【秋の空 夏の風】



     Ⅰ

 そこは何もない村だった。人といえば六十歳以上の老人ばかりで、若者はとうにこの村を見捨てていた。ダム事業を反対しようという勢力も遠い昔。今では、この村がダムの底に沈むのも時間の問題だった。
 だから、この村はある意味存在していないようなものだ。社会的にも精神的にも常世と現世の狭間にあるようなものだった。
 そんな、人気のない村に一組の若い男女が訪れていた。
 男性はおおよそ標準的な二十歳前後だろう、中肉中背で平均的な身長やありふれた顔つきなど、どこにでもいそうな大学生という風体。ただし、袖や襟など、所々生地が擦り切れた、年代物と言って済ませるにはボロ過ぎるM-51フィールドパーカーを羽織っているのが、見た目の印象を著しく悪くしていた。
 もう一人の女性は、彼よりも年上だろうか? 凛とした顔つきもあって大人びた印象がある。年のころは二十代半ばといったところ。身長は男性よりも十センチほど高く、細い四肢や折れそうな腰周りなど、非常にスレンダーだ。真っ黒で身体に張り付くようなニットとスキニーデニムパンツがそれをより強調している。洋服同様に漆黒の髪は艶やかで、ショートボブにキレイに切りそろえられ、陶磁のような白い肌を際立たせていた。
 大自然が広がる牧歌的でどこかうらぶれた風景に不釣合いなこの二人に、日課の畑の手入れに向かっていた老婆が、優しく声を掛ける。
「おやまあ、あんたがたのような若い人がこの村に訪れるなんて珍しいことだねえ」
「お婆さん、申し訳ないのだが、志木《しき》トメさんの家はどちらだろうか?」
 二十歳前後のその男性は、非常に事務的な口調で質問する。無表情に無感情に。
「おー、おー! 志木さんのところかい? 志木さんのところなら、ここから山の方にまっすぐ進んで、大きな桜の木のところで右に曲がった先にあるやね」
「そうですか、有難うございます」
 男性と女性は恭しく深く頭を上げ、感謝を表す。そして、男は手元にある地図を確認し、老婆の指さす方向へと二人揃って歩き始めていた。
 その後姿を見ながら、老婆は不思議に思う。
(しかし、なんじゃって、志木さんの所に行くんかねえ? あそこは、何年も誰も立ち寄った場所じゃないというに……)


 男の額に汗が滲んでいた。先ほど聞いた老婆の道案内に出てきた桜の木が見当たらず、延々と歩きまくっていたからだ。行き過ぎたのかもしれないと男は思う。
 そして、疲労のせいなのか、顔は青白くなり、足を縺れさせ倒れそうになる。
「義《よし》くん?」
 彼の傍を歩いていた女性が、その身長とは不釣合いなか細い腕で、倒れそうになる男性を支えようとする。
「ああ、大丈夫」
 ふらつく足を意思で制御し、何とか倒れるのを免れると、男性は傍らにいた自分を支えようとする女性に優しく声を掛け、その差し出した手を柔らかく拒絶する。
 その男の行為と言葉に反応するように、女性の黒い濡れた瞳に憂いが浮かぶ。彼女の気持ちに気が付いたのか、男は話題を変えることにした。
「やっぱり、ポータブルナビか件の生徒手帳を持ってくるべきだったかな」
「でも、今回は学園の仕事とは違うからって、自室に置いていったのは義《よし》くんですよ? それなら何故最初から持ってこなかったですか?」
 彼女は、大きな身体を精一杯かがませ、どこまでも深そうな真っ黒な瞳で、義くんと呼ぶ自分よりも小さい男の目を見つめる。先ほどまで潤んでいた瞳は嘘のように楽しげに輝いていた。
「ああ、なんでだろうな。、自分に“必要”なことだから、学園の力を少しでも借りたくなかったんだろう」
「でも、同じ志木姓でも、義くんとトメ様は遠いご関係だったとお聞きしましたけど?」
 地図と周りの風景を確認しつつ、志木は、彼女の言葉に事務的に反応する。
「そうでもないらしい。だから、今、ここにいるんだ。ところで、北ってどっちだ? ペルセフォネ」
「え、えーとっ……」
 そう言って、ペルセフォネと呼ばれた女性は人差し指をペロっとなめ、その指を空にかざす。
「……それで分かるのか?」
「多分、こっちではないかと」
 険しい山へと続く、ろくに整備されていない道を指差すペルセフォネを残念そうに見つめながら、志木は大きなため息を一つつく。
「―――いいか、それは風向きを調べる方法だ。さっきも言ったが、方向を聞かれたら、お前の手の中にある、その方位磁針を見ればいい」
「はい、義くん!」
 その屈託のない明るい声に志木は軽い頭痛を起こしながらも、彼女の手の中にある方位磁針の針の向きを確認すると、もう一度、自分の手元にある地図を見直すことにした。
(さて、お婆ちゃんの家にはいつになったら着くんだろうな……)
 男が落ち着いて周りを見渡すと、僅かに山頂が白くなった険峻な山脈はすぐ目の前に迫り、周りには所々紅葉しかけた広葉樹が広がっていた。人らしい影も家屋も見えない。いるのは赤々とした身体を誇示するように空を飛ぶアキアカネだけだ。
 二人の目指す場所は未だに見えてこない。
「いやー、義くん、それにしても、さ《・》ん《・》み《・》ゃ《・》く《・》ろくじゅう度、山脈だらけで絶景ですねー」
 都会の喧騒に疲れた人たちが羨みそうな大自然の風景を目の前に、志木は『夕暮れ前に見つけられますように』と、神に祈っても鼻で笑われない程度の希望を、心の短冊に書き込むことにした。


