(この物語は双葉学園の文芸部に所属する生徒が書いたもので、某県で実際に起こった事件を題材にしている)
過ちから解放されたかった。
憂鬱な灰色の日々から自由になりたかった。
「あいつ」の声が届かない場所。
「あいつ」の姿の見えない場所。
心に「あいつ」の影がかかることのない、まっさらですがすがしい気分に俺はなりたかった。
だから、俺はこうして穴を掘っている。
二度とこいつが這い上がってくることのできない、深遠を目指している。
ゴキブリ一匹住み着くことのない、潔癖な世界を目指している。
死体を埋めるための穴を掘り続けている・・・・・・。
1
緑豊かな、高台の住宅地。
車から降りて新鮮な空気を吸いこむと、運転してきて高ぶっていた緊張感が緩んだ。少しだけほっとしながらドアを閉めた。
東京は今晩も快適とは言いがたい、じめじめとした熱帯夜を迎えていた。
それでも、ここの夜の空気は冷えていておいしい。キーホルダーをじゃらじゃら鳴らし、アパートの鍵を指先に握る。
大きなあくびをかきながら部屋の前にやってきた。非常に眠たくて、目を開けていられなくて、なかなか小さな鍵穴を見つけられない。
ものすごく疲れていた。それは夏場の厳しい肉体労働のせいもあるが、今の俺は心が死にかけているのがよくわかる。不摂生、睡眠不足。そして、ある大きな「悩みの種」。
やっとのことで鍵穴に鍵が刺さった、そのときだった。
急に強い寒気を首筋に感じ、左手がぴたりと止まる。
俺はばっと振り向いて、背後を確認した。
電柱に貼りついている看板の文字が街灯に映し出され、くっきりと見える。
「●●内科 この先の角を右に100m」
何者かの視線を感じたのだ。しかし誰もいやしない。それでも、俺は首筋に感じた気味の悪さを拭えなかった。
「ちっ・・・・・・!」
額に滲んだ汗が流れていった。自分の乱れた息が静かな夜に際立って、よく聞えてきた。
部屋の電気をつけて、荷物でぱんぱんのリュックサックを床に下ろす。中には空の弁当箱や汗を拭うためのタオル、制汗スプレーなどが入っている。両肩がぐっと軽くなったとたん、全身の力が抜けていった。一日の労働を終えてようやく帰ってくることができたと思うと、ずっと溜め込んでいたため息も自然と出てくる。
ピリリリリ
ひっ、と俺は悲鳴を上げる。素早く振り向いて、背後のベッドに放っておいた携帯に目をやった。
折りたたみ式の携帯電話がちかちかと発光していた。その目障りな電飾を認めたとたん、せっかくの落ち着いた気分が台無しになってしまう。呼吸がまたしても荒くなっていった。
「・・・・・・勘弁してくれ」
携帯を手に取り、乱暴にバチンと開く。案の定「あいつ」からのメールは届いていた。
『今日もお疲れ様! ちゃんとご飯食べてる? 言ってくれれば、いつでもご飯つくりに行ってあげるよ!』
寒気がぞわぞわしてきた。頭に上ってきた血もすべて凍りついてしまった。
冗談じゃない。どうしてこう毎日、こいつは俺が帰ってくるたびに、こんなうっとうしいメールを送りつけてくるのだろう。俺がすごく嫌がっているのをどうして理解してくれないのだろう。
胸糞が悪い。俺は無視を決め込む努力を始める。ベッドにどっと腰掛け、いっそう重たくなってしまった頭を両手で抱えた。
頭がぐらぐらする。その上、腹痛も併発する。こんなメールを送りつけられては、もう食欲も起こらない。
そうして無視を決め込んだとたん、また携帯が俺を呼び始める。けたたましい音を鳴らして俺を呼ぶ。着信だ。今度は着信だ。三分以内に返信をしてやらないと、こうして部屋に着信音が鳴り響くのだ。
もう、我慢の限界だった。
「いい加減にしてくれ!」
