【逢洲等華の疲れる夕刻】

逢洲等華の疲れる夕刻


 逢洲等華は双葉学園風紀委員長である。二刀を携えて学園内を闊歩し、学園内の綱紀を正す。逢洲陰流免許皆伝の腕前に、無類の切れ味を具えた二振りの刀、それらに完全な先読みを可能にする異能『確定予測』を組み合わせることで、等華は学園内でも屈指の近接戦闘能力を保持している。まさしく、適任である。
 等華は生真面目なひととなりであり、毎日学園内の見周りを欠かすことがない。表向きの理由は言うまでも無く校内の治安維持だが、等華にはより大事な、そして個人的な理由もあった。すなわち、日課となった猫参りのためである。


 いつもの場所、いつもの時間だというのに、いつもの面々がそこにはいない。
 脳裏を過ぎった予感に胸騒ぎを覚えながら、逢洲等華は道を急いだ。
 猫たちと交流することは、逢洲等華にとってこの上なく大切な日課である。
 校舎からは少し離れた林のそばにある、小さな草地。日は既に大きく傾き、木々は長い長い影を地に落としている。
 出迎えてくれたのはチャトラとシロだけ。いつもなら真っ先にこちらの事をかぎつけて飛びついてくるトラマルが、今日は姿を見せていない。うれしそうに鳴き声を上げて擦り寄ってくる二匹の喉をかきながら、等華は眉をひそめた。
「お前たち、トラマルはどうした」
「にゃー」
 猫たちはいずれも、無邪気にじゃれつくばかりである。
 ラルヴァにでも襲われたのだろうか。だがそれにしては、他の二匹がおびえている様子もない。病気や怪我でもしたのだろうか? これまた右に同じ。この三匹は、いずれもひどく仲が良かった。仲間の身に異常があれば、態度に表さずにはいられない。
 あるいはトラマルも、猫らしく気まぐれでも起こしたのかもしれない。
 そう結論付けて不安を振り払うと、等華は愁眉を開いて微笑んだ。
「ほらお前たち、この間のお礼だ。あの時はありがとう」
 荷物から猫じゃらしを取り出して打ち振って見せると、チャトラとシロはそれに踊りかかった。猫たちがわき目も振らずじゃれ付くさまを眺めながら、等華は頬を緩めて猫たちの背を撫でさすった。無類の猫好きなのである。


 チャトラとシロが猫じゃらしに飽きたのを確認すると、等華は立ち上がった。名残惜しげにまとわり付く二匹の頭を優しく叩いてきびすを返す。この場に残ってトラマルが来るのを待つという手もあったが、それよりいい考えがあった。
 見回りついでにトラマルを探そう。そしてトラマルさえ良ければ、夕食に招待しよう。他の二匹には悪いが、トラマルはきっと喜ぶだろう。
 想像するだにほほえましい光景を脳裏に描いて、等華は思わず笑みを浮かべた。傍から見れば控えめに口の端を吊り上げるだけだが、本人にしてみれば渾身のにやけ顔である。あらぬほうへ漂いかかった思考をしっかと捕まえて、等華は気持ちを引き締めた。
 不意に、携帯が着信音を甲高くかき鳴らした。
 発信欄に示された名前は水分理緒、醒徒会副会長である。すわ緊急事態かと、等華の背筋に緊張が走った。
「もしもし」
「あ、もしもし等華さん? 今大丈夫ですか」
 水分の口調は、いつもと変らぬおっとりとしたものである。
「見回りを終えたところです。何か問題が?」
「実は、今日の分の見回り報告がまだ上がってきてないんです」
「……今日はデンジャーが日誌当番のはずですが」
「私もそうだと思ってました」
 やられた。等華は肩を落とした。
 山口・デリンジャー・慧海は、等華とともに学園の風紀を守る風紀委員の一人である。等華はデリンジャーをデンジャーと呼んでいる。はじめに間違えてから、訂正する機会を逃し続けているのである。
 手にする得物は銃と刀、そのたたずまいは動と静。何かと対照的な二人であるが、その折り合いは決して悪くない。初めて会ったときこそ殺し合いになったが、今ではそれも笑い話である。
 しかし、風紀委員としての仕事ぶりには非対称な点がある。
 「とりあえず撃ってみる」を信条とするデリンジャーは、学園内の不埒者を追い回し、頼もしい存在感を示している。だがその一方で、書類仕事には全く興味を示そうとしない。「そんなの何の役に立つの?」というのが、デリンジャーのもっぱらの言い分である。
