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現在地:[[トップページ]]>[[漢詩大会の漢詩全文]]>今ココ ----- #contents(fromhere=true) ----- *陸機 **猛虎行 出典:《昭明文選/巻28(維基)》、《藝文類聚/巻41(維基)》 ***原文 渴不飲盜泉水。熱不息悪木陰。 悪木豈無枝。志士多苦心。 整駕肅時命。杖策將遠尋。 飢食猛虎窟。寒棲野雀林。 日歸功未建。時往歲載陰。 崇雲臨岸駭。鳴條隨風吟。 靜言幽谷底。長嘯高山岑。 急絃無懦響。亮節難為音。 人生誠未易。曷云開此衿。 眷我耿介懷。俯仰愧古今。 ***訳 「渇くとも盗泉の水を飲まず、熱くとも悪木の陰で休まず。 ところが悪木も枝が茂るので、志士らは(陰に対して)苦心がたえない」と古人言う。 帝王の馬車を整え、陛下の命に従い。鞭を振るえば馬は遠く、より遠くへ。 飢えれば猛虎の窟にて食し。寒くとも野雀の林に棲む。 太陽西に帰するとも、功未だ成らず。時は往き、歳月は秋冬を迎える。 沸き起こる高雲を、岸辺から臨み。草木の枝は秋風にしたがい、呻吟す。 奥深き幽谷の底に、声無き言葉を発し。高山の頂に、思いの丈を長嘯する。 張り詰めた琴弦に、緩んだ弦のか弱い響きはなく。信義貞節のゆえに、音を為す事すら難しい。 人生は誠に難しい。どうして心を開けと言うのか。 正直に生きていた昔の私を省みるほどに。俯き、仰ぎ、古今を恥じる。 > 論語、詩経、楚辞、古詩の影響あり。他にも、王粲など当時の有名な作の雰囲気が混じっている。 > 自分の意思に背く命令に従い、ついに何ひとつ成功しないまま、煩悶する志士の姿を描写している。 > 晋代の混乱する政局の中、行き場も無く彷徨いつつ、生き方を曲げてしまった男が、昔を思い恥じ入る。 【渴不飲盜泉水。熱不息悪木陰】【悪木豈無枝。志士多苦心】 李善が注釈した文選によると、《尸子》「孔子至於勝母暮矣。而不宿。過於盗泉渇矣。而不飲。惡其名也」 (孔子が「勝母」に着いたとき日が暮れたが、宿をとらなかった。「盗泉」を過ぎるとき喉が渇いていたが、飲まなかった。 母に勝つ、泉を盗む、それぞれの悪名を嫌ったのだ) 江邃《文釋》によると、《管子》「夫士懷耿介之心,不蔭惡木之枝。惡木尚能恥之,況與惡人同處?」 (正しい心を持つ士は、悪木の枝の木陰にやどろうとしない。悪木ですら恥じるのに、まして悪人と同じ所に寄れと言うのか?) 【駕】帝王の馬車。 【時命】時の支配者の命令。思玄賦曰:爰整駕而亟行,時君之命也。 【策】《杜預左氏傳》では馬檛(杖、鞭)とする。 【將】《廣雅》では「欲」の意とする。 【功未建】《陸賈新語》「以義建功(義をもって功を建てる)」 【載陰】《神農本草》では、「秋冬為陰(秋冬を陰と為す)」 【駭】《廣雅》では、「起」。 ----- ***解説 [[『晋書(維基文庫)』陸機の項>http://zh.wikisource.org/wiki/%E6%99%89%E6%9B%B8/%E5%8D%B7054]] /晋書日本語訳[[六朝文人伝―陸機・陸雲伝(晋書)―(長谷川氏)>http://ci.nii.ac.jp/naid/110003819365]] / [[維基文庫 陸機作品一覧>http://zh.wikisource.org/wiki/作者:陸機?uselang=jaD]] / [[日本語版wikipediaの解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E6%A9%9F]]  有名人なので、解説は程々にして。  陸機の「[[弔魏武帝文>http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/riku_ki/mourning_gibu.html]]」における武帝の遺言は、(陸機による)偽作の可能性を指摘されている。偽作してまで曹操を貶めることで、中原における旧呉の優越性を示そうとしたのではないか、という(渡辺氏「[[三国志 演義から正史、そして史実へ>http://www.chuko.co.jp/shinsho/2011/03/102099.html]]」)。  陸機の詩才がどこで育ったか考えると、渡辺氏の説も一理はある。 1:陸氏の出身地である呉は、詩を育てる土壌がない ・陸遜、陸抗ともに詩を残しておらず、陸氏に高度な詩を作る伝統があったとは考えにくい ・呉で残っている詩は、呉の民謡と韋昭の宮廷音楽ぐらいであり、呉に詩を作る(ry ・陸機が呉に隠遁していた時期の作品で有名なのは「弁亡論」、つまり論文であって詩ではない  では、どこで詩を学んだか。