 太陽も傾きかけた頃合、ようやく二人は目的の場所に到着していた。それは茅葺屋根の古めかしい家だった。長期間放置されていたのであろう、かなりの老朽化が進んでおり、破損も激しく、屋根や壁など、剥落しているところも多い。完全な廃屋だ。
「ずいぶんと、ボロイ……じゃなくて草臥れた家ですね」
「お前は建前というものを学んだ方がいいな」
「家を建てる時に餅を撒くというアレですか?」
「……」
「どうしました?」
「中に入るぞ」
「あれ? どーしたんですかー、義くん?」
 見当違いの答えをするペルセフォネを無視し、ポケットから取り出した鍵で玄関を開けると、志木は建物の奥へと進入する。
「待って下さいよ、義くん。うわわっ! ほら、でっかいゲジゲジですよ! 見てください―――あれ? どこ行ったんですかー、置いてかないで下さいよー」
 志木は荒れた室内を土足のまま上がってく。雨戸が閉まっているためか、中は薄暗い。リュックからLEDライト引っ張りだし、それを点灯させ、周りを伺う。その光を嫌うように様々な虫が、壁や床、天井を這って逃げていった。
 志木は、その光を頼りに廊下を先へと進んでいく。
 一歩足を踏み込むだけで、痛んでいると分かる廊下はそのまま台所に繋がっているようで、志木はそちらへと慎重に歩き出していた。
「割れた食器に気をつけろよ」
 後ろで大きな身体を縮こませ、恐々と付いてくるペルセフォネに声を掛ける。
「は、はひ」
 そういう彼女は志木のフィールドパーカーの端を握っていた手の力を更に強くする。
 男は、台所の横にある引き戸の前に立ち、すっかり建てつけの悪くなったその戸をガタガタと揺らしながら引きずり開ける。振動で頭に埃が降りかかる。
 戸を開けた先にあった部屋は埃まみれになった居間だった。中央にある大きめのちゃぶ台は足が一本折れて傾き、部屋の隅にあるブラウン管式テレビの画面は割れ、その上に置かれている博多人形のケースもすでになく、人形も当時の美しさのかけらもないほどに煤けて不気味な容貌になっていた。他にも熊の木彫りの人形に市松人形、マングースとハブの剥製、巨大なこけしなど、なんとも微妙なものばかりが部屋にはそこかしこに飾られていた。悪趣味な観光土産を集めるのがこの家の主の趣味だったのだろう。
 そんな時代錯誤な調度品を無視し、志木は足元の畳にマグライトをかざす。雨漏りがあるのか、所々、畳が変色しているのが分かる。おそらく、腐っているようで、そこを軽く踏むと抜けそうな程に柔らかくなっていた。
 志木は、畳を踏み抜かないように、雨戸の隙間から漏れる明かりの方向を目指し、慎重に足を進める。そして、縁側に繋がる破れた障子戸の前へと近づいた瞬間……。
「あひゃぁっ!?」
 背後から聞こえてきた拍子抜けするような声とともに上着が急に強く下へと引っ張られ、思わず後ろへと倒れこんでしまう。
「一体なんだ?」
 強かに打ちつけた腰を摩りながら、志木が横を見ると、埃だらけになり、つっ伏したペルセフォネが転がっている。その右足は床を豪快に踏み抜いていた。
「いい加減にしろ」
 やれやれといった表情をしながら、志木はつっ伏したペルセフォネを立ち上がらせ、埃を払ってやる。
「す、すいません」
 ペルセフォネは悪戯を怒られた子犬のようにしょんぼりとする。
 志木は、障子戸の残骸を超え、縁側へと出る。縁側の板張りも一歩踏み出す出すだけでギシギシというほどに傷みが進んでおり、志木は、これ以上彼女が床を踏み抜かないように、その旨を懇切丁寧にペルセフォネに伝えることにした。
 おっかなびっくりに足を進める彼女の姿を見ながら、どうしてこうも不器用なのだろうと志木は不思議に思う。そして、彼女もようやく雨戸の前までたどり着く。
「雨戸を開けるぞ」
「はいっ!」
 二人が同時に雨戸を開けると、僅かに冷ややかな秋風が頬に当たる。
 目の前には、巨大な山脈が絵画のように壁となって峰を連ねている。それは圧倒的なまでに人間の矮小さを表現するに足るもので、沈みかけた夕日が、その光景を橙色に染め上げているのも印象的っだった。
「うっわーっ、キレイですよー! キレイですよー、義くん!? ちょっとお庭がお手入れされえなくて、雑草でぼーぼーで貧乏くさそうなのが残念ですけど」
「……」
「あれ? どうしました」
「なんでもない」
 目頭をつまみながら、志木は自分の心中に湧き上がったはずであろう感動をぶち壊されたことをぐっと我慢する。
 だが、その瞬間。
「よ、義くん?」
 突然、何かを知らせるようにペルセフォネが志木の肩を大きく揺さぶる。その手は僅かに震えていた。
「どうした?」
「あ、あれで……す」
 震えながら彼女は部屋の一点を指差し、無理やりに志木の身体をそちらに向ける。そして、その大きな身体を、自分よりも小柄な志木を盾にするように精一杯小さくしている。
 なるほど、そこには曖昧な形状をした物体が浮かんでいた。人のようで人でなく、光のようで闇のよう。不定形で、不安定。存在感さえもこの次元と他の次元を行き来しているように揺らめき、不確定だった。
「なるほど、これか」
 志木は、その物体がこちらへゆっくりと近づいてくるのに物怖じせず、隅々まで調査しようと、見つめている。
「そ、そんな落ち着いてる場合じゃないでしゅよー」
 あまりの恐怖に思わず語尾を噛む。
「まあ、そうだな。人の魂も浮かばれなければ化物《ラルヴア》ということだ……」
 鼻先三十センチまでその影が近づいたところで、満足したのか、志木はペルセフォネにようやく声を掛ける。
「さて、それではペルセ、仕事の時間だ」
「はひっ!」
 ペルセフォネはそう言うと両手を自分の胸に当て、小声で呪文めいたものを呟く。
 詠唱が終わる。すると、彼女の身体の隅々からプラチナ色の光の粒がゆっくりと分離、放出される。
 彼女自身は完全な光の粒となり、志木を含めた、この廃墟すべてがその光に包まれる。志木の目の前が真っ白になり、光景が反転する。