 等華とて、その言い分がわからないわけでもない。自分もまた、書類を書いているよりは悪人を成敗するほうが性にあっている。一枚書類を書くその時間で、守れる何かがあるはずである。
 だが、なにぶん相方がやらない仕事があれば、自分がやるしかない。決まりだから、文句を言ってもしょうがない。理解してはいるのだが、納得するのとは別である。
 巡回日誌を書くことも、そうしたデリンジャーがやりたがらない仕事の一つだった。先日、すったもんだの末に交代制を認めさせたはずだったが、既にそのことはデリンジャーの頭の中からどこかへ行ってしまったらしい。
「わかった。今からそちらに向かいます」
「お願いします。ごめんなさいね」
「こちらこそ申し訳ない」
 電話を切り、憂鬱きわまりため息をつくと、等華は醒徒会室へと足を向けた。
 トラマル探しは、当分お預けになりそうだ。


 双葉学園に醒徒会室というものは一応設けられてはいるが、日常においてほとんどの業務が行われる場所は別に存在する。醒徒会室に付随する資料閲覧室が、それに当たる。
 一般生徒立ち入り禁止区画の一角に構えられた畳敷きの和室。中心には大きな卓が陣取り、いくつもの座椅子と座布団がそれに伴っている。奥には障子で仕切りが設けられ、他にいくつかの部屋がある事をうかがわせる。部屋の名に反して資料などどこにも見当たらず、一見しただけでは宴会場と見間違えられたとしてもおかしくない。
 そうした部屋の隅でくつろいでいた一人が、等華を目にすると立ち上がった。和服を品よく着こなした、目元の涼しげな美人である。それが醒徒会副委員長、水分理緒だと認めると、等華は背筋を伸ばして目礼した。応える水分の声音は、とても親しげなものである。
「いらっしゃい。さ、上がって上がって。飲み物は何がいいかしら」
「いや、結構。日誌を書き次第お暇する」
「そんなこと堅苦しいこと言わないで。そうでなくても風紀のお仕事は激務なんですから、ちょっとぐらい休んでいきなさいな」
 入り口で立ったままの等華に、水分理緒はしきりと上がるように促してくる。仕方なく、等華は靴に手をかけた。靴箱には何組もの靴が乱雑に置かれている。靴をしっかり揃えて置くと、等華は刀を外して手近な座布団を探した。
「ごめんなさい、お茶菓子はちょっと切らしてて、今ちょうど買いに行ってもらってるところなの」
「結構。それより日誌を」
「はいはい」
 苦笑いしながら水分が障子の奥に消え、茶と日誌を載せた盆を手にして戻ってきた。三つの湯飲みを卓に置き、日誌を差し出した後は慣れた手つきでお茶を注いでいく。勧められるままに一口すすった等華はその味わいに瞠目した。旨い。
 等華の反応に満足したのか、水分がふわりと微笑んだ。最後の湯飲みに茶を注ぎ終わると、水分は奥の障子に振り向いた。
「加賀杜さん、お茶が入りましたよ」
「その言葉を待ってましたあああああああああああ!!」
 歓声とともに勢いよく開かれた障子が、すぐさま叩きつけるような勢いで閉じられた。容赦ない力をこめられた障子はうまく閉まらず途中で止まったが、すぐさま伸ばされた足が仕事を果たしている。熟練の足技である。
 そうして転がるようにして飛び出してきたのは、ショートカットの女子生徒である。
「休憩! 断固休憩! むしろ終業! 今日はもうアタシがんばった! よーし今日はもう仕事しないぞー。姉御、今日のお茶請けは何?」
「それは早瀬さん次第ですねえ」
「ありゃ。でもこの際贅沢は言わないわ! もう甘いものなら何でもいい気分!」
 機関銃のようにまくし立て、万華鏡のようにころころとその表情を変える。等華の正面にどっかと座り込んで瞬く間に茶を飲み干し、「あーおいしい! 姉御、もういっぱいちょうだーい」と湯飲みを突き上げる。醒徒会書記、加賀杜紫穏は等華に眼を止めると、初めて存在に気がついたというように眉を吊り上げた。
「あれ? どうしたの? 今日はデリンジャーのほうが日誌書く日じゃなかったっけ?」
「……色々あって」
