【緊縛少女と鏡の悪魔 前編】


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  ◆◇プロローグ―部室にて1―◆◇


「給水塔の変態女?」
 夕日が眩しく差し込む高等部新聞部の部室で、綾鳥《あやとり》ひばりは新聞部の部長である長谷部《はせべ》亮子《りょうこ》と一緒に学園新聞の記事を考えていた。
 ひばりは長い髪を三つ編みにしていて、度の強いメガネをかけている。クラスメイトからはガリ勉などと呼ばれるくらいに成績の良い少女であった。
 短いポニーテールが特徴的な亮子は、ひばりと対照的にいかにも外交的な雰囲気を持っている。彼女はお気に入りのカメラを撫で回しながら、
「そうよ、今度の記事はそれに決まり! 夕暮れに現れる露出狂女! ただの変態か、それとも妖怪か!」
 などと言いながらうっとりとどこか遠くを見つめている。ひばりはそれを呆れた様子で見ていた。
(まったく。また変な噂話信じて)
 深い溜息をつきながら、ひばりはきちんとした記事を考える。記事の文面がオカルトや都市伝説に偏ることをひばりはあまり好んではいなかった。逆に部長である亮子はそう言った噂の類が大好きで、いつも彼女の記事はそんなものばかりである。ラルヴァや異能などと言った常軌を逸した存在を認知している双葉学園の生徒なのに、そんなオカルトに興味を持つなんておかしなものだとひばりは思っていた。
「それで亮子。その給水塔の変態女ってなんなの? 血塗れ仔猫や金色蜘蛛なんてのは前にも聞いたことあるけど、それは初耳ね」
 ラルヴァという怪物を認識していてもその手の噂話はやはり絶えない。どんな特別な環境におかれていても、学生というのはそういうものが好きなんだろう。
「もう、ひばりってば知らないの? 今一押しの都市伝説なのに。もっと新聞部の副部長として自覚もってよね!」
 亮子はそう鼻息を荒くして語っている。ひばりはうんざりしながらその変態女の話に耳を傾けた。
「夕方の給水塔の上にさ、SM嬢みたいな露出度の高いボンデージファッションに身を包んだ変な女が現れるんだって。多分きっとそれは悪魔よ、悪魔」
「悪魔って……飛躍しすぎじゃないの。なんで、屋上にいる変態が悪魔なのよ」
 ひばりは亮子のいつもの妄想癖に呆れつつもそう聞き返す。亮子のこういうことはいつものことなので、相槌を打ってやるのが一番いいだろう。
「あのね、その変態女を見たって人が、その直後に行方不明になったのよ」
「行方不明……? それって私たちのクラスの山岸《やまぎし》亜紀《あき》さんのこと? 三日前に突然失踪した――」
「そう、変態女を見たってのがその山岸さんなのよ! これって何か関係あるわよ絶対。だからみんなその変態女に連れて行かれたんだって噂してるの。そいつは悪魔で、願いを叶えてくれる代わりに魂を地獄に連れてくの。ロマンチックじゃない。ほら、漫画とかだと女の悪魔ってそういうボンデージファッションだったりするじゃない」
 そんなバカな。大体ほとんど亮子の妄想じゃないか、とひばりは呆れるしかない。
 山岸さんの失踪とその変態女との因果関係が全然わからないではないか。そう思いひばりは窓から見える屋上の給水塔に眼をやる。当然そこには誰もいない。
 ひばりと亜紀は一日だけ友達だった。
 山岸亜紀は元々クラスで目立たない子だったのだが、不思議なことに数日前から人が変わったように明るい性格になっていた。
 それをきっかけにひばりは亜紀と友達になったのだが、その翌日の夕方に突如彼女は行方をくらましてしまった。
