【danger zone6~黒白黒~hei bai hei~前編①】



【danger zone6~黒白黒~hei bai hei~前編①】

 東京都大田区羽田島 東京国際空港。

 首都圏に暮らす者が所用や観光で訪れるたびに見せられるのは、そこが二十三区であることが信じられない、見渡す限りの平面。

 長い滑走路、その周辺は航空機の離着陸事故に備えるため、充分な冗長性を持って広がる草地と、疎らに建つアンテナや誘導燈。
 空港特有の風景は、街中で暮らす人間がそこに居るだけで恐怖に似た感情を抱くほどに広く、建物や自分を囲う壁、そして歩く道路が無いと不安になる人間を苛むかのように美しい。
 関東圏の国内旅客便が集約する首都空港としては手狭だが、実際に見てみると広大な、東京湾最大級の人工島に建てられた空港。
 ターミナルと周辺施設を回る外周道路で、巨大な国内線ターミナルを通り過ぎて少し走ると、前世紀に建てられた旧いビルが現れる。
 十年ほど前にBIGBIRDと呼ばれる大規模な複合施設となった国内線ターミナルに比べるとあまりにもみすぼらしい、公立の学校か地方の役所のような、建坪ばかり広い低層のビルは、東京国際空港国際線ターミナルビル。
 首都圏の国際線離発着を成田空港に移転する折、政治的問題で中華人民共和国と同じ空港を拠点《ハブ》に出来なかった中華民国の航空会社が運行するために残された、羽田空港の国際線離発着施設は、空港敷地の外れで、粛々と閑職に奉じていた。
 現在では中華民国の旅客機もハブを成田に移し、日に数便のチャーター機と国際貨物機が離発着するだけの役割となった羽田発着国際便。
 二十一世紀になってからの幾度かの空港拡張と施設新築からは取り残された国際線ターミナルは、過密な国内線ターミナルと対照的に、地方空港に似た雰囲気を醸し出していた。

 平日の朝と昼の間、羽田国内便の慢性混雑が一刻の凪ぎを迎えた滑走路に、ヘブライ語が描かれた一機のジャンボジェットが着陸した。
 ターミナルから伸びる可動式の航空機直結連絡通路、ボーディングブリッジの放射構造が幾葉もの花を咲かせ、満開の花壇を呈する国内ターミナルと比べると、一輪挿し二つ、といった感じの、随分狭っくるしい国際線エプロンに駐機したのは、イスラエル国営航空会社、エル・アール航空の最新型長距離旅客機ボーイング747-8
 突然のチャーター便がEATAの規定乗客数を満たすため、安売りされたチケットに飛びついたイスラエル人、主にエルサレム在住の観光客やビジネスマンで占められた乗客が、二階建て旅客機の一階、空席の目立つエコノミー、ビジネスクラスの座席から立ち上がった。
 通常は最初に降機するファーストクラスの乗客より先に、一階席の乗客が、ターミナルと接続されたブリッジに吐き出される。
 エル・アール機の二階席、ファーストクラス区画専用のドアは閉めきられたままで、駐機場に余っている何本かのブリッジが接続される様子は無い。
 入国審査の列に並ぶ乗客の中で、飛行機での旅に慣れている何人かのイスラエル人は、その不自然さに気づいたが、ターミナルの列に並ぶと同時に、意識は聞き取りにくい日本訛りの英語で行われる入国審査の通過と、まだ外国人には不親切なトーキョーの地理に切り替えられた。
 一階席の乗客が降りた後、国際線ターミナルビル直結のボーディングブリッジは外され、ブリッジが完備された羽田ではなかなか見かけなくなったタラップ車が、二階席専用のドアに着けられる。
 ドアが開き、姿を現したのは、機内乗務員の制服を着た、それにしては体格のいい壮年の男、航空会社の人間とは思えない鋭い目で機外を見渡すと、一度機内に戻った後、ドアの横、客を送り出すキャビン・アテンダントの定位置に立った。
 制服の左脇が妙に分厚いイスラエル国営航空の職員は、軍人にしか身に着かない、微動だにしない直立不動の姿勢に慣れていた。
 世界で最も対テロ対策の厳重な、エル・アール航空の旅客機、耐爆構造の貨物庫、武装したハイジャック犯五人を相手に出来る機内警備員、機体さえもジュラルミンの厚みを替えた特別製と言われる、テロリストは捕縛するより射殺することを優先されている私服の機内警備員はもちろん、国民皆兵のイスラエルでは、パイロットやパーサー、美貌のキャビン・アテンダントさえもが兵役経験者、乗客として乗っている老婆や主婦は、ガリル・ライフルやウージーの分解組立てが当たり前に可能で、百メートル先の人体標的に撃ち込むことが出来る、無論、人体そのものにも。
 エンテベの快挙と呼ばれる、イスラエル空挺部隊によるアフリカのウガンダに匿われた人質の奪還作戦では、人質や突入部隊の救護を担当する医師団が病院機のC-130で同行し、非軍人ながら兵役経験者の彼らは、エンテベ空港を警備していたウガンダ兵を熾烈な銃撃戦で排除している。

