かんたん三国志

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#contents *かんたんストーリー **後漢の衰退  三国志の時代が始まる直前、中国は“漢”と言う国でした(それ以前にも別の“漢”と言う国があったので、区別のために“後漢”と呼ばれています)。  ぶっちゃけ、この“後漢”は長く平和が続いていたので腐りかけてました。腐った政治に絶望した農民どもは、ありがちなパターンとして宗教に救いを求めます。このとき人々が救いを求めた宗教は、''張角''と言う人が教祖の新興宗教“太平道”でした。 **黄巾の乱  新興宗教“太平道”は、やがて教祖''張角''が「立てよ国民!」と全国各地に訴え、政府に対して反乱を起こします。このとき''張角''を支持する人々も反乱に加わり、彼らが印として黄色い頭巾を着けたことから、この反乱は“黄巾の乱”と呼ばれました。  政府は平和に溺れ権力争いに終始していたので、この反乱に慌てます。武力らしい武力がなかった政府は「助けてドラえも~ん」と地方の武将に泣きつき、地方の武将たちに「反乱軍を鎮圧したら大出世のチャーンス!」と言う自信を与えることになります。  こうして全国規模の戦乱が起こりますが、戦乱の最中、''張角''は病死してしまい、統率力を失った黄巾軍は次第に鎮圧されていきました。 **董卓の暴政  反乱は鎮圧されたものの、まだ世情が不安定な中で時の皇帝が死亡。幼い2人の後継者のどちらを次の皇帝にするか、と言う大人の事情で政府内は分裂します。当然、2人の後継者は命を狙われる立場となり、黄巾の乱で活躍し損ねた武将''董卓''と言うおっちゃんに保護されました。運がいいですね、''董卓''。  後継者2人を保護した''董卓''は「俺の命令は皇帝の命令だ」と言い出し、ライバルをぶっ殺しまくって好き勝手を始めます。逆らう奴もぶっ殺します。ついでに、後継者争いをなくすため、2人の後継者の片方を殺しちゃったりして。更に''董卓''は、当時最強の武将だった''呂布''を餌付けし、「黄巾の乱の時は役に立たなかった癖に」「新皇帝を殺した」と不満を持っていた武将たちをも黙らせました。  しかし''董卓''は最終的に、''董卓''の侍女(フィクションでは当世一の美女''貂蝉'')に惚れた''呂布''に殺されてしまいます。いつの世でも色恋沙汰の恨みは恐ろしいと言うことでしょう。まだ幼い皇帝''献帝''は逃げ出して、黄巾の乱で活躍した武将の一人''曹操''に保護されました。 **弱肉強食  お飾りの最高権力者を保護した武将''曹操''。こうなると考えることは誰でも一緒です。お飾りを盾にした国家支配って奴。ただ''曹操''は、他の連中と違って賢かったのです。と言うのは、''曹操''は“皇帝の代理”ではなく、あくまで“皇帝の部下”として行動したのです。皇帝''献帝''も賢かったので「''曹操''には逆らわない方がいいぞ」と分かっていて、実質的に''曹操''が政府を動かしていたわけですね。  しかし''曹操''が皇帝を保護した頃、すでに“漢”と言う統一国家は名前だけで、各地の武将が武力で勢力を広げていると言う状況でした。そこで''曹操''は、都があり政府の目が行き届きやすかった中国北部を、まず武力で統一します。そこから、まるで寒冷前線のように南を目指して進軍したのでした。 **赤壁の戦い  この頃、''曹操''が目指した中国南部は大きく東西に分かれていました。南東部は''董卓''が好き勝手している間に''孫''一族が支配し、それなりに平和でした。一方の南西部は、都からも離れ小さなゴタゴタが続いている中、やはり黄巾の乱で活躍し、''曹操''の知り合いでもある''劉備''が頭角を現していました。  ''曹操''は天下統一に向けて、まず情勢が不安定で征服しやすそうな南西部を攻めました。しかし「俺は“漢”の皇帝''劉''一族の血筋じゃ」とプライド高い''劉備''が邪魔して、思うように進軍できません。