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*オスカー・ワイルド&br()&size(12){&italic(){(Oscar Fingal O'Flaherty Wills Wilde)}}&br()&size(12){(1854~1900)} **略歴  アイルランドのダブリン出身。ダブリン大学のトリニティ・カレッジを経てオックスフォードで学び、[[ペイター>ウォルター・ペイター]]から直接指導を受ける。彼は師とは違って派手な私生活を送り、卒業後は社交界の寵児となった。意外なことに彼の名声を高めたのは、その作品によってではなかった。彼の唱える唯美主義を題材とした芝居が評判となり、講演の依頼を受け各国を周った。その後、1881年に詩集を出版し、童話、長篇小説を発表する。また劇作にも力を入れ、劇作家としても名声を得る。ところが彼に決定的なスキャンダルが起こった。同性愛が問題である。これがきっかけで1895年にはついに逮捕されてしまった。服役中には妻子は姓を変えて隠れ住むようになり、また破産の宣告も受けた。わずか2年の刑期ではあったが、このことが彼を徹底的に痛めつけることになった。常に社会や道徳に背を向けるようなポーズをとっていた彼であったが、実際にのけ者になった途端に再起不能になってしまったのである。出所後は自らの体験を基に、刑務所制度に関する批判的な論文などを発表したが、彼の作家としての人生はすでに終わっていた。晩年は本名を隠して変名で過ごし、失意と困窮の中、パリで死んだ。 **作品  作品数はけして多くない。詩集と短篇小説がいくつか、長篇小説は1つ、戯曲がいくつかで全部である。短篇の中では子供向けの童話『&bold(){幸福な王子}』&italic(){(The Happy Prince and Other Stories,1888)}がある。  唯一の長篇が『ドリアン・グレイの画像&bold(){The Picture of Dorian Gray,1891}』である。快楽に溺れ美貌と若さを保ち続ける主人公、その一方で肖像画は本人に醜悪に変貌していく。本人によればこの作品はわずか4~5日で書き上げられたというが、前半は霊感に導かれるように書かれているが、後半はただただ終わらせるためだけに書き散らされた、という指摘があり評価が分かれる。ユイスマンスの『さかしま』の影響が大きいとされ、著者の芸術論が述べられているが、それ以上に主人公ドリアンの姿とその末路が、ワイルド自身の姿を想起させる。  『&bold(){インテンションズ}』&italic(){(Intentions,1891)}は彼の芸術至上主義を披瀝した芸術論集。  彼の戯曲は一種の風習喜劇で、舞台は上流階級、そして機知溢れる会話が特徴。一本の扇子を軸に展開していく『&bold(){ウィンダミア公爵夫人}』&italic(){(Lady Windermere's Fan,1892)}、主人公の名前&italic(){Ernest}と&italic(){earnest}(まじめ)をかけて、上流階級の恋の顚末を滑稽に描いた『&bold(){まじめが肝心}』&italic(){(The Importance of Being Earnest,1895)}は、題名とは逆に「まじめは大切ではない」と言外に訴えている。もちろんこの「まじめ」がヴィクトリア朝の道徳主義であることは、言うまでもない。戯曲では他に『&bold(){サロメ}』&italic(){(Salome,1891)}がある。これはフランスで初め上演されたが、イギリスでは内容が問題視され上演許可が下りなかった。  『&bold(){レディング牢獄の物語歌}』&italic(){(The Ballad of Reading Goal,1898)}は出獄後に書かれ、翌年に「C・3・3」という匿名で発表された。この匿名は彼の囚人番号である。愛するが故に不貞を働いた妻を殺してしまい、死刑を宣告される元近衛将校の獄中生活を歌った。  『&bold(){深淵より}』&italic(){(De Profundis,1905)}は獄中生活を書いた獄中記。1905年に出たのは省略版で、完全版が出たのは1949年になってから。同性愛の相手であったアルフレッド・ダグラス卿にあてた書簡の形式で書かれている。 ----
