ん?」
「どうした?」
「いや、あそこの曲がり角に……」
 大渡が指差した十字路の右手から、何かが飛び出してきた。
「……犬?」
 大きさはおよそ中型だろう、赤茶けた犬は妙に低い姿勢で荒い息を吐きながら、のそのそと十字路を歩き回っていた。
「野良犬? なんかちょっと動きが病気っぽいけど……」
「どうしたんだ、急に立ち止まって」
「あ、センパイ。ほら、あの野良犬が……」
 そう答えつつ振り返った敏明は、明日羽が鋭い目付きでこちらを……その向こうの犬を睨んでいることに気付いた。
「あの……センパイ?」
「敏明クン、覚えておくといい。双葉区では野良猫が異様に多いせいか、野良犬は滅多に見かけないんだ」
「え、でも」
「あれは……」
 言葉の途中で明日羽は肩に下げた布袋に手をかけ、一気に中の棒状の物体を引き出す。
「ラルヴァだ」
 白刃が鞘走るのと、犬ラルヴァが駆け出すのはほぼ同時だった。
 一直線にこちらへ、敏明たち目掛けて走ってくる犬ラルヴァに対して、迎え撃つ明日羽は上段から袈裟懸けに刀を振り下ろす。
 敏明にはジャストミートに見えた。だが、刃は宙を裂いて抜け、犬ラルヴァは横の塀に飛び乗った。
 明日羽の瞳は、その犬ラルヴァの挙動を見抜いていた。正確にはどのような行動を取るかはわからないが、脚部に増えた魂源力の光が、その動きの先読みを容易にする。
 さらに、犬ラルヴァの全身に魂源力の流れが纏わり付いた。
「させるか!」
 何かを仕掛ける前兆を読み取り、明日羽は一息に踏み込む。切っ先を犬の鼻面に向け鋭く突き出した。
 悲鳴を上げ、塀から落ちた犬ラルヴァは、しかしすぐに立ち上がると明日羽を避けて敏明に向かって飛び掛っていった。
「俺かよ!」
 ひらひらと舞う明日羽のスカートに気を取られていた敏明は、犬ラルヴァが眼前に迫ってもすぐには動けない。
「くっ……」
 打開策があるとすれば、それは敏明自身の異能だ。
 それがどんな効能を持つ物なのかは未だに教えられていないし、自分でもまったくわかっていない。
 ただ、魂源力を纏った攻撃は通常の兵器よりもラルヴァに高い効果があるという話は聞いている。
「オアーッ!」
 敏明は光る右の手を握り絞めると、謎の奇声を発しつつ、でたらめに突き出した。
 大仰な身振りで遅い、無様な攻撃だ。空手なども習ったことがない上、殴り合いのケンカなどというものとも無縁だったのだから仕方がない。
 しかし、刀傷を負っているためか、動きの鈍い犬ラルヴァに当てることは出来た。
 自身の突っ込んでいく勢いでカウンターとなり、魂源力が満ちた拳の直撃を受けた犬ラルヴァは断末魔を上げて倒れた。
 その身体は燃え尽きた灰のように崩れ落ち、風に溶けて消えていく。
 ラルヴァを倒した。その感触が右手にはっきりと残っていることに、敏明はよくわからない動悸を感じた。今更ながらに汗が吹き出てくる。
「すげえな、双葉!」
 言葉の出てこない敏明の代わりに、歓声を上げたのは大渡だった。
「お前の異能ってそのパンチだったのか! そんだけ威力があればあんな犬っころの一匹や二匹楽勝だな!」
 安く請合う大渡の言葉に、敏明もまんざらでもない様子で笑い返す。
 しかし、刀を鞘に収めた明日羽は、二人の後ろで険しい表情を浮かべていた。
(敏明クンの異能は、直接攻撃ではない、か)
 消費する魂源力の量とそれによる攻撃の威力はまったく釣り合っていなかった。実戦中の異能を見慣れている明日羽は、そう結論づける。
 あれだけの魂源力が攻撃的な異能に費やされれば、当たった瞬間にラルヴァが粉微塵になったとしてもおかしくはない。
「……」
 とはいえ、明日羽はその場では何も言わない。実際に敏明の異能が何かまでわかったわけでもないのだ。