 志木の目の前をギンヤンマが元気に飛び過ぎていく。肌にジワリと汗が吹き出てくる。明らかに暑かった。先ほどまでは僅かに肌寒ささえ感じていたのに……そう志木は思いを巡らす。
(八月? いや、七月か?)
 眼前に広がる山脈も先ほど以上に美しくオレンジ色に染まり、ヒグラシもうるさく鳴いている。目の前の庭は雑草一本さえないほどに手入れが行き届いており、花壇にはひまわりなどの夏ならではの花々が咲き誇っていた。振り向くと、障子の向こうの居間には、博多人形などの時代錯誤な飾り物に並んで、壁掛け式の振り子時計がゆるやかに時を刻んでいる。
(今は何年前なのだろう?)
 彼の傍にはペルセフォネはいなかった。
 ただ彼は独り、ぼんやりとしながら、縁側の廊下にポツリと座っていた。
「おんや、春坊、どうしたね」
 その声に、志木は知らず懐かしさで震えてしまう。その心の底から湧き上がる感情が抑えきれずに声の方向に振り返る。
 そこには、自分が幼いころから見慣れた優しそうな笑みを浮かべる老婆が一人、お盆に三角に切ったスイカを載せて佇んでいた。数多い皺に隠れてしまった暖かげな瞳、長年の農作業で大きく曲がった腰、水仕事などでささくれ立ち、皺だらけになった腕と指。彼女のこれまでの苦労を示す真っ白な髪の毛。どれもが、彼が先ほどまで忘れていた思い出の中にあるものであった。
「……」
 志木は、自分の気持ちの高ぶりとは裏腹に何をどう言ってよいのか分からずに、その場に固まってしまう。
「どうしたい? 春坊。こっちきて、一緒にスイカ食わんかね?」
「……うん」
 そう言うと、志木は立ち上がり、老婆の持つお盆から“小さな子供のような手を伸ばし”スイカを手に取るとムシャムシャと食べ始める。その途中で口に入ってくる種を無造作に庭に吐き出す。
「これ、春坊、行儀が悪いよ」
 柔らかい言葉で、優しい表情で注意するそれは、何故か志木の心に大きく突き刺さり萎縮させてしまうものだった。
「ご、御免なさいっ」
 志木はまるで、“幼い子供のように”反省する。
「ええんよ、うん。ええんよ」
「ゴメンナサイ……」
 志木は、皺だらけで無数の傷が刻まれた手で、その小さな頭を優しく撫でられる。それはガサガサした感触だったが、暖かく気持ちがよい。
「春坊。春坊にはほんに悪いと思っとる。子供なのにこんなことになってな」
「どういうこと?」
「わしらの孫だからね。こうなることはわかっとった。済まんのう。どうか、わしらを許《・》し《・》て《・》くれや」
「うん」
 老婆は志木の“小さな身体を”を強く抱きしめる。言っている意味は分からなかったが、老婆の暖かさ、優しさだけは肌を超えて感じることができる。
 だが、その時間は短い、永遠に味わいたい感触はゆっくりと無慈悲に消えていき、それに気が付いた志木が顔を上げると、老婆の姿も霞のように目の前から消えていく。
 志木は、何か大事なものが消えてしまったことに気が付くと同時に、それに見合うだけの大事なものを思い出していた。
「義く~ん!」
 庭の向こうから自分を呼ぶ声が聞こえてくることに志木は気づく。その声は聞き覚えがある女の子の声だった。そちらに振り向き、彼女を見る。遠めではあるが、自分よりもやや背の高い女の子なことが分かる。だが表情が、顔が見えない。どんな顔だろう?
 そう思い、目を凝らそうとする瞬間……。