「ふーん。なんだか知んないけど大変だねえ」
 肩をすくめて湯飲みを置くと、加賀杜は疲れ果てたという体で卓に突っ伏した。
「アタシも死ぬほど大変だった……」
「いいんですか、金太郎君たちを手伝わなくても」
「無理! 絶対無理!」
 水分の何気ない言葉に加賀杜は飛び上がると、恐怖に満ちたまなざしを奥の障子に向けた。奥の障子からはなにやら不吉なオーラが染み出し、時折悲鳴じみた奇声すら漏れ聞こえる。湧き上がる震えを押さえるように、加賀杜は己の体をかき抱いた。
「もうホントなんなのあの二人。もう二時間ぐらい前からずーーーーーっと帳簿のここがおかしいおかしくないって延々やってるんだよ? あと書類見たり電話かけたりもー面倒くさいし、何がひどいってそれ全部記録しろだって言い出すしさあ。んでまたルールが細かい形式にいちいちうっさいのよ。あの細かさはやばいね。金ちゃんが助けを求めるのもわかるわー。あとね、あの二人この後長野と大分に行くんだって」
「あら、急ね」
「なんか金ちゃんがこっそり土地を買ってたんだってさ。ホントどこからお金出てるんだか。んで、ルール君が現地確認するって言って聞かないんだよ。ヘリの発着許可がほしいっていってたから自分でやれって言ってやった。金ちゃん今日はもう寝る暇無いんじゃないかな」
「それならなおさら助けに行ったほうがいいんじゃないかしら」
「アタシもそう思ってた」注がれた茶に今度はゆっくりと口をつけ「でもほら、人間誰だって出来ることと出来ないことがあるじゃない? 無理なことに手出しして怪我するのもどうかなあって」
 加賀杜の泳がせる眼はむやみやたらと澄んでおり、声音は悟りを開いた行者のそれである。
 加賀杜をしてここまで言わしめるのだから、あの障子の向こうではよほど恐るべき修羅場が繰り広げられているのだろう。
 日誌をつらつら埋めながら、等華は奥の障子を見やった。成宮金太郎やエヌR・ルールとは顔見知り程度の間柄だが、それでもあの二人が衝突しているところは容易に想像がつく。敵に回せばルールはさぞかし厄介な相手に違いない。等華は金太郎に心から同情した。


 二人と如才なく雑談を交わしながらも、等華の手つきはよどみない。さらさらとペンを滑らせ、所感や見回りの記録をスムーズに埋めていく。慣れのなせる業である。風紀委員にも書記役がいればいいのに、という考えがちらりと等華の脳裏を掠めた。
 そうでなくても、風紀委員会は人手不足の感が否めない。中核となる存在は現在のところ等華とデリンジャーの二人だけ。人材を増やそうと募集をかけてはいるのだが、いかんせん集まりが悪い。なかなかデリンジャーの審査を潜り抜けられないのである。とはいえ等華も適当な人間を入れるつもりは毛頭無かったから、デリンジャーばかりを攻めるわけにも行かない。頭の痛い問題であった。
 悩みながらも日誌を書き上げ、等華は水分と加賀杜にそれを差し出した。そうしてすぐさまその場で承認を受ける。風紀委員の仕事はこれで終わりである。等華が席を立つと、水分は申し訳なさそうに眉をひそめた。
「ごめんなさいね、お茶請け、間に合わなかったみたいで」
「いや。おいしいお茶をいただけたから充分だ。礼を言う」
「ホントごめんねー。にしても早ちー何やってんのかねー。お菓子マダー?」
 まさしくそのときである。加賀杜の言葉に呼応するように、資料閲覧室のドアが勢いよく開かれた。
 ふらふらと入ってきた男子が、息も絶え絶えといった体で畳にひざを付いた。翻ったマフラーが、力なく体の脇に垂れた。
「買って、きた、ぞ」
 下げる包みを差し出し、そのまま糸が切れたように倒れ付す。包みの横には「河内洋菓子店」の文字。確か隣町に出来たばかりのケーキ屋の名前だと、等華は思い至った。
「どうしたの早ちー、ずいぶんくたびれたねー」加賀杜もまたそばにひざを付き「いつものところじゃないね」と目を丸くした。
「閉まっ、て、た。から、隣町まで、行ってき、た」
「おお、それはがんばったねえ。よしよし」