 武装した男性キャビン・アテンダントのエスコートで、タラップに直結した二階席の出入り口から、一人の若い東洋人が姿を現した。
 イスラエルのフラッグキャリア、エル・アール航空チャーター便のファーストクラス区画、どんなに割り引かれても一席四十万円は下らない席を全て貸し切りにしたのは、たった一人の乗客。
 降機したのは、上衣の丈が長いパンツスタイルのチャイナ服を着た、眉目秀麗な女性、細身で長躯、長い黒髪を後ろで一本の三つ編みに纏めている。
 かつて清朝の時代、中国全土を支配した女真族特有の髪型、辮髪《べんぱつ》に似ているが、辮髪特有の剃り上げは無い、どちらかというとロンドンやロスアンジェルスのダウンタウンに多く居る、父祖国の伝統をアレンジしてファッションに取り入れているチャイナ移民の少女に近い髪型と服装。
 ジャンボジェットの機内から出てきた女性の背後から、一騎の馬が顔を出した、青みがかった黒の鬣《たてがみ》と体毛を持つ馬は首を垂れ、人間サイズのドアを滞りなく通過する。
 黒い絹地に、金糸で太陽と陽炎《フレア》の刺繍を施した、空路での長旅にも関わらず皺ひとつないシルクのチャイナ服に身を包んだ女性は、既にキャビン・アテンダントがサーチした機外の光景を、自らの目で軽く見回す、中天の陽光が黒絹の服に降り注ぎ、刺繍の太陽に反射して金色に輝く様は、まるでこの麗人が太陽を身に纏って、天上から地に降り立ったかのように見える。
 タラップの最上段で馬の鐙《あぶみ》に足をかけ、颯爽と騎乗した女性は、自分をここまで運んできたボーイング機をねぎらうように、アルミハニカムの外装板をひと撫でした後、競馬場で見慣れたアラブ・サラブレッドよりも骨太で野性的な外貌の馬を操り、器用にタラップを降りた
 馬上の麗人は蹄鉄をつけていない馬の蹄で、日本国への第一歩を踏み出した。

 背を伸ばし、規則的な歩幅で駐機されたジャンボ機を離れる騎乗者、手荷物は馬の鞍に下がっている小さな革製のサドルバッグだけ。
 ここからほんの数キロの距離にある大井競馬場のパドックを周遊するトゥインクル・レース騎手のように、悠然と馬を歩ませるチャイナ服の女性に、国際線ターミナルから出張ってきた初老の入国管理局職員が、緊張した表情で歩み寄った。
 馬が足を止める。
 入国審査官は容姿険悪な馬の視線を避けるように横から回り込んだが、馬上の女性からそれを上回る威圧を感じ、普段の業務で不法入国者や禁制品持込犯に対して発揮していた威厳は、強者を前に抱く本能的な感情によって消し去られた。
 一官吏の想像もつかぬほど高位の政府関係者より、くれぐれも慎重な対応を、と申し送られていた入管の上席職員は、騎乗する女性を見上げながら、制帽を被り直した後、お定まりの質問をする。

「sightseeing?」(観光ですか?)

 馬上の女性は表情を変えぬまま、怜悧な印象を与える外見に似合わぬ、蘇州二胡の弦楽を思わせるハイトーンで透明感のある声で、ただ一言の返答を口にした。

「不是《プシ》」(いいえ)

 鋼の意思を窺わせる切れ長の眉、黒目がちの涼やかな瞳、高くはないが鋭く通った鼻筋、アルカイック・スマイルに似た形を保ったままの薄い唇、完全に近い造形の顔を持つ女性は、言葉それ自体に人を操る能力があるかのような、落ち着いた声で否定の意を示した。 口を動かし言葉を喋っているというのに、その微動だにしない表情は、数百年に渡って人心を救済し続けた菩薩像を思わせる。
 美貌の東洋人女性は、相手が少々の漢語を理解することを知っている口調で、一言を付け加えた。