俺は強引に携帯電話の電源を切り、布団の中に押し込んでしまう。そうでもしなないと、「あいつ」の放つ電波は何をやってもこの部屋に届いてしまいそうな気がしたから。
俺に「あいつ」の視線から外れる日は訪れない。始末の追いつかない便所のゴキブリのように、あいつの笑顔は汚点として俺の心に住み着いているのだから。
頭痛がますますひどくなってきた。頭痛薬を飲まない日はない。でも、いくら苦痛を溜め込んだところで、物事は何も改善しない。
どうせまた、明日もこんな感じなのだろう。
2
「俺」は去年、偏差値の極端に低い地元の三流大学を卒業した。
就職活動の面倒になってきた夏ごろに、地元の遊園地を運営している小さな会社から内定をもらった。清掃部門などという社会の底辺もいいところだが、身の丈に合った無難な結果だと俺は満足している。
結果として卒業後も地元に留まることになったので、住まいも大学時代のままである。手取りも少ないので、このワンルームで細々とやっていくことにした。
遊園地は衰退の一途を辿っていた。もともと遊園地を経営していた企業は十年前の大不況が致命傷となり、今の小さな会社に運営を押し付けて、レジャー産業から全面的に撤退してしまった。昭和の時代に家族連れやカップルで賑わったかつての栄華は、もう跡形も無い。それでも、2019年のレジャー業界は浦安にある米国産遊園地の一人勝ち状態となってしまったなか、まあよく持ったほうではある。
目が覚めると、もう出勤時間の二十分前だった。気分が憂鬱であると出勤したくないものだが、行かないわけにはいかない。今日も朝食を欠いて、俺はまた一段と健康を損なっていく。
車を従業員専用の駐車場に止めた。ロッカールームで地味なブルーの作業服に着替え、事務所から出たときだった。
「おはよ!」
さっそく、気持ち悪い笑顔が俺の前に立ちふさがった。目を合わせたくなかったので、とっさに下を向いた。
「どうして返事をくれないの?」
早速出てきた一言がこれだ。本当に嫌になってくる。
無視を決め込んで歩き出した俺の後ろを、「こいつ」はぴったり付いてきやがる。
青いキャップを目深にかぶった。こんな女と一緒にいるところなど、仕事仲間には見せられない。相手にせず、俺は黙々とゴミ箱のゴミを回収し始める。
こいつはとんでもない親のすねかじりで、「俺に会う」それだけのために近くのアパートを借りてもらい、俺のためにこの遊園地の年間パスを買ってもらったそうだ。恐らく今日もこうして、夕方の閉園時間まで俺につきまとうつもりなのだろう。
「ヒロシ、私のこと、嫌いになったの?」
背後から呼び捨てで呼ばれたとたん、頭が不快感でぐらぐら揺さぶられた。誰かに助けを乞いたいぐらいだった。
やはり、こいつは清掃員の詰め所まで付いてきた。いつものことながら非常に迷惑だ。一刻も早くこいつの視線から逃れたくて、俺は詰め所の扉を乱暴に閉ざす。
「クソッタレが!」
両手に持っていたゴミ袋を部屋の隅に放り投げ、埃だらけの汚い椅子にどっかり座った。ゴキブリの群れがびっくりして、詰め所を縦横無尽に走り回った。
詰め所の衛生環境は非常に悪い。換気扇が設置されている程度で、エアコンもない。ごみ収集の業者が来るまで、集めてきたゴミを隅っこに溜めておくので、ゴキブリが幸せそうに繁殖していた。それでも俺の精神状態と比較すれば、この光景のほうがまだ何十倍もましであった。
薄黄色に変色した残飯に、数百個の黒い塊が密集している。
客の残した大量の残飯も、これだけゴキブリに集まられたら一気に無くなってしまうだろう。
俺はタバコに火を点けた。誰も捨てようとしない吸殻を処理してから、汚い灰皿にタバコを置く。就職してからタバコ代がかさんでしょうがないが、こうして事あるごとに一服していかないと、もはややっていられない。