 もしかしたらあの急な変化は、失踪の兆しだったのかもしれない。
 そのことに気づけなかった自分を、ひばりは責めていた。だがそんなことをしても彼女が戻ってくることは無いだろう。
 学園の機密を漏らされるわけにはいかないので、学園側は亜紀のことを必死で捜索しているようであった。それでも見つからないというのはそれなりの理由があるのだろうか。
 そう考えると、ボンデージの悪魔に連れ去られたと思うほうがある意味理屈が通る。ただ生徒たちはそんな皆無責任な噂を楽しんでいるだけなのかもしれないが。
「だから、ね。今回の記事はその変態女の謎について! で決まりね」
「ふう……。わかったわよ。しょうがないわね」
 ひばりは亮子の熱意に押され、やれやれと言った風に頷く。どうせ最終的な決定権は部長である亮子にあるのだ。彼女がやりたいというのならば仕方ないだろう。
 それに、ひばりも少しだけその変態女のことが気になり始めていたのだ。学園で噂される血塗れ仔猫や金蜘蛛のよりも幾分間抜けそうな雰囲気の都市伝説だが、実際に失踪した人間がいるとうのなら、やはりただの噂話と一蹴するのはいささか早計だろう。
 そうしてぼんやりと考えているのと、突然ガラリと部室の扉が開かれた。ひばりと亮子がそちらに眼を向けると、見慣れた人物がそこに立っていた。
「目黒《めぐろ》稔《みのる》ただいま買出しから戻りましたー!」
 元気よくそう言って部室に入ってきたのは、ひばりたちの一つ下の後輩の稔であった。くりくりと人懐っこい瞳をしていて、まるで小さな犬のようである。  
 彼女は手に購買部のパンやジュースなどの入った袋を持っていた。どうやらこれから部活動を行なうための栄養源を買ってきたようだ。
 ひばりたちはそれを見て目を輝かせた。
「気が利くじゃない稔! 焼きそばパンある?」
 と言いながら亮子はすぐに稔の持ってきた差し入れを漁り始めた。稔は彼女達にとって可愛い後輩で、稔の笑顔はひばりたちの頬も緩ませる。
 しかし、ひばりは稔が手に持っている鞄から、なんか妙な物がはみ出ていることに気づいた。それはゴム製の服のようなものであった。
「ねえ稔くん。それはなんなの?」
 ひばりが稔にそう尋ねると、稔はなぜか焦ったように鞄を後ろに隠してしまった。
「べ、別になんでもないですよ。ちょっと家庭科の授業で使うやつです。ミシンの取り扱いについて勉強するんでいらない服持ってきたんですよー。ああほら綾鳥先輩もパン食べてください」
 そう言って話を逸らすようにパンをひばりに押し付けた。それはジャムパンで、ひばりの大好物であった。それでもひばりが何かを言おうとすると、
「ほら、ひばりってば。早く食べて作業に取り掛かろうよ」
 と亮子がゴクゴクとコーヒーでパンを流し込みながらそう言った。ひばりもまあいいかとパンをもふもふと齧る。
 食べ終わり、三人は新聞の記事の作成にとりかかった。
 ふと、ひばりはまた屋上の給水塔に目を向ける。やはりそこには何もいない。
 夕日がただ赤く燃えているだけだ。
 ひばりはいなくなった山岸亜紀のことを想い、少しだけ胸が痛むのを感じた。あの少女は一体何を見て、なぜ消えてしまったのか。
 それはきっと誰にもわからないのだろう。
 もし、悪魔が彼女を連れ去ったのなら、そこで彼女はどんな暮らしをしているのだろうかと、それだけが気になっていた。
 だが物語はその数日前にさかのぼる。
 彼女達が部室で談笑しているその前に、悲しき少女と悪魔の物語は終わっていたのだった。