 夢は覚める。現実に引き戻される。
 そこにあるのはそこかしこが朽ちたあばら家であり、手入れの行き届いていない雑草だらけの庭。
 先ほど目の前まで迫っていた不定形な物体ももうどこにも存在しない。
 床を見ると、LEDのマグライトが点灯したまま転がっていた。
 その場にいるのは、頬を涙で濡らす青年と、それを後ろから強く優しく抱きしめる女性の二人だけ。
「ふん……」
 気がつけば日は沈み、周りはすっかり暗くなっていた。とりあえず、人家の多い麓まで帰れるのか? それが志木の最大の心配だった。


     Ⅱ


「いよーっ! 義春ー!!」
 そう言って、志木の背中を叩きながら、大柄な男が後ろから声を掛ける。
「ああ」
 そっけなく、志木義春《しきよしはる》は応対する。
「相変わらず、元気だな」
「お前は、相変わらず無表情だなぁ? で、昨日の収穫はあったのかよ!」
「ああ」
「そいつは良かった! はははははっ!!」
 そう言って、豪快に笑いながら大男は講義室から去っていく。これから講義だというのに、退出してどうするのだろう? と義春は思うが、彼の立場を思い出し納得する。
 おそらく、醒徒会の仕事か何かなのだろう。
「まあ、いいか……」
 義春はボソリと呟くと、これから始まる授業のための準備をすることにした。
「義くん、彼は私たちの昨日の行動を知っているようですけど、殺《や》っときますか?」
 隣に座っていた女性が義春にそう囁く。ペルセフォネだった。
「ああ、いいんだ。彼は問題ない。こちら側の人間だ。ただ……」
「ただ?」
「彼を追いかけていった銀髪の女性は分からないけど」
「そういえばいましたね。怪しげな動きをしてましたけど、あれって“すぽーつかー”って人ですよね?」
「さ、授業が始まるぞ」
 そう呟いた瞬間、後ろの席にいた、大学のキャンパスにいるには少々童顔な男の子が志木に声を掛ける。
「なあ、志木」
「なんだ?」
「前々から聞こうと思っていたんだけど、彼女は駄洒落が好きなのか? それとも天然なのか?」
 無表情な顔が僅かに歪む。
「……そうだな、どっちでもあって、どっちでもない」
「言ってることが良く分からないんだけど」
 教室の扉が開き、教授が入ってくる。長い午後の授業の始まりだった。


     Ⅲ


 病室のベッドに女性が横たわっていた。周りには様々な機器が並び、それらに繋がれた多くのチューブが身体中を縦横無尽に這っている。そんな姿をよそに、看護士は彼女の関係者らしき人物に事の次第を説明していた。
「残念とは思いますが、おそらく、現状で、彼女の回復は無理かと……」
 寄り添うよに手を握り、その姿を見守っていた女の子がその意見に抗う。
「ここだったら、治癒能力者だっているでしょっ!? 何が無理だって言うのよ」
 彼女は場も弁えず声を荒げるが、それは残った僅かな力を搾り出すような切実さで覇気はなく、彼女自身も限界に近いことを示していた。長く付き添い、看病していたのだろう、憔悴しきった顔つきからもそれが理解できた。
「だから、全くもって原因が不明なんだ。私たちにはどうすることもできない」
 彼女の担当医である黒丹譲治《こくたんじょうじ》が、目の前の現実を否定しようとするその女性に声を掛ける。彼から見ても良く分かる、瀕死の状態の妹を助けたいのだ。そんなことは当たり前のことだ。
「だったら、助けられるような能力者を呼んでくださいよ! だって、人が一人死のうとしてるんですよ?」
 その言葉に白髪交じりの無精ひげを生やした黒丹は、自分の力のなさを痛感する。この感覚は何度味わっても慣れないと彼は思った。そして、今後もこの無力さを何度も味わうことになるのを苦々しく思う。
「いいですか? “たまたま”不運にも正体不明の化物《ラルヴア》に出会い、あなたの妹さんがダメージを受けたのは事実としても、原因が分からなければ、処置のしようがないんです。幾万人の治癒者を呼んだところで、現実は変わりませんよ」
 黒丹の傍に立っていた看護士は手元にあるカルテを見ながら、彼の言いづらいことを冷徹かつ平静に短い言葉で彼女に突きつける。
「彼女は長くありません」
 恐らく、彼女にとってもこの言葉を相手に伝えるのは本意ではないのだろう。
「だから、そのまま、何も手を施さず、座して死ねと?」
 ベッドに横たわっている人物の姉はそう反論する。だが、理想や空想では世の中は動かない。だから、事実を知っている人たちは、現実を直視している人たちは、それを知らない傍観者のささやかな希望を摘み取ってしまおうとするものだ。
「そんなことは言っていない。私たちは、別に人が死ぬことを楽しんでいるわけじゃない。ただ、打つ手がないのだよ」
 あごに生えた無精ひげを摩りながら、黒丹医師は彼女に理解を求めようとしていた。
 だが、それは彼女の気持ちからすれば無理な事柄だった。そして、それも彼は十分に理解していた。


