「善哉行」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら
「善哉行」(2016/03/09 (水) 17:04:01) の最新版変更点
追加された行は緑色になります。
削除された行は赤色になります。
現在地:[[トップページ]]>[[漢詩大会の漢詩全文]]>[[漢詩大会の漢詩全文/曹操]]>今ココ
-----
#contents(fromhere=true)
-----
*原文
出典:《漢魏六朝百三名家集(国デジ)》 《楽府詩集(台湾)》
**其の一
古公亶甫。積徳垂仁。思弘一道。哲王於豳。
太伯、仲雍。王德之仁。行施百世。斷髮文身。
伯夷、叔齊。古之遺賢。讓國不用。餓殂首山。
智哉山甫。相彼宣王。何用杜伯。累我聖賢。
齊桓之霸。賴得仲父。後任豎刁。蟲流出戸。
晏子平仲。積德兼仁。與世沈德。未必思命。
仲尼之世。王國為君。隨制飲酒。揚波使官。
**其の二
自惜身薄祜。夙賤罹孤苦。既無三徒教。不聞過庭語。
其窮如抽裂。自以思所怙。雖懷一介志。是時其能與。
守窮者貧賤。惋歎涙如雨。泣涕於悲夫。乞活安能覩。
我願於天窮。琅邪傾側左。
雖欲竭忠誠。欣公歸其楚。快人由為歎。抱情不得敘。
顯行天教人。誰知莫不緒。我願何時隨。此歎亦難處。
今我將何照於光曜。釋銜不如雨。
**其の三(初学記では「於講堂作」とする。曹丕作の説あり)
朝日樂相樂。酣飲不知醉。悲弦激新聲。長笛吹清氣。
弦歌感人膓。四坐皆歡悅。寥寥高堂上。涼風入我室。
持滿如不盈。有德者能卒。君子多苦心。所愁不但一。
慊慊下白屋。吐握不可失。衆賓飽滿歸。主人苦不悉。
比翼翔云漢。羅者安所羈。沖靜得自然。榮華何足為。
*てけとーな日本語
**訳 其の一
古公亶甫は。徳を積み仁を垂れ。思いはひろく一道にして。豳の地において、かしこい王となった。
太伯、仲雍は、王德の仁をそなえ。行きて百世に施し。斷髮し、身に刺青を彫った。
伯夷、叔齊。古の賢人。國譲りを不用として。殂首山に餓えた。
智なるかな、山甫。彼の宣王に相対す。どうして用いないのか杜伯。我が聖賢に連ねん。
齊桓の霸。仲父を得たことに頼り。後任は狡賢く。ついには蟲が戸を出でて流れた。
晏子平仲。德を積み仁を兼ね。しかし世の人は道徳を失い。必ずしも思命どおりにいくとは限らない。
仲尼の世。王國を主君と為し。制に隨い飲酒して。波を揚げて宮仕えした。
**訳 其の二
自らを惜(いた)む、身は祜(さいわい)薄く。賤しい身にして、孤独の苦に見舞われ。
既に母の愛はなく。父の教えも聞けない。
苦しみは極まり、我が身は張り裂けるよう。自らの怙(たの)むべき所を思う。
一介の志、懐くといえども。叶うは何時の日か。
今なお、貧賤のままで。嘆き悲しめば、涙は雨のごとし。
流れる涙に、悲しみはより深くなる。活路を乞うも、どこに見出すことが出来るのか。
蒼天よ、せめて我が祈りを聞け。琅邪を左に傾けよ(?)。
忠誠を尽くさんと欲すれば。帝が洛陽に帰還なさるという(?)。
快哉を叫ぶ人々を見て、溜息をつく。内なる情、述べることも得ず。
善行をあらわし、天を奉じて人を教化したい。しかし誰も知らぬ、我が思いが結ばれぬままにあることを。
我が願いが叶うは、何時の日か。この難所を前に、悲歎に暮れる。
今、我はまさに雲間から射す光に照らされている。しかし心中の怨恨憤怒は澱んで、雨のように流れることも無い。
**訳 其の三
朝日の樂を相楽しみ。宴会に酒を飲み、酔いを知らず。悲弦、新聲を激しくし。長笛を吹けば、清らかな響きあり。
弦歌は、人のはらわたに染みこみ。四坐の皆が、歓喜にいたる。寂寥たり高堂の上。すず風は我が室に入る。
満を持して盈ちぬが如く。有徳者は良い終わりを迎えるもの。君子には苦心多し。愁(うれ)う理由は、ただ一のみではない。
満ち足りぬまま、あばら家の下。吐握して失うべからず。衆賓、滿ち飽きて帰るも。主人は全うせずに苦しむ。
比翼、雲上を翔け。羅者はいずこに羈(あみ)を張るか。天地の狭間を棲家とし。榮華の何を足ると為す。
-----
*単語解説(長いよ)
ここで登場する人名は、いずれも有名なので、検索すれば出てきます。
……解説対象が多すぎんだよガッデム
**解説其の一
【古公亶甫】周文王の祖父。
甫とは「父」ともいい、古代、男性の姓の下につけて、敬称とした。(今、名字のあとに~様、とつけるようなもの)
【豳】ひんと読む。
周の地名。今の陝西省彬県一帯の古名。まさか、IMEで出てくるとは思わなかった。
【太伯、仲雍】太伯は古公亶父の長男、呉の祖。仲雍は次男、虞仲とも。
《史記》によると、古公亶甫が末弟の季歴に後を継がせたいと考えていたため、太伯と虞仲は、江南(荊、渭水)へと自ら出奔した。後に周の者が二人を迎えに来たが、二人は斷髮文身(髪を切り身に刺青を彫る)して、断った。