       ◆◇



緊縛少女と鏡の悪魔




       ◆◇


 山岸亜紀は独りだった。
 独りぼっちだった。
 その日の昼休みも彼女はいつものように誰にも相手にされず、誰にも話しかけられず、誰の視界にも映らないで、教室の隅で本を読んでいるだけであった。クラスメイトたちが楽しく談笑し、恋や将来の夢について話していたり、受験や失恋の悩みを相談したりしている中、彼女だけはまるでマネキンのように動かずただひたすら本のページをめくり続けるだけであった。
 眼が隠れるほどに長い前髪で、一体彼女がその髪の毛のカーテンの向こうで何を見据えているのか、それを知る人物はここにはいない。
 だが、それでいいと亜紀は思っていた。
 誰にも理解されず、誰にも愛されなくても構わない。
 愛すべき本に囲われて、それを読むためだけに人生を消費してもいいとさえ思っていた。
 幸せというものは人によって違う。それが彼女にとっての幸せならば、誰にも文句を言う権利はない。
 だがしかし、亜紀にとっての幸せが、本を読むことだけではなくなってしまったのである。
 亜紀は恋をしてしまった。
 恋を知ってしまった。
 窓際の席に座る彼女は、ちらりと自分の想い人を横目で見つめる。
 そこにいる人物は机に向かい次の授業の予習をしている。かりかりとシャープペンシルをノートに滑らせ、その表情は真剣そのものであった。
 亜紀はそんな彼女のことをいつのまにか好きになってしまっていたのであった。
 そう、彼女だ。
 亜紀が好きになったのは同性であった。
 亜紀の瞳に映りこむのは、ガリ勉とクラスメイトたちに言われている綾鳥ひばりであった。いつも勉強をしていて、だからと言って自分のようにクラスから浮いているわけでもない。ガリ勉というあだ名も蔑称ではなく、勉強の得意な彼女に対する可愛らしいからかいであり、ひばりには友達も多くいた。特に同じ新聞部の長谷部亮子と仲がいいようで、二人はよく笑いあっていた。
 ひばりが笑顔を他人に向ける度に、亜紀はいつも胸を締め付けられる思いに苦悩していた。あの笑顔がなぜ自分に向けられないのか、なぜ彼女は自分だけを見ていてくれないのか。なぜ。なぜ。なぜ。その言葉だけが頭の中をぐるぐると駆け巡る。
 自分が読む物語の登場人物たちはいつもこんな身を焦がすような想いの中生きてきたのかと、亜紀は溜め息をつくしかなかった。
 亜紀がひばりのことを意識し始めたのは、図書館で彼女に出会ったことがきっかけだった。亜紀がとある本を探そうと、必死に学園の大きな図書館を一人廻っていたのだった。古い本のため、PCで調べても検索に出てはこなかった。亜紀が困り果てていると「何の本を探しているの?」と、ひばりが助け舟を出してくれたのであった。
 図書館のほとんどの書物を把握していたひばりは、亜紀にその本を探して渡してあげたのであった。
 それだけ。
 たったそれだけの些細なことで亜紀はひばりに対して恋心を抱いてしまった。
 それ以上の理由は無い。亜紀に対してそんな風に優しくしてくれたのはひばりだけだったからだ。
 きっと他人は亜紀の安易な想いを否定するだろう。だが彼女にとってそれは世界が一変するようなことなのであった。
 恋のきっかけとは、いつだってささやかなことなのだから。
 しかしそれ故に亜紀の胸の痛みは日に日に大きくなっていく。
(こんなに辛いなら、恋なんて知らなくてよかった)
 そう心の中で呟いてみても、亜紀のひばりに対する想いは消えることはなかった。
 これがもし異性が相手ならば、きっとまだ希望を持てただろう。だが、亜紀の気持ちをひばりが知っても気持ち悪がられるだけだと亜紀は考えていた。
 知らせることもできない恋。
 許されない恋。
 亜紀はこの想いに自分が潰されないように、出来るだけひばりのことを考えないようにしていた。
 叶わない想いなら忘れてしまおう。
 亜紀は視線を本に移し、本に没頭しようとする。だが頭からひばりのことが離れない。もう戻れない。何も知らなかった自分には戻れない。
 どんなに殻へ閉じこもっても、悲しみという現実から逃れる術は無い。
 だから人は諦めるか、諦めることを拒否するかを選ばなければならない。
(私は、私は――)
 自分に魅力がないことを、自分が一番よく知っている。自分ではきっとひばりに好かれるようなことはできないだろう。
 だからどうしようもないのだ。
 そう自分に言い聞かせる。諦めよう。亜紀はそう選択をしようとした。
 しかし、ふと、妙な言葉が亜紀の耳に届いたのであった。