 消毒液や薬剤の匂いが漂う双葉学園付属病院の廊下を、志木義春とペルセフォネは目的の場所へ向かってゆっくりと歩いていた。
 医師が、看護士が、患者たちが、廊下を歩く彼らの姿を見やり、口々に噂するのに義春は辟易する。
「見ろよ、死神さんだ」
「やっぱり誰か死ぬんだ」
「ホント、こなければいいのに」
 おろおろしながら、彼の後ろに付き随っていたペルセフォネが心配して声を掛ける。
「き、きにしちゃ駄目ですよ義くん」
「別に気にしてないから安心しろ」
「で、でもですね……」
 義春は彼女の心配を無視して、表情を変えずに目的の部屋へと進んでいった。


「だから、直せる力を持った能力者を呼んでくださいよっ!」
 彼女の意見はもっともだと黒丹医師は思う。異能の力は現実をねじまげる。死する人でさえ、冥界の門を開き、現世に呼び戻すことさえ可能だ。ただ、それは高位の能力者の話であり、そんな、生死を捻じ曲げるような異能者は、双葉学園の中でもほんの僅か。
 だが、現状で、目の前に横たわっている女性を助ける術はない。彼自身も能力者ではあったが、処置のしようがないものだった。
 というよりも、原因が全く不明なのだ。何故なら、身体のどこにも異常が見られないからだ。そう悩んでいる時、ナースステーションから帰ってきた看護士が耳元でなにやら呟く。
 彼はその言葉を理解する。彼女は見捨てられたと……。その時だ、病室の扉がゆっくりと開く。廊下の冷気が病室に流れ込む。
「失礼。須永薫《すながかおる》の病室はこちらだろうか?」
 そこには、フィールドパーカーを着た男と真っ黒な服を着た女性が立っていた。
 二人を見たとたんに黒丹は苦虫を噛み潰したような顔をする。彼らの来た意味を理解したからだ。
「それは、上の決定なのかね?」
 黒丹の言葉に志木は頷く。
 一方、突然の見ず知らずの来訪者に、須永薫の姉である芳香 《よしか》は何事かと警戒する。そして、医師の反応と、以前、学園内の噂として聞いたことのある男女二人の風貌に彼らが一致することに、寒気と同時に怒りが心の中から込み上がってくる。
(私たちは見捨てられたのだ……)
「あ、あんた達っ、薫を殺しにきたのね!? 知ってるわよ、噂。今すぐここから出て行ってっっ!!」
「ふむ、別に彼女を殺しに来たのではない。自分たちの仕事を遂行するために来ただけだ。何か勘違いをしてやしないか。…………いや、まて。その表現もあながち間違ってはいないかもしれないな」
「義くん! そ、そそ、そんにゃこと言っちゃ駄目ですよー」
 志木の後ろでペルセフォネがオロオロとうろたえ、思わず言葉を噛んでしまう。自分の口から出る歯に衣着せぬ言葉には無頓着なのに、他人の、特に志木の言葉に繊細に反応するのは、彼女の性分なのだろう。
「やっぱり、噂通りの死神なのね。それなら今すぐ出て行って!」
 そういって芳香は志木の胸を強く押し、病室から追い出そうとする。その手は押し出す力とは真逆に弱々しく震えていた。目の前にある恐怖と絶望を打ち消したかったのだろう。
 だが、噂に聞いた死神は目の前に存在し、彼女の力をもってしてはここから追い出すこともできない。
 その時、須永薫の様態が急変する。まるで、見えない何者かに絞殺されているかのように苦しみ始める。周りに設置された機材も各々にアラートの表示と警告音をけたたましく鳴り響かせる。
「ペルセフォネ、仕事の時間だ」
「で、でも」
 彼女は、自分たちが拒絶されていることに戸惑い、悲しんでいた。
 彼らは決して、死を待つ人々を冥界へと招き入れる死神の類ではない。自ら他人の命を刈り取るようなことはしないからだ。ただ、人が、魂源力《アツイルト》を持った能力者が、悪霊《レイス》と化するのを防いでいるだけなのだ。
 魂の浄化、能力者の化物《ラルヴア》への転生の抑止。それが彼らの持つ本当の役割。だが、人々はそれを理解しない。
 いや、理解しようとしない。何故なら、彼らは該当者《ターゲット》の生が絶望的な状態になって初めて、その場に現れるのだから……。
 いつの間にか、苦しそうにベッドの上でもがく須永薫の横に立っていたペルセフォネが右手を胸に当て、左手を彼女の胸に当て、何事か唱え始める。
「やめて―――――っ!!」
 須永芳香が絶叫する。そして……。
 周りは彼女から放出される白金色の粒子に包まれ、そして、目が眩むほどの輝きで周囲が満たされる。その輝きが収まった時には、ペルセフォネは病室から消えうせていた。
 一方、須永薫の容態は安定したようで、先ほどまでの苦しみもがく姿が嘘のようだ。機材も正常であることを示している。
「あいつは薫に何をした!!」
 芳香は、目の前で起きたことを理解できぬまま、志木の胸倉を掴み、事の次第を問いただそうとする。
「落ち着くんだ」
 黒丹医師と看護士は彼女を落ち着かせようとするが、彼女はそれもお構いなしに志木の胸倉を掴み、事の次第を問いただそうとする。
「どういうこと?」
 彼女の頬は涙で濡れていた。それはそうだ、自分の妹が死ぬと理解すれば、それを妨害しようともするし、絶望もする。そんな行為は当たり前のことである。
 だが、彼女の直情的な行為と感情を無視し、志木は事務的に言葉を返す。
「ペルセフォネは、彼女、須永薫の心の中に侵入した。彼女の人生の中で一番幸せな過去を再生するために……」
 横たわる須永薫は、安らかな表情だった。この病室に運び込まれて初めての、そして芳香が久しぶりに見る笑顔だった。


