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現在地:[[トップページ]]>[[漢詩大会の漢詩全文]]>今ココ ----- 本人作から真贋を疑われているものまで、色々。 #contents(fromhere=true) ---- *何晏 作品一覧・訳・解説:[[『三国時代の文学スレッド』まとめサイト>http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/ka_an/index.html]] #region(一時保管+メモ) 【祈猛獣刀銘】 徒搏不兵作戒宣丘造斯器螭獣是劉制禽良昆明亶時末釐厥後蠲民之災 蠲は諸説ありますが、螭獣是劉と見る限り、多足の虫や飛び虫、ようは虫や獣と、蜀の劉氏をかけたものと考えます。 劉氏を滅ぼし、益蜀の民を災いから解放するために作った? 【忘れた(編者が)】 若稽古帝魏武。睿(or淩)哲欽明文思。罄民生之俊徳。懿前烈之極休。 先天而天弗違。後天而奉天時。聿迪明命。肇啓皇基。 夫居高聴卑。乾之紀也。靡徳不酬。坤之理也。 故霊符頻繁。衆瑞仍章。通政辰修。玉燭告祥。和風播烈。景星揚光。 応龍遊於華澤。鳳鳥鳴於高岡。麒麟依於圃籍。䖑虎類於坰疆。 鹿之麌麌。載素其色。雉之朝雊。亦白其服。 交交黄鳥。信我中霤。儵儵嘉苗、吐頴田疇。 古からの道を継がれる魏武。叡智(深智)、穏和、博識なるお方。在野の俊才をことごとく登用し。前烈(先人の功業)の極休(極めて良い点)を賛美なさった。 天に先んじようと遅れようと天の時を自分のものとなさった。古今の書を広げては命を明らかにし、魏の皇基を開かれた。 腰を据え臣下の意見をお聞き入れになる。天のしろ示すところである。主人に返杯しない(報いない)者はいない。地の理である。 ゆえに霊祥は頻繁にあらわれ。瑞祥が弥増した。 (通政辰修がいまいちぴんとこない。政治が天の巡りと一致していることを指すんだろうけど) 庭を燈す大燭は吉祥を告げ。風が百穀を撒く音をたて。大きな星は輝きも明るく。 皇帝の乗る応龍が華澤に遊び、鳳凰は高岡に鳴く。麒麟は田園に身を寄せ、白虎は坰疆(森)に相追う。 鹿の鳴き声が、空間に色を添える。朝に鳴く雄雉の、其の服は白い?。 小鳥が飛び交い、土神を祭るときが来た。良苗の黒緑色が抜けて、田畑に穂先をほころばせる。 詩経の用語が引用されているので、古典や詩経に詳しい方ならもっと深く理解できるかと思います 稽古=古を考察する 鹿之~は曹換の短歌行でも引用されている鹿鳴 小雅「雉之朝雊」 詩経・周頌・有客「亦白其馬」(殷の微子が殷を意味する白馬に乗って、周の祭祀を助けに来た説がある)。 初代天子の生まれた年に該当する五行の徳に応じた色の服を身に着けた説あり(殿は金=白、周と湊は火=赤)。 中霤は屋内で土神を祀る空間。 士大夫が土神をまつる部屋の屋根(一部)をあけると、部屋の中に霤(雨だれ)がおちることから。らしい。 【擬古】 双鶴(鴻鵠)比翼遊、群飛戯大清、常恐失(大)網羅、憂禍一旦并、豈若集五湖、順流唼浮萍、逍遥放志意(永寧曠中懐)、何為怵惕驚 二匹の鶴が比翼となり、空に戯れる。常に恐れるのは網にかかること。憂災が一気に起これば、どうして五湖に集うだろう。思いのまま流れては浮草と接し、遼遥して志意をほしいまま、どうして高く飛び立つことが怖いものか。 こんな感じですか?五湖は一説では呉の湖水、ひいては呉地方を指す。周礼や水経で、沭水は青州。渭水が隴西だか洛陽、湛水が豫州?だったかと。 【失題】初学記版 轉蓬去其根、流飄従風移、□□四海涂、悠悠焉可彌、願為浮萍草、託身寄清池、且以楽今日、其後非所知 転がる蓬は根を離れ、風に流れさすらう。四海の道は草の先頭のようにか細く、悠遠と長きを全う(…何ぞこれ)。願わくは浮草となり、清らかな他に身を託したい。ただ今日が楽しいならば、その後は知るところではない。 「家も無くあちこちを流離ったところで、安住の地は見つからない。明君のそばに身を置き、今を楽しむのだ」といったかんじで? 涂水は益州から流れる水。曹植は自分を蓬に、家族を根に例えた。劉偵は贈従弟詩で清らかな池を詠んでいる。 出典検索とか色々まだなんで、訳すらしてない。