 それよりも、明日羽には気になるものが見えていた。
 周囲に拡散した魂源力の流れが異様に多い。
 その原因は、すぐに知れた。
「まだいたか」
 先程、犬ラルヴァが飛び出してきた十字路から、別の一匹が現れたのだ。
「……む?」
 それだけではなかった。
 さらに、背後の別の路地からも、また離れた道端からも、ぞろぞろと何頭も出てくる。
 匂いに釣られて集まってくるように、そこかしこから湧き出るように、似たような形の犬のラルヴァばかりが増えていく。
「なん……だと……?」
 犬ラルヴァが瞬く間に十数頭も、その場に集まっていた。
「くっ……多すぎる」
 再び刃を抜き放ち、敏明と大渡の前に立ちはだかるように構える。
「学園に連絡を」
「は、はい」
 指示に慌てて学生証の通信機能を立ち上げる敏明は、しかしその指の動きを止めてしまった。
「あ、あれ?」
 敏明の手が、未だに光を放っているのだ。
 異能の制御はまだ不完全とはいえ、ある程度身に付けたはずだった。光を放つほどの魂源力の消耗は、意識さえすれば抑えられるはずだ。
 しかし、力を使っているという感覚の無いまま手の光は明滅する。強くなり、弱くなり、切れかけの電球のような不安定な光を放ち続けていた。
「なんで……」
「敏明クン、落ち着いて。ちゃんと制御できるはずだ」
「センパイ……で、でも」
「いいから、深呼吸をして。緊張して制御が甘くなっているんだ。大丈夫、私たちが君を守る」
 明日羽は巡理と春亜を横目で眺め、頷く。
 この場には戦闘に参加できる異能者が三人もいる。数が多いとはいえ、下級のラルヴァが相手なら、救援が来るまでの時間を稼ぐくらい出来るはずだ。
「大渡、といったか? 連絡は君がしてくれ。そしたら、なるべくここから動かないように」
「ハ、ハイ」
 話しているうちにも、ラルヴァたちはジリジリと彼らに近付いてくる。すでに道は前後とも大量の犬ラルヴァによって塞き止められていた。
 目の届く範囲には、他の歩行者が見当たらないのは幸か不幸か。他の異能生徒がいれば助け合うことも出来たかもしれないが、他の一般人がいなくて良かったとも言える。
「アタシの出番かな」
 軽い口調で、しかし声音には緊張を滲ませて春亜が呟く。
 明日羽はそれなりの実戦経験を積んでいるが、一人で道の前後からの襲撃を捌ききれるような異能は持ち合わせていない。誰かが後ろを守らなければいけなかった。
 春亜はポケットから伸びるイヤホンを両の耳に付けると、腰を落として身構えた。ただ、それは格闘技的な構えではない。脱力するように肩や腰をゆらゆらと揺らし、ゆっくりと左右へのステップを始める。
 ダンス。それは異能を用いるための、儀礼的な舞だった。
 彼女の体が、うっすらと光を纏う。
 明日羽でなくても見て取れるそれは、魂源力を帯びて反応する儀礼装飾――魔法系異能者が時折用いる、自身の肉体への儀式付与だ。
 幾何学模様をその身に浮かび上がらせた春亜は、手振りも加えてさらに大きく舞い踊る。
 手を振り上げ、腰を廻し、足踏みは加速……官能的に、情熱的に、ダンスは盛り上がっていく。ついでに敏明と大渡の視線は彼女の揺れるスカートに釘付けだ。
 明日羽の目には、周囲に散った魂源力が春亜の踊りに導かれて美しい流れを形作るのが見えた。
 そして、魂源力の流れの中に、別種の光が生まれる。
 ぱしり、と空気が爆ぜ、次の瞬間には空間を割り裂いて稲光が走った。
 その場の人間の鼓膜が震えるより早く、犬ラルヴァは吹き飛ばされ、宙に居る間に身体を失って消え果てた。
「アタシのダンス、シビれるでしょ?」
 踊りながらニコリと微笑んで見せる春亜の後ろで、親指立てて同じくスマイルの男二人。
『グゥゥルルルゥル』
