【ステラ・グローリア -Stella Grolia-】


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  ステラ・グローリア  -Stella Grolia-  
ラノで読む



     一

 どっぷりと陽が沈んだ夜の海。波音は安らかな寝息をたてるようで耳に心地よかった。肌を撫でる潮風が首筋を駆け抜け、浜辺から少しあがったところにあった背の高い防風林をざわめかせる。
 お義理に建てられている街灯の明かりも頼りなく、かと言ってとりわけ不気味な感じはしない。すでに何度も訪れているこの浜辺は、ある種の彼女の領域下にあった。……正直なところは、これまでこの浜辺で誰とも出会わなかったから、という彼女の都合により領土宣言をしているだけなのだが。
 その勝手知ったるホームグラウンドで、一人の異能者を待ち受けている。陽が落ちてから結構な刻限であったし、ここで島の人間とばったり出くわすということはまずありえなかった。
 やって来るとしたら、彼女しかいない。
「水分《みくまり》理緒《りお》……」
 那由多《なゆた》由良《ゆら》がその名前を呟くと、爽やかであるはずの波風や全身を包み込む闇の趣きもたちまち霧散した。由良の立つ地点を中心に粗い砂が放射状に吹き上がり、ぞわりとクロマツの幹が揺れた。
「今夜も来ないのかしら……」
 ツテのあるクラスメイトの紹介で、学園のとあるサークルから買い取った情報では、深夜この周辺で彼女の姿がたびたび目撃されている、らしい。断定的なネタではないのだ。ランチの食券5枚の報酬と引き換えだったが、今思えばそれでも高すぎるレートだった。食堂で差し向かいに匂いの強い辛味噌ラーメンをすすりながら、信憑性は高いと謳っていたあの男の自信ありげな笑みは、自分に対しての嘲笑だったのかもしれない。血気に逸《はや》って見境のなかった自分はさぞ美味しい鴨に映っただろう。
 張り込みを始めて4日目と3時間。さすがにずっと立ちん坊でいるのも疲れ、道路壁に背中を預けた。潮風で少しだけ跳ねていた襟髪を手櫛で整えていると、アスファルトを擦る砂利の音が聴こえてきた。耳をそばだてて、靴音がこちらに近づいて来るのを見計らってから、由良は身長の倍くらいある道路壁を音もなく跳躍すると相手の正面に立ちふさがった。
「ようやく現れやがりましたわね、水分理緒」由良は不敵に笑ってみせ暗がりの相手に相対する。「……あら」
 心許ない薄明かりにもはっきり判る、がっちりした肩幅。光をなぞる輪郭は細いが、標的にあるべき長く豊かで艶やかな黒髪が見当たらないことがダメ押しになった。由良の頭の中を駆け巡る列車が一つの判断を仰ぎ、『水分理緒』と『不審者』の二択の分岐ポイントを提示したが、由良は即座に『不審者』とプレートの書かれたルートへレバーを傾けた。即断する過程で自分もそれに値するポジションにあるということは一切触れない。