個人的保管に使用しているwikiがエラーで使えないので一時的に置かせて下さい #endregion ----- *司馬懿 **讌飲詩 原典:《晋書-高祖宣帝懿紀》《古詩源》 天地開闢、日月重光。 遭遇際會、畢力遐方。 將掃群穢、還過故郷。 肅清萬里、總齊八荒。 告成歸老、待罪舞陽。 #region(単語解説) 【日月重光】《魏鼓吹曲十二篇-應帝期》「日月為重光」 【際會】偶然であう。[[weblio辞書>http://www.weblio.jp/content/%E9%9A%9B%E6%9C%83]] 【八荒】八極。八方の果て。[[yahoo辞書>http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0ss/115795400000/]] 【告成】《詩·大雅·江漢》「経営四方,告成于王」 【帰老】老いて引退する。[[goo辞書>http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/58626/m0u/]] 【待罪舞陽】「待罪」は皇帝の処分、措置を待つ。謙譲の意。《史記-季布伝》の「臣、無功窃寵、待罪河東」を踏まえるか。 「舞陽」は、河南の一地区の名称。 さて、「秦舞陽(始皇帝暗殺を試みた荊軻の同行者。最初から最後まで震えていただけ)」とは関係あるんだろうか? #endregion ・''訳'' 天地がわかれ。日月は光を重ねた。 偶然にも重要な事態に遭遇し。遠方で全力を尽くす。 まさに群れなす凡愚どもを蹴散らし。帰っては故郷を過ぎようとする。 万里を厳しく取り締まり。荒れ乱れた地上を統一する。 成功を告げ郷里に帰り。審判を舞陽に待つ。 その他の訳・解説:[[『三国時代の文学スレッド』まとめサイト>http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/shiba_i/enin.html]] 「告成歸老、待罪舞陽」が、この時代の作品によく見られる、前後の比較になっている。 待罪舞陽自体は《史記-季布伝》の「臣、功なくして寵を窃(ぬす)み、罪を河東に待つ」を踏まえたものだと考えるが、意味深。 舞陽の罪を(=皇帝暗殺を目の前で見過ごして)待つ、と。まぁ韻を踏んだだけだろ多分。 ----- *諸葛亮? **梁甫吟 原典:《晏子春秋》など ・''原文'' 歩出齊城門 遙望蕩陰里 里中有三墓 累累正相似 問是誰家墓 田彊古冶子 力能排南山 文能絕地紀 一朝被讒言 二桃殺三士 誰能為此謀 國相齊晏子 #region(単語解説) 【梁甫】蒿里などと同じ系統。 蔡邕《琴頌》曰:梁甫悲吟,周公越裳。」按梁甫,山名,在泰山下。 《梁甫吟》,蓋言人死葬此山,亦葬歌也。又有《泰山梁甫吟》,與此頗同。 (梁甫は泰山の下にある山の名前。人は死すとこの地に葬られ、また詩にて弔う) 【遙望蕩陰里】 《滄浪詩話 巻五》(嚴羽、宋代)「『《樂府解題》では、“遙望陰陽里”とする』青州には陰陽裏という地名がある」 【累累】積み重なる。連なり続く。 【田彊】《古樂府》卷五作「田彊」のことらしい。《解題》では“田疆固野子”とする。 【地紀】大地の四隅を繋ぐ紐。天網と地紀。 【晏子】晏嬰。[[wiki>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%8F%E5%AC%B0]] #endregion ・''訳'' 斉の城門を歩き出て、遠くに蕩陰の里を眺める 里には墓が三基 似た形が連なり続く 問いかける「これは誰の家の墓か」 「……、田開彊、古冶子」 力はよく南山を排し、学識は地紀をも絶った ひとつの讒言、二個の桃が三人殺した 謀ったのはだあれ? それは斉国の宰相、晏子様 訳・解説:[[『三国時代の文学スレッド』まとめサイト>http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/syokatsu_ryo/ryohogin.html]] 作者については、諸葛亮、曾子(孔子もしくは左丘明の弟子)、無名氏(古楽府)の説がある。 まずは、作者:曾子説について。 >李勉《琴説》曰:《梁甫吟》,曾子撰。 >《琴操》日:曾子耕泰山之下,天雨雪凍,旬月不得帰,思其父母,作《梁山歌》。 