気分を変えたくて、俺はポケットから黒い手帳を取り出した。あと数日出勤すれば、やっとのことで待ちわびた週末がやってくる。
俺にはおととしから付き合っている「彼女」がいる。同じ学校の卒業生だ。
彼女は俺の住むアパートから歩いて十五分ぐらいのところに暮らしており、就職先は都会の喫茶店だった。休日になると二人で遊びに出たり、俺が彼女のアパートに行ったりしている。いつ向こうの親御さんのところに挨拶に行こうか、二人で相談をしていたところだ。
吸殻をがしがしと灰皿に押し付け、俺は立ち上がった。今は表に出たくないが、仕事をしなければいけない。明るい未来のためにも、やらなければならないことは、やらなければならない。
ドアを開けると、容赦のない夏の日差しが俺に炎を向ける。
そして、俺に対してにっこり微笑んだ「あいつ」
豚みたいな顔はいつも汗だくで、少し離れた位置からでも荒い鼻息が聞こえてくる。
この暑い中、ずっと詰め所の前で待っていたのだろう。俺はすぐに回れ右をして、ゴミ収集の続きに入った。
「こいつ」も一応、同じ大学に通っていた女である。忘れてしまいたい過去の話だが、三年生の夏ごろにこいつと付き合っていた。
「ぽっちゃり」と自称するまるまる太った顔と、極端に小さな目と、乱れた八重歯がこの上なく醜い。ワガママで身勝手で面倒な性格だったので、しばらく付き合ってやったのち、手ひどく振ってやった。しかし、それが地獄の始まりでもあった。
ちっとも、俺のことをあきらめてくれないのだ。
結果として、このように就職してからもこいつに付きまとわれる毎日。こいつから送られてくるメールと着信に悩まされる毎日だ。あまりにも嫌になって、五度ぐらいアドレスや番号そのものを変えたこともあったが、どうしてか毎回探り当てられてしまう。今付き合っている彼女がいなかったら、俺の残りの大学生活は台無しになっていたことだろう。
卒業と同時に開放されるものだと思っていたのに、いっこうに平穏な日々は訪れない。年間パスの話を聞いたときなど、吐き気すらしたものだった。
「ねえ、ご飯ちゃんと食べてる? 私、いつでもヒロシの側にいるからね」
人が嫌な顔をして無視を決め込んでいても、これである。狂気じみている。
下手に怒らせて、何かされないか非常に不安だった。俺に安息の時など、何一つないのだ。
3
それから数日を経た、木曜日のことだった。
俺は残業が長引いてしまい、夜遅い時間にも関わらずまだ職場にいた。他の職員はすでに退社してしまい、遊園地には俺しか残っていない。
公衆便所の汚水ポンプが故障してしまい、糞尿があふれ出るという大惨事が起こったのだ。匂いが外に漏れ出して異臭騒ぎに発展したぐらい、現場は凄惨だった。俺は糞まみれになりながら業者と一緒になって、ポンプの修理・清掃に追われていた。
備え付けのシャワールームで丹念に体を洗った後、私服に着替えて一服ついていたときだった。いつものように、「あいつ」からの着信が事務所に響き渡った。携帯電話はリュックの中にしまってある。
深いため息が出てきた。真昼の重労働もあって体が非常に疲れており、なかなかパイプ椅子から立ち上がれない。早く携帯電話の電源を切ってやりたい。さもないと、あいつはせっせとメールと着信履歴の大津波をよこしてくることだろう。
そうやって携帯を手に取るまでに、時間がかかったのが幸いした。耳障りな着信音とは打って変わって、携帯電話が流麗な着信メロディを奏でたのだ。
彼女からの電話だ。俺は慌てて火をもみ消し、リュックに寄り、着信を取る。
こんな遅い時間に珍しいことだった。あさってのデートの話だろうか?