そこで''曹操''は南東部を攻めることにしますが、南東部を支配していた''孫''一族と''劉備''が協力して''曹操''軍を撃破します。これが世に言う“赤壁の戦い”です。 **三国分立  その後も''曹操''は、自分に逆らう勢力と戦いつつ、政治家としても次々優れた政策を打ちたてながら、天下統一はできないままに亡くなります。その父の後を継いだ''曹丕''は「俺は部下は嫌だ、皇帝になるぞ!」と、まだ皇帝だった''献帝''から皇帝の座を奪って、“漢”を“魏”と言う国に替えてしまいました  これに怒ったのが、“漢”の皇帝の子孫を自称する''劉備''さん。「“漢”の皇帝の後を継いでいいのは、皇帝の子孫である俺だけだ!」ってことで、こちらも「俺は''劉備''~“漢”の皇帝~♪」宣言をして、中国南西部に新しく“漢”の国を作っちゃいます。これが世に言う“蜀(蜀漢)”の国です。……えーと、国の名前は“漢”なのに、なんで“蜀”なんだって? これは後世になって「''劉備''は偽皇帝」と言うことになっちゃったので、この国の名前を“漢”と認めちゃいかんだろって話になり、この地方の伝統的な呼び名である“蜀”に呼び替えたわけです。  こうなると黙っていられないのが、中国南東部を支配していた''孫''一族の三代目''孫権''です。こちらも''曹丕''や''劉備''に対抗して「俺が皇帝だ、文句あっか!」と、自分の支配していた中国南東部を“呉”の国とします。 **三国の没落  こうして出来上がった“魏”“呉”“蜀”のうち、一番強いのは“魏”で、一番弱いのは“蜀”でした。そのため、“魏”は何度も“蜀”へ攻め込み、“蜀”も“漢”の後継国として都のある北を目指したので、この二国は何度も戦います。  しかし“蜀”の国が出来上がった頃、国の礎を築いた超人どもはみんな爺になったり死んだりで、その中では若かった軍師''諸葛亮''が一人で頑張っていました。そんな''諸葛亮''も病気には勝てません。病気なのに五丈原と言う場所へ出陣し、死ぬ直前に部下に秘策を授け“魏”の軍師''司馬懿''を逃走させます。これが世に言う「死せる''孔明''、生ける''仲達''を走らす」と言う奴です。“''孔明''”は''諸葛亮''の通称、同じく“''仲達''”は''司馬懿''の通称です。  ''諸葛亮''の死後も残された人々はよく頑張っていましたが、建国から40年余り、''諸葛亮''の死から約30年で“蜀”は“魏”に負けて滅びてしまいます。それでも30年、よく頑張りました。皇帝は初代''劉備''と二代目''劉禅''のみです。  一方の“魏”も、''諸葛亮''が死んで以降は緊張が緩んだようで、皇帝の''曹''一族と軍師の''司馬''一族が対立するようになり、皇帝一族は徐々に軍師一族の操り人形となっていきました。まるで先祖の''曹操''と皇帝''献帝''を見ているようですね。そして“蜀”を滅ぼしたたった2年後、''曹''一族はついに''司馬''一族に皇帝の座を明け渡すことになり、ここに“魏”も滅びます。まるで先祖の(ry ''司馬''一族の新しい国は“晋(西晋)”です。“魏”の国も、建国から滅亡まで40年ちょっとですが、''曹操''が国を支配していた時代も“魏”に含めるべきと言う意見があるみたいです。ちなみに皇帝は5人(''曹操''は含まず)。  この時期、放置プレイされていた“呉”は後継者争いで内紛が起こっていました。こちらは“魏”や“蜀”に比べれば平和だったので、国が腐り始めるのが早かったわけです。そんな中、国の建て直しを期待された新皇帝''孫皓''はとんでもないバカ殿で、逆に腐敗を順調に発酵させました。そんな“呉”を頑張って何とかしていた軍師が死ぬと、「今がチャーンス!」と“晋”に攻められてしまいます。国民はあまりのバカ殿っぷりに''孫皓''を見捨て、''孫皓''は“晋”に降伏するしかありませんでした。