恋人と一緒に野球中継を見ていたら、私が男の子だった頃を思い出した。
それは、ずっと昔の話である。
「よっし! アツシ、次はスクリューだからな!」
茶色く汚れたボールを空に指し揚げて、僕は高らかに変化球を予告する。
イメージは、テレビで見たエースピッチャーの投球モーション。
ワインドアップと同時に、存在しない走者の牽制が動揺を誘う。
だがサイドスローは迷いがあってはいけない。この一球に全てを賭ける。
しかし、リリースに入るより先に、キャッチャー・アツシの抗議の声が飛んできた。
「待てって! リョウの球が本当に曲がった事、今まで一度もないぞ!」
「投げる途中で声をかけるなよ。投球妨害だぞ」
「受けるのは俺なんだよ! 変な投げ方するより、ちゃんとまっすぐ投げてくれ!」
「今度は曲がるよ!!」
そう絶対に。
もう一度、スポーツ雑誌で見たエースの写真の通りに握りこむ。
あれ? 僕とあの投手って利き腕が逆だっけ? じゃ、こうか?
でもスクリューは縦の変化だから関係ないのかな?
ま、いいか。投げちゃえ。
「って、あぶねえぇぇっ!!? 顔! 今、顔狙って飛んできたぞ!」
「ねえ、今の落ちなかった?」
「落ちてねえし、そういう問題じゃねえ!」
「ちぇー。僕も、もうちょっと手が大きかったらなぁ」
僕がそう言うと、アツシは少し顔を曇らせたようだった。
「……小学生だから仕方ないだろ?」
「うん、まあね。リトルリーグでも変化球は禁止されてるし」
日差しが強い。
僕は帽子のつばを少し下げた。
「いつか、スクリュー投げれるかなぁ?」
なんとはなしの、それは小さな呟き。
でも。
対するアツシの返答は、僕の想像もしないものだった。
「……リョウには、無理だろ」
「……私は男の子だったよね」
あの頃より大人になった私が、恋人に問い掛ける。
「ん? どうしたの、急に?」
「昔の話。スクリューボール、って言ったら思い出してくれる?」
「あぁ……あの」
何度も頷きながら、恋人は微笑んだ。
「僕も覚えてるよ」
私が、僕から私へ変わったように。
彼も、俺から僕へと変わっていた。
それは小さな、しかし戻る事の無い、時の流れの象徴だ。
「懐かしいな……」
テレビの野球では、久しぶりのヒットが出たところだった。
私の恋人――アツシはそれを一瞥するだけで、ゆっくりと天井の角を見上げた。
あの高かった空を思い出すように。
「お前とは、絶交だ!」
僕はその日から、アツシと絶交をする事になった。
といっても、一方的に僕がアツシを避けていただけなのだけど。
……何でアツシはあんな事を言ったのか。
近所の石塀に、何度もボールをぶつけている内に、何となく理解できた。
理解、出来たのだけれど。
どうして僕は、仲直りが出来なかったのだろう。
こんな形で大事な親友を失ってしまうなんて。
一人では、キャッチボールは出来ないのに。
小学校を卒業して、アツシと学校が別れる事になっても、僕らの仲が元通りになる事はなかった。
やがて中学生になった僕は、制服のスカートを穿く事にも慣れてしまった。
塀に向かってボールを投げる事も、もうない。
僕は、否――私は、女の子になったのだ。
「……それから。高校を卒業するまで、私達殆ど話さなかったよね」
「そうだったね。はは、あの頃を思い出すとなんだか照れるな」
アツシは言って、本当に照れくさそうに頭を掻いた。
私にとっては未だに苦い思い出でしかないのだが。
「ねぇ? どうしてアツシは、あんな事を言ったの?」
「んー、あれはね……」
「私が――女の子だったから?」
結局のところ、女の私が変化球を投げる事は難しい。
体格だとか手の大きさとかの、非常に単純な問題だ。
それがどうにもならない事くらい、今の私にはわかる。
あの頃は……それが悔しくて堪らなかったのだが。
「え? 違う、それは誤解だよ」
しかし、アツシは慌てて手を振ってそれを否定した。
「もっと単純な事さ。……ねぇリョウコ?」
自分の名前ながら、彼にリョウコと呼ばれるのだけは、未だに慣れない。何故かドキッとしてしまう。
「何?」
「リョウコは右利きだよね?」
「そうだけど?」
「あの頃、僕らが憧れていたピッチャー、彼は左利きだったんだけど。
実はスクリューボールっていうのは、左投げ選手の変化球の名称なんだ。
右利きの場合は同じ変化球でも、名前はシンカーに変わる」
…………。
「えっと」
それはつまり。
「私が右利きだから、スクリューは無理だっていう事?」
「うん、そうだよ」
アツシは、実に事も無げに言った。
……あぁ何だろう、目眩がする。
「ふぅ」
なんという――誤解。
思わず体中の力が抜ける。
私は。こんな勘違いで、小学生時代の彼を絶交してしまったのか。
「……ごめんなさい」
「え? なんでリョウコが謝ってるの?」
「なんか、すごく、申し訳ないです」
本気で反省。
「ちっとも女の子らしくなくて、ごめんなさい」
「ええと、まだなにか誤解があるみたいだけど。……君はね、昔から女の子らしかったよ?」
「嘘ばっかり! 慰めはいらないんだから!」
「嘘じゃないよ! 野球をしている君は、とてもかわ」
「かわ?」
アツシはしまったという顔。
だが、私だってそれは聞き捨てならない。
「とてもかわ、何?」
「ええと。
……そうそう、久しぶりにキャッチボールしようか」
何か大事な事を誤魔化された気がする。しかも下手糞に。
「まぁいいけど……その代わり、変化球の練習ね」
「ええ!?」
その提案にアツシは大げさに驚いて見せた。ふふん、大事な事をはっきり言わない彼が悪い。
テレビの野球中継も、それに同意するように歓声を上げてくれた。サヨナラヒットで試合終了だ。
「大分遅くなっちゃったけど、今こそスクリュー、じゃなくてシンカーをものにするわよ!」
今度は、ちゃんと曲がるまで付き合って貰うんだから。
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- 最終レス投稿日時
- 2008/12/06 15:21:56
最終更新:2009年01月11日 17:23