 永遠とも思える苦痛を繰り返していた須永薫は、突然その苦痛から開放されたと同時に海沿いにあるバス停に立っていることを不思議に思っていた。
 ことの次第を思い出そうとするが上手くいかない。まるで、その行為自体が何者かに阻害されているようだ。
「ねーねー、薫ちゃん、あれ見て! 変なカタチした岩があるよー」
 その声に反応し横を見ると、双子で姉である芳香が面白そうに海の方を指差していた。
「ああ、あれはね、猿島って言うの。お猿さんが座ってるみたいでしょ?」
 そう言って説明し始めるのは彼女たちの母親だった。
「他にもね、ここには色々な島があるのよ。明日にでも見に行きましょうね」
『うん!』
「さあ、二人とも、お婆ちゃんの家はこっちよ」
 そういって、母親は二人に優しく微笑みかけると、大きな荷物を持ち上げ、海岸沿いの道をゆっくりと歩き始める。彼女たちも小さな手を繋ぎ、お揃いのリュックを揺らしながら、母親の後をついていく。歩きながら、頬に当たる浜風が心地よいと薫は思っていた。
 そして、その道の先には祖母の家がある、そのことを薫は思い出していた。


『♪はっぴばーすでー、よしかー、はっぴばーすでー、かおるー♪』
 四人の前には六本の蝋燭が立っている小さなバースデイケーキが置いてある。イチゴやクリームで飾り立てられ、中央には『おたんじょうびおめでとう 薫ちゃん 芳香ちゃん』と書かれたホワイトチョコが立っている。
 薫はこれは自分たちの六歳の誕生日だと思い出す。大好きなお姉ちゃんとお母さん、そして、お婆ちゃんも一緒だ。
「さあ、二人とも、蝋燭を吹き消して! 一回で消さないと駄目よ? でないと、プレゼントはあげられないんだから」
 二人の母親が、悪戯っ子のような笑顔を彼女たちに向ける。
『えーっ!?』
 双子らしく、薫たちは同時に声を上げてしまう。
「どうしよう? 芳香ちゃん」
「大丈夫だよ、せーので一緒に吹けば全部消えるよ」
「そうかな?」
「うん」
 そんなやり取りを母と祖母はクスクスと笑いながら見守っていた。
『せーの!』
 二人が精一杯の力で息を吹きかけると、六本の蝋燭の火が揺らめき、消える。
『やったーっ!!』
 手を取り合い、喜ぶ薫と芳香。
「よかったのー。薫ちゃんも芳香ちゃんも。さあ、これがプレゼントだよ」
 そう祖母が言うと、母親と祖母は、薫と芳香それぞれに小さな箱を渡す。薫の箱には赤いリボン、芳香の物には青いリボンがそれぞれ飾り付けられていた。
 二人は嬉しそうにリボンを紐解き、包み紙を剥がす。そして、箱を開くと花の形をした髪飾りが入っていた。色はリボンと同じ赤と青。中央には誕生石である紅玉《ルビー》が填め込まれている。
『うわーっ! カワイイー』
 二人は、早速互いに髪に留めあい、どちらが似合うか嬉しそうに競い合っている。母親と祖母はそれを暖かく見つめていた。
「さあさあ、二人ともお食事にしましょう。もう、いつまでもそうやって遊んでると、この大きなチョコはお母さんが食べちゃうぞ~」
『えー!?』