「通報ですわ」
 その一言にビクンと黒いシルエットが小さく反応したかと思うと、モバイル手帳を開きかけていた由良に飛びかかった。自分よりも頭一つ大きな影が肩から体ごとぶつかってくるのを、由良は嘆息しながら片足を少し引いて避ける。それだけで相手は勢いをそのままに、ふらふらとよろめいてひとりでに倒れた。
「鍛錬が足りませんわ、もっと腰を据えて重心を低くしてかかるものですよ」
 声をかけられたほうは由良の忠告が聞こえていないのか、うずくまった体を起こして力なく両手をつき、小鹿のように震わせながら呻いた。
「警察は、呼ばないでぇ……」
 懇願に近いしおれた泣き声に、由良はモバイル手帳を顔から離した。「警察? あなた、どこから来ましたの」
 東京湾に浮かぶ学園都市である双葉学園では、トラブル揉め事お悩み相談からもろもろ一切は風紀委員会が取り仕切っているため、困ったときはとりあえず連絡という形になっている。未知の敵『ラルヴァ』とそれに対抗する『異能力』を囲う学園島に、警察といった一般的な公権力はあとあとの事後処理になってようやく出張ってくるものがこの学園島では常であった。
「お願いだから、警察は呼ばないでぇ……」
 改めて意識して声を聞くと、がらがら声ではあったが女性特有のソプラノだった。初見はその肩幅の広い体躯から男かと認識していたつもりだったが、よく見れば腕は異様に細く、身に着けているのは病院でよく見かける一枚着せのガウンだけで下は緑のスリッパ。こけた頬は陰の微妙な加減で重度の患者のように見える。
「ひょっとして脱走患者ですの?」
「お願ぃ、呼ばないでぇ」
 嗚咽混じりに、壊れた再生機械のようにひたすら唱え続ける女の様子があまりにも不憫に思えてきた。あの体力では悪さもできないだろうし、と由良はひとまずモバイル手帳を胸ポケットにしまった。
「警察なんかは呼んだりしませんから、気をしっかり持ちなさい」
 女をゆっくり抱き起こす。思いのほか女は軽く、ふいに由良は骨張った凧を連想した。
「ホント、に……?」
 泣き腫らした赤い双眸が自身より少し小さい由良を見つめてくる。よほど怖いことだったのだろうか、女がしゃくりあげる度に抱き上げている由良の体も跳ね、その彼女の怯えの度合いが伝わってくるようだった。
「安心なさい。私《わたくし》に二言はありませんわ」
 由良が表情を和らげて囁くと、女は口の端を少しだけ歪めた。笑おうとしたつもりだったらしい。ひくついていた頬が急に解《ほぐ》れたかと思うと、意識を失って由良に被さるように倒れこんだ。寄りかかられても、やはり彼女は軽く、体は死人のように冷かった。
「どうしますの……これ」
 泥のように眠る女を見やりながら漏れた由良の困惑は、引き波とともに海へ呑まれていった。

