【スカイラインピジョン02(前半)】


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    スカイラインピジョン02


「異能者航空部隊の一つ『スカイラインピジョン』は、あなたを歓迎します」
「ちょっと待てよ」
 真っ暗な校庭。耳を澄ませば虫の音が聞えてくるぐらい、静かな秋の夜だった。
「どうして俺が? そもそも『才能』って?」
 困惑している中田青空とは対照的に、権藤つばめは穏やかな笑みをたたえている。そして力強い口調で説明し始めた。
「フライハイユニットはね、空高く飛び上がれたり、地上での移動速度を大幅にアップさせたりして、人類が到達不能だった運動性能を得ることができる」
 つばめは上体をひねって後ろを向き、もう一度背中の箱を見せてくれた。青空は見たことも聞いたこともない発明品を、熱い眼差しで見つめている。
「だから、青空くんの力が活きてくるんだよ」
 あっと彼は思い至った。青空には個性的な力がある。
 天性の才能である「反射神経」と、弓道で地道に培ってきた集中力だ。
 これが、あのゲームで最強の域に上り詰めることのできた理由である。ベルゼブブ・アーマズをプレイしている時にだけ鬱々とした気分は晴れ、床に硬貨が落下した音も聞き逃さないぐらい意識が明瞭化された。青空は戦闘の高速化が進むにつれて一段と輝く異能者であったのだ。
「青空くんなら敵の攻撃なんてかすりもしない。青空くんなら確実に敵の隙を突いて撃破できる。あなたの活躍できる場がスカイラインピジョンにあるんだよ」
「スカイラインピジョン・・・・・・」
「ええ。川崎博士もあなたに興味を持ってる」
 突然転がり込んできた誘いに、胸の鼓動が早くなっていた。
 これまで何も取り柄がないと思ってきた自分。そうして自信を無くしてしまったのも、自分が異能者として全く役に立たなかったからである。
 フライハイユニットなら、ゲームでなく現実で自分の得意とする戦いができる。
 スカイラインピジョンでなら、こんな自分でも活躍することができる。
 何よりも権藤つばめの誘いだ。彼女の親切心を踏みにじるのは抵抗があるし、それに、こんなおちこぼれが才色兼備の彼女と一緒に活動できるのである。そんな不純な感情もあるにはあった。
 だからこそ、彼は著しく気分を害してしまった。
「だから、そのね」急にもじもじとしだす。「私たちにとって貴重な力を失いたくなかったから、あなたを助けたんだよ?」
「え?」
 拍子抜けした顔で、青空はまじまじとつばめの顔を見る。そして胸のうちに潜ませていた期待を手ひどく裏切られたときのような、強い悲しみが襲ってきたのである。
 つばめはそっぽを向き、まるで怒ったような横顔で、素っ気無さげに続けた。
「さっきは私も必死だったから、恥ずかしいことばっか言っちゃったんだ」
 唖然としているうちに、急激に熱が引いていくのを感じていた。一度は手が着けられないぐらい燃え上がった気持ちが、完全に台無しになる。
「勘違いしてもらっちゃ困るから言ってるんだよ? そこのところ誤解してもらっちゃやだ。青空くんはこれから私と一緒にスカイライン・・・・・・」
「あー、そうかそうか」
 あれほど舞い上がってしまった自分が、非常に馬鹿らしい。滑稽すぎて笑ってやりたい。
 そうして自嘲した結果ふつふつと込みあがってきた、自分ひとりではどうにもできない、とてつもない怒り。
「俺の命が大事だとか、死んだら嫌だとか、そういうのは無かったってことか」
「ちょっと! 私はそんなつもりで!」
 動揺してつばめは声を上げる。青空がどうしてそのようなことを言い出すのか全くわからなかったし、無論、今言った動機だけで彼を救いに飛び込んだわけではないのだから。
「結局俺のことなんて、ただの人材にしか見てなかったんだね」
「やめてよ、そんな程度のことで私、あなたのことを」
「俺の命のなんて安いことだ。卑しいよお前ら・・・・・・」
 心の底から嫌悪感を露骨にしてやる。つばめは俯いたまま何も反論をしてこない。青空はそれ以上彼女のほうを見ることなく、背を向けた。