しかし、彼女はいつものように人懐っこい声をして俺の名を呼ぶことは無かった。俺の耳に伝わってきたのは、乾いた「沈黙」だった。
「・・・・・・どうした?」
真顔になって俺は言った。重苦しい沈黙。よく耳を澄ますと聞える、彼女のすすり泣く声。ただ事ではないことは、この空気を介してよく伝わってきた。
「・・・・・・『リネット』が、『リネット』が・・・・・・!」
『リネット』とは、彼女の買っている仔猫のことである。実は二日前に行方不明になってから、彼女が必死になって探し回っていたのだ。
「リネットがどうした? 見つかったのか?」
俺がそうきくと、彼女は電話越しに泣き出した。
それから俺はすぐに事務所を飛び出た。
忽然と姿を消した飼い猫が、帰宅したときに見つかったという。・・・・・・バラバラに四肢を切断された、惨たらしい状態で。
ぶっ殺してやりたかった。彼女にそんな酷い仕打ちをした奴に、まったく同じことをしてやりたかった。体をバラバラに引きちぎって、辺りにばらまいてやりたかった。
とりあえず俺は彼女のもとへ行かなければならない。犯人は相当、危険な性格をしているに違いない。今も、彼女の近くで息を潜めているかもしれないのだ。俺は急いだ。
「ヒロシ」
まさかの声に、俺は仰天して呼ばれたほうを振り向いた。
ふざけるな! もうとっくに閉園時間は過ぎているんだぞ!
しかし、それは紛れもない「あいつ」の気持ち悪い笑顔だった。こうして残業が終わるまで、俺のことを待ち構えていたとでもいうのか。
こんな非常事態にとんでもない邪魔者である。気が立っていた俺は露骨にひと睨みすると、いつものように無視を決めて歩き出した。
こんなときに限って頭痛がひどくなってくる。全部、こいつのせいである。
「待ってよ、ヒロシ。どこに行くの?」
「うっせえな。お前には関係ねえ」
普通なら不法侵入で通報ものだろう。この女には一般常識が欠如しているとしか思えない。常軌を逸している。あれこれ怒鳴り散らしたいものはあったが、ぐっとこらえた。今の俺はそれどころではないのだ。
この遊園地にはジャングルゾーンというアトラクションがある。その人工林を縦に突っ切っている、長い直線を俺は進んでいた。この先を真っ直ぐ進めば遊園地の裏門があり、車を止めてある駐車場に入れる。
両側をうっそうとした密林が迫っており、明かりがほのかに点灯しているのにも関わらず、周辺は恐ろしいほどに暗い。昼間とは違う、まったくの別世界に足を踏み入れたかのようだった。ふだんゴミ収集の巡回で歩き慣れているこの道も、ここまで不気味に変貌するとは思わなかった。
「メール送っても返事してくれないし、ひどい」
「送ってくるんじゃねえ。迷惑してんのがわからねえか?」
「いつもヒロシが家に帰るまでずっと見てるのに」
「・・・・・・は?」
あまりにも馬鹿げたその台詞に、思わず立ち止まってしまった。
「まさか、帰ったとたんメールが鳴り出すのは・・・・・・」
「そうだよ。私、いつもヒロシの部屋の近くまで来てたんだよ」
小さな両目がにっと、ほとんど一本の線と変わらないぐらいに細くなる。その不気味な笑顔を全くと言っていいほど、俺は直視できなかった。
いつも部屋に入るときに感じていた、おぞましい「視線」。
いつ部屋の中にいても、こいつに見つめられているような気がしてならなかった不快な「感覚」。
それらはすべて本物だったのだ。こいつは毎日毎日朝から晩まで四六時中、家だろうが職場だろうが、ずっと俺に付きまとっていたのだ。
もはや逆恨みに匹敵する恐ろしい執念だ。どうしてそうまでして、こいつは俺にまとわりつきたがるのだろう・・・・・・?