「掃黒《サオヘイ》」

 黒を掃する。
 黒社会の根絶を意する単語、中国、台湾の司法当局が今世紀に入ってから掲げた、犯罪組織取り締まりのスローガンと同一の言葉。
 言葉の真意を理解しかねた入国審査官は、目の前に居る女性とその騎馬を、自らの職分の範囲で、いかなる理由があろうとも差し障り無く入国させよ、との上からの指示通り、ツアー客の入国審査を大量にこなす時の流れ作業的な手順に従って、目の前の女性に応対することとした。
 女性に右手を出しながら、パスポートの提示を要求する英語と北京語を脳内で構築していると、長身の麗人は、何も言わずとも黒絹のチャイナ服の懐から、左手で濃紺のパスポートを出した、偽造防止インクの光沢から察するに、発給されて間もない物。
 漆黒の馬に跨る女性の手の位置は、中背の職員が手を伸ばしても届かない高さだったが、女性が何ひとつ指示しないまま、跨っていた馬がスっと屈んだ。
 モンゴルの野生馬か北海道のばんえい馬を思わせる蒼黒の馬は、競走馬よりずっと太い足からは信じられぬ柔軟さで、ほぼ腹ばいになった、革の鐙に差し入れていた女性の布靴が、地面に着きそうになるほどに身を伏せる。
 手を伸ばせば届く高さにまで降りてきた、アメリカ合衆国外務省の紋章が箔押しされたパスポートを受け取った審査官は、開いて第一頁を検める。
 入管での勤務経験が三十年を超え、パスポートの僅かな差異に敏感な職員は気づいた、偽造である痕跡は何一つ無い、間違いなくアメリカ合衆国政府によって交付されたもの、たとえ、記載されている内容や氏名、国籍さえもが存在しないものだったとしても、それを承知で作られた物。
 政府公認で作られる架空経歴パスポート、リベリアやドミニカの同様の物は見たことがあったが、アメリカ製は初めてだった、少なくとも、完全な割印と共に貼付されている顔写真は良く出来ている、写真映りと実際に見た時、二度、美人と言われる顔だな、と思った。
 五十代も半ばを過ぎ、定年退官を待つだけの年齢にさしかかった審査官は、パスポートの記載内容と、その中のICチップに入力されたデータを表示するモバイルツールの表示画面を確認していたが、不意に現在、自身が審査している女性の顔を見上げた。
 屈んだ馬に乗る女性にパスポートを渡した後、女性の指示に依らず自発的に立ち上がった馬に騎乗する女性は、何の感情も窺うことのできない顔で入管職員の顔と手先を見ている。
 薬物カルテルのボスやマフィア幹部の入国審査さえ担ったことのある入国管理局のベテラン職員も、馬上から見下げられると不安な気持ちになる、初老の入国審査官は、内閣府からのトップダウンで受けたこの女性の扱いに関す指示を思い出し、一瞬見上げた視線をすぐに手元に落とすと、務めて速やかな審査作業を行った。

 自分はこの女性と、どこかで会ったことがある。

 エル・アール航空のファーストクラスを全席借り上げ、馬に乗って現れた女性に、"黒"を滅すために来たことを告げられた入管職員は、二〇一二年から漢体の表記にも対応している米国籍のパスポートに記されていた、彼女の名前を見た時、一番驚かされた。

 幇緑林《パン ルーリン》

 幇《パン》は、数百年前から中国を中心としたアジア全域に存在する結社、国民の互助という当初の目的より、非合法集団としての悪名のほうが有名になっていて、現在もなおチャイニーズ・マフィアの一角として活動を継続している。
 緑林《ルーリン》は、前世紀の初頭、馬の機動力を以って大陸の中北部を駆け巡った武装集団、馬賊の通名、こちらも政府の圧制や匪賊の暴虐に対抗する民間武装組織として発生したものだが、その後の略奪者としての所業のほうが馴染み深い。
 北の緑林、南の幇は、大陸の民衆、そして各々の時代の為政者にとって常に畏怖の対象だった。

