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あいだみつを

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好きな言葉


懦夫凛々

心斎橋の大丸で催されていた「相田みつを全貌展」でみつけた言葉です
「ダフリンリン」と読みます

解説には、以下のようなことが書かれてました
(端折ってるところが結構あります。また、細かなところで元の言葉と多少違っているかもしれませんがご了承ください。意味合い自体は変わっていないはずです。)
懦夫とは臆病者・意気地なし・なまけもののこと。

懦夫だから強がることはない。
懦夫だからいきばることはない。
しかし懦夫には懦夫の生き方がある。

じゃが芋がじゃが芋になるように、
トマトがトマトになるように、
懦夫は懦夫になればいい。

臆病者は臆病者の看板かけて、
意気地なしは意気地なしの看板かけて、
なまけものはなまけものの看板かけて、
懦夫は懦夫の看板のままで
正直に生きてゆけばいい。

背筋を伸ばして肩肘張らず、
すんなりさらさら歩いていこう。
懦夫凛々と歩いていこう。

懦夫リンリン!懦夫リンリン!と
ついついマイナス思考に陥ってしまう自分にはピッタリな言葉でした

呪文のように唱えようと思います

ダフリンリン


一寸千貫

相田みつを美術館 で見つけた言葉です
むかし、大工さんから
聞いた言葉です。
一寸とは約3.3センチのことです
一寸角の細い柱でも
千貫の重みに耐えられるということです
ただし、まっすぐならば・・・

そのむかし、阿説示という青年の
歩く姿勢のよさに魅かれて
舎利弗という人が尋ねました
「あなたのお師匠さんは?」
その師こそお釈迦様
それが縁で舎利弗は
親友の目連と共に
お釈迦様の弟子になった
ということです

生きる姿勢が正しければ
どんな重みにも耐えられるはず
一寸千貫だから
苦しい時こそ姿勢をのばせ!!
「一寸千貫、一寸千貫」

苦しいことにぶつかるたびに
私の誦えた呪文です


三輪空寂

相田みつをさんが師と仰ぐ武井哲応老子が以前にNHKの宗教の時間に『布施』について語っています
みつをさんはその内容をご自身の仏法活動で発行している『円融便り』にみつをさんの言葉で分り易く記しています
お坊さんにお経を読んでもらって何がしかのお金を包む、いわゆる「お布施を包む」とよくいわれるが、包むお金だけが布施じゃないんですよ。

簡単に言えば、布施ということは、『相手に無くて、自分にある物を分け与えて、お互いによかった、よかった、とよろこび感謝しあえうこと』なんです。

そして、布施が正しく行われるためには、施者、施物、受者の三つの要素が揃わなくてはなりません。世間ではどうも、もらう人(受者)よりも、与える人(施者)のほうが上で、もらう人の方を下のような感じを持つ。そうじゃない。

この3つには上下の差別がなく、平等なんです。布施で大事なことは。
『おれがやってやったんだ』という思い上がりや傲慢な気持ちを一切持たないこと、『わたしはこんなにしてもらった』という卑屈な思いを持たないこと。

つまり、だれもが、『おれが』『わたしが』という自己主張をしないことなんだな。

施者、施物、受者、という三つの輪が、少しもこだわりなく、一つの大きな輪になる。

そのことを三輪空寂(さんりんくうじゃく)というんです。
また、相田みつをさんが武井老子にいわゆる「お布施」にいくら包むのが妥当なのか聞いてみたことがあるそうです
すると、武井老子はこんな風に答えたそうです
そりゃあ、もらう分には多いに越したことはない。
ただ、無理して出す必要はない。
例えば、お布施で一万円が少し出し過ぎと感じるなら九千円、八千円・・・と減らしていって惜しいという気持ちがなくなるまで下げてみる。
惜しいと思える気持ちがないお金であれば「浄財」と言える。
惜しいという気持ちがあると、どうしても「これだけ出してやってるのに」と考えてしまう。
それは「浄財」とは言えない。

【以下、個人的所感】
これって、コミュニケーションも同じですよね

しゃべる人が一方的に偉いのではなく、ちゃんと聴いてくれる人がいるからコミュニケーションとして成立しているわけであって、どちらが上でどちらが下ってことはないですよね
お互いが上下を感じながら話をしている限り、本当にちゃんと伝わるということはないんでしょうね

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