 加賀杜は突っ伏したままの後頭部をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。もう一方の手で抜け目無く包みを開き、中身を眼にして歓声を上げる。つられて覗き込んだ等華は、思わずつばを飲み込んだ。並んだケーキの数は4つ。夕飯時にはわずかに早く、飢えががちらりと腹を刺す時間帯には、なかなか堪える見ものであった。加賀杜が流れるような手つきで包みを開き、そのときには既に、心得顔の水分が皿とフォークを並べ終わっている。等華の湯飲みに改めてお茶を注ぎながら、水分が等華に向かって微笑んだ。
「よかったらいかが?」
「……かたじけない」
 緩んだほほをどうにか引き締め、等華は粛然と座椅子に腰を下ろした。


「ところでアレはどうする、その」
「気になる?」
「いや、そういうのじゃなくてアレをそのままほっとくのもなんだと」
 梨のタルトを腹に収めて満足した等華は、改めて転がったままの男に視線を投げた。
 早瀬速人。醒徒会庶務。等華の見るところ、主な仕事はパシリである。
 パシリとはいえ仕事は一級であり、その誠実な仕事ぶりには等華も密かに一目置いていた。密かに、というのは、それを露にする機会がめったに無いからである。他人の評判に上るわけでもなく、本人に直接言おうにも、それは中々難しい話であった。なんとなれば、早瀬は等華のことを病的に恐れているからである。
 今しも、早瀬はゆっくりと体を起こしつつあった。朦朧とした表情で靴に手をやり、脱ごうとして何度か失敗する。隣町まで走って往復したとなればその疲労は押して知るべし。等華は自分の湯のみに茶を注ぐと、早瀬に向かって差し出した。
「ほら、これでも飲め」
「あ、りが、とう」
 ゆるゆると持ち上がった早瀬の視線が等華を捉え、
「ぎゃああああああああああああああああああ出たああああああああああああああああああ」
 搾り出された悲鳴が、湯飲みの水面に波紋を起こした。
「何しに来たんだいやまて答えは聞いてないどうか命だけはお助けあっ副会長俺は急用思い出したんでそろそろ失礼しますそれではっ!」
 立て続けの言葉が終わった時には、早瀬の姿は既にない。赤いマフラーが廊下の角に消えるのを見送って、等華は呆然と肩を落とした。早瀬の異能は加速である。早瀬のリードに追いつけるものは、学園内でも中々居ない。
「ぜんぜん仲良くなれないわねえ」
「そりゃだって早ちーガン逃げだもん。会話すらできないんじゃねえ」
 二人の言葉にため息をつくと、等華はお茶を一気に呷った。
 早瀬が等華を恐れるのは、かつて早瀬を捨てたことがあるからである。
 比喩でなく、文字通り早瀬を投げて廊下に捨てたのである。デリンジャーが風紀委員に就任した折りのごたごたの中でやってしまった事であった。提案したのはデリンジャーであったが、それにのったのは自分である。戦いの後の高揚した気分で後先考えずにしたこととはいえ、要するにリンチのようなものであるから、ガン逃げされるのも無理ない話ではある。等華はいたく反省しており、謝る機会を探しては失敗を重ねることしきりであったが、それはまた、別のお話である
「まあ気にしてもしょうがないって」
「私たちのほうからも言っておくから、機嫌を直してちょうだい」
「……そろそろお暇する。今日はご馳走になった」
「いいえ、お粗末さまでした」
 刀を拾って席を立ち、等華は資料閲覧室を辞した。
 不可抗力とはいえ、すっかり長居してしまった。窓からのぞいた空は既にして影色に染まっている。夜の見回りに出る時間が迫っていた。
 早めにはじめれば、夕食前のいい腹ごなしになるだろう。



 電話をかけにかけまくった末、等華はついにデリンジャーに連絡を取る事を断念した。面倒な事をしたという自覚はあるらしい。明日は少し文句を言ってやろうと、等華は固く心に誓った。
 等華がデリンジャーを呼ぼうとしたのは、手伝いを求めようとしての事である。
 双葉学園はむやみに広い。初等部から大学部までの敷地にはさまざまな建物が軒を連ね、なかには利用者の数が少ない建物もある。建物の外に目を転ずれば、無数の休憩所や緑地帯が視界をさえぎる。ちょっとした迷路の類である。そんな迷路を見回るのだから、風紀委員にかかる負担はひとかたならぬものがある。