「ふざけんじゃねえよ・・・・・・」と、俺は握りこぶしを震わせる。
俺はこんなにも怒っているのに、こんなにも嫌がっているのに、こいつときたら何の悪びれた様子もなく、俺の大嫌いな笑顔を向けてきやがる。見せ付けてきやがる。こいつに人の心はないのか? 良識や常識など備わっていないのか?
害虫だ。こんな気持ち悪いものが人間なものか。こいつは残飯に群がるゴキブリと同類だ!
「ヒロシさあ、どうしてそんなに怖い顔してるの?」
「へっ・・・・・・わかんねえのなら、しょうがねえよな・・・・・・。もう帰れ! 二度と俺の前に現れるんじゃねえ!」
ありったけの声を振り絞り、心の底から本音の言葉を叫んだつもりだった。ほとんどやけに近い心境だった。本当はこの場で泣き出してしまいたいぐらい辛かった。
ところが鋼の鈍感さを誇る「こいつ」の態度が、豹変する。
「やっぱり、あの女がいるからヒロシはそうなっちゃったんだ」
どきっと俺の心臓が大きな音を立てる。
「お前には関係ないだろ・・・・・・?」
「あの女が現れるまで、ヒロシは私にすごく優しくしてくれた。一生側にいてねと言ってくれた。だから私はこうしてヒロシの側にいるのに、どうしてそんなこと言うの?」
それは一切蒸し返されたくない、穴の奥底にでも封じ込めたい過去の話だった。一刻も早く忘れたい過ちそのものが、こうして俺の前に立ちはだかっているようにも見える。
握りこぶしに汗が滲む。喉がからからに渇く。頭痛ががんがん響き、こめかみのあたりがひくひく波打つ。確かに今付き合っている彼女が現れるまで、俺がかつてこいつに優しくしていたのは、本当のことだ・・・・・・。
だからこそ、今になってもこのように付きまとわれるのが嫌だったのだ。
苦痛だった。「好きな人ができた」と言って終わりにしたつもりなのに、こいつは全然受け入れてくれやしない。ちっとも俺のことを諦めてくれやしない。俺にはすでに新しい女がいて、新しい生活を始めているというのに。もうすでに婚約している段階にまで入っているというのに。このままではいつまで経っても俺たちは「次」へ、幸せな明るい未来へ進めやしない。
そう、今の俺には大切な「彼女」がいるんだ! こいつなんかよりもずっと優しくて、こいつなんかよりもずっと可愛くて、こいつなんかよりも何百倍も愛している女がいるんだ!
「・・・・・・昔のことじゃねえか! もう終わったことなんだよ!」
俺は腹の底から怒鳴ると、ぐるっとこいつに背を向けた。もう金輪際、こいつの顔など見たくはない。歯軋りを立てながら、走り出してこの場から去ってしまおうとしたそのときだった。
「あの女は害虫だよ!」
と、あいつも怒鳴り返したのだ。豚みたいな巨大な顔を真っ赤にさせ、パンに埋め込まれたレーズンのような小さな目は、黒々とした怒りの色で渦巻いていた。
「私ね、あいつに『警告』したの」
とたん、俺の顔から一切の表情が消えうせる。その場でぴたっと止まり、走るために振り上げていた両腕をゆっくりと下ろした。
「あいつの飼ってる仔猫を殺してね、玄関先に送り返してやった」
それを耳にした瞬間、とうとう俺の中で巣食っていた真っ黒な感情が膨れ上がって、一気に全身を侵していったのを感じる。
「やっぱりお前だったのか」
へっへっへと、どうしてか笑い声が勝手に出てきてしまう。その瞬間、俺の両目に火が点いた。
右の拳がこいつの顔面に叩き込まれた。めきりと何かが壊れて砕け散った音が、誰もいない夜の遊園地に響き渡る。この女はあぎっと悲鳴を上げると、背中からばたんと倒れてしまった。
「お前はどうしてっ・・・・・・!」
すかさず胸倉を掴み上げて、俺はこいつを真っ暗な林に引きずり込んだ。道を外れ、漆黒の闇へと引きずり込む。後頭部の髪をしっかり握り、勢いをつけて、そのまま顔面を大木に叩きつけた。がすんという鈍重な衝突音が、眠りについていた野鳥をばさばさと驚かせる。