 犬ラルヴァたちは、仲間を一匹吹き飛ばされて激昂したのか、凶暴な唸り声を上げ始めた。
 低い合唱を浴び、明日羽と春亜は表情を引き締める。
 ほんの数秒の睨み合いの後、ラルヴァが一斉に駆け出した。
 春亜は動きを止めることなく踊り続け、むしろそのスピードを加速させていく。青白い雷光が何発も路上に放たれた。
 降り注ぐ電撃の槍は突っ込んでくる犬ラルヴァにあやまたず突き刺さり、次々に屠っていく。
 だが、敵の数に対して、連射速度は若干遅い。少しずつ彼らとの距離が詰められていく。
 春亜の魔法は踊るという行動が条件になっているため、どうしても発動に時間がかかるのだ。肉薄され、踊ることを妨害されてしまえば、もはや迎え撃つ術すら失う。
 すべての犬ラルヴァを倒すのが先か、それともその前に接触を許してしまうのか。微妙な距離と数だった。
 逆を守る明日羽は、眼前に飛び掛ってきた犬ラルヴァを斬り払った。苛烈な打ち込みに胴を半ば以上も薙ぎ斬られ、犬ラルヴァは一撃で倒れる。
 彼女には遠距離攻撃の手段が無い。下手に敏明たちから離れることもできず、目前での一撃必殺に集中するしかなかった。
 この犬は死ねば完全に消滅するタイプのラルヴァだった。刀にはラルヴァの血糊が残ることは無いので、そのために刃が鈍るということはない。
 だが、斬る時にはラルヴァも骨はあり、それを断ち切る威力の斬撃でなければ必殺たりえない。そして、固い骨を斬り付け続けて、刃がまったく欠けずに済む保証は無い。
 また、明日羽は超人系異能者ではあったが、その異能の特殊性のためか、自身の肉体の強化はほとんど出来ない。魂源力の浸透した肉体は、少し常人の平均値より運動能力が高いという程度だ。真面目に鍛えたアスリートには劣る。
 もちろん、持久力もほぼ人並みでしかない。
「シィッ」
 鋭い呼気と共に振り抜いた切っ先で、真横を通り過ぎようとした犬の首を斬り落とす。勢い殺さず振り上げ、袈裟懸けに落として次のラルヴァへ。
 斬撃の連続は舞踊にも似た滑らかな動きへと繋がっていく。
 二人の異能者による苛烈なダンスを見ながら、敏明たちは縮こまっているしかない。
 敏明の手の攻撃はラルヴァにある程度効果があるかもしれないが、犬ラルヴァたちの素早い動きにはとても追いつけないため、手出しすることも出来ない。。
 不意に二匹の犬ラルヴァが道の左右に分かれて、明日羽へと迫った。どちらも明日羽の横を抜けていく動き――刃が同時には届かない間合い。
 連携などという意識は犬ラルヴァには無い。ただ偶然そうなっただけだが、あっさりと明日羽は弱点を突かれてしまった。
 上手く対処できないものか、その思考で明日羽の手も一瞬、鈍る。
 春亜は自分のほうの対処だけで手一杯だ。
 突破される。そう思った瞬間、
「右へ!」
 鋭い声と共に、乾いた炸裂音が響き渡った。殴りつけられたように動きを止める左側の犬ラルヴァ。
 明日羽は慌てて右側のラルヴァの足を斬りおとし、倒れたところで首筋を割く。
 振り返ると、それまで敏明や大渡と共に見ていただけの巡理が拳銃を構えていた。
「メグ……なん、で?」
 敏明は疑問の声を上げる。
 彼は巡理が自分の護衛者であるということを聞かされていない。だから、彼女が護身用の武器を持っているということすら知らなかった。
「トッシー……後で、説明するよ」
 小さく呟いた巡理は倒れた犬ラルヴァに銃口を向け、立て続けに銃弾を放ってトドメを刺す。
 明日羽は巡理に何かを言おうとして、しかしすぐに向き直った。犬ラルヴァはまだ残っている。
 巡理は明日羽と春亜の両方を援護し始めた。どちらかが隙を突かれそうになるたび、的確に迎撃していく。
 四匹目を撃ち倒したところで、遊底がバックしたまま止まった。