陸機が詩を意識して読むようになったのは、洛陽に来てからだろう。 2:陸機の作品は張華の影響が大きい ・陸機が洛陽に出仕したとき、張華に高い評価を受けている。 (晋書陸機伝、世説新語引用「晋陽秋」、呉志陸抗伝引用「機雲別伝」他) ・張華は陸機を推薦、宴会で他の名士に会わせるなど、洛陽に出たばかりの陸機を支えている。 ・張華と陸機は親しく、陸機は張華を師とみなした(晋書張華伝)。 3:張華と陸機はふたりとも、晋朝廷の文章を作成する「著作郎(歴史書管理担当)」「中書郎(朝廷の文書担当)」だった。 「晉史及儀禮憲章並屬於華,多所損益,當時詔誥皆所草定,聲譽益盛,有台輔之望焉」 (張華は晉史、儀礼、憲章、詔の草書などを作成していた) 「齊王冏以機職在中書,九錫文及禪詔疑機與焉」 (斉王冏は、陸機が中書に勤めていたことから、九錫文や禅位の詔に陸機が関与していると考えた@晋書陸機伝)  特に張華は、泰始3年の宮廷音楽編纂にかかわっている。 (晋書楽志「晉初,食舉亦用《鹿鳴》。至武帝泰始五年,使傅玄、荀勖、張華各造正旦行禮及王公上壽酒、食舉樂歌詩,後又詔成公綏亦作焉。」)  ここであがった傅玄、荀勖、張華の三人は、魏代の漢詩を「晋楽所奏」へ改ざんする作業を指揮していたことは考えられる。  そして、陸機も同じ部署で仕事をしていた。  上記のことを考えると、陸機が曹操の遺言を見る機会はありうる。魏代の資料をみる機会があったから、魏詩の影響を受け、詩才を磨いたと考えられる。  しかし意図や方向性はともかく、陸機による魏の話は100%信用できるものではない。少なくとも、師である張華、もしくは陸機本人によりフィルターがかかっている可能性も考慮すべきではある。 (曹丕の短歌行などからねつ造した、或いは曹操が公に発した遺言だけではなく、私人として家族に残した遺言全てをつぎはぎした上で、公人としての遺言にすり替えた、など)  何にせよ、[[1800年後に曹操ファンクラブ名誉会員>http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/riku_ki/tankako.html]]扱いされていることを、彼は泉下でどう思っているのだろうか。 -----
現在地:[[トップページ]]>[[漢詩大会の漢詩全文]]>今ココらか ----- #contents(fromhere=true) ----- *陸機 **猛虎行 出典:《昭明文選/巻28(維基)》、《藝文類聚/巻41(維基)》 ***原文 渴不飲盜泉水。熱不息悪木陰。 悪木豈無枝。志士多苦心。 整駕肅時命。杖策將遠尋。 飢食猛虎窟。寒棲野雀林。 日歸功未建。時往歲載陰。 崇雲臨岸駭。鳴條隨風吟。 靜言幽谷底。長嘯高山岑。 急絃無懦響。亮節難為音。 人生誠未易。曷云開此衿。 眷我耿介懷。俯仰愧古今。 ***訳 「渇くとも盗泉の水を飲まず、熱くとも悪木の陰で休まず。 ところが悪木も枝が茂るので、志士らは(陰に対して)苦心がたえない」と古人言う。 帝王の馬車を整え、陛下の命に従い。鞭を振るえば馬は遠く、より遠くへ。 飢えれば猛虎の窟にて食し。寒くとも野雀の林に棲む。 太陽西に帰するとも、功未だ成らず。時は往き、歳月は秋冬を迎える。 沸き起こる高雲を、岸辺から臨み。草木の枝は秋風にしたがい、呻吟す。 奥深き幽谷の底に、声無き言葉を発し。高山の頂に、思いの丈を長嘯する。 張り詰めた琴弦に、緩んだ弦のか弱い響きはなく。信義貞節のゆえに、音を為す事すら難しい。 人生は誠に難しい。どうして心を開けと言うのか。 正直に生きていた昔の私を省みるほどに。俯き、仰ぎ、古今を恥じる。 > 論語、詩経、楚辞、古詩の影響あり。他にも、王粲など当時の有名な作の雰囲気が混じっている。 > 自分の意思に背く命令に従い、ついに何ひとつ成功しないまま、煩悶する志士の姿を描写している。 > 晋代の混乱する政局の中、行き場も無く彷徨いつつ、生き方を曲げてしまった男が、昔を思い恥じ入る。 【渴不飲盜泉水。熱不息悪木陰】【悪木豈無枝。志士多苦心】 李善が注釈した文選によると、《尸子》「孔子至於勝母暮矣。而不宿。過於盗泉渇矣。而不飲。惡其名也」 (孔子が「勝母」に着いたとき日が暮れたが、宿をとらなかった。「盗泉」を過ぎるとき喉が渇いていたが、飲まなかった。 母に勝つ、泉を盗む、それぞれの悪名を嫌ったのだ) 江邃《文釋》によると、《管子》「夫士懷耿介之心,不蔭惡木之枝。惡木尚能恥之,況與惡人同處?」 (正しい心を持つ士は、悪木の枝の木陰にやどろうとしない。悪木ですら恥じるのに、まして悪人と同じ所に寄れと言うのか?) 