 パスポートに記された、その女性の名は、日本的に言えば、ヤクザドロボウとでも名乗っているような、物騒な名前。
 審査官はジョン・F・ケネディ国際空港からの出国スタンプがひとつだけスタンプされた査証ページに、日本国入国管理局のビザを捺し、閉じた、彼がこの重要人物に対して国から許されているのは、定型化した入国手続きのみ。
 それは後に彼女の入国が問題となった時、適正な入国審査は行ったという答弁を行うための、政治家に必須の予防線。
 明らかに重量のある物が詰まっているらしきサドルバッグの中身さえ検めないまま、審査とはいえない入国審査を終えた入管職員は、馬上の女性に米国籍のパスポートを差し出した、再び馬が屈み、女性がパスポートを受け取るのを助ける。
 面倒事から早々に逃げるべく、一礼して退去しようとした入国審査官に、飛行機を降りて以来数言の漢語しか話してない女が、突然、滑らかで癖の無い、ほぼネイティヴな日本語を話し始めた、言語が変わっても、その唇が紡ぐ二胡の旋律は変わらない。

「お聞きしてもいいかしら?東京湾にある双葉学園という学校の場所を、教えて頂けないでしょうか?」

 清朝の宮廷音楽を思わせる響きを持つ、美麗な女性の声に御されたかのように、管職員は事前に用意していた、外国人観光客に渡すための空港の案内図を出し、現在地である国際線ターミナル前に赤丸をつけた。
 それから、預かり荷物《バゲージ》の受け取り場にもなっている通関ゲートと、馬を預ける検疫所の場所に、青い丸をつけた後、紙をひっくり返し、裏面の空港周辺地図に、双葉学園の連絡橋がある、多摩川河口近くの都県境に跨る、人工島への連絡橋に黒い丸をつけた。
 女性は地図の紙を受け取ると、一言「多謝《トゥーシャオ》」と礼を述べた後、地図をパスポートと共にチャイナ服の懐に仕舞った。
 鞍の上で背を伸ばした絹衣の麗人は、空港の広大な敷地を見回すと、それまで左手を添えていた革の手綱を、両手で軽く握り。
 百八十センチを越える長身からは信じられないほど細く、完全な曲線を持つ腰を、鞍から少し浮かせると、布靴の踵を馬の脇腹に軽く当てた。
 美姫は騎士となり、鞍の上で軽く身を伏せる、サラブレッドほどスマートでない蒼黒の馬が、太く逞しい脚で蹄を鳴らし、凄い勢いで走り出した。
 馬は離陸中のジャンボジェットさえ追い抜けるのではないかという速度で、アスファルト舗装の平面を疾走《ギャロップ》する。
 排水溝の鉄網やコンクリートの段差、デリケートな競争馬が蹄を落とし足を折る罠があちこちにある、広大な空港敷地を我が道のように駆け抜ける騎馬。
 長身の麗人を騎乗させた剛健な蒼馬は空港ターミナルを無視して、外周道路に面する鉄条網へと轡《くつわ》を向け、息ひとつ乱さず走る。
 高身長の体は騎乗に向かないという通説などどこかに飛んでいくような勢いで、馬の生物学的能力を超越した、馬ならざる馬を駆る黒衣の女性。

 黒を名乗る女が、この国の黒を掃くために、双葉学園に向かって駆けていった。

 この騎士と騎馬にとって、歩く筋を決める道路や行き先を阻む壁は不要なものだった、何もない平面とどこまでも広がる自由は恐怖の対象ではなく、当たり前のようにそこにあるもの、例え現実の壁や道があろうとも、進む先はどこまでも、己が思うまま。

 蒼黒の馬で走り去る麗人の後姿を見つめていた初老の入国審査官は、今さらになって些細なことに気づいた。
 彼女がエル・アール機の中から姿を現した瞬間に感じたもの、この女性にどこかで会ったことがある、という微かな記憶。
 彼はその正体に気づいた、数年前、確かに上野で会った、そしてつい先月には、再び会うために京都まで行った。
 卒配以来、半生を入国管理局で過ごした老境の職員は、己の入国審査官としての有り方に迷った時、必ず会いに行くことにしていた。
 その男性が出会い、それが彼女であると確信したのは、数千年の昔からいくつもの聖典の中に在る、闘争と正義を司る神。
 阿修羅如来像だった。
 その入国審査官は数年前から、近く控えた定年退官と、その後の恩給生活だけを楽しみにしていたが、彼女と会った今、残された時間、自らの心次第で一瞬にも無限にもなりえる刻を、阿修羅に仕える防人として生きていこうと決めた。

 駿馬を騎する女性は、空港敷地を囲う4メートルの二重金網を跳び越える時、鋭い声を発した。

「押《ヤ》アッ!」

 それは緑林の言葉、馬賊が突撃をする前の掛け声だった。
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最終更新:2009年11月13日 23:09
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