 ロックを外してスナップで弾倉を振り落としながら、ポシェットから換えを取り出して装着、再びスライドするまでに数秒。それは実銃を扱う訓練を受けた者の動きだ。
「これなら、応援が来る前に片付きそうじゃないか?」
 学園への連絡を終えた大渡は三人の女子の戦いぶりに素直に感心していた。だが、敏明は巡理の慣れた手つきを見ながら、眉を寄せて複雑な表情を浮かべる。
 ずっと一緒に過ごしてきたはずの幼馴染の、隠された一面を垣間見てしまい、驚きが隠せないようだった。
 迎撃の合間に巡理が敏明の顔を伺うが、目が合うとすぐに逸らしたてしまった。

 学園から応援がやってきたのは、すぐ五分後のことだった。
 路地の向こうから五人の少年少女たちが駆けて来たかと思うと、瞬く間に犬ラルヴァたちを殲滅してしまった。
 それから遅れてやってきたマイクロバスで、敏明たちは学園へと送られることになった。
「あのラルヴァがこんなにたくさん群れているところは初めて見ました」
 リーダーらしい少女は、あの人にも伝えておこうかしら、などと呟く。
 学園に着くとそれぞれの教室ではなく、まずは全員が異能研究棟に連れられていくことになった。
 犬ラルヴァが大量に現れ、しかもその標的にされたのだ。ただごとではないと判断され、聴取を受けることになるのも当然だった。
 会議室のような部屋に通され、しばらく待っているように言われる。
「……は、ぁ」
 椅子に座ると同時、明日羽が長く細い溜息を吐き出すのを敏明が聞きつける。
「センパイ、大丈夫?」
「ん? すまない、少し疲れただけだ。ケガなどはしていないよ」
 汗と疲労の浮かんだ弱い笑みに、敏明は眉尻を下げる。
「俺、何も出来なくて……」
「仕方ないさ。敏明くんの異能はまだなにが出来るのかもわからないし、制御も覚えたてだ。学園での戦闘訓練もまだ始まっていないのだろう?」
 言いつつハンカチで汗を拭うと、もう明日羽はいつものようなさっぱりした表情に戻っていた。
「とにかく全員無事でよかった。山崎も実戦経験は無いと言っていたが、冷静に戦えていたな」
「……そう、だね」
「どうしたんだい?」
「いや、メグがあんなふうに戦えるなんて、知らなかったから」
 そう言って巡理のほうを見やると、彼女は気まずそうに俯いてしまう。
「そうか、聞いていなかったのか……いや、黙っていたというべきか」
「えっと、それって……」
 敏明の疑問と巡理の沈黙。その二つを推し量って、明日羽はふむと吐息するように頷いた。
「……私の口からそれを言うのは、良くなさそうだな」
 ドアがノックされ、スーツをつけた男が一人やってきた。無表情に部屋に居る面々を見回す。
 男の纏う雰囲気は、学園に属する教職員とはどこか異なるもののように見える。
「河越明日羽。君からだ」
「ここで話すのではないのか? ……それに、一人ずつ?」
「いいから来なさい」
 有無を言わさぬ口調に、明日羽は釈然としないながらも立ち上がる。
 不安そうに見送る敏明に、また後でと声をかけ、男の後について部屋を出た。
 廊下をいくらか行くと、男は別の部屋のドアを開けて入っていった。そこで事情を説明させられるらしい。
(といっても、私たちにも事情はさっぱりわからないんだが)
 わけもわからずとにかく剣を振るっていただけの明日羽からしてみれば、説明できることなど限られている。
 その部屋は小さく、テーブルが一つと向かい合わせの椅子があるだけだった。刑事ドラマでよく見る取調室に似ているようだった。
 案内の男とは別に、すでにそのテーブルには一人の男がついていた。
 白髪交じりの髪をオールバックにした痩せぎすの壮年男性。
「河越明日羽」
