【キャンパス・ライフ2 その6-1】


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 増築を重ねて段差のできた畳。恐らくタバコを吸うために取り付けられた換気扇。雅をとりまくこの世界はどれも灰色をしていて、色が付いていない。それはあたかもこの少女の心情をそのまま描写しているかのようだった。
 雅はこの世界の片隅で引きこもっていた少女に、こう声をかける。
「僕は、遠藤雅といいます。立浪みくの友人です。あなたを救いにここまで来ました」
「みくちゃの・・・・・・友達・・・・・・?」
 と、立浪みきはかすれた声で雅に言った。いったいこの部屋で、どれぐらい長いこと泣いていたのだろう。目元がとても赤く腫れていて、充血している。外に強く跳ねた後ろ髪と、みくとは違う、黄色と青のオッドアイが印象的であった。
「どうしてあなたがここに来れたの?」と、みきは雅にきいた。
「うーん・・・・・・。はっきりとした理由はよくわかってないけど」と、雅は答える。「君の話を聞いてあげたいと強く思ったら、あんな行動に出ていた。君にぴったりくっついて、君の声を聞きだそうとしたんだ。そうしたら・・・・・・この世界に来ていたというわけです」
「あなたには、私の声が聞えていたんですね」
「はい、聞えていました」
 ほんの少しだけ彼女の強張っていた表情が緩み、ささやかな笑顔を見ることができた。みきは体育座りを崩し、両足を伸ばす。靴下がたたみにこすれる音が、薄暗い部屋に共鳴した。
「『嫌だ』『もう許して』って叫んでいるのが、聞えてきた。君はこんな場所で、誰にどんなことをされてきたんだい?」
 みきの肩がぶるっと震える。かちかち歯を鳴らしながら、彼女はこんなことを言った。
「『あの子』が、私の見たくないものを見せつけてきたんです。現実の世界でみくちゃを痛めつけたりするところを、無理やり見せられました。みくちゃの泣き顔と、喚く声。私に向けたメッセージ。ちゃんと聞えていましたよ・・・・・・。 
 私がみくちゃを傷つける、それだけで死にたいぐらい嫌なことを、『あの子』は嬉々として見せ付けてきたの・・・・・・。もう嫌ぁ。こんなの嫌ぁ。いっそのこと、殺してほしいよう・・・・・・」
 みきは頭を両手で抱えると、震えながら再び泣き出した。目を大きく開いたまま、ぼたぼたと畳の上に大粒の涙を流す。
 相当に心身弱っていた彼女と対面し、雅は始めこそ面食らっていた。だが、気持ちをすぐに引き締める。何のために自分はこの世界に飛び込んできたのだ、と言い聞かせながら。
「さっきも言ったけど、僕は君のことを救いに来たんだ。これは僕の予想なんだけど、君がこの世界から脱却してもう一度生きる気になったら、君は表舞台に帰ってくることができるような気がするんだ。だから、僕と一緒に帰ろう」
「む、無理だよ・・・・・・!」と、みきは即答した。「それは、私が『あの子』に打ち勝たなければならないことを意味する。そんなの無理! できっこない! 私はこれからも、『血濡れ仔猫』としてみんなの憎しみや悲しみを集めていかなければならないの・・・・・・」
「な、何を言っているんだよ。このままあいつ屈するつもりなの?」
「あなたはそう簡単に言ってくれるけど、『あの子』と戦うなんて絶対無理! もう、あの子の顔なんて見たくもないのにい・・・・・・」
 真下を向いてしまったみきを前にして、このときばかりは雅も途方にくれたのであった。
「無駄だよ、遠藤雅。その子はもう二度と表舞台に立つことはない」
「ひっ」と、みきがその姿を前にして口をぱくぱくさせる。雅は後ろを振り向いた。
 黒のゴシックファッション。毒々しい瞳の赤。部屋に現れたのは、先ほどまでみくと戦っていた漆黒の異形そのものであった。
「こうやっておしゃべりするのは初めてだね、マサ。私が血塗れ仔猫だよ」
 と、立浪みきとほとんど同じ顔をしているこの悪魔は言った。
「本来は私だって立浪みきなんだけどお・・・・・・。いつの間にか血塗れ仔猫と呼ばれるようになっていた。それはつまり、島のみんなの憎悪や怨嗟を一身に集めた証明。勲章。けっこう気にいってるよ」
「お前が、みきさんを乗っ取って七人の生徒を殺した黒幕か・・・・・・!」