「二度とその話を持ち掛けんな!」
 途中、グラウンドに落ちていた大きめの石ころを蹴っ飛ばす。
 とにかく不愉快でたまらない。両手をズボンのポケットに突っ込み、ぶつぶつ文句を呟きながら人気のない夜道を歩いていった。
 もう、色々と出来事がありすぎて気持ちの整理がつけられない。今日あった出来事をざっと振り返ってみただけで、それはとても長い時間を費やした。気づけば学生寮に到着していたほどである。
 建物の中に入ると、何も考えられないぐらいひどい疲れが襲いかかってきた。廊下を進み、一刻も早く部屋に戻って眠りにつきたいと思っていた。
 そのとき男子寮の管理人が青空の姿を認め、むっとした表情で近づいてくる。
「こんな時間まで何をしてたんですか?」
「空中散歩につき合わされました」
「は?」
 管理人は変な声を上げた。青空はため息をつきながらこう思う。「信じらんないだろ? 俺もそう思う」と。
「とにかく物騒なんですから、遅くまで遊ぶのはよしてください。何かあったらどうするんです」
 そういえば今朝、そんな話を学校で聞かされていた。
 刃物を持った女が街中に出没し、見境なく斬りつけるという迷惑な事件の話である。隣のクラスのおっぱい星人? が襲われたという噂だ。青空は管理人の小言を聞き流し、寮の階段を上がっていった。
 整理整頓のされていない散らかった室内をかきわけて進み、制服のまま、年中敷きっぱなしの布団に潜り込んだ。タバコの匂いが服にこびりついてしまっている。
 何も考えたくない。とりあえず眠りたい。
 部屋の鍵をかけたかどうかなど全然気にしないで、青空はあっという間に深い眠りへ落ちていった。


 戸から差してくる透き通った日差し。新しい朝がやってきたのがよくわかった。
 薄く目を瞑ったまま、青空は実感する。
「よく眠れた・・・・・・」
 それは八時間以上も眠れたことに対する、素直な感想であった。
 昨日は寮に帰ったとたん、どっと疲れが押し寄せてきた。だから歯も磨かずに、とっとと布団にもぐりこんでしまった。
 生活習慣が不安定な青空にとって、こんなにも充実した睡眠が取れたのは珍しいことだ。何か夢を見たような気がしているが覚えていない。でもそれはとても暖かくて、クリアで、幸せな夢であったことは間違いない。心地よい余韻に浸っていた。
「センパイ、おはようございますっ」
 しかしその声を耳にしたとたん、青空は完全に目を覚まして飛び上がる。
 後輩の河原ひかりが、何故かそこにいるのだ。意味がわからない。
「何やってるの、ひかりちゃん!」
「モーニングサービスでございます」
 エプロンを制服の上から着用しているひかりは、ミニスカートのすそを両手の指でつまみ、ゆったり腰を落としておじぎをしてみせた。青空は呆れ果てて物も言えない。
 そしてひかりは、背中に隠し持っていた何かを見せつける。それは彼もよく知っている弓具『ゴム弓』であった。にんまりと不敵な笑み。
「センパイ、今日こそ朝練に来てもらいますよ?」
「やっぱりそれが目的か」
「自分で何とかできないなら、無理やり治してやるのがてっとり早いんです」
「迷惑としか言いようがないね」
「はいはい、とっとと起きましょー。朝ごはんできてますから、食べて支度して寮を出れば朝練に参加できます。えへへ、ひかり気が利くでしょお~~~?」
 青空は今にも泣き出しそうな顔をしていた。差し出されたコップ一杯のオレンジジュースを手に取ると、やけになって一気に飲み干す。
「って、ちょっと! 登校時間まで一時間以上あるじゃない!」
 まだ誰も起きていない寮の廊下は、とても静かである。カーテンを開けて窓から表を見ると、昨日の管理人が竹箒で道を掃いているところであった。


「・・・・・・そういうわけで、これからセンパイが来るからね。射場の準備だけよろしく、のぞみちゃん!」
 ひかりは元気良くそう告げると、パチンと携帯電話を閉じた。
 じゃらじゃら無数に垂れ下がるストラップ。ひかりの携帯は明るいピンク色のボディをした、傷一つ無い最新機種であった。あまりの派手さについ注目してしまう。