 男が、低く柔らかい声で彼女の名を呼ぶ。その響きに、明日羽は何故か鳥肌が立つのを感じた。
 明日羽に椅子を勧めるでもなく、男はささやくように優しく話しかける。
「今、君が請け負っている任務の三倍の報奨を出すと言ったら、我々の実験に協力してくれるかな?」
「……は?」
 先ほどの戦闘の話をさせられるのだとばかり思っていた明日羽には、男の言葉がまったく理解できなかった。
 思わず聞き返しながら、警戒を強める。
「……何の話だ?」
「双葉管理の孫を護衛する任務。そちらを止めて我々に協力するなら、三倍の金を出すと言っているんだよ」
 協力、実験、その言葉の意味はわからない。
 だが、
(三倍の報奨金……)
 その額に、少なからず明日羽の心が揺らいだ。
 明日羽は別に金儲けの好きな類の人間ではない。だが、彼女には金の必要な理由がある。
「君は奨学制度の充実したこの学園に来て、しかも結構なラルヴァを退治して報奨金を稼いでいるね。しかし、ほとんど実家に仕送りしているそうじゃないか」
「どうして……」
 そのことを知っているのか。
 ことさら秘密にする話ではないが、初めて会った男の口から聞かされるには不愉快な話だ。
 次の一言で、不信感は一気に膨れ上がる。
「君の家の道場、門下生が減っているらしいじゃないか。経営は、当然苦しいのだろう?」
 明日羽は奥歯を噛み締め、反発的に怒鳴り返すのを辛うじて堪えた。
「先ほどの戦闘と関係の無い話なら、帰らせていただきます」
 無理やりの敬語で断ると、さっさと回れ右をする。
 制止の声は掛からなかった。男はただ妙に落ち着いた笑みで見送る。
 体当たりする勢いでドアを開けて廊下に飛び出すと、
「きゃっ」
「わあ!」
 ちょうど歩いていた白衣の女性とぶつかってしまい、バランスを崩した。
 明日羽はなんとか踏みとどまったが、女性は手に持っていた書類を投げ出してしまう。
 バサバサと乱雑に舞った紙束に、女性は慌てて手を伸ばす。
「す、すいません」
「あ! ダメです!」
 明日羽が拾おうとすると、妙に強い声に遮られた。
「あ、あの……この書類は生徒さんには見せられないものなので」
 女性は言い訳するようにそう呟くと、一人で書類をかき集め、そそくさと立ち去ってしまう。
 女性を見送った明日羽は、ひらりと一枚の紙が落ちたのに気付いた。廊下の先を見やると、女性の姿は既になくなっていた。
 どうしたものかと思いつつ、一応拾い上げる。
 生徒には見せられないと言っていたので目を逸らそうとするのだが……好奇心には勝てず、つい手元に視線を落とす。
 そこに書かれていたのは、人名の並んだ表だった。
 名前の横に書かれているのは異能の名前だ。その人物が持っているものだろう。
 表には優先順位という項目があり、他にも数字などが書かれていた。
「これは……」
 並んだ名前の中に、見知ったものがいくつかあることに気付いた。
 数日前から対ラルヴァ戦闘で怪我をして、入院しているというクラスメート。
 そして、そこから少し離れた欄には『高田春亜』の表記。
「……なにが、どうなっているんだ?」
 正体の掴めない不安が、明日羽の胸にこみ上げてくる。
 この表も、先ほどの男の話の意図も、よくわからない。
 廊下の向こうから敏明たちが首を捻りながらやってくるまで、明日羽はそのまま立ち尽くしていた。

to be continued...

ラブ……コメ……?

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最終更新:2009年08月31日 01:09
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