「そんな言い方しないで欲しいなあ。私だって立浪みき。そこでわんわん泣いている弱虫と、同一人物なのに」
 血濡れ仔猫がそう言ったとき、雅をとりまく世界がぐるりと一回転して変わった。廃屋の和室にいたのが、一瞬にして夜更ける児童公園に変わっていた。うっすらと闇夜に浮かぶ街灯。それに照らされて古いベンチが短い影を伸ばしている。
「やだ・・・・・・もうやだ・・・・・・。また、あれをやるの・・・・・・?」と、みきは突然怯えだした。
 そんな彼女を横目に、血濡れ仔猫はにたにた笑いながらぱちんと指を鳴らした。
 蛍のような、白く発光する小型の浮遊体が彼女の前に集まってくる。オーブはどんどん収束して、一つの形にまとまって・・・・・・。
 やがてそれは青年の姿となる。青白い無表情と、中身のない視線を雅の腰の辺りに向けたまま、両膝を地面について動かない。それはまるで意志を持たないモノである、「人形」のようであった。
「ここは立浪みきの『アツィルト・ワールド』。平たく言えば異能者の精神世界。立浪みきのようなデリケートな心を持つ少年少女や、過去の良い思い出や栄光の幻想から抜け出せない、未熟な人間が創造すると言われている」
 まず血塗れ仔猫はこの世界について雅に解説をした。つまりここは立浪みきの「心の中」であり、雅はその中に飛び込んできたことを意味する。
「まあ、こんな夢想幻想なんて創りあげちゃう異能者なんて一割いるかいないかだから、けっこうどうでもいい話。しかし、私のような悪の意識が『アツィルト・ワールド』を乗っ取り、完全掌握しちゃうと・・・・・・ああいう真夏の悲劇が生まれるというわけだね」
「その青年は誰なんだ・・・・・・!」と、雅は彼女の言うことよりもそちらのほうを気にしていた。
「ああ、こいつ? こいつは私のオモチャだよ」
「真面目に答えろ」
「そんなに怖い顔しないでよ、教えてあげるからあ。たしか、名前を関川泰利と言ったかなあ? 最初に落合瑠子という恋人を殺したあと、すごい形相して私に勝負を仕掛けてきたんだっけね。そうだったよね、立浪みき?」
「どうしてあんな、むごいことを・・・・・・」
 みきは両目をぎゅっと瞑り、拳をぎりぎり握りながら血塗れ仔猫にそう言った。
「どうしてって、あれがあなたの『宿命』だったんだもの。深い理由なんて何もない。私には人間どもが抱くような憎悪や怨嗟なんて、何にもないの。私は人間を狩る『ラルヴァ』だから、こうやって少年少女の命をもぎ取ってしまうのが楽しくて楽しくて仕方ない。それだけ」
 血濡れ仔猫は指先の爪で、泰利の薄い首の皮をざくっと斬った。泰利はびくんと体を震わせ、首元から宙へと鮮血を噴き上げる。・・・・・・幼い子供が喜んで近づいてくる、夏場の噴水のように。
「お、お前・・・・・・!」と、雅が絶句する。みきが地面に額を付けてわっと大声で泣いた。
「ごめんなさい・・・・・・ごめんなさぁい・・・・・・!」と、血を抜き取られた青年に対して、ひたすら謝りながら。
「別にびっくりしなくてもいいのに。こいつはすでに死んでいるの。私は七人の少年少女を殺したさい、彼らの魂をすべてこの世界に閉じ込めてしまったんだ。このアツィルト・ワールドで好きなだけ呼び出して、こうやって何度も何度も殺すことができる。だから言ったでしょ? こいつは私の『オモチャ』なんだって」
 また、光が集まって別の人形を作り出した。今度は白い素肌も美しい、双葉学園の少女だ。
「これが落合瑠子ね。なるほどこんな可愛い彼女を殺されちゃ、この男も気が狂うはずだよ」
 血の海にうつ伏せになってぴくぴく痙攣している、泰利の体を見ながら言った。
「もうやだあ・・・・・・もうやだあ・・・・・・! 私の前でそんなことしないでよおおおおおお!」
 と、狂乱したみきが血塗れ仔猫に掴みかかる。血塗れ仔猫はうっすらと笑みを浮かべたまま、何も言わずにみきの右手をつかむと・・・・・・それを瑠子の背中に突き刺した。
「あっ・・・・・・」
 みきの頬に血の雫がかかる。背後から貫かれた瑠子はぱっと涙粒を飛ばして、声にならない悲鳴を上げた。暗闇の降りた住宅街で真正面から貫いたときも、こんな最期だった。
