「ローレンス・スターン」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る

ローレンス・スターン - (2008/03/03 (月) 17:01:32) のソース

*ローレンス・スターン&br()&size(12){&italic(){Laurence Sterne}}&br()&size(12){(1713~1768)}
**略歴
 アイルランド出身。軍人だった父とは17歳の時に死別。ケンブリッジで祖先が設けた奨学金で学び、サットンの教区牧師となった。平凡な田舎牧師であったが、知人の蔵書でセンバンテスやラブレーの著作に接し影響を受けた。手始めに宗教界の勢力争いを風刺する小冊子を書き好評を得ると、いよいよ彼の代表作である『トリストラム・シャンディ』を執筆し始めた。人妻と恋愛関係に陥るなど牧師らしからぬ人物であった。その一方で説教集なども出版している。しばしば喀血するなど病に苦しみ、それがもとでロンドンで没する。

**作品
 『&bold(){トリストラム・シャンディ}』&italic(){(Tristram Shandey,1760-1767)}は正確には『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』&italic(){(The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman)}であるが、その内容は奇妙奇天烈なものである。題名からすればいかにもある人物の生涯とその意見を書いたもののように思えるが、実際には肝心の主人公トリストラムがいつまでたっても産まれてこない(全9巻の内3巻でようやく産まれる)。彼の懐妊の時の事情から始まって、出産前のあれやこれやの騒動、はては鼻についての怪しげな薀蓄・・・さらには登場人物の死を悼むとして真っ黒なページ、イメージとして墨流しのページ、物語の進行状況を示す妙なグラフ・・・、とにかく終始一貫した筋書きなど最初から放棄し、脱線こそまさに本筋といった感じなのである。しかしながらプロットの構成を最初から放棄しているように見えながら、時系列に話を並べてみると、きちんと整合性があるなど、明らかに計算された手法なのである。英国における小説の草創期に早くもこのような「反小説」が生まれたことは、驚くべきことであろう。後世の&bold(){意識の流れ}の手法との類似も指摘されている。なお、この小説を最初に日本に紹介したのは、あの夏目漱石である。
 『&bold(){センチメンタル・ジャーニー}』&italic(){(A Sentimental Jurney,1768)}は静養を兼ねた大陸旅行の経験を基に書かれたもので、これも好評だったが、病状の悪化は深刻で一月と経たぬ内に没した。この作品もまたスターン独特の筆致で書かれており、小説とも随筆ともつかぬものだが、外面的な事柄よりも内面的、心理的な世界が描かれている。ユーモアと共に病状の悪化と共に圧し掛かる暗い影が見られる。なお、ゲーテやハイネも独訳で読み賞賛したという。
 また牧師として説教集も書いていると先に述べたが、その『トリストラム・シャンディ』の登場人物の名を借りた『&bold(){ヨリック氏説教集}』&italic(){(The Sermons of Mr. Yorick,1760-1766)}というもので、内容はともかくとして、タイトルが不謹慎だと批判されることが少なくなかった。他に20世紀になってから出版された『&bold(){イライザに寄せる日記}』&italic(){(The Journal to Eliza)}というものがある。これは年若き人妻エリザベス・ドレーバーと恋愛関係になったが、彼女がインドにいる夫の下へ帰る際に、互いに日記をつけて後に見せ合おう、と約束したものである。本人に出版の意向はなかったと思われるが、どうにも聖職者らしからぬエピソードだ。




----