 一人で見回ることに不満があるわけではない。ただ、気が滅入るのも事実である。早朝や夕方の見回りはその後に待っているものがあるから我慢が出来るが、夜にまで猫参りに行くというわけにもいかない。猫の眠りを邪魔するなどもってのほかである。
 どうにかやる気を奮い起こし、等華は重い腰を上げた。見回りの道のりはいまだ半ばといったところ。ここからが正念場だ。
 既に辺りにはすっかり闇が落ちている。まばらに設置された街灯は、灯りとしては少々頼りない。等華は懐中電灯に灯を入れ、前方にさっと明かりを投げた。
 円の中心、道端の茂みの影に、なにやら小さな動きがあった。
「何者だ!」
 投げかけた誰何の声に、影はびくりと固まった。だが駆け寄った等華に影が投げつけた声は、それは傲然たるものであった。
「いつもの巡回スケジュールと違うな。もう少し早くここを通っているはずだが。職務怠慢ではないのか?」
「黙れ。こんなところで何をしている」
「清掃ボランティアだ。この辺りはずいぶんポイ捨てが多いようだな。嘆かわしいことだ」
 缶が詰まったゴミ袋をおろして、、蛇蝎兇次郎が胸を張った。分量は両手で抱えてもなお余るほどだろうか。その表情から察するに、清掃は会心のできばえであるらしい。その軍手がヘッドライトに伸びたが、なかなか着こうとする様子は無い。電池が切れているらしい。
 なんだコイツは。
 等華は脱力して肩を落とした。
 蛇蝎は奇妙な男である。学園を支配してみせると放言しながら、その実何の行動もとろうとしない。時折高いところによじ登って大きな声を出したかと思えば、周囲の生徒に通報されてすごすごと痩躯を引っ込める。何度も訓戒を垂れる羽目になった等華にしてみれば、まことに理解しがたい相手である。
 放っておけば無害だろう。等華はさっさと行けと手を打ち振った。蛇蝎もまた鼻を鳴らしてそれに答え、再びゴミ袋を拾い上げて、
「――あら、これはこれは逢洲等華さん。ご機嫌いかが?」
 後方から投げかけられた声には、滴らんばかりの敵意が満ちている。


 声にこそ聞き覚えがあっても、こめられた敵意には覚えがない。
 にこにこと微笑む笑乃坂導花に、等華は当惑した目を向けた。
 醒徒会選挙で顔を合わせたときから、なにやら得体の知れない相手ではあった。ともに剣技を修めるものとして仲良くしようと試みたこともあったが、結果は芳しいものではなかった。ことあるごとに染み出す毒が、親しくする事を憚らせるのである。
 そしていまや、その毒はより強さを増したようであった。
 とらえどころのない微笑の裏から、隠し切れない嘲りを染み出させる。抱えたトラ猫の喉を弄えながら、力なく抗う様子に口の端を吊り上げる。それがトラマルだと見て取るや、等華の理性を焦燥が焼いた。
「笑乃坂! トラマルに何をした!」
「猫って案外もろいんですのね」
 笑乃坂はころころと笑った。
「ちょっと追いかけっこをしたらすぐこれですわ。つまらないおもちゃですこと」
「貴様!」
「そんなに怒らないでくださいな。たかが猫でしょ?」
 怒りが、等華の髪を逆立たせた。かつて笑乃坂には、猫好きであることを話した覚えがあった。それを知っていながらこの言い草。正面から侮辱されて黙っていられるほど、逢洲等華は優しくはない。
 殺気を見て取ったのか、笑乃坂が歯を覗かせ、その身をわずかに沈めた。一触即発の空気はじりじりとその熱さを増し、等華は気を張ってその臨界点を探った。先んじて仕掛けるも止むなしかと、等華が全身に力をこめたそのときである。
「笑乃坂。向こうの首尾は?」
 狙い済ましたような蛇蝎の言葉が、熱した場に水を差した。
 等華の肩から力が抜けた。機を逸した形となった。それはまた、笑乃坂も同じようである。
「場所はとりあえず確保しましたわ。もう少し練習する時間が必要だとか。あと餌も。この猫じゃ駄目なんですの?」
「試す気は無い。暇なら我輩を手伝え」
「お断りですわ」
 蛇蝎が鼻を鳴らした。
「一体何の話だ」