 青空はしぶしぶ学園までの道のりを歩く。年配の島民が犬の散歩に出たり、ジョギングをしたりしている以外は、学生らしき姿は見当たらない。
 ちびっ子後輩はすこぶる機嫌が良いようで、歩きながらゴム弓を引いている。手を離すと、ばしんと張りのある音が朝の通学路に響いた。これは弓道初心者が持つ道具で、これを使ってきちんとした射の型を身につけるのだ。青空が「ゴム弓で遊ぶなコラ」と苦言を呈す。
「ほらセンパイ、もっとしゃきっとしてくださいっ」
「登校時間早くね?」
「なーに言ってんですか。センパイにはですね、ちゃんと面倒を見てあげる人が必要なんです」
「何もおはようの時間から必要無いって」
「ダメです!」
 先行して歩くひかりはくるりんと周り、青空のほうを向く。
「ひかり思い知りました。センパイは甘やかしたらいけないタイプなんだって。だから私がセンパイの世話をしなきゃならないんです」
「いりません不快です死にます。やめてください」
「いつかありがたいと思えるようになりますよ」
 えへへっとひかりは笑った。青空はがっくり肩を落とす。
 そうしてゆっくりした歩調で歩いていたら、朝練を始めるのに丁度いい時間に到着した。
 同じ島に暮らし、同じブレザーを着ている生徒たちが正門へ吸い込まれていく。生徒たちも徒歩で通ってきたり、バスに乗って通ってきたりと様々だ。たった今バスターミナルに着いた通勤バスからも、学生がわらわら出てくる。
「ほら、射場に来ましょうねっ」「堪忍してーっ!」と青空が腕を引っ張られているところを、黒髪の女子生徒は通りかかる。
「あ・・・・・・」
「あ・・・・・・」
 中田青空と権藤つばめは向かい合うなり、お互い視線を逸らして黙り込んでしまった。
「む? むむぅ? むむむむむぅ~~~?」
 この珍妙な空気に割って入ったひかりが、両者の表情をちらちら伺う。
「おはよう、青空くん」
「おはよ」
 青空は目も合わせようとしない。
「その、昨日のことは」
「言っただろう」
 語気を強めて青空は言う。そしてすぐ、つばめに背中を向けてしまった。
「俺はスカイラインピジョンに入らない。お前らのために戦うつもりなんてない」
 精一杯の意地を張ってそう言った。もう彼女のほうを向いたりはしない。真っ直ぐ、大きな足取りで高等部の校舎を目指していった。
 まったく状況がわからないひかりは、ただ一人、ぽかんと立ち尽くしている。
「これは・いったい・どういうことがありまして?」
「邪魔してごめんね」
 つばめはそう言い残し、悲しそうに力なく歩き出す。
 足早に去っていってしまった彼を追いすがるように。


 昼休み。学食やカフェが最も賑わう時間帯である。
 非常につまらなさそうな無表情をしている男子が、静かにコーヒーカップを置き、言った。
「先輩、無理しなくてもいいって」
「そうね」
 高等部の校舎にあるカフェテリアで、権藤つばめは後輩の男子生徒と昼食を取っていた。
「その中田青空って人は、言っちゃ悪いけど、あんま強くないんだろ?」
「これまでの実績なんて関係ない」
 ティーカップがかちゃんと小皿に叩きつけられる。液体が跳ねる。自分の発言を強い怒りでもって否定された男子生徒は、細長い目を丸くして怯んだ。
 しばらく口を塞がれたあと、気まずそうに会話を続ける。
「悪かった。でも、僕らのやってることは遊びじゃないんだ」
「あなたに言われなくてもわかってる」
「入らないって言うならおしまいにしよう。僕たちは一日でも早くフライハイユニットを実用化させなければならない」
「川崎博士の悲願・・・・・・」
 フライハイユニットは、ある男の偉大な夢を実現させるために誕生した。
 それは、異能者の空中戦を可能にすることである。
 この超科学がもたらした最新作は、地上戦においても多大な恩恵をもたらすことが期待されている。歩行から脱却することで移動速度が向上し、白兵戦の能力向上や、戦闘の一段とした高速化を実現することができる。