【駕】帝王の馬車。 【時命】時の支配者の命令。思玄賦曰:爰整駕而亟行,時君之命也。 【策】《杜預左氏傳》では馬檛(杖、鞭)とする。 【將】《廣雅》では「欲」の意とする。 【功未建】《陸賈新語》「以義建功(義をもって功を建てる)」 【載陰】《神農本草》では、「秋冬為陰(秋冬を陰と為す)」 【駭】《廣雅》では、「起」。 ----- ***解説 [[『晋書(維基文庫)』陸機の項>http://zh.wikisource.org/wiki/%E6%99%89%E6%9B%B8/%E5%8D%B7054]] /晋書日本語訳[[六朝文人伝―陸機・陸雲伝(晋書)―(長谷川氏)>http://ci.nii.ac.jp/naid/110003819365]] / [[維基文庫 陸機作品一覧>http://zh.wikisource.org/wiki/作者:陸機?uselang=jaD]] / [[日本語版wikipediaの解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E6%A9%9F]]  有名人なので、解説は程々にして。  陸機の「[[弔魏武帝文>http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/riku_ki/mourning_gibu.html]]」における武帝の遺言は、(陸機による)偽作の可能性を指摘されている。偽作してまで曹操を貶めることで、中原における旧呉の優越性を示そうとしたのではないか、という(渡辺氏「[[三国志 演義から正史、そして史実へ>http://www.chuko.co.jp/shinsho/2011/03/102099.html]]」)。  陸機の詩才がどこで育ったか考えると、渡辺氏の説も一理はある。 1:陸氏の出身地である呉は、詩を育てる土壌がない ・陸遜、陸抗ともに詩を残しておらず、陸氏に高度な詩を作る伝統があったとは考えにくい ・呉で残っている詩は、呉の民謡と韋昭の宮廷音楽ぐらいであり、呉に詩を作る(ry ・陸機が呉に隠遁していた時期の作品で有名なのは「弁亡論」、つまり論文であって詩ではない  では、どこで詩を学んだか。陸機が詩を意識して読むようになったのは、洛陽に来てからだろう。 2:陸機の作品は張華の影響が大きい ・陸機が洛陽に出仕したとき、張華に高い評価を受けている。 (晋書陸機伝、世説新語引用「晋陽秋」、呉志陸抗伝引用「機雲別伝」他) ・張華は陸機を推薦、宴会で他の名士に会わせるなど、洛陽に出たばかりの陸機を支えている。 ・張華と陸機は親しく、陸機は張華を師とみなした(晋書張華伝)。 3:張華と陸機はふたりとも、晋朝廷の文章を作成する「著作郎(歴史書管理担当)」「中書郎(朝廷の文書担当)」だった。 「晉史及儀禮憲章並屬於華,多所損益,當時詔誥皆所草定,聲譽益盛,有台輔之望焉」 (張華は晉史、儀礼、憲章、詔の草書などを作成していた) 「齊王冏以機職在中書,九錫文及禪詔疑機與焉」 (斉王冏は、陸機が中書に勤めていたことから、九錫文や禅位の詔に陸機が関与していると考えた@晋書陸機伝)  特に張華は、泰始3年の宮廷音楽編纂にかかわっている。 (晋書楽志「晉初,食舉亦用《鹿鳴》。至武帝泰始五年,使傅玄、荀勖、張華各造正旦行禮及王公上壽酒、食舉樂歌詩,後又詔成公綏亦作焉。」)  ここであがった傅玄、荀勖、張華の三人は、魏代の漢詩を「晋楽所奏」へ改ざんする作業を指揮していたことは考えられる。  そして、陸機も同じ部署で仕事をしていた。  上記のことを考えると、陸機が曹操の遺言を見る機会はありうる。魏代の資料をみる機会があったから、魏詩の影響を受け、詩才を磨いたと考えられる。  しかし意図や方向性はともかく、陸機による魏の話は100%信用できるものではない。少なくとも、師である張華、もしくは陸機本人によりフィルターがかかっている可能性も考慮すべきではある。 (曹丕の短歌行などからねつ造した、或いは曹操が公に発した遺言だけではなく、私人として家族に残した遺言全てをつぎはぎした上で、公人としての遺言にすり替えた、など)  何にせよ、[[1800年後に曹操ファンクラブ名誉会員>http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/riku_ki/tankako.html]]扱いされていることを、彼は泉下でどう思っているのだろうか。 -----

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