(そうだ、これは私の幼い頃の記憶。母と祖母、そして姉と一緒に過ごした一番暖かい日々……)
 須永薫の心が幸せで満たされる。こんな人たちと過ごせたことを、優しい母の子であったこと。大好きな姉と一緒に生まれたこと……。
 心は満たされたはずだった。
 だが、彼女の目の前にノイズが走る。不快な音と共に景色が歪む。空気が淀む。
 今までの風景が一転する。
 薫の目の前には大きな黒い水溜りが広がっていた。その黒ずんだ池の中央には、おそらく人であったものが横たわっている。四肢は引きちぎられ、そのカタチさえ無くし、達磨となった身体も引き裂かれた腹部からことごとく臓物が引き出され散乱している。汚物と血の臭いが狭い部屋を支配している。
 薫は部屋の隅で震えていた、芳香と一緒に抱き合い、震えていた。僅か数分前まで大好きな母親の身体を流れていたものが二人の顔と身体を汚していた。
(どうして、どうしてこうなったの……嗚呼!!)
 その時、どこからか声が聞こえてくる。
『さあ、こちら側へいらっしゃい』
 それは母の声に間違いなかった。いつも優しかった母の言葉。
 そうだ、向こうへ行ってしまおう。そうすれば楽になる。薫はそんな気持ちを抱き始めていた。


「どういうことだっ?」
 黒丹は、患者の容態が急に悪化したことに驚いていた。これまで、このような事態になったことはなく、患者は彼女の能力によって、静かに息を引取るのが常だったからだ。
「ふむ、どうもペルセフォネが失敗したようだ」
 いたく冷静に言葉を返す志木に苛立ちを覚え、もう一度黒丹は問いただす。
「だから、どういうことだ?」
「なんらかの内的要因によって、彼女の能力が阻害、もしくは途中で解除されたのだろう。魂の悪霊《レイス》化の予兆だ」
 その言葉に応じたかのように、志木の隣に黒い闇のようなものが現れ、それが人の形を成し始める。完全に実体化すると同時に、その場に倒れこむ。志木はそれを支え、優しく床に座らせる。
「ス…イマせ……ン、失敗…してしまいました……」
 真っ青な顔で脂汗を流しながら、志木の手を握り、切れ切れに言葉を紡ぐ。
「か、彼女の中には……ス……巣食って……」
「なるほど、そうか」
 そう呟き、意識を失い欠けているペルセフォネをゆっくりとその場に横たわらせると、懐から刀の柄のようなものを取り出す。その柄は、茨の蔦のようなものが幾重にも巻きついており、握ることさえ困難そうな代物だった。
 彼はそれを強く握り締める。苦痛に顔が歪み、手のひらから溢れ出る血が柄を伝わり、ポタポタと床へ落ちていく。
 だが、血の滴りは床に届くことなく、まるでツララのように刀身を形作っていく。
 それは、歪で醜く、どす黒い禍々しい刀身だった。それを持ったまま、須永薫とその手を握り、必死で回復を祈る芳香の方へと進んでいった。
「薫、薫? どうしたの? ねえ、私の声、聞こえてる?」
「邪魔だ」
 一言、それだけ言うと、志木は寄り添うようにいた芳香を薫から強引に引き剥がす。
 そして――――血で創られた刃を何のためらいもなく一気に薫の心臓に突き刺した。
 須永薫と須永芳香、二人の悲鳴が病室に響き渡る。
 先ほどまで激しい動きをしていた心電図が静かにフラットラインを示していた。


 いつの間にか、志木が須永薫の胸に突き刺した刀身は消え、柄だけになっていた。その刀身だった血は溶け落ち、彼女の胸をどす黒く染め上げている。
 志木は未だ血が滴るその柄を汚れることも気にせずに懐に仕舞い込むと、わき目も触れずにペルセフォネの方へ近づいていく。
「待ちなさい……」
 志木は彼女の言葉を無視する。
「待ちなさいって言ってるでしょ!!」
 そう言って、志木の肩を掴むと、強引に自分の方へと顔を向けさせ、渾身の力で志木の顔を殴りつける。
「私は一生アンタを許さない! 絶対に!! 殺してやりたいのは山々だけど、今はその胸糞悪い顔なんて一秒たりとも見たくない。だから、さっさとそこの女を連れてここから出て行けっ!!」
「言われなくてもそうする」
 志木は殴られた頬をさすりながら、足元が覚束ないながらも立ち上がろうとするペルセフォネに肩を貸し、戸口へと二人寄り添いながら歩いていく。
「アンタだけは絶対に許さないっっ!」
「きみ、それは言い過ぎだ」
 黒丹は芳香を落ち着かせようとする。
「でも、でも、薫はもう……」
 両手で顔を覆い、その場に崩れ、すすり泣く。彼女は唯一残った最愛の人を失ったのだ。
「先生、先生っ!?」
 機材を片付けようとしていた看護士が思わず驚きの声を上げる。心電図の波形が、心機能が活動しているのを示していたからだ。
「どういうことだ?」
「薫、薫っ、聞こえる?」
 目を真っ赤に腫らしながら、必死に手を握り、声を掛ける。
 その声に応えるように須永薫の瞼が静かにゆっくりと開いていく。
「あれ、どうしたの芳香ちゃん、なんで泣いてる、の? ここはどこかな?」
「薫、よかったね。うん、よかった」
「い、痛いよ。そんなに手を握ったら。あのね、私、夢を見たの、六歳の誕生日。覚えてる? 楽しかった、よね。キレイね女の人がね、見せてくれたんだ……」
「あまり、無理をさせてはいけないな」
「は、はい……」
 そう言って、黒丹は薫の肩を優しく掴み、彼女をベッドの横にある椅子に座らせる。
「お姉さん、貴方も疲れているのだから、少し休んだ方が……」
 黒丹は言葉を途中で止めると、隣の空きベッドにあった毛布を持ち出し、彼女にそっと掛けてやる。
 須永薫は壁にもたれ掛かるようにしながら、静かな寝息を立てて眠っていた。