つまり、曾子が作った梁山歌は、「泰山のふもとで耕していたとき、天気が崩れて帰ることが出来ず、父母を思って作った」もの。 ひるがえって諸葛亮作と伝わる作品は、晏子を詠ったものであり、別物。 >蔡邕《琴頌》日:「梁甫悲吟,周公越裳。」 >按梁甫,山名,在泰山下。《梁甫吟》,蓋言人死葬此山,亦葬歌也。又有《泰山梁甫吟》,輿此頗同。 《琴頌》では、梁甫と周公にまつわるもの。もしくは死者への葬歌。 曹植の「泰山梁甫行」は、長引く戦乱と民衆への憐みを詠ったもの。 >《蜀志》曰:諸葛亮好為《梁甫吟》。然則不起於亮矣。  以上のことから、「梁甫吟」という曲調自体は、春秋戦国時代からある古い民謡曲であり、漢の楽府が収集した古楽府としての「古典梁甫吟」も存在したと考えられる。  そして諸葛亮が「古典梁甫吟」を知っている、ここまでは十分考えられる。  ただし、残っている断片からは、古典的な梁甫吟は、ここで「諸葛亮作と伝わる梁甫吟」とは、別物だった可能性が高い。 >《古今樂錄》曰:「王僧虔《技錄》有《梁甫吟行》,今不歌。  「今はもう歌われていない」とある以上、古い作品がどんなものかは、王僧虔の時代には不明だったと思われる。  したがって、「諸葛亮作と伝わる梁甫吟」が「古典梁甫吟」なのか、それとも「諸葛亮の真作」なのかは不明。完全なオリジナルではなくとも、一部を替え歌にしている可能性もある。 >謝希逸《琴論》曰:諸葛亮作《梁甫吟》。  謝希逸(謝荘、421年生)が何をソースにしているか? 蜀漢正統論がらみ? >《琴経(国立公文書館)》「諸葛孔明懐琴隆中所作水龍吟至今傳世」(紫雲調考よりの又引き)  この水龍吟が、梁甫吟と同じかどうか?  何にせよ、「作者は諸葛亮かもしれないね」扱い……にしたいところだが、諸葛亮ではなく別人の作だと断言しているサイトもある。まだ見落としているソースがあるのかしら。 #region(他の解説 未訳分) 《陳武別傳》曰:武常騎驢牧羊,諸家牧豎十數人,或有知歌謠者,武遂學《泰山梁甫吟》《幽州馬客吟》及《行路難》之屬。 西溪叢語:姚寬 南宋 ・梁父吟取意 樂府解題有梁父吟。 蜀志諸葛亮傳云:「亮躬耕隴畝,好為梁父吟。」 藝文類聚吟門云:「蜀志:諸葛亮梁父吟云:『日出齊城門,遙望蕩陰里。里中有三墳,纍纍正相似。 問是誰家冢?田疆、古冶氏。力能排南山,又能絕地紀。一朝被讒言,二桃殺三士。誰能為此謀?相國齊晏子。」 又青州圖經臨淄縣塚墓門云:「三士塚,在縣南一里。三墳周圍一里,高二丈六尺。」 張朏齊記云,是烈士公孫捷、田開疆、古冶子三士塚,所謂「二桃殺三士」者。 唐褚亮梁甫吟曰:「步出齊城門,遙望蕩陰里。里內有三墳,纍纍皆相似。借問誰家塚?田疆、古冶子。」 李白有梁甫吟一篇,云:「力排南山三壯士,齊相殺之費二桃。」 杜甫李邕登歷下亭云:「不阻蓬蓽興,得兼梁父吟。」 又登樓詩云:「可憐後主還祠廟,日暮聊為梁父吟。」 陸士衡擬今日良燕會云:「齊僮梁父吟。」 李善注云:「蔡邕琴頌曰:『梁父悲吟。』」 不知名為梁父吟何義。 張衡四愁詩云:「欲往從之梁父艱。」 注云:「泰山,東嶽也。君有德,則封此山,願輔佐君王,致於有德,而為小人讒邪之所阻。梁父,泰山下小山名。」 諸葛亮好為梁父吟,恐取此意。 #endregion ----- *項籍 **抜山蓋世 原典:《史記 本紀 卷七 項羽本紀第七》 ・''原文'' 力拔山兮氣蓋世。時不利兮騅不逝。 騅不逝兮可柰何。虞兮虞兮柰若何。 ・''訳'' 力は山を抜き、気は世をおおう。しかし時は味方せず、騅も前に逝けぬ。 この私が、逝かぬ騅をどうにもできぬ。虞よ、虞よ、お前をどうしたものか。 【騅】項籍の愛馬 【虞】虞美人。項羽の妻or恋人。虞美人草の元ねた。([[wiki>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%9E%E7%BE%8E%E4%BA%BA]]) ・''コメント''  この漢詩は琴曲調であるとする説もある(「支那文学考」等)。虞美人の奏でる琴曲に合わせて舞ったのだろうか。  なお「古文真宝」には、「虞美人草」という漢詩もある。 ----- *韋昭 **呉鼓吹曲 呉が韋昭に作らせた軍歌で、漢の鼓吹曲がベース。