中本博美プロフィール完全版パロディー


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中本博美プロフィール完全版パロディー


赤ちゃんの頃から他の人間とは一線を画した風貌で、近所の人達から将来どれだけ凄い人になるんだろうねと言われ、母親から何度もその話を聞かされた事は記憶に残っている。幼稚園の英語の授業の際は授業が嫌で、トイレで時間調整をする事があり、帰る時間を間違えた際に、英語の教師から「オーエレファントマン」と胸のプリントについて突っ込まれた事も記憶に残っている。食券制の文化祭ではフルーツポンチの食券をフランクフルト売り場に持って行き、これは違うのよと幼稚園の先生から言われた事も記憶に残っている。小学生時代はわんぱく相撲で3位入賞、足も生まれつき速かったため、徒競走では1位以外眼中に無し、もちろん6年次も問題無く6小の運動会、3小・7小との合同運動会、町民運動会の全てで1位となっていて、体育の授業ではハードル等の見本を頼まれるほどだった。敵陣に味方がいる珍しいスポーツのポートボールも好んで参加した。中学時代は3中から2~3分の場所に家があった事から、運動会や遠足の際の天気確認係となり、連絡網を回していたため、かなり重要なポジションにいたと言える。林間学校ではオーストリアかどこかの国の民族舞踊のカップルをキャンプファイヤーで踊り、学年総当りのじゃんけん大会では上位進出、体育祭の全員リレーでは、各クラスがエースを投入して来る1走でのスタートダッシュは当たり前、2回走る事もあった。美術の教師がまとめて出した展覧会では、入選した際に美術部に悪いなとは微塵も思わず、これが自分の実力だと確信。東西に分けてそれぞれを1つの県扱いする激戦区の東京の西東京側で、ベスト8の実績を誇る野球部のある都立校に進学、1年の内にベンチ入りをして背番号を貰う事が目標だったため目標達成。野球部は用済みなので、その後は軟式テニス部やハンドボール部や吹奏楽部で健康のために身体を動かし、前期の体育祭での活躍で陸上部はもちろん、アメフト部やラグビー部からも声がかかった現実は当然ある。地域で1番強いと言われていた剣道部も擁していた高校なので、剣道も体育で頻繁に行なわれ、2年次の剣道トーナメントでは剣道部に次ぐ2位となった。体育の教師からお前がスポーツでプロ契約をしたら、契約金1億円の価値があるぞと言われた話については、足の速さをベースに何かを極めろという話だと思ったが、本心だったのかなと今でも中本博美は感じている。定期テストでは1位の文字があると満足していたし、カラオケが流行していた頃なので結構カラオケにも行った。その後は体調を崩し前期の体育祭まで出席の年、1年間全休の年があった。最大で45×100mとなる全員リレーのアンカーを4回やるチャンスがあったという話になるが、卒業の年の3年次、アンカー欄に名前を書かれた際は断った。体調不良で長期欠席をしていた頃、当然授業には出ていないが、社会科の教師にいきなり呼び出され、教科書のここからここまでを30分で理解し、50点を取ったら単位をあげると言われた際は丁度50点でクリアした。この頃に病み上がりの状態で町内会の運動会に呼ばれ、一般として延べ100種目に出場、徒競走では小学6年次も含め1位だらけ。羽衣町最速ランナーと実況され、主催団体から何度も陸上競技会に声がかかった現実もあり、羽衣町の4強を3度崩す原動力として力を発揮したが、中学高校で陸上部に所属していた覚えはない。スローピッチソフトボール大会ではソロホームラン、ツーランホームラン、2点タイムリーツーベースの5打点で投手もやった試合があり、相手チームを4点に抑え町会の久々の勝利に貢献した。2試合連続先頭打者ホームラン、1試合2ホームラン、1日で3ホームラン、2試合連続2ホームランも記録、センター前ヒットで1塁からホームまで生還する事もあった。また、2試合連続で先制のホームを踏んだ試合では、1試合目は勝てたので先制のホームインが生きてまあ良かったが、2試合目にピッチャーが打たれて迷惑を被った。新入り2人の暴走2回もストップをかけた3塁コーチャーとしては迷惑だった。通算成績は36打数17安打10本塁打の.472。通算得点圏打率は.667。長打率やOPSは10割を超えていて、満塁の場面で敬遠された事もある。打順は1番、3番、4番。高校卒業後は現実世界で日本1能力の高さに定評がある創価大に進学し、フォークダンス部には4月に即入部、他大学の多数の人間は俺が1年の頃から創価大にひろみありと言っていて、当の本人は現在に至るまで数え切れないほどの数の後輩を成長させて来た。
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