     Ⅳ


 病院を出た二人は、すっかり真っ暗になった街中を学園へ向かって歩いていた。秋風は肌刺すように冷たく、フィールドコートを着た志木でさえ、思わず震えてしまう。
「やっぱり、ちゃんと説明した方がよかったんじゃないですか?」
「ふむ、だが、あの状況で説明したところで、彼女が理解するとは思えない」
「そんなことないですよ。人間は理解しあえる生き物なんです!」
「お前の口から出る言葉とは到底思えないな」
 殴られた頬を左手で摩りながら、悪態をつく。
「そういえば、顔大丈夫ですか?」
「見た通りだが?」
「義くんがそれ以上不細工になったら困ります」
「それはどういみ意味だろうか?」
「ゴメンナサイ、別に義くんが不細工とか、そういう意味じゃなくてですね、イケメンじゃないって意味ですよ」
「それはどう聞いても褒め言葉じゃないな。……まあいい。さっさと報告して帰るとしよう」
「はいっ!!」


 研究棟の一室で、白髪の老人と二人は対峙していた。
「つまり、彼女には悪霊《レイス》が乗り移っていたと?」
 老人は手元にある報告書から目を逸らさずに二人に問う。
「はい。戦闘の最中に彼女に入り込んだと思われます」
 志木が抑揚の無い声で事務的に答える。
「そうか、それで、その悪霊《レイス》は適切に処理したのかね?」
「はい」
「ならばいい。もう帰っていいぞ」
 老人は手元にある書類を引き出しに仕舞うと、別の書類に目を通し始める。
「ところで、おじ……教授、質問があるんですけど……」
 ペルセフォネが恐る恐る手を上げていた。
「なんだね?」
「私たちの仕事って本当に必要なんですか? 死んだからって誰もが幽霊になるわけでもないですし、それ以前に悪霊《レイス》化するのは極僅かですよ?」
「可能性が低いから、放置しろと? 悪霊《レイス》化して、この世界に害悪を成すようになってから、被害が出てから対応すればよい、そう君は言うのかね?」
「でも、でも……。私たちがなんて呼ばれているか知ってますか? 死神ですよ! 私なんて|冥界の妻《ペルセフオネ》と呼ばれてるんですよぉ?」
 ペルセフォネは泣きそうな顔で抗議する。
「それは前からだろ」
 うんざりするような顔で、志木は二人の会話に口を挟む。
「では他の名前が良いと?」
 老人は手元にある書類をめくりながら、
「い、いや、これはこれで……ちょっといいかな、なんて……。妻とか……いやでも……」
 ペルセフォネは何故か頬を赤く染め、モジモジとしている。
「ならば問題あるまい。用が済んだのならさっさと退出したまえ。私は仕事が残っているのだよ。それと、今日は遅くなるから、食事は二人で済ませておきなさい」
「わかりました……」
 しょんぼりと肩を落としながらペルセフォネは退出していく。
 部屋の中には老人と志木の二人だけだ。
「君もなにか用かね?」
「いえ、別に」
 そう言うと、志木は踵を返して戸口へと向かっていった。彼の手がドアノブに掛かった時、背後から声がする。
「君には済まないと思っている」
「いえ、別に」
 志木はそう言って志木冬希《しきふゆき》教授という札が掲げられた部屋を後にした。


「また、手を怪我したのかい?」
 不器用に包帯が巻かれた志木の右手と腫れた頬を見ながら、童顔の青年は、またかという呆れ顔をしていた。
「なんなら、僕が直そうか?」
「いや、貴重な能力をこんなものに使うなんて勿体ない。いつ呼び出しがかかるかも分からないだろ?」
「まあ、そうだけど……」
「遠藤《えんどう》さんは、それしか取り柄がないんですから駄目ですよ。無駄に治癒をつかっちゃ!」
 その言葉に遠藤雅《えんどうまさ》は苦笑する。そして、ペルセフォネを指差すと、志木に耳打ちするように質問する。
「前々から思っていたんだけど、彼女は分かって言っているのかい?」
 志木は僅かに伸びた顎鬚を指でいじりながら何事か考えると、一拍置いて答える。
「ふむ、……そこが彼女の魅力のひとつだ」
 講義室の扉が開き、白髪の老教授が入ってくる。獰猛な睡魔との勝ち目の無い戦いの始まりだった。




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最終更新:2009年11月28日 17:17
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