「・・・・・・感じるぅ? 自分の手の先で、鼓動していた心臓がしぼんでいくのを。ぶすっと穴の開いてしまった心臓が弱っていくのを。この女が死んでいくのを。一つの命が終わっていくのを」
「いや、いや・・・・・・」
「落合瑠子だってさ、あの晩こうやってあなたが殺したんじゃない。何を今更嫌がっているの? 素直に宿命を受けいれなよ。それとも、まだ私の『調教』が足りなかった? 私の言うことが理解できなかったら、何度でも何年かけてでも教えてあげるよ、立浪みき?」
 血濡れ仔猫は瑠子の体を横に払い、うつぶせになっている泰利の上に積み重ねた。次に彼女が呼び出したのは、そんな彼らよりも一回り小さい、幼い子供であった。やはり泰利のようにぼんやりと視線を投げ出したまま、何もものを言わない。
「みく・・・・・・?」
 と、ここで雅が言葉を失った。ずっと表の展望台で戦っていた立浪みくが、自分の後を追ってこの世界に迷い込んできたのかとさえ思ったぐらい、その子はみくにそっくりであったのだ。
「大島美玖っていうんだっけ。私も最初は驚いたぐらい、あの子とそっくりな少女だよ。でも、こんな可愛い子供に対しても、立浪みきは何をしたんだっけえ?」
 やめろ、と雅が汗を垂らしながら呟いた。彼が一歩、前へ踏み出したそのとき。
 彼は、美玖の小さな頭が後ろから飛んできた鞭によって、粉々に吹き飛んだのを見る。
 真上に真っ直ぐ、勢いよく鮮血が飛んでいく。雅が美玖のもとにやってきて、前に倒れていくのを受け止めたとき。雅の身体にこの子供の温かな血液が、びたびたと降り注いだのであった。
「いやああああああああああ!」
 と、みきが絶叫を上げる。「みくちゃ、みくちゃあ・・・・・・!」と妹の名を呼びながら、ぐったりと両腕を垂らして腰を下ろす。血塗れ仔猫は哄笑を高らかに響かせると、口角をひどく吊り上げながらこう言った。
「あなたがいつまで経っても理解することができないおばかさんだから、私はここで何度もあなたの目の前で彼らを殺してきたんだよ? あなたが『宿命』を受け入れてすべてを諦めるまで、この調教はいつまでもどれだけでも続くからねえ・・・・・・?」
「もう・・・・・・やだ・・・・・・許して・・・・・・」
「あなたの宿命はこのまま私に乗っ取られ、『破滅』を迎えること。大切な人を奪われた人間たちの、呪いに満ちた視線や罵声を浴びながら、あなたは絞首台に上るの。あなたはたくさんの異能者を敵に回した。醒徒会までも敵に回してしまった。あなたは人間に危害を与えるラルヴァとして、敵を作りすぎた」
「・・・・・・なんでも言うことを聞きますから・・・・・・もう・・・・・・やめてください・・・・・・・・・」
「そう。それでいいの。あなたは殺戮を楽しむ『ラルヴァ』なんだから、全部私に任せて、もっと多くの人間どもを恐怖のどん底に落としちゃいましょう? 『破滅』を迎えるまで私と一緒に遊びましょう・・・・・・?」
 もう、立浪みきは何も答えることができなかった。黄と青のオッドアイは完全に光沢を失って、くすんだ薄い色をしていた。
「冗談じゃない・・・・・・!」
 血濡れ仔猫は「うーん?」と不気味な笑みをたたえつつ、その男のほうを向く。
 雅は首を無くした少女を抱きしめたまま、わなわなと震えている。そしてこう言ったのであった。
「七人の命が奪われたのも、多くの血や涙が流されたのも、みきさんがもたらしたものじゃない。お前だ、血濡れ仔猫! お前がもたらしたものなんだ!」
 その瞬間、雅の抱きしめている少女の体が光る。血塗れ仔猫は打ち砕いたはずの美玖の頭部が復活しているのを目撃し、赤い目を大きく開いた。雅は彼女に辱められた彼女の魂を、「治癒」させてみせたのだ。
 魂を血塗れ仔猫に束縛され、安らかな眠りに付くことも許されない不幸な少女。青紫の唇を見ると、ますます雅は怒りに燃え上がった。
「みきさんが戦おうとしないのなら・・・・・・僕が戦う。僕が血塗れ仔猫を倒してやる!」
 雅は腰にぶら下げてあった武器を取り出した。みきはその緑色の短剣を目にしたとたん、驚いてこう言う。「それは、姉さんのグラディウス・・・・・・」
「うふ、うふふふ。戦闘員でも何でもないただのヒーラーが、私を倒すですって? 泰利とか亜由美とか、ここにいる異能者の魂よりもずっと弱いあなたが、随分と高く出たねえ!」