こうして“呉”も滅び、三国志の時代は終わりを告げます。“呉”は''孫権''が皇帝となってから60年弱続きましたが、''孫権''の前の二代も含めると、実質的にはもう少し長いと言う意見があるようです。ちなみに皇帝は4人(''孫権''以降)です。 **その後の歴史  こうして中国は“晋”によって再び統一されますが、“魏”の時代に作られた政治システムを流用し初期から政治が安定していたことや、対立する国が全て滅亡したことなどから、早くも腐り始めました。やがてバカ殿が皇帝になったため、後継者争いが元で戦乱が起こり、建国から約50年で国が分裂してしまいます。再び中国全土が統一されるのは、250年以上後の“隋”の時代です。 *ノンフィクションからフィクションへ **陳寿の歴史書『三国志』  ノンフィクションである歴史書『三国志』は、三国志の時代とほぼ同時代に、“晋(西晋)”の官僚''陳寿''によって個人的な記録として書かれました。このとき、''陳寿''は歴史書を“魏”“呉”“蜀”の3ヴァージョンで書き、これが後にまとめて「三国志」と呼ばれるようになったと言われています。  ''陳寿''が書いた歴史書『三国志』では、“魏”が正統な皇帝の国で、“呉”“蜀”は偽皇帝の国と言うことになっています。それもそのはず、''陳寿''が勤めている“晋”は遡れば“魏”だったので、“魏”が偽皇帝の国だと“晋”も偽皇帝の国と言うことになるからです。  しかし''陳寿''さん、実は“晋”ができる前は“蜀”の官僚でした。なので、当時は偽皇帝の国と扱われていた“蜀”について、かなり贔屓した内容であるとされています。例えば“呉”の皇帝は''孫権''などと呼び捨てなのに対し、“蜀”の皇帝は''劉備''を「先主」、''劉禅''を「後主」と言った具合です。 **習鑿歯の蜀漢正統論  ''陳寿''が『三国志』を書いた頃の中国は“晋(西晋)”に統一されていましたが、後に“晋”が分裂して影響力が弱まると、“魏”を偽皇帝の国と批判できるようになったため、“魏”“呉”“蜀”のどこが正統な皇帝の国か、議論が盛んに行われるようになりました。  この頃''習鑿歯''という人が、強引ながらも様々な改革を行い実質的に“漢”を強奪した''曹操''を「悪」、“漢”の皇帝の子孫と言われ強引な策を取らず中国各地を流浪した''劉備''を「善」として“蜀”の正統性を主張しました。これが「蜀漢正統論」です。  この「行動の善悪」を基準とした「正統性」の考え方は、国が乱れ分裂していた背景もあって、大いに支持されました。多くのフィクションで「善」の''劉備''、「悪」の''曹操''として描かれているのは、この考え方が後に大きく広まることになったからなのです。 **裴松之の注記『裴松之注』  ''陳寿''が書いた『三国志』は、事実かどうか疑わしい話に関しては全て排除され、非常にシンプルなものでした。しかし個人的な記録とは言え、歴史書としては非常に良くまとまっていたため、書かれた当時から高い評価を得ていました。  ''陳寿''の『三国志』から約150年後、当時の皇帝(と言ってもまだ分裂状態ですが)に命じられた歴史家''裴松之''が、このシンプルな歴史書に注釈を付けることになりました。このとき''裴松之''は、フィクションかノンフィクションかに関わらず、当時あった三国志に関する話を「全て」出典付きで紹介しました。これが歴史書『三国志』の注記である『裴松之注』です。  『裴松之注』は、当時の書物に存在する三国志関係の話を全て紹介したため、中には矛盾する内容のものも含まれています。しかも、''裴松之''自身の自説とともに、自説に反する話も紹介すると言う徹底振り。''習鑿歯''の「蜀漢正統論(に基づいて書かれた書物『漢晋春秋』)」も、当然ながら紹介されています。また、「こりゃどう考えてもフィクションだろう」と言うような話も紹介されているため、後のフィクション『三国志演義』の成立に大いに貢献したと言われています。 **民間伝承と朱子学  これら''習鑿歯''の「蜀漢正統論」や''裴松之''の『裴松之注』を参考に、「三国志」時代の話には段々尾ひれが付き、面白おかしい講談として民間に広がっていきました。中には、明らかに「元ネタ」が分かるものまであるそうで。  また''陳寿''の『三国志』は、「三国志」の時代から約400年後、“唐”の時代に「国が認めた正統な歴史書」となりました。このことから''陳寿''の『三国志』や''裴松之''の『裴松之注』は、知識人にとって必須のものになったのです。  更に、「三国志」の時代から約900年後、朱子学の創始者である“宋(南宋)”の学者''朱熹''と言う人が「蜀漢正統論」を支持しました。この朱子学が後に“明”の国家教学となったため、「蜀漢正統論」も国の知識層・支配層に浸透することになり、引いては全国に「蜀漢正統論」が広まることとなります。  と言うのも、当時の中国には「科挙」と言う官僚試験があり、これに受かれば貧乏人でも国家官僚に出世できたからです。その競争率は約3000倍(!)とか。科挙の試験科目には当然「歴史」があり、“明”の時代には「朱子学」も試験科目になりました。つまり「三国志」を勉強すれば出世できたんですね(激違)。 **施耐庵あるいは羅貫中の小説『三国志通俗演義』  「三国志」の時代から約1100年後の“明”の時代、歴史書『三国志』を基本にしつつも、荒唐無稽な講談の中から様々なエピソードを取り入れ洗練し、今日知られる『三国志演義』が成立しました。  この『三国志演義』を「編集」したのは''施耐庵''または''羅貫中''とされていますが、二人ともどういう人物かはっきりとは分かっていません。''施耐庵''に至っては「多くの編集者の共同ペンネームじゃないか?」と言う説まであるそうです。
#contents *かんたんストーリー **後漢の衰退  三国志の時代が始まる直前、中国は“漢”と言う国でした(それ以前にも別の“漢”と言う国があったので、区別のために“後漢”と呼ばれています)。  ぶっちゃけ、この“後漢”は長く平和が続いていたので腐りかけてました。腐った政治に絶望した農民どもは、ありがちなパターンとして宗教に救いを求めます。このとき人々が救いを求めた宗教は、''張角''と言う人が教祖の新興宗教“太平道”でした。 **黄巾の乱  新興宗教“太平道”は、やがて教祖''張角''が「立てよ国民!」と全国各地に訴え、政府に対して反乱を起こします。このとき''張角''を支持する人々も反乱に加わり、彼らが印として黄色い頭巾を着けたことから、この反乱は“黄巾の乱”と呼ばれました。  政府は平和に溺れ権力争いに終始していたので、この反乱に慌てます。武力らしい武力がなかった政府は「助けてドラえも~ん」と地方の武将に泣きつき、地方の武将たちに「反乱軍を鎮圧したら大出世のチャーンス!」と言う自信を与えることになります。  こうして全国規模の戦乱が起こりますが、戦乱の最中、''張角''は病死してしまい、統率力を失った反乱軍は次第に鎮圧されていきました。 **董卓の暴政  反乱は鎮圧されたものの、まだ世情が不安定な中で時の皇帝が死亡。幼い2人の後継者のどちらを次の皇帝にするか、と言う大人の事情で政府内は分裂します。当然、2人の後継者は命を狙われる立場となり、黄巾の乱で活躍し損ねた武将''董卓''と言うおっちゃんに保護されました。運がいいですね、''董卓''。  後継者2人を保護した''董卓''は「俺の命令は皇帝の命令だ」と言い出し、ライバルをぶっ殺しまくって好き勝手を始めます。逆らう奴もぶっ殺します。ついでに、後継者争いをなくすため、2人の後継者の片方を殺しちゃったりして。更に''董卓''は、当時最強の武将だった''呂布''を餌付けし、「黄巾の乱の時は役に立たなかった癖に」「新皇帝を殺した」と不満を持っていた武将たちをも黙らせました。  