【科学時代の戦乙女 第一話a】


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 俺の人生は最悪だ。
 ほんの一時だけマシになるかと思ったこともあったが、それさえも俺を更なるどん底へと叩き落すための、性悪な神の布石だったらしい。

 誰にも及びつかぬ能力を手に入れたと思った。束の間、そう思い込んでいた。そうして羽目を外した。
 ところが、とんでもない女どもに引っかかったのが運のつきだった。
 今じゃあこうして、俺を捕まえにきた学園の『首輪付き』としての毎日。
 それだけならまだしも、

「おいおい、まだおねんねには早いぜ?」

 怨嗟を吐く俺の思考をかき乱す一撃。
 うつ伏せをひっくり返すように腹を蹴られ、俺は咳き込んで砂まじりの唾を吐いた。神というどっかの天上存在から、地を這いずる同類のクズへと怒りの矛先が戻る。
 こいつらも神に弄ばれてクズになったのなら、せめて俺は憐れんでやろう。決して傷を舐め合ったりはしないが。
「んだ、その目はよ!」
 今度は顔へのサッカーボールキック。それを合図に三人がかりでボコボコにされる。
 ここに連れてこられてから日常化しつつある暴力に、俺は無様にも、身体を丸めることしかできなかった。


 ああ、この嘆きを人は陳腐と笑うかもしれないな。だが言わずにはいられない。
 全くもって、俺の人生は、最悪だ。


  ***


 俺が連行された場所は双葉区という。東京で最も新しい区であり、最も閉鎖的な区でもあるだろう。
 双葉区は東京の海に浮かんだ人工の島だ。
 そこの双葉学園という学校に、俺は通わされている。
 その実態はとても大衆に公開出来るものではないだろう。あれこれ理由を付けて閉鎖性を高める裏には、ラルヴァ、異能者、それらを取り巻く問題があった。
 俺は連行されるまで、何一つ知らなかったが。
 捕まったときは遂に豚箱行きか、と思ったものだ。
 だが、牢に放り込まれなかっただけマシだなどとは思わない。少なくとも、警察の方が得体は知れているからだ。
 なんでもここは俺のように変な能力を持った奴を、無知なままに世の中に放り出さないための場所でもあるらしい。
 言い方を変えただけで、要は隔離したいんじゃないかと思う。
 実際に区の出入りは管理されていて、帰省(する気は更々ないが)にも一苦労だろう。

 そうして俺が放り込まれた高等部1年Z組は、正直変なクラスだった。
 何がというと、まず担任が妙な奴だ。いつも『女教師』のお約束を強烈に意識した格好を心がけていやがるようで、なまじ似合っているから余計に質が悪い。いったい、どこの誰の願望を充足させようとするためのコスプレなんだと聞いてみたい。
 隣の席には、四六時中ヘッドホンを付けっぱなしのチビ。愛想が悪く、殆ど話した覚えはない。授業中もずっとこの調子だが、あの担任が注意をした試しもなかった。
 俺も含まれるが、この学園は転校生が多いらしい。俺みたいなのが編入されたんだからここはよほどの吹き溜まりクラスかと思ったら、憎らしいほど快活な赤毛の女や、何でこんな学園に居るか分からないほど大人しーい奴までいる。ミスマッチだ。
 まあこんな所に通ってるんだから、どいつも中々ない過去を抱えて生きてるんだろう、とだけは想像できた。少なくとも、俺よりはドラマティックで『美談』だろうさ。
 そうした中に、俺に続く新たな転入生が加わったのは、十月を回ったある日のことになる。


「ティアナ・ヒルデガルト=デア・フォーゲルヴァイデと申します。どうぞ、気軽にヒルダとお呼び下さい」
 馬鹿馬鹿しいほど長い名前を流暢に紡ぎ出し、少女は自己紹介をした。
 肩口辺りで切り揃えられた金髪に、シミ一つない白い肌。透明度のある碧眼。
 恐らく異論の出るまい、掛け値なしの美人だった。背丈や容貌にも極端な所は無く、万人受けしそうでもある。
 しかしひたすらに無表情で、挨拶を終えても頭ひとつ下げる媚すらない。せめてよろしく、くらいは言ったらどうなんだよと。
 周りは美貌に色めき立つというより、その盛大な名に面食らっているという様子だ。
 そして俺はというと。

「じゃあ、川島くん? 彼女の案内役、お願いね」
 と、雑事を押し付けられていた。……何故、俺なんだろうか。もう女はこりごりなんだがな。
 しかしここで歯向かってもしょうがない。俺は渋々、了解の意思を示した。
 薄々、悪い予感を抱えながら。


