学園の中心に聳える鐘楼が見るものの目を引く。  いま、そこに据えられている鐘が高らかに、一回、二回と高く長く、荘厳な音を降らせている。  鐘の音が、双葉学園の入学式を祝うように鳴り響いた。  大講堂へと列をなした新入生たちが一斉に鐘を見上げ、しばし行進が止まった。彼らを誘導している教師や腕章をつけた在校生が、ゆっくり進むように声をかける。  学園は広く、いくつもの校舎が立ち並んでいて、大講堂から鐘楼までの距離もかなり遠い。だが、年季が入って黒ずんだ鐘は、春の日差しを浴びる堂々たる佇まいを見て取ることが出来た。  鐘の形は寺にあるそれに似ているが、ここは仏教系の学校というわけではない。見上げるほど高い鐘楼はレンガ造りで、いかにもキリスト教的だ。  真新しい制服に身を包んだ少年、双葉敏明(ふたばとしあき)も、他の新入生同様に鐘を見上げていた。  その視線がふと、空の向こう、雲の切れ間に吸い寄せられる。 「なんだあれ?」  敏明は何かの影を見つけて、目を凝らす。  普通なら鳥か飛行機だろうと気にも留めないようなものだが、その影の形は人型だった。 「どうしたの、トッシー? お腹減った? スニッカーズあげようか?」  敏明の隣を歩いていた女子が彼の言葉に気付いて聞き返した。入学式とはいえ、初対面ではないのだろう、あだ名で気軽に呼びかけている。 「なんで入学式にそんなもの持ってきてるんだ」 「メイトがいい?」  少女は肩に提げたポーチから黄色い箱を取り出してみせる。 「そういう問題じゃねえ。ほら、あれ」  彼の指が示す先を見やり、彼女もすぐ人影に気付いた。 「スカイダイビング?」  敏明は錯覚ではなかったかと納得すると、すぐに興味を失って列に視線を戻す。行列は遅々として進まず、再び鐘の音が響き始める。 「生徒多すぎだろ。いくら超マンモス校だからって数千人単位はさすがに……」  不意に列の中からざわめきが漏れ出して、彼は口をつぐんだ。  彼らの指差す先は、さっきの人影の方向だ。みんなも今更気付いたのかと、欠伸しながら眺める。  しかし、どうも様子がおかしかった。新入生たちの何人かは、なにやら慌てたような表情を浮かべているのだ。  再び、鐘の向こうを見ると、人影はさっきより大きくなっていた。  不審に思っている間にも、その大きさは増していく。 「なあ、メグ」 「なに? やっぱりお腹減ってる? ウィダーもあるよ?」 「いらん」 「あ、足りないのかな。じゃあカツ丼だね!」 「そんなものを持ち歩くな!」 「バカだねトッシー、カツ丼なんて持って来てるわけないじゃん」 「お前な……」 「本当は牛丼でした」 「大差ねえよ! しかもそれ弁当じゃなくてマジで丼じゃねえか!」  ポーチから取り出された大きな容器を見て、敏明は思わず叫ぶ。何故か盛られた牛肉からは湯気も立っていた。 「前から不思議だったが、そのポーチどうなってやがる」 「あん、乙女の秘密に勝手に触っちゃダメだよ」 「変な声出すなっての」  ポーチを奪い合う彼らをよそに、周囲のざわめきは大きくなっていく。  すでに新入生のほとんどの興味が鐘から人影に移っていた。  誰かが叫ぶ。 「こっちに来るぞ!」  二人が振り返ったときには、人影は細部までが判然となる距離にまで近付いていた。 「なんだありゃ……」  それは、スカイダイビングをする装備をつけた人間には到底見えなかった。  体中を赤と黒の殻に包まれている。全身に甲冑を着込んだ鎧武者のようだ。  武者姿は近付いて細部まで見えるようになると、それは鎧ですらなかった。ごつごつとした突起と生物的な曲線は、巨大な人型に組み立てたカニかエビのようだ。  