 血濡れ仔猫は黒い鞭を具現させ、その手に握る。彼女がばしんと地面を叩いたとき、場面が変わった。
 そこは、双葉学園・高等部のグラウンドであった。三年前、血塗れ仔猫が誕生した場所だ。彼女によって支配されているこの世界は色彩が一切なく、校舎も、グラウンドも、青であるはずの空も、すべてが灰色に侵されていた。島特有の潮風も、まったく感じられない。
「返り討ちにしてやる。あなたもこの世界に閉じ込めてやる。さあ、かかっておいで? 遠藤雅!」
 鞭を両手でぴんと張り、血塗れ仔猫はその赤い瞳を紅に輝かせた。


 心のうちに湧いた悪しき存在は、自分で打ち破るしかない。
 立浪みきが表舞台に復帰するには、自分で黒の分身である血濡れ仔猫を倒すことが条件となる。しかし、彼女は度重なる「調教」によって弱り果ててしまい、まったく立ち向かう気力というものがなかった。はちきれんばかりの悲しみや苦しみが現実世界の本体に表れることはあっても、こうして戦う意志がないのでは彼女は永遠に黒装束のままである。
「遅い!」
「ぐあっ・・・・・・」
 血濡れ仔猫に正面から向かっていった雅は、鞭で頬を打たれて横に倒れた。追い討ちの一発が、背中に叩きつけられ、痛々しい悲鳴が上がった。
「どうせ勝てっこない・・・・・・。私はどうせ『ラルヴァ』なのだから、あの子の言う宿命に飲み込まれてそのむなしい一生を終えるはずなのに・・・・・・」
 と、みきは憔悴しきった表情でぼんやりと雅を眺めている。黒い自分にいたぶられている雅を眺めている。
 黒い鞭の先っぽが彼の背中目掛けて降り注いだとき、みきはたまらず両手で目を覆った。
 ごすっと鈍い音がして、雅は血反吐を飛ばす。それを見た血濡れ仔猫が楽しそうにこう言った。
「あなた、とっても体が頑丈なのね。一般人だったら背中に穴が開いてたところだよ。まあ、無力だからといって治癒能力者が簡単に死んじゃったらつまらないし、ねえ?」
「お前の攻撃なんて、全然痛くもかゆくもない。まだ、子どものころ親父に折檻されてたときのほうが、痛くて辛くて苦しくて明日への希望が見えなくて、死んじゃいそうだった」
「打たれ強いってのは、ある意味悲劇的なものなんだよ? 別に私はいいんだよ? あなたが動けなくなるまで、永遠に遊びに付き合ってあげても!」
 雅の背中に、もう一度重い塊が叩きつけられた。血塗れ仔猫は右手を存分に上下に振り、けたたましい笑い声を上げながら雅の背中を何度も鞭で叩いて虐めぬいた。
「こう? こう? お父さんにやられた折檻って! やだこれ、とっても楽しい! いい歳した男の人が可愛い悲鳴あげてるのって! 何回でも叩きたくなっちゃう! 虐めたくなっちゃう! あはは、両目に涙なんか溜めちゃってえ! 本当は痛いんでしょ? ねえねえ!」
「全然、わかってねーな。本当の痛みっていうのは体だけじゃないんだ。もっともっと繊細で、大切なところにも、拭えない傷が走るっていくってことなんだよ・・・・・・うっ・・・・・・」
 衣服がところどころ千切れて、擦り傷の滲んでいる雅の体を鞭が拾い上げた。精神世界に配置された双葉学園の校舎に向かって、彼女はそのまま彼の体を乱暴に投げつけた。
 雅は頭からコンクリートの壁に激突し、そのまま廊下に突っ込んでしまう。血塗れ仔猫は鮮血を連想させる赤い瞳を校舎に向けると、雅に向けてこんなことを語り始めた。
「立浪みかとの戦いを思い出すなあ。なんであんなことになったんだっけ。・・・・・・そうだ、与田光一だ。あの男が余計なことをして、そこにいる弱虫の情緒が著しく不安定になり、私の登場を許してしまったんだっけね」
 がらがらとコンクリートの山が崩れ、うっすらと砂埃が舞い上がる。雅は肩で息をしながらも辛うじて立ち上がり、グラウンドに帰ってくる。亡き長女の使っていたグラディウスを握り直した。
「人間ってバカだよねえ。特に与田の行為は誰が得するのって話だよ。普段ラルヴァに恨みを持ってる生徒だってね、ほっとけば恐らく余計な行動に出ることはなかったんだよ? 彼らの負の感情を煽り立ててマイクを殺害させて、『ラルヴァは全て殲滅すべき』と理論を飛躍させたあの子のほうが、私なんかよりもよっぽど有害なんじゃなくて?