「お前はどうしていつもそうやって、俺の邪魔をするんだよッ!」
ズドン、ズドンと大木が揺れる。
全然似合わないピンクのブラウスが、黒い染みで汚れていった。俺は怒りのままに何度も頭を木に叩きつけるのだが、なぜかこいつは抵抗をしようとしなかった。
月明かりがこいつの笑顔を映し出す。涎や鼻水のごとく大量の血を垂れ流し、白目も剥いているのに、こいつは笑い続けていた。それを目にしたとたん、俺はわなわなと震え上がった。
「笑ってんじゃねえよぉ!」
顔面をごりごりと木の肌に押し付ける。それなのに、こいつは悲鳴もうめき声も上げようとしない。たとえどんなにいたぶっても、俺に対してその醜い微笑みを向け続けているような気がして、ますます強い怒りがこみ上がってきた。
「笑うなって言ってんだろぉおおお!」
汗でべっとり濡れた小汚い頭を、俺は突き離した。全力で遠くに突き飛ばした。
だが、そのとき、がきんと、何かが割れて砕けたような異様な音が響いた。
ぐらっとこいつが横に転がったとき、黒い血に濡れた「岩」が現れる。俺はぎょっとして、ぐったりとあおむけになったこいつのもとへと寄った。
「お、おい・・・・・・?」
返事はない。後頭部からあふれ出る大量の血液を目にしたとき、俺は夏場の夜にも関わらず、背筋がびしびしと凍りついていったのを感じていた。
こいつはとうとう最期の最期まで、俺に不愉快な笑顔を崩すことはなかった。
4
・・・・・・鳴り続けていた目覚ましのアラームを、非常にゆっくりとした動作で切った。
窓を閉め切って就寝したため、部屋の気温はかなり高くなっている。東からの直射日光が強烈だった。汗をかきすぎたため、喉がからからだ。
これほど最悪な寝覚めは経験したことがない。帰宅した時間が遅すぎたのもあるが、寝付くまでが長かった。気持ちの非常に高ぶったまま、新聞屋のバイクの音がするまで布団の中で緊張を強いられていた。
昨晩は色々なことがありすぎて、心身ともに衰弱していた。まず、「あいつ」が俺の彼女に仕掛けた悪質な嫌がらせのこと。
正直言ってひどいものだった。あらためてあいつの人格を疑う。彼女の飼っていた仔猫は全身をバラバラにされ、スーパーのビニール袋に詰め込まれていた。彼女が職場の喫茶店から帰宅したさい、それがドアノブに引っ掛けられていたとう。当然のことながら、このようなことがあっては明日のデートは中止とせざるをえない。もうデートどころではない。
絶対に犯人を割り出しますから、と、残虐な凶悪事件の発生に警察は意気込んでいた。
そんな頼りになる真面目な顔つきも、今の俺にとっては恐怖でしかない。
「あいつ」が行方不明になっていることは、すぐにでも発覚してしまうと思う。特に仔猫の惨殺が、あいつの仕業であることが判明したときが怖い。そうなったら連鎖的に、今度は俺のところに「別件の疑い」が降りかかってくることだろう。
「今、福留ミチコさんが行方不明なのですが、何か知っていることはありませんか」
「福留さんの携帯電話からあなたの携帯電話へのメールや通話履歴が大量に残っているのですが、どういう関わりがあったのですか」
「行方不明になる木曜日の深夜に、あなたに対して最後のメールを送っていますが、何か変わったことはありませんでしたか」
単純に想像力を膨らませていっただけでも、警察の手が俺のところに届いてしまう可能性は十分に高いことがわかる。もしもそうなっていったら、物事はあっけなく白日の下にさらされる。いや、すでに警察は俺に対して疑惑の視線を送っているに違いない。俺の殺人が発覚してしまうのは、もはや時間の問題だと言ってよかった。