 権藤つばめが協力している川崎翼郎という人物は、もともと「アツィルトコンバーター」という革命的なシステムを構築した科学者として高い評価がされていた。フライハイユニットも、アツィルトコンバーターの理論を応用して組み上げられたものだ。
 しかし、双葉学園や双葉島を大きく揺るがした「ある不祥事」をきっかけにして、彼の研究はめっきり世間から注目されなくなってしまう。
 それでも川崎博士は諦めなかった。権藤つばめを始めとする適正に優れた生徒たちを集め、地道にテスト運用を続けてきたのである。
「ようやく一号機の完成まで来たんだ。余計なことをしてないで、早く別の人材を探そう」
「そうね。そうしようと思う」
 つばめは席を立ち、昼食代の小銭をテーブルに置いた。
「次、教室移動だからもう行くね」
 男子生徒は渋い表情のまま、校舎の中へ消えていった背中を遠巻きに眺める。
「昼飯代ぐらい僕が払うんだが・・・・・・」
 後輩の名は杉下岳といった。


 つばめが後輩と一緒にお昼を過ごしていたとき、青空は校舎の屋上にいた。
 手すりに寄りかかって秋晴れの空を眺めていた。日差しは暖かいのだが、時折吹いてくる風が非常に冷たい。伸ばしっぱなしの前髪が揺れて、濁った色をした瞳が覗く。
 地上ではミットをはめた男子生徒たちが、校舎に入っていくところであった。そろそろ授業の始まる時間である。
 誰もいなくなった静かなグラウンド。粉粒のような地上の鉢の花を見つめ、青空は悲しそうなため息を一つ吐く。
 昨晩、つばめに命を救ってもらったことが本当に嬉しかった。あまりにも劇的で、感激すらしていた。
(生きて! 死なないで! 生きて!)
(あなたが死んじゃ、私がやだぁ!)
 そう言ってもらえたことが、正直なところ泣きそうなぐらい嬉しかった。そういった言葉は孤独な人間にとって最良の薬なのである。
 それなのに。
「みんな建前だったんだな・・・・・・」
 あくまで青空を助けた理由は、彼がスカイラインピジョンに高い適正を持っているからだとつばめは言いきった。彼の命や存在の重さより、チームにとって損失になるから救出しただけのこと。もしも彼に才能がなかったら、あの決死のダイブは無かったのだろうか。そう考えただけで無性に悲しくなる。
 携帯電話の時計を見た。あと一分で昼休みが終わろうとしている。
 午後の授業は退屈でかったるい。昨日は様々なことがあったわけであり、当然宿題なんてやっていない。見つかってしまえばいつものようにこっぴどく叱られる。
 授業はサボってしまうとして、学校が終わったら何をしようかを考える。またゲームセンターに行こうか考えたとき、昨日の対戦のことを思い出した。
 ゲームでつばめに負けたことは、いま振り返ってみても辛い。それはもちろん自分の誇りとしているもので完敗してしまい、プライドがずたずたにされたからというのもある。
「みっともないからに決まってんだろ」
 そう、ぽつりと呟いた。
 いつまで経ってもみっともないままである自分が、情けなかった。
 つばめは青空に優しかった。やる気が起きなくてやってこなかっただけの宿題を、あの子はにっこり笑顔で見せてくれた。苦手意識の強い戦闘訓練でも、あの子は進んでペアを組んでくれた。
 だから唯一の見せ場であるべきあのゲームにおいて、カッコつけてみせるどころか完敗してしまったことが、死にたいぐらい無様だったのである。
 午前の授業を終えた初等部の子供が、グラウンド脇の道を歩いている。黒いランドセルの脇に提げられた防犯ブザー。そういえば通り魔事件はどうなったのだろう。
 何はともあれ、青空の漠然とした淡い期待は崩れ落ちた。
 いつも親身になって接してくれていたのも、ベルゼブブ・アーマーズで対戦したことも、絶体絶命の危機から救ってくれたのも、全ては青空の才能がお目当てだったから。好意という言葉の持つ残酷さに絶望せずにいられない。
「誰がスカイラインピジョンなんかに入るか」


 薄汚れたコンクリートに寝転がっていたため、制服は所々黒ずんでいる。