しかし''董卓''は最終的に、''董卓''の侍女(フィクションでは当世一の美女''貂蝉'')に惚れた''呂布''に殺されてしまいます。いつの世でも色恋沙汰の恨みは恐ろしいと言うことでしょう。まだ幼い皇帝''献帝''は逃げ出して、黄巾の乱で活躍した武将の一人''曹操''に保護されました。 **弱肉強食  お飾りの最高権力者を保護した武将''曹操''。こうなると考えることは誰でも一緒です。お飾りを盾にした国家支配って奴。ただ''曹操''は、他の連中と違って賢かったのです。と言うのは、''曹操''は“皇帝の代理”ではなく、あくまで“皇帝の部下”として行動したのです。皇帝''献帝''も賢かったので「''曹操''には逆らわない方がいいぞ」と分かっていて、実質的に''曹操''が政府を動かしていたわけですね。  しかし''曹操''が皇帝を保護した頃、すでに“漢”と言う統一国家は名前だけで、各地の武将が武力で勢力を広げていると言う状況でした。そこで''曹操''は、都があり政府の目が行き届きやすかった中国北部を、まず武力で統一します。そこから、まるで寒冷前線のように南を目指して進軍したのでした。 **赤壁の戦い  この頃、''曹操''が目指した中国南部は大きく東西に分かれていました。南東部は''董卓''が好き勝手している間に''孫''一族が支配し、それなりに平和でした。一方の南西部は、都からも離れ小さなゴタゴタが続いている中、やはり黄巾の乱で活躍し、''曹操''の知り合いでもある''劉備''が頭角を現していました。  ''曹操''は天下統一に向けて、まず情勢が不安定で征服しやすそうな南西部を攻めました。しかし「俺は“漢”の皇帝''劉''一族の血筋じゃ」とプライド高い''劉備''が邪魔して、思うように進軍できません。そこで''曹操''は南東部を攻めることにしますが、南東部を支配していた''孫''一族は''劉備''と協力して''曹操''軍を撃破します。これが世に言う“赤壁の戦い”です。 **三国分立  その後も''曹操''は、自分に逆らう勢力と戦いつつ、政治家としても次々優れた政策を打ちたてながら、天下統一はできないままに亡くなります。その父の後を継いだ''曹丕''は「俺は部下は嫌だ、皇帝になるぞ!」と、まだ皇帝だった''献帝''から皇帝の座を奪って、“漢”を“魏”と言う国に替えてしまいました  これに怒ったのが、“漢”の皇帝の子孫を自称する''劉備''さん。「“漢”の皇帝の後を継いでいいのは、皇帝の子孫である俺だけだ!」ってことで、こちらも「俺は''劉備''~“漢”の皇帝~♪」宣言をして、中国南西部に新しく“漢”の国を作っちゃいます。これが世に言う“蜀(蜀漢)”の国です。……えーと、国の名前は“漢”なのに、なんで“蜀”なんだって? これは後世になって「''劉備''は偽皇帝」と言うことになっちゃったので、この国の名前を“漢”と認めちゃいかんだろって話になり、この地方の伝統的な呼び名である“蜀”に呼び替えたわけです。  こうなると黙っていられないのが、中国南東部を支配していた''孫''一族の三代目''孫権''です。こちらも''曹丕''や''劉備''に対抗して「俺が皇帝だ、文句あっか!」と、自分の支配していた中国南東部を“呉”の国とします。 **三国の没落  こうして出来上がった“魏”“呉”“蜀”のうち、一番強いのは“魏”で、一番弱いのは“蜀”でした。そのため、“魏”は何度も“蜀”へ攻め込み、“蜀”も“漢”の後継国として都のある北を目指したので、この二国は何度も戦います。  しかし“蜀”の国が出来上がった頃、国の礎を築いた超人どもはみんな爺になったり死んだりで、その中では若かった軍師''諸葛亮''が一人で頑張っていました。そんな''諸葛亮''も病気には勝てません。病気なのに五丈原と言う場所へ出陣し、死ぬ直前に部下に秘策を授け“魏”の軍師''司馬懿''を逃走させます。これが世に言う「死せる''孔明''、生ける''仲達''を走らす」と言う奴です。