     二

「昨日もあの浜にいたんですか。那由多《なゆた》さんも結構ヒマですよねえ」
「情報元がそんな呑気に言ってくださると、さすがに仏の私《わたくし》もブチ切れしそうですわ」
「ホトケ? 事前のパーソナルデータでは、高慢ちきの癇癪持ちだと聞いてましたが」
「……ちょっと、あとでそのデータ書いた人間教えてくださる?」
 活気に溢れ盛況している食堂の喧騒よそに、由良は人目につきにくい一角を選び、丸テーブルを挟んで情報部の男と会っていた。
「脱走患者ですか」
「もったいぶらないで話しなさい。どうせもう掴んでいるんでしょう」
 自炊してきたコンパクトな弁当箱を開きながら、由良は男のほうを見ずに言う。由良より少し大きな、どこにでも転がっていそうな優男風の彼は肩をすくめた。
「僕を学園のなんでも屋か何かと勘違いしてませんか」
「私《わたくし》にとっては御用聞きと似たようなものですわ。それに、最初に紹介してくれた下田さんはそのように仰ってましたが」
「はぁ。お喋り好きなあの人は宣伝に一役買ってくれてますけど……ちょっとばかり誇大広告すぎますね」
 男は少し呆れぎみに愚痴を零すと、真っ赤なカレーを水もなしに平気な顔で口の中におさめていく。見ているこっちの舌が焼けてきそうで、由良は目下の弁当箱に視線を落とした。
 昨夜の女は由良の住むマンションに連れ帰った。寝床を貸したまではよかったが、朝になってもすやすやと寝息を立てて目覚める気配がなかったので、朝食とメモを書き置いて学園にやってきた。今日の弁当の品はその余り物の詰め合わせである。女の食事にかまけて作っていたのもあって、中身はあまり彩りがよろしくない。
「あまり期待に添えるモノは持ち合わせてませんよ」
 激辛カレーを半分ほど平らげて、水を一口飲むと、コップをおろして一息ついた。
 女の名前は園部《そのべ》奈津子《なつこ》。半年前にラルヴァ被害に遭い、そのとき昏睡したまま、目を覚ます一昨日まで学園島の病院で治療を受けていた。
「病院を抜け出したのは昨日の夕方から。今のところ学園と他の病院、外部と学園島とを繋ぐ通行拠点にのみ、捜索の呼びかけが行われています。あとは病院関係者が少数、捜索に駆り出されているようですね」
「入院患者の失踪なんて、学生手帳にメールで一斉に呼びかければ、もっと楽に見つけられるでしょうに。……妙ですわね」
「内輪の不祥事は晒したくない、といったところでしょうか。なにせ市場の狭い寡占業界ですから、ひとたび問題が起これば全体にシワ寄せが来ますからね。周りに睨まれるようなことは極力避けたいでしょうし」
「くだらないプライドですわね」
 由良は上品に鼻を鳴らして、箸でタコさんウィンナーを突き刺した。弁当箱から赤い色味が失われ、ご飯と肉類ばかりとなってしまった。ピンクの器に残った明るい色は、緑の葉飾りだけ。
「それで那由多さんは、この件をどうするんですか?」
 これで伝えることは伝えましたよ。といいたげに男は再びカレー皿に手を伸ばした。
「どうするって、元はと言えばあなたのガセネタのおかげで面倒なことになったのですよ! 他人事のようにおっしゃらないでくださる?」
 椅子から体を浮かした由良が思わず声を荒げると、周りの学生が何事かといっせいに彼女を見た。すぐにはっとして、心の内で振り上げかけた拳をしまうと座りなおした。当の優男は顔色一つ変えず黙々とスプーンをすくっている。由良は向けるべき感情の矛先を失い、腹立ちまぎれにご飯をかきこんだ。男はその様子を見て、笑いを含んだ声を出した。
「だったら今からでも学園になり風紀委員になり報せればいい話でしょう? なぜそうしないんですか」
 顔を隠すように弁当をがっついていた由良は箸を止め、横目にそらして壁の一点を見つめた。
「面倒を見ると見得を張った手前、私がそれを反故《ほご》にするわけにはいきませんわ」
 由良の眼には今、疲労にまみれ恐怖に身を縮《ちぢ》めていた、昨夜の奈津子の姿が映っている。長身で自分より一回り小さい由良に追い縋《すが》った、冷えきった手と、頬に張りついた涙の筋。腫れぼった真っ赤な瞳。
「人に対してこういう言い方をするのは気が咎めますが、でもあれは――憐れでしたわ」
「彼女は巻き込まれ型の発現者ですからね。ラルヴァ被害が原因で生まれたのか、潜在的な資質を持ち合わせていたのかは不明。おそらく、自分の異能とラルヴァとを線引きするための理解がまだ追いついていないんですよ」
「昨日の今日で異能力の顕現だから、『警察』なんて言葉が出てたわけですわね」
 空っぽになった弁当箱をしまいながら、由良は視線を戻した。
「それにしても異能者とは、ね。ややこしくなるわけですわ」
 男のほうも完食したようだった。カレー皿に銀色スプーンの少し重たげな音がかち合った。
「さらに輪をかけて厄介なのは、顕現した彼女の能力なんですよね」