 ラルヴァはそのほとんどが己の役割に忠実なだけ。特に私なんかは人間を虐めて殺して、惨たらしく真っ赤に染め上げるのが楽しくて仕方ないから、夏の夜に現れただけの話。人間たちがどうのとかこうのとか、まったくどうでもいいことなの。
 それなのに、人間は異能者とラルヴァと線引きをして、白か黒か決めたがる。殲滅だの共存だの主張する。とっても意味の無い行動だよ。どっちも見当違いの正義感だよ。呆れるぐらい無駄な茶番劇だったよ、三年前のアレは」
 彼女の話にまったく耳を傾けず、短剣を向けて走ってきた雅を鞭で横に張り倒した。転倒してしばらく動けない彼に、血塗れ仔猫はなおも話を続ける。
「バカなのはあなたも同じだよ、遠藤雅。私を倒すのはあの子しかできないのに、あなたは何をやっているの? 何がしたいの? ふふふ、自分から進んで私に虐められたいというのなら、納得がいくんだけどね!」
 両手を地面について、立ち上がろうとしていた雅の後頭部に、容赦なく鞭が叩き込まれる。雅は顔面からグラウンドに激突して、辺りに大きな砂煙が立ち込めた。
「戦闘能力を持たないあなたがこの血濡れ仔猫を倒そうだなんて、笑止千万、無理な話。だいいち、あなたがそうして必死になって血だらけになっても、ああして立浪みきはがくがく私に怯えて、立ち向かってこないんだよ? 本当、骨折り損ってこういうことなんだよねえー!」
 グラディウスを握っている右腕に鞭が巻かれる。血塗れ仔猫の瞳が瞬いて魂源力が開放されると、締め上げられた右肘がぼきっと乾いた音を立てて折れてしまった。
 アツィルト・ワールドに響き渡った絶叫を、みきは涙ぐみながら聞いていた。あの人はこんな弱虫な自分のために、あんなに戦ってくれている。・・・・・・違う。弱虫な自分が戦おうとしないから、あの人はどうしても戦わざるを得ないのだ。自分なんかを救い出すために。
「あなたの考える正義って何? 『治癒』って何? こうして立浪みきの心の中にまでしゃしゃり出てきて、私にいたぶられること? それがあなたの生来的な役割なの? 馬鹿馬鹿しい! どうせ立浪みきはこれから醒徒会によって始末されてしまう『ラルヴァ』なのに、今更救い出せるわけがないんだよ!」
 左手に短剣を握りなおしたとき。雅はくるくると黒い鞭に絡みつかれて、また遠くへと投げ飛ばされてしまった。大きく放られた彼は放物線を描き、へたりこんで動けないみきのところへと落下する。
 グラディウスが手から離れる。みきの前にからからと転がる。タフな体を持つ雅でも、そろそろ体力の限界を迎えつつあった。
「双葉学園生は子供らしく、自分の異能で遊んでいればいいの。無駄な大声立てずに、おとなしく適当に青春して、適当に有害ラルヴァを倒して過ごしていることだね」
 満足いくまで語り倒した血塗れ仔猫はけたけたと不気味な笑い声を、地に突っ伏す雅に浴びせつけたのであった。
「マサさん。もうやめてください・・・・・・」と、みきが泣きながら言う。「私があの子の言うとおりにしていればいいんです。何もマサさんまで犠牲になることはないんです。今ならまだ機嫌がいいようですから、間に合います。この世界から逃げてください。・・・・・・あなたとみくちゃと醒徒会に倒されるのなら、私は本望です」
 雅はきっと彼女をにらみつけた。みきはびくっと震えて、彼から目を逸らす。
「本当に、みくがそんなことを望んでいるというのか・・・・・・?」
「・・・・・・あうう」
「みくはな、君や死んだ姉さんのぶんも活躍しようと今日まで頑張り続けてきたんだ。一人ぼっちで食事を取って、一人ぼっちで眠って、一人ぼっちで戦ってきたんだ。確かにあいつは君と戦って、君を止める決心をつけていた」
 雅は片膝をついた。まだ戦うつもりなのだ。みきが「ダメ、死んじゃう。やめて」と制止する。
「だけど僕にはわかる。そんなのはみくの本音じゃない。あの子の本当の願いは、君がみくのところへ帰ってくることなんだ。本当は君に帰ってきてほしい気持ちでいっぱいなんだよ! 行方不明になった君と再会するために、みくは今日まで一人で強くなってきたんだ。そんな妹の気持ちを君がわかってやれなくてどうするんだよ!」
「あうう・・・・・・無理だよ・・・・・・私はもうみくちゃに会う顔がないんだよ・・・・・・。私はあの子に操られていたとはいえ、七人の命を奪ってしまった。私はもう有害な『ラルヴァ』なのだからその存在は許されない。表には出られない。学園に帰ることも、家に帰ることもかなわない。もうどうしようもないんだよ・・・・・・」