“''孔明''”は''諸葛亮''の通称、同じく“''仲達''”は''司馬懿''の通称です。  ''諸葛亮''の死後も残された人々はよく頑張っていましたが、建国から40年余り、''諸葛亮''の死から約30年で“蜀”は“魏”に負けて滅びてしまいます。それでも30年、よく頑張りました。皇帝は初代''劉備''と二代目''劉禅''のみです。  一方の“魏”も、''諸葛亮''が死んで以降は緊張が緩んだようで、皇帝の''曹''一族と軍師の''司馬''一族が対立するようになり、皇帝一族は徐々に軍師一族の操り人形となっていきました。まるで先祖の''曹操''と皇帝''献帝''を見ているようですね。そして“蜀”を滅ぼしたたった2年後、''曹''一族はついに''司馬''一族に皇帝の座を明け渡すことになり、ここに“魏”も滅びます。まるで先祖の(ry ''司馬''一族の新しい国は“晋(西晋)”です。“魏”の国も、建国から滅亡まで40年ちょっとですが、''曹操''が国を支配していた時代も“魏”に含めるべきと言う意見があるみたいです。ちなみに皇帝は5人(''曹操''は含まず)。  この時期、放置プレイされていた“呉”は後継者争いで内紛が起こっていました。こちらは“魏”や“蜀”に比べれば平和だったので、国が腐り始めるのが早かったわけです。そんな中、国の建て直しを期待された新皇帝''孫皓''はとんでもないバカ殿で、逆に腐敗を順調に発酵させました。そんな“呉”を頑張って何とかしていた軍師が死ぬと、「今がチャーンス!」と“晋”に攻められてしまいます。国民はあまりのバカ殿っぷりに''孫皓''を見捨て、''孫皓''は“晋”に降伏するしかありませんでした。こうして“呉”も滅び、三国志の時代は終わりを告げます。“呉”は''孫権''が皇帝となってから60年弱続きましたが、''孫権''の前の二代も含めると、実質的にはもう少し長いと言う意見があるようです。ちなみに皇帝は4人(''孫権''以降)です。 **その後の歴史  こうして中国は“晋”によって再び統一されますが、“魏”の時代に作られた政治システムを流用し初期から政治が安定していたことや、対立する国が全て滅亡したことなどから、早くも腐り始めました。やがてバカ殿が皇帝になったため、後継者争いが元で戦乱が起こり、建国から約50年で国が分裂してしまいます。再び中国全土が統一されるのは、250年以上後の“隋”の時代です。 *ノンフィクションからフィクションへ **陳寿の歴史書『三国志』  ノンフィクションである歴史書『三国志』は、三国志の時代とほぼ同時代に、“晋(西晋)”の官僚''陳寿''によって個人的な記録として書かれました。このとき、''陳寿''は歴史書を“魏”“呉”“蜀”の3ヴァージョンで書き、これが後にまとめて「三国志」と呼ばれるようになったと言われています。  ''陳寿''が書いた歴史書『三国志』では、“魏”が正統な皇帝の国で、“呉”“蜀”は偽皇帝の国と言うことになっています。それもそのはず、''陳寿''が勤めている“晋”は遡れば“魏”だったので、“魏”が偽皇帝の国だと“晋”も偽皇帝の国と言うことになるからです。  しかし''陳寿''さん、実は“晋”ができる前は“蜀”の官僚でした。なので、当時は偽皇帝の国と扱われていた“蜀”について、かなり贔屓した内容であるとされています。例えば“呉”の皇帝は''孫権''などと呼び捨てなのに対し、“蜀”の皇帝は''劉備''を「先主」、''劉禅''を「後主」と言った具合です。 **習鑿歯の蜀漢正統論  ''陳寿''が『三国志』を書いた頃の中国は“晋(西晋)”に統一されていましたが、後に“晋”が分裂して影響力が弱まると、“魏”を偽皇帝の国と批判できるようになったため、“魏”“呉”“蜀”のどこが正統な皇帝の国か、議論が盛んに行われるようになりました。  この頃''習鑿歯''という人が、強引ながらも様々な改革を行い実質的に“漢”を強奪した''曹操''を「悪」、“漢”の皇帝の子孫と言われ強引な策を取らず中国各地を流浪した''劉備''を「善」として“蜀”の正統性を主張しました。