 青空は大きなあくびをした。どうしてこんなにも眠いのかというと、今朝ひかりに部屋へ侵入され、たたき起こされ、無理やり早い時間から登校させられてしまうという憂き目にあったためで・・・・・・。
 はっとして背筋を震わせたが、もう遅い。
 放課後のこの時間帯は、不用意に表を歩き回れない。
「センパイ、めっけた――――――ッ!」
 ドスンと真横からタックルを食らい、青空は「ぐふっ」と吹っ飛ぶ。
 河原ひかりはまん丸の目を近づけてこうまくしたてた。
「逃げようったってそうはいかないんですよーっ! 今日こそ弓引いてもらうんですから!」
「勘弁してくれよ。弓も矢も袴も処分してもう無いんだ」
「え? 嘘でしょ?」
 明るい表情をしていたひかりの顔が、一変する。ぱっと小さな手が離れたとき、彼は淡々と衣服の乱れを整えた。
「本当だよ。もう部活とかやりたくないし」
 そっぽを向いて吐き捨てる青空。しかし、ひかりは諦めない。
「備品を使えばいいじゃないですか! 引退まであと一年なんですよ? 今からでも間に合います、わたしたちと一緒に頑張りましょう!」
 そのとき奔放に伸びた前髪の隙間から、血走った眼球が覗いた。
「うるせえ!」
「ひっ・・・・・・!」
「いい加減にしてくれないか。何度同じことを言えばわかる」
「だって、センパイには『才能』があって。センパイが来てくれないと私たち・・・・・・」
「またそれか。『才能』か!」
 今の青空に言ってはならない言葉だった。苦痛に顔を歪め、歯を噛み締める。
「俺に才能なんて無い! 適当なこと言わないでくれ!」
 両手で頭を抱え、腹の底から叫ぶ。ひかりは真下を向いてしまい、どんな表情をしているのかもわからない。青空は胸のうちに膨らんでいた憎悪を、理不尽にもひかりにぶつけてしまった。
「勝手に退部扱いにでもしろ。次、現れたら承知しねえからな・・・・・・!」
 周りの生徒がひそひそと、青空に対して指を差している。はたから見たら、冴えない男子生徒が小さな後輩をいじめているようにしか見えない。そんな客観的な視線に気がつくと、ますますいらいらしてきて、「見てんじゃねえよ!」と喚き散らす。
 心底面白くない。「けっ」と残し、ひかりのことなど放っておいて歩き出したそのときであった。
「センパイ。覚えていますかぁ・・・・・・?」
 泣き声の入り混じった、悲しい声。
 さすがに青空は立ち止まって振り向いた。
「わたしセンパイに憧れて弓道部に決めました。射の姿がとってもかっこよくて、センパイのようになりたいと思いました。センパイはいっぱいいっぱいひかりに教えてくださいました。弓の引き方、弓を持つ意味、学園生活。何もわからなかったひかりに、いっぱいいっぱい教えてくださいました。そんな優しくて素敵なセンパイのことが、わたし、好きになりましたぁ・・・・・・」
 どすんと、頭の中を強く揺さぶられた気がした。
「もう一度、カッコいいセンパイを見たかった。でももう無理なんですね。センパイはセンパイじゃなくなったんですね」
 青空は何も言わない。
 彼だっておちこぼれから脱却しようと努力した。今年の春ごろまで部活動だけは一生懸命こなし、後輩の面倒を進んで見ていた。
 けど駄目だった。這い上がることができなかった。
 何も進展しない毎日。伴わない結果。数十日、数百時間の努力が無駄に終わったことを悟ったとき、彼はとうとうくじけてしまった。勉強から、部活動から逃げ続けていた。
 中田青空は、中田青空ではなくなってしまった。
 卑屈な彼は、全くそのとおりだと思ってしまう。だから、ひかりに対して反論も謝罪もしない。
 そしてその沈黙が決定的となる。ひかりの顔が、悲痛極まりない涙でくしゃくしゃになる。ばっと彼女は走り出してしまった。
「ひかりちゃん・・・・・・」
 それでも青空は何もしない。動こうとしない。小さな背中が街中へ消えていったのを、空しい気持ちで眺めていた。
 まだまだ十分間に合ったというのに、それはとても愚かな選択であった。



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