     三

 双葉橋。東京と学園島を繋ぐ主要交通機関として重宝され、飛行機の滑走路にも似た長く直線的な鋼橋。昨日の浜へ行く途中にある岬のジョギングコースでは、その巨大な構造物の側面部がうかがえ、直列した鉄のアーチはゴムボールが跳ねるような緩やかな軌道で並んでいた。このエリア周辺は、その名の通り運動サークルや休暇の生徒たちの使うジョギングコースで、これといった店はなく、砂浜に下りて海釣りを楽しむ生徒のほかには普段は通り抜けるだけの場所にすぎない。
 夕闇が夜の闇に変わっていく。濃紫《こいむらさき》に閉じられた空がたれこめ、生ぬるい海風がときおり吹きつけてくる。
 昨夜と同じ病院着で、痩身を折り曲げて膝を抱えた彼女が眺めている海面は、だんだんと輝きが衰えつつあった。
「道も知らず、よくここに戻って来れましたわね」
 突然呼びかけられたことに驚き、奈津子は首だけ動かしてちらりと由良を見た。しかしすぐに顔を戻すと、視線は海にかえった。
「双葉橋、だっけ。病院で見かけたお医者さんが見えたから怖くなって逃げてきちゃった。それからずっと、海岸沿いに歩いてたらここに着いたの」
 由良の住んでいるマンションは島の中心地ほどではないが、島の端まではまっすぐ歩いても結構な距離のある場所に建っている。それなのに奈津子は平然と「歩いてきた」と言う。
 由良と奈津子のあいだに流れる沈黙を、うねる波音が取り持つように押し寄せる。
「もう夏になってたんだ」
「春眠なんとやらですわ。あなたの場合はそれを通り越して、もうすぐコオロギが鳴きますわよ」
「半年」
 奈津子がぽつりと呟く。
「受験が終わって、春からは合格した大学で新しい友達を作って、ゼミでいろんな勉強したりサークル見て回ったり、お金貯めて外国に旅行したり、いっぱい決めてたのに」
 由良が傍らに近づいたとき、能面みたいに無表情で、彼女の唇だけが別の生き物のように動いていた。陽が沈んで間もない水平線を、まばたきしないで眺めている。
「遅すぎたのよ」奈津子は両膝のあいだに顔をうずめ、最後のほうは少しくぐもって聞こえた。「何もかも手遅れ」
「たかだか半年でございましょう? これから自分のやりたいことをすればいいだけのことですわ」
「簡単に言わないでよ! 大学デビューができなかったら、そのあとどんなみ惨めに過ごすことになるかくらいあんたでもわかるでしょ!? どうしてあたしだけこんな目に遭わなくちゃならないの! 嫌よこんなの、死んだほうがマシだわ!」
 それきり奈津子は口をつぐむと、前よりきつく膝を組んで黙りこんだ。そんな彼女を、由良はしばらく冷ややかに見つめ、やがてひとかたまりの強い潮風が二人をすれ違った。ショートの奈津子の後ろ髪が小さくなびき、肩の前にかかる由良のセミロングの髪を揺らした。髪を片手で押さえていた由良の目が、スッと細くなった。
「そうですわね。出来損ないの翼なんて生やしてるくらいなら、死んだほうがいいでしょうね」
 一瞬、奈津子は由良の言っている意味がわからなかった。そう言われて初めて、それまでただの疲労だと捨て置いていた体の違和感がぞわぞわとこみ上げてきた。肩に走る異質な感触が、投げかけられた言葉といっしょに膨らんでいく。
 奈津子はゆっくりと視線を肩へめぐらせる。ひっ、とひきつけのような小さな悲鳴は、足元に押し寄せる波音にかき消えた。
「なによ……これ……」
 奈津子ははじめ、肩に樹の枝でも引っかかっているのかと思った。ガウンを突き破った右肩の、昔読み聞かせられた童話か何かで「天使の羽」と呼ばれた箇所――肩甲骨に伸びる灰色の片翼。しかしそこに鳥が持つ豊かな羽毛はなく、骨組みだけの作りかけの傘のようで、由良が言われなければ、それが翼かどうかもわからなかった。出来損ないのシロモノ。
「ご覧のとおり、普通の人間にはできない芸当。ここではそれを『異能力』と呼びますの。そしてそれを行使する人間は『異能者』と呼ばれますわ」
「いのう、しゃ?」
 呆然とする奈津子をよそに、由良はくるり背を向けて歩き出し、浜辺の真ん中あたりで足をとめた。
「病院で説明されたでしょう? ……まぁ、自分の力を知らずに飛び出して来たらしいですから、ご存じないのも無理ないでしょうけど」
「そんな、あれは医者のでたらめでしょ! こんなの……そう、トリックだわ! みんなして驚かせようとしてるのよ。あんただって」
「園部奈津子。あなたさっき、死んだほうがマシと言いましたわよね」由良は右腕を水平に持ち上げ、砂浜に手のひらをかざした。
「だったら、一度死んだほうがいいんじゃない?」
 飾らない言い方で、ふっと笑った。布に巻かれた長い得物が砂をまいて突き出し、宙に浮かせた由良の手に吸い付くようにして寸前で静止した。由良はそれを掴み上げ、撫でるように大布を取り払った。
「望みどおり今ここで、私が引導をくれて差し上げますわ」
 うまく状況を呑み込めず、その様子を見守るだけしかできない奈津子に、由良は凛としてよく通った声でそう宣言した。