「“午後四時四十四分の鏡の悪魔”って知ってる?」

 それは亮子がひばりに話しかけていたことであった。聞きなれないその言葉に亜紀はその二人の会話に耳をすませる。
「何それ。またなんか下らない噂話?」
「ひど! あのねえひばり。新聞部たる者、そういう噂の類は常に把握しておくものなのよ。それがジャーナリストの心がけよ」
 などと亮子は胸を張って威張っている。ひばりはやれやれといった調子で、いつものことだとばかりに適当に聞き流そうとしているようだ。
「それで、何なのそれ」
「ほら、資料棟の階段の踊り場に大きな鏡あるじゃん。あれを夕方の午後四時四十四分ちょうどに鏡に自分の身体を写すと、悪魔が現れて願いを叶えてくれるんだって」
「バカらしい。悪魔だなんて、そんなのラルヴァとどう違うのよ」
「そんな見も蓋もないこと言わないでよぉ。ロマンチックでしょそっちのが」
「それで、その噂をためしたことある人はいるの?」
「……さあ?」
「じゃあ本当に悪魔が出てくるかわかんないじゃない」
「いや、まーそーだけどさー。やっぱ今度の学園新聞に使うにはちょっとパンチ弱いかなぁ。ありがちな怪談だし」
 ひばりの冷静な指摘に亮子は体をくねらせて頭を抱える。どうやら新聞の記事にでもしようとしていたらしい。
 鏡の中の悪魔。
 願いを叶えてくれる悪魔。
 そんなのは唯の下らない噂話だ。どこの学校にもあるただの怪談の一つ。
 だがそれは亜紀にとっての蜘蛛の糸だった。
(願いを叶えてくれる悪魔……)
 どくんどくんと心臓が脈を打ち始める。これだ、と亜紀は考えていた。
 神様が自分を救ってくれないのならば、悪魔に頼るしかないだろう。
 そうだ、それしかない。自分をこの苦しみから救ってくれるのならばそれが悪魔であろうと構わない。たとえどんな代償を払おうとも。