「最初に言っておく。木津先生は忘れてたんだろうが、俺はこの学園に来てまだ一ヶ月くらいなんだ。だから案内の中身には期待しないでくれ」
「了解しました」

 俺と名前の長い女による学園巡りは、そんな不思議なやりとりから始まった。
 現在は廊下で、周りには誰も居ない。
 午前の授業時間中だが、木津先生は今日一日を使って学園案内を済ませなさい、と俺たちを放り出した。いいのかそれで。
「了解って……いや、まあいいか」
 非常に簡潔な答えに面食らう。
 開口一番こんなことを言われたら、不満の一つもつけそうなもんだが。
「どうやらあんたも、変な奴なんだな」
「も、とは貴方自身を指すのでしょうか?」
「あー? いや、俺は」
 ただの小悪党だと言いかけて、すんでの所で思いとどまった。どうも最近、必要以上に卑屈になってきてるな。

「貴方は、何ですか?」
「……俺は和也。川島 和也(かわしまかずや)だ」

 返答に窮し、忘れていた自己紹介をねじ込む。
 しかし、随分と直截な言い方をする奴だな。ヒルダ……だったか。ドイツ人というのはこういうものなのか。
「了解しました。『カズヤ様』」
 盛大に吹く。
「どうかしましたか」
「頼むから誤解を招くような敬称は止めてくれ」
「了解しました。それで、『カズヤ』は変な奴なのですか?」
 なんだか別の誤解を招きかねない予感がしたが、二度も訂正する気は起きなかった。どうせ困るのは彼女だけだろう、気にしないことにする。
「俺は違うさ、多分。うちのクラスが変な奴ばかりだってことだ」
 俺は相槌もなにも期待してはいなかった。ただの悪態のようなものだったから。

「――そうですね。カズヤの見立ては正しいと思います」

 だから彼女がこちらをまじまじと見つめてそう言ったとき、俺は咄嗟に笑い飛ばすことすら出来なかった。
 ……やっぱコイツは、変な奴のようだ。



 まずは保健室を案内することにした。俺自身、世話になることが多いし、この学園では重要な施設だと思うからだ。
「保健室はいくつもあって、学園全体だと結構な数になる。保健医は足りてないけどな」
「校医が常駐しているのですか」
 俺は質問の意味が分からなかった。
「『保健医』という職は存在しません。学校医は健康診断などを行い、大抵非常勤です。医師が保健室に待機する体制は稀です」
 やけに詳しいが、俺にはなんとなくしか分からないので説明しようがなかった。
 中に入ると、白衣を着た男が戸の音に振り返る。
「おや? カワシマ君ですか。女性連れとは珍しいですね」
 にこやかに微笑みかけてくる、くすんだ金髪の好青年。こいつが先々月から学園に招聘されたという医学部の、
「アーサー=クロイツです。
 ……フルネームはもうちょっと長いんですが、気軽にアーサーで結構ですよ。フラウ・フォーゲルヴァイデ」
 自己紹介は要りません、と言外に言う。どうやら転入者リスト辺りに名前が記載されていたんだろう。確か出身地も同じだ。
 双葉学園は自前で医療従事者を抱える他、こいつのような大学部教員の一部に、保健室の非常勤を任せているらしい。つまり学園規模に対して人手が足りていない。
 俺はもう一人、気味の悪い人体模型を持ったおっさんを知っていた。
「はい、それは失礼しました。では改めてよろしくお願いします、ヒルダさん」
 ……どうやら呼称を訂正されたようだ。
 妙なこだわりもあるもんだ、と俺は肩をすくめた。


「双葉学園では相当数の生徒が応急手当の知識・技術を学びますから、保健室の設備は開放されています。多少の怪我は生徒同士で対処を推奨、というワケでしょう。訓練代わりですね。
 ただ備品の利用は生徒手帳による認証が必要で、きっちり履歴が残ります。
 また各棟の保健室とは別に、専門の保健棟があります。そちらの設備は病院と比べても遜色ないほど充実していますよ」
 説明をしているこの保健医、ドクター・クロイツは若干二十七歳。生傷が絶えない身なんで否応なしに知り合い化してしまったが、嫌味のない立ち振る舞いが正直苦手だ。
 しかもこいつは、俺を今の境遇に追いやったレスキュー部の新顧問なのだ。わざわざ学園に招かれたのだから医者としては優秀なんだろうに、どうしてそんな雑事を請け負うのか分からない。
 転校生は背筋を伸ばし、椅子に腰掛けて拝聴している。真面目なことだ。
「治癒能力者のみで、全ての要求を賄えないのですか」
「出来ていれば、私はここに居る必要がありませんね。
 数の要求に応えられないというのが大きな理由ですが、多くの異能力が感染症などの疾患を苦手とする面もあります。もう暫くは、私も失業することはないでしょう。
 将来的には異能力との連携によって、医療でやれることも大きく広がると思います」
 だから私はここに来たんですよ、と保健医は付け加えた。
 その後の話は聞き流していたが、転校生は保健室の話というより治癒能力者の話を尋ねていたようだった。
 なんでも痛みと引き換えに、他人の回復力を高める異能力者が居るらしい。
 正直、そいつの世話にはなりたくないな。