     四

「フィロメア?」
 弁当箱を鞄にしまう途中で、聞きなれない言葉に由良は手を止めた。
「あらゆる恐怖への対外的な自己防衛、それがフィロメアという異能力です」
「対外的ということは、それを実体化させるという意味で?」
 脳内のイメージを3次元的に具現化させて表現する異能者の話は聞いたことがある。
「察しがいいですねぇ。はい、その通りです」
 由良の答えに優男は満足げに頷く。由良より一つ年上なだけなのに、子どもをあしらうような態度が鼻についた。しかしここで口を尖らせても仕方ないので、黙って話の続きを待った。
「無から有を生み出す力。正否はどうあれ、いかなる状況下も想定しなけらばならないラルヴァとの戦いにおいて、創造能力者《イメージアビリティ》の存在は貴重です」
「使い方によっては、リスクのない万能スキルですものね」
「そこで問題になるのが、彼女の能力ソースたる『恐怖心』なんです」
 物腰の柔らかだった男の口調が、急に真面目になった。
「恐怖は際限なく人の心を喰い殺します。実際に傷つけなくても、意思だけで本人を自滅させるほどに」

     五

 由良は悲鳴を聞いた。
 両手の青筋が浮いてみえるほど力強く顔を覆い、一秒でも早く今そこにある現実を弾き飛ばそうと、狂ったように奈津子は頭を振る。時おり、手の隙間から胃が押し上げられるのではないかと思うほど、別の意思を持って重低なうなり声が響く。
「発破をかけるだけの簡単な役目……よくもまぁ、平然と嘘ぶいてくれましたわね」
 由良は鞘から大太刀の愛刀『国綱』を抜きはらい、刀身部分が胸まであるそれを砂浜に突き立てた。
 多少の予想はしていたが、おこりうる可能性のなかでいちばん遠く、最悪の結果だった。
「死ぬ、どうして、人間じゃない? 意味わかんないわよ!」
 奈津子は由良を見ていない。手先の不器用な子どもが粘土で肉付けしたかのように、奈津子の身体は右肩から手首にかけて黒いでこぼこの肉塊に侵食され、手だけがかろうじて元の形を残していた。肩に広がる骨だけの片翼が、彼女の心臓に呼応して上下に揺れて呼吸している。
 月明かりの薄い空の下では、その色合いは闇より濃いのか、またはそれと同等の底暗さを醸している。
「とにかく、やるだけのことはやりますわ」引き抜いた太刀を手に提げたまま、
「それがあなたとの約束ですものね」
 静かに間合いを詰めながら由良は言う。
 由良は腰を沈めつつ、自らの異能力を使い、自《・》身《・》と《・》地《・》面《・》を《・》反《・》発《・》さ《・》せ《・》、水面を跳ねる飛び石のように高速で接近する。ついこのあいだまで一般人だった奈津子が反応できるはずがなかった。
 突如、奈津子の右腕が持ち上がり、猛進する由良に向けられる。これに由良は驚き、そして当人の奈津子も目を見開いて「えっ?」と間抜けな声が出た。
 膨らんだ黒い腕から細い管《くだ》が無数に伸びた。それが勢いよく水圧をかけたホースみたく暴れだし、刺撃のうねりが一斉に由良を襲う。
 身体の一部から生まれたものならば、この管の受ける痛覚も、彼女に依存するかもしれない。ほんの少しだけ躊躇《ためら》うも、由良は足元に構えた太刀をすくい上げてこれを斬り伏せた。軟らかく手ごたえのない感触が手に伝わる。ぼとぼとと波打ち際に落ち、波が一息でそれをでさらっていく。
 奈津子の表情に、苦痛の色は見えない。 
「ならば」
 峰を返し振りかぶった刃を煌かせ、彼女の黒い右腕へ大上段から叩きつけた。奈津子が唯一反応できたのは、次に来る衝撃を耐えるために瞼を堅く閉じることだけだった。
 ヒュッと大太刀が空を切る。奈津子の黒い右腕が、無理やり彼女の身体を真横へ引っ張り倒していた。由良は切っ先を返して横薙ぎに斬撃を繋げようとしたが、黒く盛り上がった右手ががっちりと太刀を掴んでいる。
 手首までで止まっていたはずの侵食は、完全に彼女の右腕を支配してしまっていた。
「くっ!」
 刃を押しつけようとする由良の身体ごと軽々と持ち上げられ、ぶんと無造作に放り投げられる。荒く隆起した岩壁が背後に迫り、由良は自《・》身《・》を《・》地《・》面《・》に《・》吸《・》い《・》寄《・》せ《・》る《・》ようにしてすばやく着地した。
 那由多由良の異能力は『|《 レ  コ  ン  キ  ス  タ》引力と斥力を操る力』にある。自分の身体とそれに触れるものを基点に、引力と斥力のどちらかの作用を引き起こす。難点と言えばどちらか片方の能力を連続的に使用することができず、交互に使い分ける必要がある。
「こんなの、あたしじゃない……」