 と、みきは乾いたグラウンドの砂地にいくつも涙を零しながら言った。雅の顔を見上げてから、覇気なくこう言った。
「島のみんな・・・・・・ごめんなさい。学校のみんな・・・・・・ごめんなさい。姉さん、みくちゃ、ごめんなさい・・・・・・。そして、私が殺めてしまった善良な七人のみんな・・・・・・。本当に、本当にごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい・・・・・・! 私は有害なラルヴァなのだから、これからどんな罰でも受けます。そうすることしか私が罪を償う方法は無いんです・・・・・・」
「もう喋るんじゃねえ、この泣き虫があ!」
 頭に来た雅は、左手の甲でみきを張り倒してしまった。みきは地面に顔をうずめて、わあっと大きな泣き声をこの寂しい世界に響かせた。
「君はどうしてあんなのに自分を乗っ取られた? 学園で大きな事件を起こした? そして七人の学生を殺してしまった? すべて君が弱いからじゃないか! どうして自分の中の悪い存在に打ち勝とうとしなかった! 君の事を助けてくれる仲間も姉さんもいたのに、何で今もこうしてあいつなんかに屈してるんだよ! 君がそんなんだから、あいつに付け入られるんだってことが、どうしてわからないんだよ!」
 雅は忍耐と努力の人間である。愛する母親と生き別れ、生きた心地のしなかった実家暮らしを、音を上げることなく耐え抜いた。また、一人ぼっちの夏休みを全部修行や訓練につぎ込み、もう二度と悲しい思いをすることがないよう、強くなることを目指してきた。
 そんな彼がみきに対し、体を張ってでも伝えなければいけないこと。それは「どんなに辛くても戦っていくこと」であった。
 泣いてばかりのみきの顔を、左手で強引に自分に向ける。潤んだオッドアイはまともに雅を直視できず、ぶるぶると揺れ動いている。
「戦え。本当は辛いんだろう? こんなのイヤなんだろう? なら、戦うんだ! あんな極悪非道な存在を君が倒してこそ、この事件は終わりを迎えることができるんだ。君はそうすることで罪を償うことが、正解なんだ!」
「私は表舞台に帰ることができるんでしょうか。こうなってしまった後もみんなのいる学校へ、帰ることはできるのでしょうか。みくちゃのもとへ帰ることはできるのでしょうか。とても自信がないです。三年前のことを思うと、なおさらみんなのところに帰ることに抵抗があります・・・・・・」
「大丈夫」と、雅は言う。「今の君にはみくがいるし、僕もいる。それにあの子は星空にこんな願い事をしていたから、それはきっと叶うはず・・・・・・!」
 雅はズボンのポケットに左手を入れてまさぐった。そして出てきたオレンジ色の長い紙を、みきに手渡す。
「ねえ、みきさん。みくのお姉さん。この子の気持ちを考えてあげて。ずっと君の帰りを待って一人で頑張ってきた、みくの寂しい気持ち・・・・・・うわあっ・・・・・・」
 雅の首元に、背後から黒いロープがくるくる巻かれる。後ろに引っ張り上げられた雅は、空中で首をぎりぎり締め上げられた。とっさに左手で握っていないと危なかった。
「何を言っても無駄なんだよ、遠藤雅。この子の精神的な弱さや不安定さは、筋金入りだから。そんなんだから、立浪みかが起こさなかった血の暴走――つまりは私の発生を許しちゃうんだよ」
「ぐ・・・・・・ぐぐっ・・・・・・!」
「ほんと、立浪みきほど弱っちい子は他にはいないよ。だって、せっかく一度は元にもどったのに、あの子なんて言ったと思う? 『宿命が怖いから殺してください』だよ? 姉も仲間もいるっていうのに、元に戻っちゃえば私の言う宿命なんてどうとでもなったかもしれないのに、とんでもない弱虫だよ! みかはさぞかしショックだっただろうねえ?」
 みきは黒い自分にひどく馬鹿にされ、うつむいてしまう。唇を噛んで下を向いた。
 それから、雅から受け取ったオレンジの紙を見たとき。彼女の目がはっと開いたのである。
『行方不明のお姉ちゃんと、また一緒に暮らせますように。 そして、大好きなマサと一緒にいつまでも戦っていけますように!』
 みきは思い出す。みかとみくと初夏の山に入って、色のいい笹を選んでいたあの日々を。三人で七夕を楽しんできたあの日々を。自分たちが表舞台から姿を消した後、あの子は一人で、どんな七夕を迎えていたことだろう?