 水を差されたとはいえ、等華の怒りは収まってはいない。笑乃坂と親しげに言葉を交わす蛇蝎に、等華は厳しい目を向けた。猫を捨てるという話を別にしても、会話の内容は引っかかるものがある。何かの企みに違いない。事と次第によっては、強硬手段に訴えることもやむを得まい。等華は意識を研ぎ澄ませた。
 笑乃坂は蛇蝎に目をやり、蛇蝎は等華を見て鼻を鳴らした。
「時間が必要、か」
 蛇蝎がぼそりとつぶやいた。
 ついで懐に手を突っ込むと、蛇蝎は笑乃坂に向かって何かを投げわたした。暗中にもかかわらず易々と受け止められたそれは、微光をはじく小さな金属製のものさしである。
「笑乃坂、例の件だが、今やるというのはどうだ? 我輩はいけると思うが」
 続いた蛇蝎の言葉に、笑乃坂が驚いたように目を見開き、ついで嫣然と微笑んだ。
「楽勝ですわ」
 『確定予測』が、視界に白光を閃かせた。一瞬後に襲い来るはずの、笑乃坂による躊躇ない攻撃。
 向こうから仕掛けてくるとは予想外だが、かえって好都合でもあった。等華は満を持して、懐中電灯から手を離した。


 笑乃坂の攻撃は容赦のないものであった。
 踏み込み、突き込み、外したと見るや勢いを殺さず大胆に体を傾ける。抱えていたトラマルを低い姿勢から投げ出して盾とし、生じた安全地帯に身を投げ込んでそのまま前転。逆立ちの体勢から振り下ろされた脚は抜け目無く等華の腕を狙うかに見えたがそれはフェイク。地に落ちる寸前の懐中電灯を蹴り飛ばして光を奪い、等華が反撃の態勢に移ったときには、勢いの乗った前転が笑乃坂の体を間合いの外へと運び去っている。
 『確定予測』をもってして尚、追撃を許さぬ流麗な体捌きである。
 だが等華には通用しない。それは確信ですらなく、まぎれも無い事実である。
 相手の動きを事前に知る能力は、常識を超えた攻防を可能とする。その動きから察するに、笑乃坂は奇襲やからめ手に重きを置いた戦いを得意とするらしい。だが、確定予測の前にそれらは単なる妄動に成り下がる。初動こそ不覚を取ったが、それで仕留めそこなった以上、もはや笑乃坂に分はない。こちらはただ相手の出方を待ち、不意打ちを真っ向から打ち砕けばいい。
 笑乃坂の一撃にこめられた殺意が、等華から遠慮を取り去った。
 着地したトラマルをかばう位置に立つと、等華は余裕を持って二刀を引き抜き構えを取った。月陰《つきかげ》と黒陽《こくよう》に気合が篭り、その刀身をいんいんと震わせた。闇中にあってすら、自ら光を発しているように確かな存在感。
 対する笑乃坂は、間合いを保って闇に身を沈めたまま、動く気配を見せようとしない。
 奇妙なことである。
 奇襲が失敗した今、笑乃坂に出来ることはない。手にした物差しは常ならぬ切れ味を帯び、暗中での戦いにも慣れているようだが、それも等華を相手取るにはこっけいなほど力不足。ないよりよりマシとはいえ、差を埋める決め手にはなりえない。
 待ちに出るつもりなら、それこそ笑止千万である。基礎的な実力の差に加えて、『確定予測』を利用すれば正面きって不意打ちをしかけることすら容易。笑乃坂の得意とする分野ですら、等華はいとも簡単にその上を行くことが出来るのだ。
 畢竟、事態は双方にとって残酷なまでに明らかなはずである。おとなしく刃を収めればよし、さもなくば、笑乃坂は少しばかり痛い目を見ることになるだろう。トラマルに乱暴したツケは決して安くはないと、思い知ることになるはずである。
 だがそれでも、笑乃坂は構えを解かない。
 全身に緊張をみなぎらせ、ほんのわずかに位置をずらす。回り込もうとしているか? だとすれば、無駄な努力である。
 あるいは機を窺っているのだろうか? だが、何を?
 ふっと疑問が浮かんだのと、光が閃いたのは同時である。
 『確定予測』。光が目を射抜くより早く、等華はその目をかばっている。懐中電灯を拾い上げた蛇蝎が、その灯りを等華の顔へと向けたのだ。目を背けたのはほんの一瞬だが、その瞬間、等華の構えがわずかに崩れた。
 生じた隙はとても小さく、そして致命的なものである。
 声も無く地を這った笑乃坂の姿は、既に危険なほど近くに迫っていた。


 これを待っていたのか!
