【水分理緒 人物紹介SS】


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 水分理緒は午後の醒徒会の会議が一段落したところで、あてもなくふらりと散歩を楽しんでいた。
 ここ数日はラルヴァの目立った被害はなく、ほんの少しの蒸し暑さを除けば、穏やかに一日が過ぎていた。
 梅雨明け。見上げるほど高い雲と鳴り止まない蝉の声。映画のような夏が、この学園島にもやってくる。
 この時間、一般生徒は授業中であり、外で実習をしている学年に何度か会った。そのつど引率教師に見咎められたりもしたが、決まって「醒徒会の見回りです」と生徒手帳を見せながら丁寧に説明すると、すぐに引いてくれた。
 どこかの捜査官みたい。理緒はそう思うと人知れず苦笑した。
 この広い学園で教師が他学年の生徒個人を知る機会は少ない。そのあたりで顔が広く、なにかと融通が利くのはさすが醒徒会というべきか。
 木陰のベンチに座る。大きく広げた枝葉の間から漏れる陽射しの輝きが、日増しに大きくなっているように感じられた。
「水分副会長!」
 声の聞こえたほうへ顔をむけると、緑と燈のゼッケンを着た男子学生の集団が見えた。全員がサッカーボールを脇に抱え、恰幅の良いジャージ教師の後ろを長い二列縦隊で走っている。背丈からしておそらく中等部だろう。この先に、練習用のサッカーグラウンドがあるのを理緒は知っている。
「暑いですけど授業頑張ってください」
 言って理緒が会釈すると、男子生徒たちが波を打つようにざわめいた。さっき声をかけてきたであろう男子生徒が、周囲の生徒たちから小突かれている。たまりかねたジャージ教師が、木刀を掲げて一喝した。その様子を見て理緒は小さく笑った。長かった生徒の行軍が、あっという間に走り去って行く。