これが「蜀漢正統論」です。  この「行動の善悪」を基準とした「正統性」の考え方は、国が乱れ分裂していた背景もあって、大いに支持されました。多くのフィクションで「善」の''劉備''、「悪」の''曹操''として描かれているのは、この考え方が後に大きく広まることになったからなのです。 **裴松之の注記『裴松之注』  ''陳寿''が書いた『三国志』は、事実かどうか疑わしい話に関しては全て排除され、非常にシンプルなものでした。しかし個人的な記録とは言え、歴史書としては非常に良くまとまっていたため、書かれた当時から高い評価を得ていました。  ''陳寿''の『三国志』から約150年後、当時の皇帝(と言ってもまだ分裂状態ですが)に命じられた歴史家''裴松之''が、このシンプルな歴史書に注釈を付けることになりました。このとき''裴松之''は、フィクションかノンフィクションかに関わらず、当時あった三国志に関する話を「全て」出典付きで紹介しました。これが歴史書『三国志』の注記である『裴松之注』です。  『裴松之注』は、当時の書物に存在する三国志関係の話を全て紹介したため、中には矛盾する内容のものも含まれています。しかも、''裴松之''自身の自説とともに、自説に反する話も紹介すると言う徹底振り。''習鑿歯''の「蜀漢正統論(に基づいて書かれた書物『漢晋春秋』)」も、当然ながら紹介されています。また、「こりゃどう考えてもフィクションだろう」と言うような話も紹介されているため、後のフィクション『三国志演義』の成立に大いに貢献したと言われています。 **民間伝承と朱子学  これら''習鑿歯''の「蜀漢正統論」や''裴松之''の『裴松之注』を参考に、「三国志」時代の話には段々尾ひれが付き、面白おかしい講談として民間に広がっていきました。中には、明らかに「元ネタ」が分かるものまであるそうで。  また''陳寿''の『三国志』は、「三国志」の時代から約400年後、“唐”の時代に「国が認めた正統な歴史書」となりました。このことから''陳寿''の『三国志』や''裴松之''の『裴松之注』は、知識人にとって必須のものになったのです。  更に、「三国志」の時代から約900年後、朱子学の創始者である“宋(南宋)”の学者''朱熹''と言う人が「蜀漢正統論」を支持しました。この朱子学が後に“明”の国家教学となったため、「蜀漢正統論」も国の知識層・支配層に浸透することになり、引いては全国に「蜀漢正統論」が広まることとなります。  と言うのも、当時の中国には「科挙」と言う官僚試験があり、これに受かれば貧乏人でも国家官僚に出世できたからです。その競争率は約3000倍(!)とか。科挙の試験科目には当然「歴史」があり、“明”の時代には「朱子学」も試験科目になりました。つまり「三国志」を勉強すれば出世できたんですね(激違)。 **施耐庵あるいは羅貫中の小説『三国志通俗演義』  「三国志」の時代から約1100年後の“明”の時代、歴史書『三国志』を基本にしつつも、荒唐無稽な講談の中から様々なエピソードを取り入れ洗練し、今日知られる『三国志演義』が成立しました。  この『三国志演義』を「編集」したのは''施耐庵''または''羅貫中''とされていますが、二人ともどういう人物かはっきりとは分かっていません。''施耐庵''に至っては「多くの編集者の共同ペンネームじゃないか?」と言う説まであるそうです。  ちなみに『三国志演義』に採用されなかったエピソードの中には、後世の京劇に採用されたものもあります。そのため、小説『三国志演義』と京劇『三国志』では内容が異なる部分もありますが、細かいことは気にしちゃいけません。どちらも「事実をアレンジした作り話」なのですから。

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