 『確定予測』が知らせる光景に、等華は思わず歯軋りした。
 意識から完全に抜け落ちていたほころびに付け込まれた形である。読みはいかにも甘かった。にわかに生じた焦りが、またも動きを鈍らせる。
 粘性を帯びた時間の中で、等華は己が傷つく様を幻視した。その、はずであった。
 しかし等華が見たものは、地を転がる猫の首であった。
 これほどの好機に、笑乃坂が狙ったのは等華では無かった。衝撃が、等華の心臓を握りつぶした。
 意図するところはわからない。理解できない。捨て鉢になったのか? だが何のために? 笑乃坂を狙えば止められるだろうか? 既に軌道に乗り切った攻撃を? 笑乃坂の浮かべる微笑は喜悦で歪んでいる。理解を拒むほどによこしまなその笑みに、等華は吐き気を催さずに入られなかった。トラマルに向けられた攻撃は、もはや防ぎようがない。
 声にならない悲鳴とともに、等華は笑乃坂に二刀を打ち下ろし――
「そこまでだ」
 ――すばやくトラマルをすくい上げた。うち捨てられた月陰《つきかげ》と黒陽《こくよう》がアスファルトに穴を突き立ち、身を引いた笑乃坂がその切れ味に瞠目した。状況を知らぬげに声を上げるトラマルを優しくなだめながら、等華は蛇蝎に敵意のこもった視線を向けた。獣すらすくませるだろう視線を浴びても、蛇蝎は全く動じていない。
「どう見る? 風紀委員長。彼女の実力はいかがだったかな」
「――お前ら、二人ともただで済むと思うなよ」
「なにか不幸な行き違いがあったようだな。これは単なる手合わせなんだが」
「本気で言っているのか!? 笑乃坂はトラマルを殺すところだったんだぞ!」
「そんなつもりは無い。無いに決まっている。なあ、笑乃坂」
「ええ、もちろん」
 どれほどの悪意が、この微笑の裏に潜んでいるものだろうか? あれほどまでに明確な殺気を向けておきながら、ぬけぬけとその存在を否定してみせる。ラルヴァとは異なる意味で、怪物じみて歪んだ心。等華は思わず寒気を覚えた。
 刀を拾い上げる事で、等華はどうにかすくんだ気持ちを奮い立たせた。乱暴な扱いで痛んでいる二刀の埃をはらい、丁寧に鞘に収めると、等華は二人を指弾した。
「これから二人とも風紀委員室に出頭してもらう。風紀委員に刃を向けた咎でだ。文句は言わさない」
「刃だと? は、もしかして我輩のものさしの事を言っているのか?」
 蛇蝎が笑乃坂の手から物差しを受け取って等華に示した。どこにでもある、普通のものさし。先ほどまで具えていた切れ味は、綺麗さっぱり消え去っている。
「暗いから見まごうたというのも無理ないが、それにしても動揺しすぎではないか? 風紀委員長殿は」
「何でもいい! お前たち二人とも早く来い!」
「我輩は別にいっても仕方があるまい。しかし良かったな、笑乃坂。どうやら採用のようだぞ」
「何の話だ!」
「風紀委員長殿が今しがた、風紀委員の採用試験を行い、笑乃坂くんが合格したという話だよ」
「はあ?」
 話が全く読めない。困惑が怒りを押しとどめ、その様を見て、得たりとばかりに蛇蝎が両手を振り上げた。
「まだ申請書を見ていないのか? この笑乃坂くんは、風紀委員会への入部を希望しているのだよ。で、今の手合わせが採用試験に当たるわけだ。違うのか?」
「ばかげた事を! なにが採用試験だ! 人に刃を向けておいて、よくもぬけぬけとそんな事をいえたものだな!」
「なるほどな、向けられるのは銃口のほうがお好みというわけか? ははは、とんだ数寄者だな、風紀委員長殿は!」
 冗談めかして笑う蛇蝎の口から、こらえきれないように高笑いがほとばしった。
「我輩が聞き及ぶところに寄れば、もう一人のトリガーハッピー委員長と貴様は、初めて会ったそのときに殺し合いをやってのけたそうではないか? してみれば、こと風紀委員においては、武器を交わすことこそが相互理解の早道であるとみなされているのではないかな? 話を聞いたときから、我輩はそう思っていたのだよ。
 もちろんひどく野蛮なことではあるが、なにぶん郷に入れば郷に従えとも言うしな。凡愚どものやることにいちいち文句を言ってもしょうがない。だが下らん風習で相手に怪我させてもつまらんだろう? 仕方なく我輩は仮初の武器がわりとしてものさしを笑乃坂に貸与した。安全に実力を見極めてもらえるようにと考えてのことだ。どこかの風紀委員長殿はそうした配慮にまで気が及ばなかったようだがな」