 続いて、俺達は高等部演習場へ足を運んだ。
 図書室辺りが無難だと思っていたんだが、当の転校生には興味がなかったようだ。
 訓練の場所を案内して欲しい、というのは、生真面目だと見るべきか変人と言うべきか。多分後者だろう。

 山合いに設けられた実践演習場とは異なり、こちらの演習場は校庭と大差無い。
 そして俺としては残念なことに、使用中だった。誰もいなけりゃ面倒はなかったんだが。
「見学していきましょう」
 そして悪い予感通り、転校生は困ったことを言い出したのだった。


 演習場にいたのは『鋼の』B組の面子だった。あのちっさい担任は間違いない。
 1年B組もまた、個性的なクラスであるらしい。
 醒徒会役員の一人である加賀杜紫穏を始めとして、高い能力を持った生徒が多い……らしい。実際に見たことはない。
 俺は遠巻きに眺めて済ませたかったのだが、転校生は全く気にすることなく、演習場外縁まで近づいていった。
 仕方なく、俺も従うことにする。
「――春奈・クラウディア・クラウディウス。
 予想するに、1年B組ですか」
「あ? ああ、そうだな」
 どうやら、B組担任は有名人らしい。
 転校の経緯をまだ聞いていないが、こいつはもしかすると、望んでこの学園に来たのかもしれないな。少なくとも俺より、予備知識を備えているように見えた。
「このまま見学してたら、サボリと間違えられるかもな」
「そうですか」
 転校生は眼を細かく動かして、生徒各人の観察を続けている。空気読めよ。
「こらー、そこの二名! 演習サボっちゃ……って、あれ?」
 中等部の女子生徒と見間違えそうな姿がこちらへ走ってくる。
 見つかってしまったっぽいな。俺は精一杯の非難を込めて、ため息をついた。


 春奈・C・クラウディウス先生は間近で見ると本当に小さかった。
 そういう点では、Z組に振り分けられたことを幸運と思わなくもない。目の保養という意味で。
「今は授業中だけど……あなた達、どこのクラスの子達なのかな?」
「1年Z組の者です」
 転校生が先に口を開く。……いや、もうちょっと何か言えよ。
「あー、その、転校生の案内です。木津先生から、今日一日でやれって言われまして。
 俺はZ組の川島です」
 何とかフォローをしつつ、名乗る。

「川島くん? 君は――」

 春奈先生は何か言いかけ、転校生の存在に気づいてか、言うのを止めた。
 俺は反射的に、うつむき加減に目を逸らす。
 そうだった。教師なら、初対面でも名前と事情を知っている可能性がある。
 そのとき真っ当な感性を持つ者が、どんな目で俺を見るかはわかりきったことだ。
 そういうときは、見なければいい。知らなければ、『無いこと』にできる。少なくとも、そう思い込むことだけは俺の自由だ。
「どうかしましたか、カズヤ」
 そう尋ね、転校生は数秒、俺の返答を待った。
「……。
 ティアナ・ヒルデガルト=デア・フォーゲルヴァイデと申します。どうぞ、気軽にヒルダと――」

 どうやら諦めたのか、転校生は春奈先生へ自己紹介を始める。
 その内容は最初に聞いたときと一字一句たりとも異ならず、奇妙なほどに、全く同じ調子で紡ぎ出されていった。