 不意に、わあぁと妙な声が聞こえた。続いて何人もの違う声で、驚きにも似た叫びが聞こえる。
 ほんの少し前に聞こえていた、楽しい色を含んだざわめきではない。悪い予感を感じた理緒が駆けつけたとき、グラウンドには怯えや恐れに対する虚勢に満ちた怒号が散発していた。あの恰幅のいいジャージ教師が木刀を構え、逃げ遅れた数人の生徒を背中に庇いながら山犬のような『何か』と対峙している。生徒のなかには理緒に声をかけた男子生徒もいた。
 輝く赤い瞳、煤けた黒いシルエットは、白昼の陽射しを際限なく吸収しているかのように見える。低い唸り声を漏らしながら、体の色と対照的な真っ白な犬歯が見えた。およそ噛みあうように見えない両顎から突き出した牙が、ラルヴァたる所以の異常性を示している。
 理緒は一つ息を吐いて、傍らに転がっていたサッカーボールを蹴った。低い弧を描いたボールは、ラルヴァの頭へと飛び当たったかに見えたが、触れた瞬間に破裂した。そして、黒い山犬ラルヴァはゆっくりと理緒のほうへ向き直った。夜でもないのに、赤い瞳が尾を引いて流れる。
「現代兵器は無効。上級の獣のB2……牙をおまけして、B3でしょうか」
 誰に言うわけでもなく理緒は宣言すると、持っていたペットボトルの口をひねった。
「この『野犬』は醒徒会が処理します。先生は避難誘導をお願いします」
 理緒が目配せしたジャージ教師は静かに頷くと、怒鳴り声で生徒たちを奮い立たせ、理緒とラルヴァから離れていった。その間も、山犬ラルヴァは理緒へ完全に狙いを絞り、彼らに振り向こうともしない。
 理緒はラルヴァに向き合ったまま視線は外さず、自らの右腕にペットボトルの水を垂らした。
 華奢な細腕を心地よい感触が伝っていく。血とは違う、冷ややかで透き通った雫が指に絡まり、青い芝生に落ちた。
 ラルヴァの動きは素早かった。爪を広げばっくりと口を開けると、十数メートルもあった理緒との距離を一足で飛び越えて襲いかかった。
 牙より頭一つ前に突き出しているその黒い爪が、理緒の胸を容赦なく貫こうとしたとき、ラルヴァは突然飛び退いた。
 理緒の力だった。地面にできた小さな水溜まりが、丸いボールのように収束すると、その水球が無防備に晒したラルヴァの腹を直撃した。
 短いあいだ宙を舞うと、くぐもった呻きと共にラルヴァが背中から地面に落ちた。
「生身の人間なら気絶してしばらく動けないはずですが――」声の調子はかわらず、理緒は確かめるように言った。「やはりラルヴァは、見た目の大小でその力は測れないですね」
 身を起こしたラルヴァは再び理緒と相対した。実体感のつかめない黒い体に埋まっている赤い瞳は、地上の生き物と同じ怒りの感情が噴出している。
 理緒は目だけで周囲を見渡した。ラルヴァの後ろ20メートルほど先の右手に、簡素な石造りの手洗い場がある。そこの水を使えば、際限なく大きな力で打ちのめすことができるだろう。
 しかし、たとえ理緒の力を知らずとも、ラルヴァが素直に通すはずはない。幸い手持ちの水は、まだ半分の容積を溜めている。もう一度同じように迎撃することはできるが、それだけで打倒できる可能性は極めて薄かった。
 別の方法で切り込んでみようかしら。
 思案しながらペットボトルの水を腕にかけようとしたとき、ラルヴァが一度目の速さを超えた速度で飛びかかった。それに気づいた瞬間、理緒が身をよじると持っていたボトルが真っ二つに裂かれた。
 足元を崩した理緒はそのまま芝生に手をついた。わずかになっていた水が髪を濡らす。
 手ごたえを失ったラルヴァは反転し、今度こそ理緒の喉を食い破ろうと、愉悦の咆哮をあげながら突進した。
 理緒は手を振り上げた。指揮者がタクトを振るように、しなやかに動いた。あらかじめ理緒の腕に纏われていた薄い水の膜が、振り上げの慣性を受けて飛び出し、水の刃となってラルヴァに放たれた。
 水球と違い、縦に細く圧縮されたそれは、ラルヴァを鼻先から切り裂き、力を落とすことなく尾の先まで貫通すると霧散した。咆哮がぷっつりと途切れたラルヴァは、まるで電池の切れた機械のように静止していた。やがて少し遅れて体がぼろぼろと崩れて消えていった。
「ふぅ」
 理緒はゆっくり立ち上がると、水で顔に張りついた髪を手ではらった。
 夏日の今日に珍しく、涼やかな風が吹いた。お茶碗一つほどの黒い灰山となって残っていたラルヴァの痕跡が、風に巻き上げられていく。理緒はそれがすべて空に呑み込まれていくまで静かに見続けた。
 理緒はスカートのポケットから携帯を取り出し、どこかへ電話をかけた。
「副会長の水分です。お勤めご苦労様です。先ほど敷地内にいた敵性のラルヴァを処理しました。はい、そうですね、最近みかけなくて気が緩んでたのかもしれません。そんな! こちらにも落ち度がありますから。それと会計に急ぎの案件が……いえ、警備のことじゃないです。サッカーボールの補填をお願いします。一つダメにしちゃったので、ふふふ。はい、眼鏡をかけてないほうの会計さんに伝えてください。報告書ですか? えっと……それでは庶務の人を現場に呼びますので、そちらにお任せします。はい、ありがとうございます」
 最後に生徒手帳のGPS機能を使って、現在位置を転送した。5分もすれば庶務の彼が駆けつけてくれるだろう。
 そろそろ戻らないと。会議はもう始まっているかもしれない。
「その前に」
 ぽつりと呟くと芝生のグラウンドにくるりと背をむけ、理緒は会議を行う校舎のほうへと歩きはじめた。
 手にはラルヴァによって二つになったペットボトルがあった。「まずはゴミ箱を探さないと」
 遠くで誰かが腹を立てながら走ってくる気がした。



―了―


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