 ようやく理解が追いついてきた。蛇蝎がとうとうと口に上らせているのは、とんでもない暴論であった。今しがたの殺し合いが、合意の下に行われた模擬戦だと言い張ろうとしているらしい。信じられなかった。蛇蝎の賢しげな面に拳をたたきつけたいという心を懸命に抑え、等華はなんとか平静な声を絞り出した。
「……本気で言っているのか」
「無論だとも。実力の程は充分伝わっただろう? 笑乃坂をよろしく頼んだぞ、風紀委員長殿」
 あるいは本気なのかもしれない。そう思わせるほどに、蛇蝎の態度はゆるぎない。単なる変わり者だと思っていたが、その胆力には侮りがたいものがある。等華は内心、蛇蝎に対する認識を改めた。
「……笑乃坂の加入は認められない。私は話を聞いていなかったし、もう一人と協議する必要もある。何よりあんなやり方は――」
「実は、『暴力を振るったのは間違いない』とかなんとかいちゃもんを付けられてしょっ引かれたらどうしようかと危惧していたのだよ。誤解が解けたようでなによりだ」
 蛇蝎の大声が、等華の言葉をさえぎった。
「もうすこし公私混同の激しい脳筋女だと思っていたが、どうやら少しは使える頭があるようで何よりだ。その調子で笑乃坂とも仲良くしてもらいたいものだな」
「それは違う! お前たち、いいから早く来い!」
「断る。我輩は何もしていないからな。それに」
 蛇蝎が顎をしゃくった。
「どうやら笑乃坂は痺れを切らしてしまったようだ。行儀が悪い点は我輩からお詫びしよう」
 等華は目を見開いた。ほんのついさっきまでそこにいたはずの笑乃坂が、いつの間にかその姿を消している。気配すら感じさせない完全な消失。蛇蝎のほうに注意をひきつけられ、頭にも血が上っていたとはいえ、それでも見逃すとは思えない。信じられない。
「さて、我輩はそろそろ失礼するとしよう。それでは仕事をがんばってくれたまえ、風紀委員長殿」
 懐中電灯を等華に押し付けると、蛇蝎は勝ち誇ったように高笑いを上げて背を向けた。缶が詰まったゴミ袋を引きずり、暗闇の中を悠々たる足取りで去っていく。呆然とそれを見送ると、等華は思わずひざを付いた。限界まで張り詰めた緊張の糸は、いまやすっかり緩んでいた。
 なんだったんだ、今のは。
 首を振ってため息をついた等華に、そっと擦り寄るものがあった。トラマルだ。気遣わしげに見上げながら、鳴き声をあげて等華の靴を引っかく。慈愛をこめて優しく抱き上げると、等華はトラマルに頬ずりした。
「大丈夫だったか? 怪我はないな? 怖い思いをさせてしまったな」
「にゃー」
 トラマルが喉を鳴らして等華の頬を舐めた。どうやら機嫌を損ねてはいないらしい。等華は深い安堵を覚えた。
「今日はどこに行っていたんだ? 心配したんだぞ」
「にゃー」
「よしよし。実はいいおもちゃがあるんだぞ。どうだ、遊びたくないか」
「ふぎー」
 無邪気な鳴き声に、凝った気持ちが解けていく。身じろぎして腕の中をすり抜けたトラマルに、等華は優しい笑みを向けた。多少ごたごたがあったとはいえ、今日もなべてこともなし。いや、無かったことにしてしまいたい。全身にたまった疲労は、まったく常に無い重みであった。
「よし、残りをさっさと終わらせるか。トラマル、よかったら付き合ってくれ……トラマル?」
 トラマルは答えない。地面の一点を見据え、なにやら臭いをかいでいる。脇にしゃがみこんだ等華に、トラマルは不安そうな目を向けて鳴き声をあげた。何気なく手をやり、ついで懐中電灯の明かりを向けて、等華は瞠目した。
 地面がすり鉢上に小さくえぐれていた。まるでどうにかして切り取ったとでも言うように滑らかな断面。自然に出来るようなものとは思えなかった。ラルヴァか――さもなくば誰かの振るった異能の跡か。
 ここは、笑乃坂が先ほどまで立っていた位置ではないだろうか? 先ほどの消失と、何かしら関係があるのではないか? 疑念が、ちらりと脳裏を掠め――そしてすぐさま消えうせた。それ以上考えを進めることはできなかった。全身に染み入った疲労が、たくさんのものを麻痺させていた。
 今日はもう帰るか。
 再びトラマルを抱きあげると、等華はその身を抱きしめた。トラマルは抗議するように声を上げたが、幾らもしないうちにその身をされるがままにゆだねた。一人と一匹は、いまや分かちがたく一つである。



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最終更新:2009年10月11日 22:30
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