*オスカー・ワイルド&br()&size(12){&italic(){(Oscar Fingal O'Flaherty Wills Wilde)}}&br()&size(12){(1854~1900)} **略歴  アイルランドのダブリン出身。ダブリン大学のトリニティ・カレッジを経てオックスフォードで学び、[[ペイター>ウォルター・ペイター]]から直接指導を受ける。彼は師とは違って派手な私生活を送り、卒業後は社交界の寵児となった。意外なことに彼の名声を高めたのは、その作品によってではなかった。彼の唱える唯美主義を題材とした芝居が評判となり、講演の依頼を受け各国を周った。その後、1881年に詩集を出版し、童話、長篇小説を発表する。また劇作にも力を入れ、劇作家としても名声を得る。ところが彼に決定的なスキャンダルが起こった。同性愛が問題である。これがきっかけで1895年にはついに逮捕されてしまった。服役中には妻子は姓を変えて隠れ住むようになり、また破産の宣告も受けた。わずか2年の刑期ではあったが、このことが彼を徹底的に痛めつけることになった。常に社会や道徳に背を向けるようなポーズをとっていた彼であったが、実際にのけ者になった途端に再起不能になってしまったのである。出所後は自らの体験を基に、刑務所制度に関する批判的な論文などを発表したが、彼の作家としての人生はすでに終わっていた。晩年は本名を隠して変名で過ごし、失意と困窮の中、パリで死んだ。 **作品  作品数はけして多くない。詩集と短篇小説がいくつか、長篇小説は1つ、戯曲がいくつかで全部である。短篇の中では子供向けの童話『&bold(){幸福な王子}』&italic(){(The Happy Prince and Other Stories,1888)}がある。  唯一の長篇が『&bold(){ドリアン・グレイの画像}』&italic(){(The Picture of Dorian Gray,1891)}である。快楽に溺れ美貌と若さを保ち続ける主人公、その一方で肖像画は本人に醜悪に変貌していく。本人によればこの作品はわずか4~5日で書き上げられたというが、前半は霊感に導かれるように書かれているが、後半はただただ終わらせるためだけに書き散らされた、という指摘があり評価が分かれる。ユイスマンスの『さかしま』の影響が大きいとされ、著者の芸術論が述べられているが、それ以上に主人公ドリアンの姿とその末路が、ワイルド自身の姿を想起させる。  『&bold(){インテンションズ}』&italic(){(Intentions,1891)}は彼の芸術至上主義を披瀝した芸術論集。  彼の戯曲は一種の風習喜劇で、舞台は上流階級、そして機知溢れる会話が特徴。一本の扇子を軸に展開していく『&bold(){ウィンダミア公爵夫人}』&italic(){(Lady Windermere's Fan,1892)}、主人公の名前&italic(){Ernest}と&italic(){earnest}(まじめ)をかけて、上流階級の恋の顚末を滑稽に描いた『&bold(){まじめが肝心}』&italic(){(The Importance of Being Earnest,1895)}は、題名とは逆に「まじめは大切ではない」と言外に訴えている。もちろんこの「まじめ」がヴィクトリア朝の道徳主義であることは、言うまでもない。戯曲では他に『&bold(){サロメ}』&italic(){(Salome,1891)}がある。これはフランスで初め上演されたが、イギリスでは内容が問題視され上演許可が下りなかった。  『&bold(){レディング牢獄の物語歌}』&italic(){(The Ballad of Reading Goal,1898)}は出獄後に書かれ、翌年に「C・3・3」という匿名で発表された。この匿名は彼の囚人番号である。愛するが故に不貞を働いた妻を殺してしまい、死刑を宣告される元近衛将校の獄中生活を歌った。  『&bold(){深淵より}』&italic(){(De Profundis,1905)}は獄中生活を書いた獄中記。1905年に出たのは省略版で、完全版が出たのは1949年になってから。同性愛の相手であったアルフレッド・ダグラス卿にあてた書簡の形式で書かれている。 ----

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