数秒後、カニ鎧は鐘楼の脇を通り過ぎ、敏明たちの目の前の地面に激突した。  轟音と悲鳴が、眩暈を誘うほど強く鼓膜を叩き、敏明は屈みこんだ。  落下の衝撃で巻き起こった土埃から手で顔を庇いながら、武者姿の落ちたあたりを見やる。  そこにあるものが、砕け散ったカニの殻だけならば、訳はわからないがまだいい。  鎧の中身として人間が入っていたとするならば、今の衝撃を受けて原型を留めてはいないはずだった。それはとても直視して気分の良いものではない。  だが、敏明の想像とは別のものが、煙の向こうから現れた。  薄くなってきた土煙を裂いて、真っ赤な腕が飛び出してきた。  そして、新入生の列を誘導していた教師の一人へと、その手が迫る。 「は?」  カニ鎧が無事だったこと、そして動き出したことにも当然驚いたが、さらに不可思議な現象がその後に起こった。  ただの教師と思っていたスーツ姿の男が、手品のように炎をどこからか生み出し、カニ鎧に叩きつけたのだ。  熱風と爆音が炸裂し、カニ鎧がよろめいた。さらに畳み掛けるように、教師は火の球を連発していく。  眼前で繰り広げられる光景に呆然と見入っていると、少し離れた場所から再び悲鳴があがった。 「今度はなんだ?」  そちらでは、在校生が手から得体の知れない輝きを放っていた。光を振り上げ、振り下ろし、何かを滅多打ちにしている。  打たれているのは、巨大な樹のようだった。しかし、樹の枝は人間の腕のように指をそなえて動き回っている。  樹の腕を避けながら、在校生は光の剣だか鞭だかで、木肌を削り落としていく。  彼らは、戦っているのだ。  敏明がそんな思考に到った時には、いつのまにか化け物が五匹以上も現れていた。  中には人間にしか見えないようなものもいたが、その右腕は不自然に膨らんで長大な爪だか骨だかが幾本も鋭く伸びている。  全体を眺めてみれば、新入生の列を背にして守るように、教師と在校生が化け物と戦っていることがわかる。彼らは皆、魔法や超能力と言われる類の超常の力を振るっている。  戦う相手も、戦いの手段も敏明の常識には無いものだった。  呆気にとられて眺めているうちに化け物たちは倒れ、逃げ出していく。  最後に残ったのは、敏明たちの目の前に落ちてきたカニ鎧だった。いつのまにか全身が焼け焦げ、左腕は半ばから折れて傷口からは青い液体がこぼれている。  カニ鎧は最後の力を振り絞るように全身を震わせると、身を屈めて駆け出した。  迎え撃つ教師が手に火の玉を生み出し、構える。  突っ込んでいく、と見えたカニ鎧はしかし、教師の眼前で跳躍した。 「しまっ……!」  カニ鎧は、新入生の列のすぐ傍、敏明の目の前に着地した。  敏明は真黒な眼球が自分を睨んでいるように感じ、全身から血の気が引いていく。硬そうな腕が持ち上がり、振り下ろされる様子を、突っ立ったまま見ているしか出来ない。  周囲で上がる悲鳴も、どこか遠くのことのように聞こえる。しかし一つだけ、その声は鮮烈に耳に響いた。 「しゃがめ!」  鋭い怒声に慌ててその場に腰を落とす。  眼前に、ふわりと黒髪とミニスカートが舞った。その手に長大な刀を握っていると気付いた次の瞬間、閃いた銀光がカニ鎧を横一文字に切り払い、両断した。 「オォ!」  気迫を大呼し、二の太刀でカニ鎧をさらに切り裂き、弾き飛ばす。  ふっと鋭く息を吐き、敏明の窮地を救った女子生徒が刀を納める。 「無事かい?」  凛とした声と共に差し伸べられた手を、敏明は無意識のうちに握り返す。  やけに力強く引かれて立ち上がる。 「あ、ありがとうございます……」 「いや……ヤツラにここまでの侵入を許したのは我々の落ち度だよ。