「カズヤは、春奈先生が苦手なのですか」
 昼休み。転校生が学食へ行くことを遠慮したため、購買に寄った後、中等部と大学の間にある休憩スペースで昼食となった。
 高等部からここまでわざわざ足を伸ばす生徒もそう居らず、俺にとって心を安らげる場所のひとつになっている。
 テーブルの向かいに座った転校生は、何の味もついていないだろう購買のコッペパンをひとつきり。俺はいつも通り、ホットドッグにミルクコーヒー。
「……いや。そもそも面と向かって話したのは初めてだ」
 俺はストローをくわえたまま答えた。
 学園生活もまだ一ヶ月やそこらだし、集団戦闘の授業を受けていないので接点がない。そうした能力を期待されていないからだ。
「それでは、春奈先生の容姿に何かしら問題があったのですか?」
 盛大に吹く。
「……あのなあ。確かに俺の好みからは外れてるが、あれはあれで、けっこう人気があると思うぞ」
 あくまで予想でしかないが。
 転校生は一旦質問を止め、パンをひと千切りして口へと運んだ。上品な食い方だが、優雅というよりどこか作業的で、華がない。
 俺は残ったパンを口に押し込み、コーヒーで流し込んだ。
「そんなことより、あんたの話を聞きたいよ。名前以外、何ひとつ聞いてないからな」
 俺は話を逸らすために、心にもないことを言う。
 ……いや、全く興味がないわけじゃないがな。美人に興味を抱くのは、至極当然のことだ。
 転校生はしばし無言で、こちらを見つめていたが、唐突にこう言った。
「興味がありますか?」

 それは誘うような響きだった。しかし顔は真面目そのもの。
 冗談だと流してやれればよかったが、俺はあいにくと雰囲気に引っかかってしまった。
 彼女は、畳み掛けるように言葉を継ぐ。
「ですが今は、もっと貴方のことが知りたいのです」
 俺は答えに窮した。無言になる。
 だが、その妙に焦る時間はすぐに終わりを告げた。
 歓迎しがたい客が割り込んで来たからだ。


「女を連れる甲斐性があるとは知らなかったよ、川島和也」

 声音は冷淡で、同時に蔑む様な響き。
 ツリ目で、ひっつめた髪と相まって鋭い印象を受ける。ステレオタイプの優等生とはまた違い、キツさだけが煮詰まっているというか。
 冷えた瞳は相手をきっちりと値踏みし、評価をはっきり付けてくる。
 異能と掛けて嗜虐機械だとかデジタル女だとか呼ばれているが、要するに無情家。
「……緋村、遠子」
 腕章が示す風紀委員という肩書きの割に、そこまでとんでもない異能力は持っていない。
 だが伊達という訳でもなく、その行動に容赦はない。
 風紀権限なのか武器の携帯を許可されているし、必要なら容赦なくこっちに向けてくる。風紀の構成は多彩だと聞くが、その中でも特に逆らったら危険なタイプだろう。
 そして何よりも問題なのは、転入以来何かと俺を付け回してくることだ。曰く、行動の監視をするために。
 噂の風紀委員長は俺からするとあくまで風説上の存在でしかないが、こいつは実体を備えた脅威なのだった。
「こいつはただの転校生だ。木津先生に頼まれて案内をしてるだけで、何の関係もない」
「今更善人ぶってもどうにもならないだろう。お前のような性犯罪者は。
 ……アナタも、こんなヤツとは一緒に歩かない方が身のためよ。忠告しておく」
 ヒルダの方へ顔を向け、表情一つ変えずに緋村が言う。あくまで親切心からの言葉の様に。
 ほんの僅か、楽しんでいる響きを感じた。
 それが善を成したという快楽から表れているのなら、こいつも大概歪んでいる。実際には嗜虐心が満たされたから、といったところだろうが。
 だから俺はそれ以上口を挟まず、やや投げやりに様子を眺めるだけにした。
 変に応じれば相手を喜ばすだけだ。そいつは正直つまらない。
 ちなみに、こいつは相手をどう見ているかで言葉遣いが変わる。今のところ、転校生のことは丁重に扱うつもりの様だった。
 転校生は俺と風紀委員、それぞれを一瞥してから、はい、と返事をする。
「御忠告痛み入ります。緋村遠子さん」
 そうして相変わらず無味乾燥な調子で、一礼したのだった。



「別に無理やり組み敷いたわけじゃない。そんな腕力も度胸も、俺にはないからな。
 ただ夢を見せてやるのさ。そいつが理想と思える相手だったら、大抵の奴はガードが甘くなる」
 なんでこんなにも迂遠な説明をやっているのだろうな、と内心バカバカしく思いながらも、俺は語っていた。
 どう取り繕っても、事実はあの風紀委員が言った通りで、それは自分でもよく分かる。
 ただ、どうしてかすっぱり言えなかった。
 今更良心が苛まれているのだとしたら、とんだお笑い草だ。
 そして俺の長い長い言い訳じみた説明が終わると、転校生はとても適切に要約をやってくれた。