 奈津子が吐き出した拒絶の言葉は意図せずして、やがてフィロメアを介して排除行動に昇華される。骨の翼から次々と細い杭が生えて折り重なり、不出来ながらも羽毛のように形成された。
 見るからに鋭利なそれの一本一本が由良に向けられた。一歩横へ動くごとにぎちぎちと擦れる音を鳴らして、標的の位置修正を行っている。
「権謀術数いまだ侮り難し。片腕といえど痛い目を見そうですわね」
 言って、奈津子の右腕へ駆け出す。眼前に構える襲撃に注意しながら、奈津子を中心に大きく周りこむ。
 今度は異能力《レコンキスタ》の斥力を使わず、自力で走っている。決して平らではない砂浜に、踏み込むたびに足をとられそうになる。
 由良が走りはじめるのと同時に、奈津子の右腕から四本の黒い管が伸びた。数こそ一度目と段違いに少ないが、今度は正確に由良めがけて飛びかかってくる。
 どうやらこちらの動きを止めることが目的らしい。両足を狙う管を両断し、太刀を握る左腕に絡んできた二本を、斥力で強引に反発させて引き千切った。
 拘束が解かれた反動で前のめりによろける形になり、由良は顎をあげて立ち上がろうとするが、月光に塗れた羽矢が頭上を押さえつけるようにして撃たれ、髪をかすめた。斥力で弾きたかったが、一度能力の行使をオフしたために、次は引力を使用しなければならない。そういう点で評価すれば、自由に力場を決定できる|PK異能者《サイコキネシス》のほうがずっと便利だった。
 由良は歯噛みしながら大きく転がり、羽矢を掻い潜りながら浜辺の一角にあるゴミ山へ逃げる。
 この浜辺には東京湾や、潮流を巡って太平洋からの流木や遺棄されたゴミが流れ着く。景観的にも見苦しく、由良はここで張り込むことになった日から、暇を見てはそれらを集めては片付けていた。 
 大きなカマボコ板のような、縦に長い腐った戸板の端を踏みつけ、垂直に立ったそれに引力を発生させる。寸前に迫っていた羽矢が無茶苦茶な角度で戸板に刺さり、あっという間にそれがハリネズミに変わる。
「避けて!!」自ら視界を塞ぐ形になっていた由良へ、奈津子が叫ぶ。
 直下から黒い腕が砂浜に現れた。遅れて気づいた由良が斥力で後方へ大きく距離をあけようと試みるが、それだけでは完全に逃げられず、指の隙間を閉じて極限まで空気抵抗を除いた刺突が太腿《ふともも》を浅く切り裂いた。痛みに集中を削がれ、受け身もとれずガラクタだらけのゴミ山に頭から転倒する。
 突き上げた黒い腕は、飛び出したときの勢いそのままに、再び砂中に潜っていった。ちらりと奈津子のほうを見ると、右腕が地面にまっすぐ突きこまれていた。
「ごめ……ごめんなさい」
 自分が痛いわけでもないのに、奈津子はくしゃくしゃになった泣き顔を片手でこする。さっきと変わらず立ち尽くしたまま動かないが、動けないのかもしれない。
「そんな情けない顔でやられる、こっちの身にもなって欲しいですわ」
 由良がゆっくりと起き上がり、太刀を支えに立ち上がる。「めそめそしてる時間があったら、自分で制御《コントロール》してみせなさい!」
 浅く、とはいえ案外ざっくりやられたらしい。傷口に潮風が吹きつけるたびに筋肉が妙に引きつる。
「でも、どうやって」
「ンなこと知りませんわ」
「『イノウシャ』なんでしょ! なんでもいいから教えてよ!」
「私《わたくし》が言えることはただひとつ。その力、自分で制御できないようなら、一生この島で暮らすことになりますわよ」
 奈津子の右腕は二人のやりとりを静観している。攻撃時は毛の逆立った猫のように奈津子の意思と関係なく動いていたが、今は借りてきた猫のようにおとなしい。こちらの動きに無差別に反応するのではなく、明確な敵意に対してのみ自動的に迎撃行動するようにできているようだ。それは言外に、由良が敵意を向けていないという証明になる。
 だが、それを彼女に気取られてはいけない。死への恐怖を最大限まで高めさせ、力の天井を彼女自身に覚えこませなければならない。本気で殺すつもりがないことを知れば、フィロメアにある潜在的な防衛機構に半端な感覚しか生まれない。たとえそれで制御可能になったとしても、不安定な異能力を持つ暴走能力者の烙印が押されるだろう。どちらにせよ、隔離生活はまぬがれない。
「生きた屍になるか、今ここで屍になるか。私があなたに提示できることはそれだけ」
 薄く笑い、できる限り冷淡な声で太刀の切っ先を突きつけた。磁石を近づけた砂鉄のように、膨らんだ奈津子の黒い右腕がぞわぞわと蠢き始める。
「うぁ……ま、また勝手に……」
「その腕は愚直なまでに生を求めている。あなたはどうですの?」