すまない」 「へ……いえ」  何故か礼に対して謝られ、敏明は途方に暮れて下げられた頭から目を逸らす。なんとなく耳たぶを掻きながら、地面に転がるカニ鎧の残骸を見やった。  青い体液をごぼごぼと溢れさせながら、下半身や左半身は小さくなっていく。そして、まるで何も無かったかのように消えてなくなってしまった。右半身を残して。  鞘を引っ提げた女子生徒は背を向けているため、そこに消え残っているカニ鎧に気付かない。 「あっ……」  真っ赤な右腕が振り上げられたと思ったときには、敏明は女子生徒を庇うように前に出ていた。  カニ鎧の腕が爆ぜた。  細かく飛び散る破片の中で、大きな握り拳だけが真っ直ぐこちらに飛んで来る。  まともに受け止めればケガは免れないだろうと、咄嗟に理解できるほどの大きさと速度だった。  なんて無謀なことをしたのだと考えている間にも、拳が敏明に迫る。  せめて顔や胴は守ろうと、咄嗟に腕を前に構える。 「わあああっ!」  その時、敏明の手から謎の光が漏れ出て、あたりを照らした。  彼自身、驚愕しながら光が瞬くのを見届け……カニ鎧の拳は敏明の額に直撃した。 「い、いまの光は……?」  こういうときは助かるものだろ、お約束的に考えて。  そんな敏明の思考はすぐに闇に沈んでいった。  目を覚ました敏明は、独特の消毒液の匂いで保健室にいるのだとすぐ気付いた。  白く固いシーツに手をついて身体を起こす。額にはガーゼが張られていたが、少し鈍い痛みがあるくらいで重傷ではなさそうだった。  見つめた窓の外、空は朱色に染まっている。 「……入学式、終わっちまってるよな」  あんな騒ぎの後で予定通り行われるとしたらの話だが、あの教師や在校生たちの余裕の戦いぶりを見たあとだと、それもありえるのではないかと思えた。  ベッドから降りてカーテンを引きあけると、保健室は無人だった。 「……期待なんかしてないぞ、そんなお約束なんて。裏切られたばっかりだし」  落胆の隠し切れない低い声で、誰かに言い訳するように呟く。 「さっきの剣道少女系なセンパイが待っててくれてそこから恋が始まるなんてそんな妄想」  ガラリと扉が開き、黒髪の女子生徒が入ってきた。 「ああ、起きていたか。すまないな、小用で外していた」 「ありがとうございます!」 「ん? 礼を言うのは私のほうだよ?」  言いつつ浮かべられた微笑に、敏明はぐっと拳を握り締める。 「本音を言えば後輩系が好みだけど、アリだな」 「意味がよくわからないんだが……まさかさっき頭を打ったせいで……?」  わざわざオタ趣味について説明するのもおかしいので、笑って誤魔化す。 「俺は双葉敏明です。ええと、センパイは?」 「河越明日葉だ。双葉ということは、やはり君が学園長のお孫さんだったか」 「ええまあ一応、小中は他所の学校行ってたんですけど、高校はここに入れって言われて」 「ということは、君も『マケリョ』を討伐する力を持っているんだな」 「まけりょ?」 「さっき私たちが戦っていたヤツラだ。魔物、怪物、悪霊、そういうものをひっくるめてそう呼ぶんだ。……まだ詳しくは知らされていないのか?」 「まったく初耳です」 「ふむ……まぁ、さきほどので君にも力があることはわかったからな。そのうち授業で教えられるだろう」 「はぁ……」 「そのうち君も我々『守護生徒会』の一員になることだろう。そのときはよろしく頼むよ」  明日葉が笑いながら差し出した手を、敏明も服の裾で拭ってから握り返す。  先ほどの助け起こされたときには余裕が無くて気付かなかったが、刀を握るには少し頼りないほどに、たおやかでしっとりした手だった。