 マサというのはあの人のことだろう。こうしてめそめそ泣いている自分に代わり、利き腕を折られても戦い続けているとても強い人。自分なんかと違って逆境にとても強い人。・・・・・・なるほど、そうか。みくちゃはあの人をパートナーに選んだんだ。
「残念だったねえ、遠藤雅。こんな世界まで来ていただいて、何も達成できるものがないなんて。でも安心して? 私はあなたのことが気に入ったから、この世界に閉じ込めてあげるよ。つまり私の八人目の人形になるってわけ。光栄でしょ? これから私のオモチャになって、体に穴を空けられたり、四肢をちぎられたり、頭の中をかき混ぜて脳髄とかぶちまけられたりするんだから! 現実世界でそのことをあの立浪みくに教えてあげたら、あの子どうなっちゃうんだろうね! 気が狂って、私みたいに真っ黒になっちゃうのかな? あは、あはははははははははははははは!」
 みくは小さい頃、毎日のように家で泣いていた。気の強い末っ子はいつもみかに叱られて、半ば怒りながら泣いていた。三年前だってそうだ。それは、みかとみきが連日与田の研究に付き合って、一人ぼっちにして寂しがらせていたから。
 そして、現在。一人前の猫の戦士となったみくは自分を救うために、覚悟を決めて戦いに出ている。本当にあの子は強くなった。それに比べて、この世界でずっと泣いて過ごしている自分の、何という弱さ・・・・・・!
「みくちゃ・・・・・・ごめんね・・・・・・」
 立浪みきはゆっくり立ち上がる。右腕を真っ直ぐ横に伸ばすと、閉じている目から涙が一粒、零れ落ちた。
 血濡れ仔猫は異変に気づいた。無音・無風の世界で不意に訪れた、爽やかな横風。涙粒は真横に流れていき、みきの指先からぱらっと弾けとんだ。
 その瞬間、みきの右手からコバルトに輝くロープが現れた。そよ風に乗ってゆらゆら揺れる青い鞭を目にした血濡れ仔猫は、雅をぱっと放してそちらのほうを向く。
「・・・・・・どういうつもりなのかなあ? 私と一緒にこの世界で暮らしていくんじゃなかったのかなあ? それともまだ、調教が足りなかったあ?」
「もう・・・・・・終わりにする。こんな悲しい物語を、世界を、全部終わりにする。そのためにもあなたの存在は許されない。私があなたを止めてあげる」
「ここに来て私に歯向かうわけだね・・・・・・? 無駄なことを! 悪いけど、私は弱虫なあんたなんかには負けないよ? あんたみたいな死にたがりの――」
 そのとき、みきの鞭がズドンと校庭を叩き、大きな穴を開けた。驚いた血塗れ仔猫の顔を、みきが毅然と睨み上げる。もう涙は流れ出ない。色彩を失っていた世界に明かりが差す。澄み渡った青空と真っ白な校舎が浮き上がり、オッドアイが美しい輝きを取り戻す。
「私はみくちゃのところに帰る。もうおしまいだよ、黒い私。私はやっぱり『ラルヴァ』じゃなくて『異能者』でありたい。たとえ与田や他の人に何を言われても、本当の私はそうでありたいの。だから、決着をつけましょう。――私はあなたなんかに、負けないから」
 白い猫耳が、白い尻尾が露になる。たくさんの人たちを魅了した猫耳の戦士が、今この場において復活を遂げたのであった。
 雅は初めて、血塗れ仔猫の不愉快そうな顔を見た。彼女は舌打ちを一つすると鞭を握りなおし、みきと対峙した。
 白と黒の同一人物が鞭を交える。立浪みきは自分を乗り越えるため、ついに戦う決心をつけたのであった。
 みきは血塗れ仔猫に向かって鞭を飛ばす。黒ずくめのみきは、それを見てから不敵に微笑むと、軽々と黒い鞭を操ってそれを打ち落としてしまった。
「何、そのひょろひょろとした鞭。そんなんじゃ私に勝つのは難しいと思うよ?」