     ◆

 奈津子は片手で作った握り拳を震わせて、胸の前に置いた。手先は真冬にさらされたかのように冷え切っていたが、身体は驚くほど温かかった。絶え間ない波音よりも速く、心臓が熱く鼓動する。
「あ、あたしは」
 答えを待たず、ガラクタ山から少女が駆け出した。
「あたしだって死にたくない。もっと生きたい!!」
 精一杯叫んだ。
 かすれる喉をさらに絞りながら叫んだ。
 彼女の意思と右腕《フィロメア》が融合する。迫ってくる敵意に抵抗する恐怖心が、対等に拮抗せんとする戦意に変わる。
 片翼がふわりと一息で羽ばたく。毛先が丸まって柔らかそうな、今度こそ鳥の羽根が周囲を舞い上がる。奈津子はそこで初めて、自分の頭上いっぱいに広がる空を見上げた。

     ◆

 奈津子の周囲から高く吹き上がった羽根が中天まで達すると、先端が黒光りした鏃《やじり》に形を変え、地表の重力を帯びて落下してきた。由良はそれを無視して腰を沈めたまま、刀身の長い愛刀『国綱』を地面すれすれに下げて後ろへ流しながら、奈津子にまっすぐ突進する。黒銀の矢が降り注ぐさらに高みでは、ダイヤモンドの粒を散りばめたような星空が追いかけてくる。
 奈津子の右手に二の腕から生えた黒い管がぐるぐると巻きつき、先端へ伸びるにつれて細くなる。両手に柄を握り締めた由良の太刀が横一文字に振りぬかれたときには、一角獣の角めいた大槍が刃風もろとも立ちふさがった。夜気を震わす鍔迫りの音が、火花とともに鳴り響く。
「だから、あたしは絶対に死なない!」
 単純な力のぶつかり合いで由良に勝ち目はない。一歩前へ距離を詰め、太刀に引力を纏《まと》わせ、振り下ろされている大槍を引きつけたまま下方向へ捌《さば》く。
「あ……」
 押しきることに注意を向けていた奈津子は、結果的に前へよろめくことになる。
 由良は懐《ふところ》深くへ踏みこむ。柄から離した右拳《みぎこぶし》を握り締め、
「さきほどのお礼ですわ……ッ!!」
 パシッ、と奈津子の|黒い左手《・・・・》がそれを受け止めた。
 由良の瞳が激しく動揺する。注意して見ると、左腕は右腕のように腕全体を黒い肉塊が包んでおらず、由良の拳を阻んだ掌《てのひら》だけをフィロメアの力が纏っていた。
 ガクン、と由良は膝から崩れた。さっき力強く踏みこんだ脚が、ゴミ山で切りつけられたときの片脚だと気づいた頃には、すでに拳が奈津子の掌から離れている。倒れながら目だけを動かして怪我の具合を観察すると、血の流しすぎで太腿から下が真っ青になっていた。
「あたしの、勝ちね」
 奈津子は肩を上下に揺らして息をつきながら、誇らしげに由良を見下ろす。ざあざあと騒ぐ波の音に荒い呼吸音が混じる。由良はしばらく呆けた表情でそれを眺めていたが、きゅっと眉をひそめて、少しだけ悔しそうに告げた。
「……故人曰く、窮鼠《きゅうそ》猫を噛むといいますわ。追い詰められた得物ほど厄介で、捕食者はそれを持て余すものです。有り体に申し上げれば私は猫という絶対的強者で――痛っ」
 由良は身体を起こそうとしたが、出血多量による貧血と傷口に吹きかけてくる潮風に煽られて尻餅をついた。何度か試してみるも、しだいに疲れてきたので立ち上がることもやめた。