 そして午後四時四十三分。
 亜紀は例の資料棟の階段の踊り場へやってきた。資料棟はあまり人の出入りがなく、日が当たらないため、まだ四時前だというのに真っ暗である。生徒が無断ではいることが許されていないため、電気をつけたらきっとバレてしまうだろう。
 だから亜紀はこの暗くて不気味な空間で、そんな奇妙な噂を持つ鏡の前に立つことになった。
 腕時計をちらりと見る。チクタクと秒針が進んでいく。
 四時四十三分五十七秒。
 四時四十三分五十八秒。
 四時四十三分五十九秒。
「――四時四十四分」
 ぽつりと亜紀は誰もいない階段で呟いた。
 しかし返ってくるのはその自分の声の残響だけで、何も起こらない。鏡を見つめても、冴えない自身の姿が映っているだけであった。
 ふうっと亜紀は溜息をつく。
 やっぱり噂は噂でしかないのか。悪魔なんていない。願いを叶えてくれる存在なんてやっぱりいないんだ。そう亜紀は落胆した。
 諦めて亜紀はその場から離れようと、最後に鏡の中の自分の顔を見た。
 なんだか妙な違和感。
 その鏡の中の自分は、不気味に口を歪めて笑っていたのだった。
「きゃあ!」
 亜紀は思わず声を上げてその場に尻餅をついてしまう。なのに鏡の中の自分はまだ立ったままこちらを見下ろしていたのであった。
「ちょっと驚きすぎじゃない。呼び出したのはあなたでしょう」
 驚き口をパクパクとさせる亜紀を嘲笑うように、その鏡の中の自分はそう言った。
 いや違う。それは確かに自分と同じ姿をしているが、亜紀には直感でそれがこの世ならざるものだと理解した。
「あ、あなたが……鏡の悪魔……」
「悪魔――か。少し違うわね。私はあなたよ。あなたの中の抑圧された可能性を実体化させているものよ」
 そんな風に説明されても亜紀には理解できない。だが、亜紀もまたこの双葉学園の生徒の一人である。ラルヴァと呼ばれる人外の存在のことは知っている。ならばこの目の前にいる自分の姿をした悪魔もまた、ラルヴァの一種だろうかと亜紀は頭を捻る。
「あなたは私。私はあなた。私は鏡のようにあなたと正反対の存在。あなたに出来ないことが私には出来るの」
 本来の亜紀ならば在りえない饒舌な喋り方をし、その顔もどこか同じ顔のはずなのに自身に満ちている。
「……あなたは私の願いを叶えてくれるの?」
「勿論。だって私はあなただもの」
 鏡の中のそれは、にっこりと笑った。その笑顔は悪魔の笑顔のように影を感じたが、亜紀にとってそれは天使の救いのように感じられた。
 この苦しみと悲しみから自分を救ってくれるのならば。
 ひばりが自分のことを見てくれるというのならば、たとえ悪魔であろうと天使であろうとそんなことは関係なかった。
「どうすればいいの。何か、何か代償が必要なのかしら。生贄とか」
 亜紀は恐ろしい想像をする。悪魔と言えば、その願いの代わりに生贄や魂を要求する物だと本で読んだことがある。ならば自分もこの悪魔に何かを支払わなければならないのだろうか。そう不安な顔で亜紀が鏡の悪魔を見つめると、
「大丈夫よ。何もいらないわ。私はあなたの願いを叶えたいのよ。そう、でもたった一つだけ、してもらわなければならないことがあるわ」
「な、何?」
 鏡の中の悪魔はそっと手を鏡の内側からその表面に触れている。どうやらその鏡の中から彼女は出ることが不可能らしい。いや、『今はまだ不可能』と言ったほうがいいだろう。
「さあ、私のこの手にあなたの手を重ねて。そして、私をここから出して頂戴。それだけが条件よ」
 そう言われるがまま、亜紀はその手に自分の手を重ねた。





