Skip to: Site menu | Main content


※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

 昨日にあんな事があったなんて信じられないくらいに、今朝もいつもと変わらない。
のびをした後に窓を開け放ち、雀たちが奏でるさえずりに耳をすまし、お日様の光を浴びて気持ちよく朝を迎える。
パジャマを脱ぎ捨て、ママがアイロンをかけてくれて皺一つない綺麗なシャツに腕を通していく。
たぶん、今私が幸せな気持ちで制服に着替えているのはそれだけじゃないのだ。
昨日の千聖との電話で、約束がとりつけられたことがたまらなく嬉しいせいだ。
これでとうとう私も経験するのか、と思うと全身がかぁっと熱くなってきて、朝から汗をかいてしまう。
まだしてもいないのに、この気持ちの逸りようといったらないだろう、と思わず自分でつっこみを入れる。
そうでもしないと、一日中千聖ばかりをみつめてしまいそうだから、今はまだ落ち着いていないといけない。
一度大きく深呼吸をし、息を整え、鏡に向かってにっこりとほほ笑み、私は一階のリビングまで駆け降りた。

「おっはよう~♪」

 と、まずは大きな声でママとパパに挨拶をする。
パパは相変わらず仏頂面で新聞を読みながら、条件反射的に小さな声でおはようと返してきた。
ママはテーブルに朝食を運びながら、

「おはよう。梨沙子、あなたには毎日言ってるでしょ。階段は静かに下りてきなさいって」

 と、これもまたいつもと変わらない挨拶を返してきた。
今日はこんな事を言われても、ちっとも気にもならない。
むしろ、さっきまで聞いていた雀たちのさえずり程度にしか思えないくらい、小言にも余裕でいられる。

「なぁに、梨沙子。朝からニヤニヤしちゃって気持ち悪いわよ。昨日にいいことでもあったの?」
「へ? 私ったらニヤニヤしてたかな。えへへ」
「まぁいいことがあったならそれでいいのだけどね。ママは梨沙子で笑顔でいてくれるのが何より嬉しいから」
「はぁ~い。ママ、だぁ~い好き」

 大好きと言われて照れたママは、ほんのりと頬っぺたを赤くしてほほ笑んでくれた。
とりあえず朝食にしましょう、だなんて下手な話の切り替え方だったのがまたママらしくて、自分でも笑ったのがわかった。
こうしている間はママのことが大好きなんだ。
でも、ひとたびパパにつまらない意地悪をされても言い返さないママをみると、大好きな気持ちが萎んでいく。
何で言い返さないのって、ママの代わりに私が言い返してやりたくなる。
今みたいに・・・

「ママ、大丈夫? 痛くない?」
「平気だから、あなたは学校に行く支度をしなさい。後はママが片付けておくから」

 床に座り込み、左の足首を撫でるママの悲痛な表情は、とても大丈夫だとは思えないと伝わってくる。
こんな状態でもママは床に散乱したお皿の破片を拾い上げている。
今のママをこのままほうっておいて学校に行くなんて私には出来るわけがないから、ママの言葉は無視して一緒に破片を拾う。

 事が起きたのは、朝食を食べ終わった私たちがお皿を流しまで運んでいる最中だった。
私が自分のお皿を片付け終え、ママとすれ違いにテーブルまで戻ろうとした瞬間、突然背後でお皿が割れる音と何かが倒れる音が聞こえてきた。
振り向くと、そこには足首を撫で今にも泣きそうなママと、床に割れて四方八方に飛び散ったお皿があった。
慌てて駆け寄った私は、ママの顔を覗きこみ、痛くはないかと訊ねた。

「学校どころじゃないよ、ママが心配だもん。病院に行こう」
「平気よ。ママはね、パートもあるから休んでなんていられないの。それに梨沙子はテストがあるでしょ?」
「テストは理由説明して後から受けられるようにしてもらうもん。今はママの体の方が大事だよ」
「梨沙子・・・」

 ママはまだ何か言いたげだったけど、私と目があうとそれ以上は続けてはこなかった。

「そうだ、パパに頼んで病院に連れていってもらおうよ。たまにはパパにこれくらい頼んでも罰は当たらないよ」

 気はあまり乗らなかったけど、頼れる人が今はパパしかいないこともあり、パパに頼んでみた。
ママと私が騒いでいても、平然として朝食を取っていられる人なんだから期待なんて微塵もしていない。
それでもパパに頼んだのは、あの人にも家族の情があると心の隅でまだ信じているからだ。
私は立ち上がると、未だに一人でゆっくりと朝食中のパパに、ママの現在の状態を伝えて病院に連れて行ってほしいことをお願いした。
パパは渋々了承したのをみて、私はしゃがみ直してママに「連れていってくれるってよ」とだけママに伝えた。
ママはパパが柄にもないことをする優しさに喜び、ちょっと表情が和らいだ気がした。

「よかったね、ママ。これですぐに良くなるよ」
「そうだね、早く治さなくちゃね」
「もぉう、ドジなんだから。何で転んだくらいで怪我しちゃうかな」
「ふふっ、梨沙子が言う通りにママったらドジね。何で足首捻っちゃうのかしらね。

 私とママが和やかな雰囲気に包まれる中、素知らぬ顔で朝食の片づけにお皿を運んできたパパが一言呟いた。

「重いからだろう」

 この一言はママにも、私にも、心臓を言葉のナイフでえぐり取られる痛みを与えた。
自然とじわっと涙が溢れてきて、唇はわなわなと震え、どうしたらいいのか全くわからない。
怪我をしたのだから、本来なら慰めの一言でも言ってほしかったのに、死人に鞭を打つ真似をよくも出来たものだ。
悲しみに明け暮れる私は気づきはしなかったけど、この一言がママにとって大きな変化をもたらすことになるとは考えもしなかった。

←前のページ   次のページ→