「どうやら、その力をモノにできたようですわね」
「殺す~みたいなこと言ってたけど、やっぱり冗談だったのね」
「自分で言うのもあれですけど、とんだ大根役者ですわ。もう金輪際《こんりんざい》、あの男の話には乗りたくありません」
 なんのこと? と首を傾げる奈津子の両腕にはすっかり異常はなくなっている。不器用に生えていた片翼も、まるで夢を見ていたようにきれいさっぱりだ。手の甲を額に当てて、由良は言葉を続ける。
「あなた、その様子でしたら退院もすぐでしょう。なるべくはこの島にいたほうが良いというのは本当ですが、今のあなたなら島外で生活しても問題ないはずですわ」
 ハンカチで怪我の箇所を押さえ、由良はチェックのスカートのポケットへ無造作に手を入れると、少し砂を被ったモバイル手帳を取り出した。片手で開くと砂利がぱらぱらと零れ落ちたが、無駄に技術の粋を詰め込んだ手帳に支障はない。
 奈津子の病院のコール番号は知らない。連絡するなら風紀か、それともあの優男のいる諜報委員会か。逡巡したが、事情の通りそうな諜報委員会にしておいた。直接通話は行わず、救護要請に併せてGPSの位置情報を送る。ふと、カメラで外傷部位の画像も送りつけてやろうか考えたが、案外きわどい構図になりそうなので断念した。
「あたしはどうしてればいい?」
 心配そうに、自分のことのように、痛々しい表情で覗きこんでくる。
「とりあえず、向かいの道路で救護が来たらこっちへ呼んで。それだけで十分ですわ。私の名前を呼ぶ優男風な学生がいたら一発ブン殴って構いませんから」
「えっ……う、うん。わかった」
 言って、奈津子はぱたぱたと走っていった。だが急に軍隊のマスゲームばりに軽やかに反転すると、こっちへ戻ってきた。「名前! 訊いてなかった!」
「せわしない人ですわね……」顔を向けず、由良は呆れたように呟く。
「世話しない?」
「落ち着きがないと言ってるんです! それと、私の名前は那由多由良《なゆたゆら》! ナユタが苗字でユラが名前ですわ!」そしてしぼんだように、長い溜息をつく。「なんでこんなのに負けたんでしょ……ああもう、眩暈が」
 奈津子は踵《きびす》をかえして元気に走り去った。本当にこのあいだまで眠り続けていた人間かと疑いたくなるくらいに、彼女の背中はしっかりしていて、羽の生えたように足取りは軽い。
 ふらつく頭でぼんやりと夜空を仰ぐ。
 首都圏からそう遠くない学園島は、本来は東京と同様に赤黒い太陽からなる盲目な空であるはずなのに。これが島の周囲に張り巡らされているといわれる結界と呼ばれるものなのかもしれない。
 優しさを包んだ暗さ、澄んだ夜風に吹けば消え入りそうな小さな星たちと語らう潮騒。
「窮屈な世界ですけど、それなりに悪くはありませんわよ、この島も」
 心地よい眠気を耳におぼえ、由良は瞳に映るそれらを瞼の裏に満たした。
 星空が鮮やかに謳《うた》い、儚い輝きに波が踊る。



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