        ◆◇



 その翌日、ひばりは朝早くから登校し、教室にいけてある水仙の花の水を取り替えていた。これは彼女の日課で、誰もやらないから仕方なくやっているようだ。生真面目なひばりはそういうことが気になるのだろう。
 それからひばりは爽やかな朝の日差しの中、予習を始める。付属の双葉学園に入学することになると決まっていても、試験はあるし、悠長にしていたらあっという間に時というものは過ぎてしまう、そのことをひばりはよく理解していた。
「おっはよーひばり! 宿題見せてよ!」
 そんないつもの穏やかな朝の空気は、いつものように親友の亮子によって破られることになる。毎度のことなので、ひばりの対応も慣れたものである。
「嫌よ。ちゃんと自分でやりなさい」
「ぶー。ケチ! ねえ、ほら、学食奢ってあげるからさー」
「亮子のためを思って言ってるのよ。ほら、私が解きかた教えるからノート開いて。まだ間に合うわよ」
 まだグチグチ言う亮子を説き伏せ、なんとか勉強を開始する。そうしている内に時間は過ぎ、教室もちらほらと生徒たちが増え始めた。
 そして、またガラリと教室の扉が開き、亮子はそちらをなんとはなしに目を向けて、驚きのあまり声を失った。そしてそこに教室中の生徒たち全員が目を向けることになる。
「みなさん。御機嫌よう」
 その声はとても澄んでいて、まるでカナリヤの鳴き声のよう。その声は教室中の寒々とした空気を一変させ、とても暖かで穏やかな雰囲気になっていく。
 そこには独りの美少女が立っていた。
 長く、黒く、艶やかな髪に、雪のように白い肌。軽くルージュの入った柔らかそうな唇。伏せ眼で濡れた瞳に、とても長い睫毛。細い足に細い腕と指。そしてどこか自信に溢れた雰囲気を纏っている。
 だがみなはその少女の顔を凝視する。
 間違いなく、その顔は、山岸亜紀その人であった。
「どうしましたみなさん。私の顔に何かついていますか?」
 そんな風に上品に言う亜紀を、誰も彼もが唖然としたように見つめていた。確かにその顔はあの亜紀に間違いない。だが、全体の雰囲気がまるで別人のようであった。
「ちょ、ちょっとひばり。あれって山岸さんだよね。どうしちゃったのあれ?」
「そうね。私もびっくりしたわ……。高校デビューかしら――ってもう私たち三年だけど」
 ひばりも驚きつつ彼女に視線を向ける。すると、亜紀と視線が合ったようで、亜紀はひばりの顔を見てにっこりと笑った。
 その顔はとても美しいと感じる半面、どこか恐ろしく冷たいもののようにも見えた。そう、それはまさに悪魔のように。
(気のせいよね)
  何か気分を変える何かがきっと彼女にはあったのだろうとひばりは独り納得した。もとより彼女は綺麗な顔をしていたことをひばりは知っていた。いつも長い髪で顔を隠し、俯いて本を読んでいるから誰も気づかなかったのだろう。
 ついこの間、ひばりは図書館で亜紀の顔をまじまじと見る機会があった。その時の彼女の照れたような、紅潮した顔は、とても可愛らしいとひばりは思っていた。
 だが、今日の亜紀はまるで別人だ。長い髪を前髪に揃えて切っており、よく見えるが、その顔はやはりあの亜紀とは思えぬ表情であった。
 亜紀は上品な足取りで自分の席に向かい、さっと腰を下ろした。彼女のその美貌を見て、特に男子たちはひそひそと彼女見てニヤニヤと嬉しそうに笑っている。今まで相手にしなかった女の子を、綺麗になったとたんそうやって噂し始めるというのはなんとも現金だな、とひばりは呆れていた。
 他の女子たちもそんな亜紀を取り巻いてわーわーと騒いでいた。
「どうしたの山岸さん!」
「すごい、キレー」
「何のシャンプー使ってるの?」
 まるで世界が変わったように、彼女はクラスの注目の的になっていったのである。