「つまりカズヤは異能力を使って女性を篭絡し、窃盗や猥褻(わいせつ)行為を働いていたのですね」

 ……まぎれもない自分自身の過去の行いとは言え、意外にぐさりと来るものだ。動悸を押さえ込む。

 事実はその通りだ。
 俺はつい半年前に異能力に気づいたが、それを誰にも知らせず、こそこそと私欲のために使っていた。
 ところが調子に乗って海で女を引っかけようとして、行方不明者を出してしまった。あえて主張すると、俺が何かやったわけじゃない。相手が勝手に暴走しただけだ。
 ただ結果的にはそれで事が大きくなり、あの女――菅 誠司に異能を看破され捕まって、今に至る。
 とても美談には出来ない、クズの来歴という訳だ。
 それが俺の、ここにいる理由だった。


 気まずい沈黙。だが実際には数秒もなかっただろう。
「緋村さんの発言の意図が理解できました。
 それでは、昼食も済みましたから学園案内へ戻りましょう」
「ああ、そうだな……」
 んん?
 いやいやいやいや。
「そうじゃないだろ」
「もう少し食後の休憩を取るのですか?」
 まるで噛み合わない。俺は少しこめかみを揉んで、心を落ち着かせる。
「そうだな、緋村があんたを心配していたのは分かってるのか?」
「恐らく、身の危険を考えろ、という意図であったと思われました」
 どっちかというと、あらぬ悪評が立つって方だった気がするんだが。
 まあ、転校生の言うことも間違っているわけじゃない。俺自身にそんな気はないがな。

 というのも、今の俺はおいそれと異能力を使ったり出来ないのだ。
 犯罪歴など、大きな問題のある生徒を大人しく在籍させる仕組みのひとつ――『首輪《カラー》』が俺には付けられている。
 詳細は省くが、許可なしに異能力を使えば風紀委員や学園側に即バレる仕組みになっている。
 適切な理由が無ければ、今のささやかな自由すらも失われるだろう。何せ本当に危険な異能力者は、軟禁まがいの状態だという噂もあるのだから。
 腕っ節にも自信のない俺が今、手を出せる訳がない。その気もない。

「それなら……カズヤは、手を御出しになりますか」

「――」
 そう。だからその挑発を真に受けてやるべきではないし、その気もある筈がない。
 ない筈なんだ。
 ない筈だった。
 それなら何故、今、俺は同意も了解も取らず、一方的に女を組み敷いているのか。
 男としての矜持が許さなかったのだろうか。俺にそんなものがあったとしたら驚きを禁じえない。
 そんなものは自制心という紙にでも包んで、犬に食わせればよかったな、と俺は埒もないことを考えた。

 そうして、眼が逢った。


  ***


「「……」」
 喧騒は遥か遠く、彼と彼女だけがこの場にあった。
 押し倒されたヒルダの反応は薄い。右肩と左手首を掴まれ、テーブルに押さえ付けられてもまだ、平静そのものだ。
 和也の行動は衝動的で乱暴だったが、彼女が頭を打った様子はない。器用にも一瞬、首を浮かせていたからだ。
 恐らく、彼の行動を予期して。
 ……抵抗はない。その細腕では、しても無意味と見えた。
 膂力に優れるわけではないにしろ、彼も男であり、彼女は女である。加えて足が地上から浮いており、体勢も悪い。
 互いの身体が接し、少女の匂いが和也の鼻腔をくすぐる。
 だが、彼はそれに酔える気持ちではなかった。動悸は激しく、視野は狭窄していたし、また困惑している。
 緊張しているせいではない。副次的な理由として女性関係のトラウマが挙げられるが、それだけではなかった。
 何故、抵抗しない?
 和也は相手が何事か抗議すれば、適当な捨て台詞を吐いて離れるつもりだった。だが、期待した反応は全く得られない。
 何のつもりなのだろう。
 疑問への応えとするかの様に、彼女は唇を小さく開き、瞼から力を抜いた。
 まるで彼を誘い込むかの様に。
 湿った薄い唇が、目を惹いた。
 吸い寄せられるが如く、和也は上へ覆い被さっていく。そうして、彼は。

 ……結論から言うと、彼は何も実行することはなかった。
 身体をまさぐることはおろか、唇を奪うことさえも。

 そうして、彼はその場から逃げ出した。



「――」
 彼の足音が失せてから、ようやくヒルダは身体を起こした。手櫛で髪を整えて、それから肩口を軽く撫で、埃を落とす。
 全くの無言。それは彼女にとって、話しかける相手が存在しないが故の必然だ。
 代わりに長く長く、止めていた息を吐いた。肺の全てを絞り出すように。

 そうして彼女は何事もなかったかのように、テーブルを離れて行く。


 その背後で。 蝶が一匹、墜落していった。









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