「どうしてこんなことになっちまったんだ・・・・・・!」
可愛い彼女ができて、普通に就職して、めでたく結婚を迎えるはずの俺の人生が、どうしてこんな悲惨なことに。
それは俺が「あいつ」と付き合ったせいだろうか。
俺が「あいつ」を手ひどく振ったせいだろうか。それでもあまりにも理不尽だとしか思えない。
頭が重い。吐き気がひどい。強い腹痛を感じて、俺は背の低いパイプベッドから起き上がったとたん、まず便所に入っていった。
無常にも出社時間は迫っていた。休みを取ることも考えたが、あえて出勤することを決心した。
俺は便器に腰掛けたまま、昨晩のうちに形成されていった無数の血豆を見つめていた。
重たいスコップを握っていたのだ。
死体をあのまま遊園地のジャングルに埋めてしまった。遊園地は本日も通常に営業をしているので、子供が偶然掘り起こしでもしないか気が気で仕方がなかった。家族連れで非常に混雑する休日でなかったことは、不幸中の幸いだろう。
ゴミの収集や便所掃除をしながら、俺はしきりに「あいつ」の埋められている、ジャングルのほうを気にかけていた。
「移動させるなら、夜しかねぇな・・・・・・?」
このまま暗くなるまで待って、退社時間になったら死体を掘り起こし、車に乗せてしまおう。俺は遠くの山中に死体を捨てに行くことを決めていた。
これ以上、俺の人生を「あいつ」なんかにメチャクチャにされてたまるものか。
俺は今こそ自由になって、愛する女性と新しい人生を始めるんだ。
絶対に幸せになってやるんだ。
ジャングルは昨晩とまったく変わらない、暗くてじめじめとした陰湿な雰囲気をたたえている。ぼんやりと湿気にかすむ半月のみが、俺の犯行をしっかりと見届けていた。
「どこだ・・・・・・!」
俺はひどく焦りながら、スコップであちこちを掘り返していた。死体の埋めた場所を忘れてしまったのだ。どの辺りに埋めたのかを必死に思い出そうとするのだが、ひどすぎる頭痛のせいで、まったくといっていいほどまともな思考ができなかった。
両手の血豆が潰れていく。掘り起こした土の山が、何個も何個も形成されていく。
いくら捜しても「あいつ」は見つからない。もしかしたら、あいつは死んでいなかったとか?
全ては俺の勘違いで、本当は生きていたとか? 不意にそんなことを思ってしまった。
「あいつ」は死んでなどいなくて、とっくに穴から這い出ていて、いつものように俺のことを遠くから監視していたのかもしれない。今朝からずっといつものように、ゴミ収集や便所掃除に勤しむ俺のことを見つめていたのかもしれない。今もこうして穴を掘り続けている、俺のことをどっかから見つめているのかもしれない。「あいつならやりかねん」そう思っただけでぞっとしてしまう。
どうして俺は「あいつ」のことで、いつまでもいつまでも苦しまなければならないのだろう。そう思ったとたん、無性に腹が立ってきた。
「畜生!」
とうとう、俺はスコップを遠くに放り投げてしまった。スコップの鋭利な先端がジャングルの大木に衝突し、分厚い皮がえぐられる。「あーッ!」などとやけになって大声を上げながら、汗まみれになった髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き回した。
ところが、そのときだった。
その木の後ろから一円玉程度の青白く光る球体が、ふわふわと浮かび上がってきたのだ。
はじめ、「蛍」が一匹だけ迷い込んできたのかと思った。
「何だ、こりゃ・・・・・・?」
そしてもう一匹、まったく同じ浮遊物を俺は発見する。それからすぐに、さらにもう一匹の存在を確認した。
・・・・・・いや、違う。気がついたら真横にも数匹いるし、よく見たら足元にも三匹ぐらいいる。というか、あちらこちらにいっぱいいるじゃないか。俺は謎の生物の、突然の発生に目を丸くしていた。