 その後、授業が始まったのだが、そこでも亜紀はまるで最初からそういう優等生だったかのように振舞っていた。
 授業で問題が提示されれば率先して手を挙げ、そして難なく問題をかつかつと解いていった。それはひばりも頭を抱えるほどのものだったのだが、それでも亜紀は余裕の表情で解いている。
 元々亜紀の成績は悪いものではなかったが、一度たりとも授業で手を挙げたことなどはなかった。そんな彼女を教師も驚きの表情で見て、生徒たちは賛美の視線を彼女に送っていた。
(人って、こんな簡単に変われるものなのかしら)
 ひばりは一人そんな風に思いながら彼女の行動を見ていた。
 そしてその後の体育の時間。いつもの亜紀ならば、ほとんど見学だったり、参加したとしても隅っこでみんなを眺めているだけなのだが、今日は違う。
「おお! これで同点に追いついたぞ!!」
 ぱこーんと小気味いいボールの音がコートに響く。今日の女子の体育はテニスだった。そのコートの中で、亜紀は可愛らしいミニのテニス服に着替え、凄まじいスマッシュを放っていた。相手はテニス部のエースである岡田なのだが、それでも亜紀はまったく怯むことなく点差を縮めていく。
 大勢の女子たちはそんな彼女のプレイをぽかーんと見ているしかなかった。
 そして、勝負がついた。
「中々やるじゃない山岸さん。あなたならきっとレギュラー狙えたでしょうね。勿体無い」
「いいえ、やっぱり岡田さんには勝てないわ」
  結果として亜紀は負けたのだが、岡田は亜紀のプレイを認め、握手をしていた。ギャラリーたちもそんな二人を拍手して称えている。
 まるで青春映画のワンシーンのように。
 そんな中、一人だけひばりは冷めた目で亜紀の行動を見ていた。おかしい。明らかにおかしい。普通じゃない。
「ねえ、どう思う亮子」
 と、ひばりは隣で体操座りしている亮子に話しかけた。
「どうって? 凄いじゃんあの二人。いやーカメラ持ってこればよかったよ」
 だが亮子は特に疑問に思うことなくテンションを上げてそんなことを言っていた。確かに今まで目立たなかった彼女が、こうしてクラスに馴染み、楽しそうにしているということは喜ぶべきことだ。
 だが、それでもひばりは何か引っかかるものを感じていた。
(なんだかわからないけど、あの人は、山岸さんじゃないような気がする)
 自分でも何を言っているのか理解できないが、なんとなく今までの亜紀とは違うと感じていた。人が変わったと言えば、確かにその通りだろう。だがそういう次元ではなく、本当に人が変わったのではないかと言う恐ろしい空想がひばりの頭によぎったのであった。
(まさか――ね)



        ◆◇


 悪魔は初めて触れた鏡の外の世界に心を躍らせていた。
 そう、今のこの亜紀の正体は鏡の悪魔であった。悪魔が亜紀に出した条件とは、自分と亜紀を入れ替わるというものであった。故に逆に亜紀本人は鏡の世界に閉じ込められているのである。
『自分が人気者になるから、私と立場を代わりなさい』
 そう言って鏡の世界に閉じ込めたのであった。そして、彼女は閉ざされた鏡の世界から抜け出て、夢見た現実世界にやってきたのであった。
 彼女はほとんど力を持たない低俗なラルヴァであった。あの階段の鏡に取り付いているちんけな存在である。悪魔などと言う呼び名は大げさであろう。
 だが彼女は、亜紀という媒体を手に入れ、こうして現実世界への進出を果たしたのだ。
(ああ、なんて楽しいのかしら。これが、これが人間の生活)
 彼女は亜紀の心を写した存在であり、亜紀の記憶すらも受け継いでいた。悪魔の精神はほとんどが亜紀本人と同一の存在といっていいだろう。
 だがその中身はある意味鏡のように正反対であった。
 明るく、勉強もでき、スポーツも万能で、誰からも好かれる存在になっていたのであった。それがこのラルヴァの性質なのかどうかはわからないが、人を魅了させる力があるのだろう。
 テニスで汗を流し、とても心地いい疲労感に浸っていると、こちらをじっと見ているひばりの姿が目に入った。
(あれが、“私”が想っている相手かしら。確かにとても利発そうで知的だわ)
 精神をコピーしているためか、悪魔にとってもひばりはとても魅力的な存在に見えた。悪魔はそんな亮子の隣に座る。コート端の芝生がちくちくとお尻に刺さる。
 ひばりは突然隣に座りだした自分に少し面食らっているようだったが、すぐに平静を取り戻しこう言った。
「凄い活躍ね山岸さん。驚いちゃった」
「そう?」
「ええ。何だかとても人が変わったみたい」
 そう鋭いことを言うひばりに、悪魔は少しどきりとした。
(大丈夫――よね。山岸亜紀の精神と肉体をコピーしている以上、私がラルヴァだと知られるわけがない)
 確かに今日の行動は行き過ぎたものだろうが、特に異能者でもなんでもないひばりがそれに気づくはずもないと悪魔は高をくくった。
「ねえ綾鳥さん。私と友達になってくれるかしら」
 悪魔はなにげなしにそう言った。亜紀の記憶がそうさせるのか、ひばりと親しくなりたいという願望が突然悪魔にも湧いてきたのであった。
「なんで私なんか。今の山岸さんならもっと色んな人と仲良くできるんじゃない?」
「いいえ。あなたがいいの。私はあなたが好きよ」
 率直に、何のためらいも無く悪魔は言った。だが、その“好き”は当然ひばりにとっては友達としてということにしか意味を持たず、にっこりと笑い手を差し出して握手を求めた。
「ええ、じゃあ私からもよろしくね山岸さん」
「ああ! ずるいひばり! 私も山岸さんとお友達になりたいよ!」
 と、横にいた亮子も無理矢理にその握手に手を重ねてきた。その時悪魔はなんだか温かいものが胸を支配していくのを感じた。
(なに……これ……)
 悪魔は初めて人の温もりに触れたのであった。 
 鏡の世界でぼんやりと、自我すら持てず、ずっと生きてきた彼女にとってそれはとても新鮮なものであった。
「そうね、私たち三人は友達よ」
 そう言うひばりの横顔を、悪魔は頬を紅潮させて見ていた。
(なんて綺麗なのかしら……)
 そして、悪魔も気づいてしまった。
 この胸を締め付けるような想いは恋なのだと。
 それは当然だった。亜紀と同一の記憶と精神を持つ以上、その恋心もまた、引き継いでしまっているのだから。
 悪魔だって恋をする。してしまう。
 それは悪魔にも、亜紀にとっても、予想外のことであった。