→[[「呉鼓吹曲十二篇」]] ----- *甄夫人? **塘上行 蒲生我池中、其葉何離離 傍能行仁義、莫若妾自知 衆口鑠黄金、使君生別離 念君去我時、独愁常苦悲 想見君顔色、感結傷心脾 念君常苦悲、夜夜不能寐 莫以賢豪故、弃捐素所愛 莫以魚肉賤、弃捐葱与薤 莫以麻枲賤、弃捐菅与蒯 出亦復苦愁、入亦復苦愁 辺地多悲風、樹木何翛翛 従軍致独楽、延年寿千秋 訳・解説: →[[塘上行(曹操・曹丕・甄夫人)]] ----- *関羽? **関帝詩林 原典:関林にある石碑、西安碑林博物館の拓本他、各地の三国志関連遺跡 ・''原文'' 不謝東君意、丹青獨立名 莫嫌孤葉淡、終久不彫零 #region(単語解説) 【竹】漢代、梁の孝王が、東庭に竹を植えて修竹苑と称したことから、「竹の園生」で皇族を意味する。  また、《後漢書 鄧禹伝》などの「竹帛」、文天祥などの「汗青」というように、書籍の用紙代わりに使われた。  このことから、竹は転じて歴史書を意味することが多い。 【東君】《楚辞/九歌》に東君(太陽の神)という辞があるにはあるが、関羽が楚辞を知っていたかどうか?  礼記、易経(説卦伝)など、古代では立場によって座する位置が違うので、立場の表示もあるか?  曹操、劉備のどちらを指すかは不明。 【丹青】絵の具。絵画そのもの。  なお、「丹心」でまごころ、「汗青」は「歴史」を意味する。  竹簡を作るとき青竹を火であぶる作業があり、そのとき滲み出る水分を竹の汗(=汗青)と見立てたから。  この作業をへて作成した竹簡は、長いこと青いままだった。 【莫嫌孤葉淡】「嫌」を「嗛(恨む、疑う)」とする説あり 【彫零】枯れ落ちる。彫は「凋」がしぼむ、「雕」が刻む、彩色する。零はこぼれ落ちる。 #endregion  別名「風雨竹」。洛陽関林に置かれている石碑などに、竹の葉の絵で刻まれた漢詩。  関羽が曹操のもとに居るとき、劉備宛に作成したという伝承をもつ。偽作扱いされることもある。  現在の石碑自体は、右下に彫られている「弘治二年十月十八日 楊州淘河獲出環鈕 共董二斤四両 其文曰漢壽亭候之印」(明代の黄希聲?によると「宏治三年(1490年)十月十八日揚州淘河獲“漢壽亭侯之印”」)の文章から、この頃に、漢壽亭侯之印を、川底から引き上げた記念として作られたものか、もしくは、石碑だけあって、後に印と字が刻まれたものと思われる。  内容については、敵地で劉備への思いを明記するわけにもいかんので、竹の葉を字の形に並べて送ったとされ、中国最古の暗号文じゃないかとも。  内容もわざと曖昧にしてあるっぽい。なので、解釈も色々。 ・''不謝東君意''  曹操の行為には感謝しない、劉備に対しやましいところはない、etc. ・''丹青獨立名''  丹青で竹画を描き我が意を示す、頂いた漢壽亭侯之印をここに示す、義は語らずとも歴史に残る、etc ・''莫嫌孤葉淡''  竹画の絵の色が薄いと嫌わないでほしい→私の非才を、忠誠が薄いと嫌わないで欲しい、私の態度を恨まないで欲しい ・''終久不彫零''  印(=貴方と私との繋がり)は欠けぬまま在り続ける、絵画の竹葉は永遠に枯れない→私の忠誠は永遠だ、etc  大航海時代onlineでは、「伝国の玉璽」の所在情報を示す漢詩として登場する。  というわけで、本物だったらいいなという夢のある話。 ついで【関林(関林堂)】  河南省洛陽市の南郊外にある、関羽の首が葬られたとされる場所。  関羽を討った呉は、魏に首を送った。曹操は、その首と上等な檀香木で作った体を、洛陽の墓地に葬ったという。  時代の変遷とともに、塚(王侯の墓)→陵(皇帝の墓)→林(聖人の墓)に改められた。  関帝廟は各地にあるが、洛陽の関林は最古のものとされる。  無傷で保存されている建築群の一つで、歴代の墓志碑の展示室や三殿、清代の亭式建築が残っている。  洛陽古代芸術館という顔も持ち、1979年、河南省から、日本で言う重要文化財の認定を受けた。関羽のものといわれる2mの大刀、洛陽から出土された多くの石刻や石碑などがある。  関林には、同じ三国時代の名将母丘倹、諸葛誕の叛乱を鎮圧した王基の墓もある。  なお、写真撮影はご遠慮ください。 -----

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