発光体はどんどん増えていく。俺がぼうっとしてあっけに取られている間に、瞬く間に繁殖していった。恐ろしいぐらいにわらわらと増えていった。しまいにはジャングルを埋め尽くすぐらいの浮遊物が、俺の視界いっぱいにひしめいている。
この遊園地で働きだしてから、こんな生き物なんて見たことがない。呆然として立ち尽くしている俺のすぐ目の前を、一匹一匹の「蛍」はゆうゆうと泳いでいた。
「こ、こいつらは本当に『蛍』なのか!」
そして、異変は起こる。
蛍たちは示し合わせたように一つの場所に集まっていった。否、一つに「まとまっていった」
コイン程度の大きさだった発光体がバスケットボールぐらいの大きさになり、それはやがて運動会で見かける大玉よりも大きくなってしまった。そして、俺の全身などあっけなく飲み込んでしまうぐらいのサイズに巨大化してしまった。
「う、う、う、うわああああああ!」
ようやく俺は身の危険を感じる。「喰われる!」。そんな直感が働いたのだ。
しかし、どうしたことだろう。両足がすくんでしまって走り出すことができない。にじみ出てくる大量の汗。がちがち鳴り続ける歯。ついには腰を抜かし、しりもちをついてしまった。
「誰か、助けてくれぇえええ!」
絶叫したところで、閉園時間を過ぎた遊園地に人はいない。巨大な球体がゆっくりとした速さで自転している幻想的な光景を、見上げているしかない。
球体が、腰を抜かしている俺に接近してきた。じりじり接近してくるたびそれはますます膨張していき、俺の視界を飲み込んでいく。
「来るなぁ! 来るなぁあああ!」
俺は恐怖のあまり泣き出していた。黄ばんだ残飯にわらわらと群がる、大量のゴキブリを連想しながら・・・・・・。
球体は俺のすぐ目の前までくると、突然その形を崩す。球が縦に伸び、長くなった。
枝分かれが始まって、太くて長い触手のようなものが伸びていく。それが「人の腕」であることがわかったときには、俺の目の前に、一人の人物がぼうっと立ち尽くしていた。
極端に小さな目。歯並びの乱れた醜い笑顔。まるまると太った頬。
紛れもなくそれは、「あいつ」の笑顔だった。
死んだはずの「あいつ」が青白い発光体となって、俺を見下ろしているのだ。
もう、笑うしかなかった。泣きながらも笑うしかなかった。
あいつはこうやって死んでもなお、俺にまとわりつこうとしているのだ。たとえ幽霊になっても、俺を諦めることはなかったのだ。
「あいつ」はニタリと微笑むと腰を下ろし、俺に気持ち悪い笑顔を近づけてくる。顔を背けたくてたまらなかったが、体にまったく力が入らない。体が言うことを聞かずに動かない。金縛りというやつだろうか、目を閉じることすら許されない。
俺がこうして汗と涙と、鼻水とよだれを大量に垂らして嫌がっていても、こいつはニタニタと微笑みながらいつもの不気味な顔を近づけてくる。
その小さく窪んだ穴のような瞳を見せつけられたまま、俺は強引に唇を奪われた。
ある朝のことだった。始業前の巡回に出ていた遊園地職員が、ジャングルの中で男性の変死体を発見した。
男性はこの遊園地の職員で、全身がミイラ化した異常な状態で発見されたという。目と口が縦に大きく、裂けてしまいそうなぐらい開かれていて、最期は相当恐ろしい思いをしていたに違いないだろうね。――そう、第一発見者の職員は新聞記者の取材に答えていた。
男性は昨日までに、特に何も変わった様子もなく出勤しており、死因はまったくの不明であった。
しかし、この事件はこれで終わらない。その後の捜査に関わった警官が数名、同様の怪死を遂げたのだ。
双葉学園の学者や生徒たちが現地へ調査に訪れるのは、それから数日後の話である。
最終更新:2009年10月10日 16:46