        ◆◇



 上も下も右も左も夜も朝も昼も無い。
 鏡の世界はそんなところであった。たば薄紫と黄緑の混ざったような不気味な空間だけが無限に広がっている。
(一体あれからどれくらいの時間が経ったんだろ……。一分前のことのようにも思えるし、何百年も前のようにも思えるわ)
 亜紀は溶けていくようにぼんやりとした意識の中、そう心で呟いた。彼女のいる鏡の世界は、厳密に言えば鏡の世界ではない。鏡の世界などと言うものはこの世に存在するわけが無いのだ。
 それはあくまで悪魔が作り出した“巣”でしかないのだろう。
 だが、そんなことは亜紀にはどうでもよかった。一体あの悪魔はどうしてしまったのだろうかと、そればかりを考えていた。
 しかし、そんな静寂な鏡の世界に、声が響いた。
「久しぶり私」
 その声が自分自身の声だった。そして、それがあの悪魔の声なのだと、亜紀はすぐに理解した。
(ああ、あなたようやく戻ってきたのね)
「そうよ。そうは言ってもまだ一日目だけどね。そこは退屈だから時間が長く感じるでしょう」
(ええ。早くここから出してほしいわ)
「それは出来ないわ。まだ私はあなたの願いを叶えられてないもの。クラスの人気者になることは出来たけど、肝心の綾鳥ひばりとはまだ少ししか接していないもの」
(それでもいいわ。ほんの少しでも友達になれればいいの。私は綾鳥さんと結ばれたいだなんて思ってないわ。そんなの、無理に決まってるもの……)
「駄目よ! そんなの、許さない。私はきっと綾鳥さんに好きになってもらえるわ。だから諦めちゃ駄目よ」
 突然そう叫ぶ悪魔の声を聞き、亜紀は驚きを隠せなかった。悪魔は亜紀の抑圧された可能性だと言っていた。つまり、この激情は自分自身がこれまで隠してきた物なのだろうか。ならば、悪魔の言葉は自分自身の本心かもしれないと、亜紀は考えた。そうだ、自分が悪魔に頼ってまで欲しかったのはひばりの心なんだ。ひばりが自分の物になることをこれまでどれほど空想しただろうか。
 悪魔がその願いを叶えてくれるというのなら、そんなに嬉しいことはない。
 亜紀は悪魔に全てを託し、再び鏡の世界のまどろみへと落ちていった。








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