 今度は彼女がみきに向かって、鞭の先端を射出する。みきは少し遅れて後ろに飛び、その一撃を回避する。みきのいたところが血塗れ仔猫の攻撃によって陥没し、砂埃が空高く舞い上がった。
 みきが着地したとき、壁となった砂埃を貫通して再び黒い鞭が飛んできた。みきは横に飛んでそれを避けると、横に転がりながら血塗れ仔猫に向かって鞭を飛ばす。
「うっ?」
 青い鞭が血塗れ仔猫の足を払った。顔面から転倒した彼女は無言で、頬に砂利がついたのを手にとって確かめると、ぎりっと牙をむき出しにして般若の形相を見せた。
「よくもやったなあああああああああ!」
 血濡れ仔猫は直進して距離を詰め、みきのロープを避けながら彼女の胸倉をつかみ、頬を打った。何度も何度も打ちのめした。
 たまらずみきは遠くに青い鞭を飛ばす。先端部分が地面に埋め込まれたのを確認すると、鞭を一気に縮めて後ろに飛び上がり、血塗れ仔猫から大きく距離をとった。
 二人の間に距離ができた瞬間――みきと血塗れ仔猫が、鞭を手にとって前に飛ばしたのは――同時のタイミングであった。
 先端部分が正面衝突し、ばちんとものすごい音が上がる。互いの鞭ははじけ飛び、空中でたわんだ。二人の鞭使いは鞭を縮めて手元に戻すと、即座にもう一度相手目掛けて鞭を射出する。
 ほぼ互角の遠距離戦。しかし、だんだんとみきの反応が遅れて血塗れ仔猫に押されていくのを、雅は眺めていた。
「あははっ。衰えたねえ、立浪みき。猫は反射神経が生命線なのに、まるで人間並みの遅さじゃない。ま、当然だよね。あなたはこんな世界で私と一緒に、ずっと惰眠をむさぼってきたんだからねえ!」
 飛んできたみきの青い鞭を、なんと血塗れ仔猫は片手でキャッチしてみせた。それを見たみきは愕然としてしまう。
 そのまま血塗れ仔猫は鞭を振った。彼女はみきの胸元を、袈裟懸けにするようにして鞭でえぐってしまう。みきは血液をばっと噴き上げると片方の膝を着き、青い鞭も消失してしまった。
「残念だったね。これが現実なんだよ」
 と血塗れ仔猫が目を細め、悪質な笑顔を見せつけながらみきに近づいていく。
 しかし、みきは片目を瞑って苦しそうにしながら、血塗れ仔猫を見上げてこう言ってみせた。
「私は負けないよ」と、傷を押さえながらみきは立った。「私が弱っちくて何度も何度もあなたに屈してきたから、今の悲劇はある。私が現実から目を背け続けていたせいで、三年前の事件も、この夏の殺人事件も起こってしまった。だから、絶対に、絶対にあなたなんかに負けたくない!」
「一度元に戻っても死のうとしたくせに、何を強がってんだか。悪いけど、私はあなたみたいな弱い性格の自分には負けないよ。あんたみたいな繊細な女の子に負けるような血濡れ仔猫じゃないの。ふふふ」
 血濡れ仔猫は黒い鞭を手繰り寄せ、構えを見せた。負傷したみきに本気の一発を叩き込むつもりだ。みきはオッドアイを瞬かせて青い鞭を手に持ったが、傷の痛みが強すぎるあまりなかなか集中することができない。次の攻撃をしっかり防御できるかどうかは、非常に心もとなかった。
「無駄、無駄。あなたは立浪みき。三年前に暴走を起こして学園を恐怖に陥れた猫のバケモノ。この夏、島中を恐怖に陥れた恐怖の血塗れ仔猫。無駄な抵抗はもうやめて、大人しく私と一緒に宿命を受け入れなさい? その方があなたのためなんだよ? ふふ、ふふふふふ、あははははっ!」




 そのとき、血塗れ仔猫の邪悪な笑顔が何者かの拳によってひしゃげた。






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