【伯夷、叔齊】《論語-公冶長》で聖賢として登場する。
孤竹国の王子兄弟。殷を討伐しようとする周武王を止め、殷の滅亡後は首陽山に隠れ、最後は餓死している。
【山甫】仲山甫。樊侯とも。
周宣王の臣下。周王朝中興の臣といわれた。《詩経-大雅-烝民》に登場する。
小心翼々という言葉の語源。晋盧湛《贈劉昆》「伊陟佐商。山甫翼周」。
【杜伯】山甫と同じ、周宣王に仕えた将軍。
のちに周宣王に疎まれ、無実の罪で死罪となった。
【齊桓之霸】春秋五覇の筆頭、斉の桓公。
管仲を重宝したが、管仲の死後は後任を三貴(管仲が批判した三人の臣下)に任せた結果、後継者争いの中で死後放置され、ついにはウジが扉から湧き出た。
曹操はこの人に何か思うところがあったのか、後期の作品では、よく出てくる。
【仲父】おそらく管仲(管夷吾)。潁上県の人。
斉の桓公を最初は暗殺しようとしたが、失敗に終わる。後に友人の鮑叔に推挙され、桓公を補佐した。
【晏子平仲】晏嬰。字が仲、謚が平。
身長が小さかったが、胆があり、質素を心掛けた。後世では斉の名宰相として、管仲と並び称される。
死後、「斉は田氏に乗っ取られる」という晏子の予言どおりに、斉は滅びた。
【與世沈德】
與世は「世俗」。沈德は「道徳を失う」。
【仲尼】
孔子。字が仲尼。一時、魯の国に仕えたが、憤慨して出国している。後にまた魯の国に仕え、外交官になったが、亡命している。
【隨制飲酒】
『論語』郷党編「惟酒無量、不及乱」
(酒を無量に飲み、乱れることがなかった)
【揚波】
「揚彼」ともいう。
【使官】
指名により国家間を往来する国際的な官僚。大使。
**解説其の二
【三徒】三徒は、仏教だと「三人の弟子」の意になるが、ここだと、「孟母三選」という孟母の逸話。
【庭語】孔子が庭で息子をたしなめた逸話。
【抽裂】裂いて、われる様。はりさけるよう。
【惋歎】嘆き悲しむ
【悲夫】嘆き悲しむ様。夫は助語。
【我願於天窮】
天窮の「窮」は蒼穹の「穹」、すなわち蒼天を指すとも。蒼穹のただなかで独り願う、天に祈る、そんなニュアンス。
【琅邪傾側左】
「左」は、古代地理上では「東」を意味する。地理上の中央に指南車をおいたとき、つまり人が南を向いたとき、左側は東になる。
また、楚辞に「左傾」という表現もあるにはある。
何にしても、曹操の父が殺されたことを指すものと思われ。
【欣公歸其楚】
中国の解説サイトや海外の三国志フォーラムだと以下の話によるらしいが、細かいことは不明。
《春秋穀梁傳-襄公九年》「外災不志,''此其志何也?故宋也''。」、
《春秋穀梁傳-襄公二十九年》「二十有九年春王正月, 公在楚。 閔公也。夏五月,''公至自楚''。喜之也。致君者,殆其往而喜其反,此致君之意義也。」
//歸其楚國。楚人皆不能相信爾之為人。楚之歸不得耶。歸漢去。但。漢人又聞爾之歸來而惶恐。
【抱情不得敘】
「抱情」情を抱く。「不得敘」敘を得ず。敘はしゃべる、話す。
【顯行天教人】
顯行は行いを顕わす、つまり功をあげる。天教人は天が人に教える、つまり天子が人々を教化する。
【釋銜】
心の中の怨恨憤怒を消し去る。
**解説其の三
【朝日樂相樂~長笛吹清氣】この第一解について、初学記では「題云於講堂作」
【酣】酒を飲んで楽しむ。宴会の酒。孔安國尚書傳曰:「樂酒曰酣。」
【白屋】古代の貧しく寒い棲家。転じて、寒門や平民など位の低いものをさす。
【沖靜】冲靜。天地の狭間。陰陽の交わる岸辺。陰陽が冲気を生じ、陰陽・冲気の三つの気が万物を生み出す。
【自然】自然。あるがまま。
-----
*コメント
関連:善哉行/曹丕
・其の一
善哉行は、名前どおり、「善きかな!」と賛嘆するための曲調。
単純に見るだけなら、曲に合わせて、昔の偉人を並べて嘆美しただけなんだが。
内容……褒めてるか、これ? むしろ、世の人が讃えるのを皮肉っている感じ。
「同じ聖人君子でも、時代を経るごとに周囲が悪くなってては、上手くいかない」ということかしら。
・其の二
三徒、庭語みたいに独特の言い回しがあり、細部の訳が断定できない。
古典や論文を総当りして埋めてみたが、ちょい怪しい。
最初は、「父母が無い自らを卑下した上で、自らの志を思う」
次に、「志が叶わぬまま終わるならば、せめて生きている間に、父の復讐を成し遂げようとする」
最後に、「自分の志がまだ叶っていないことを思い、溜息をつく」
この作品での「善哉」は、作品内で言う「志」と、「何らかの吉事」と考える。
「顯行天教人」、天の教えを人に広めたい、つまり「良い行い」が志。
献帝が戻ってきたことが、「吉事」。
父を亡くし、(古くからの親友に裏切られるなど)相当追い込まれていた時期なので、本来なら善き哉!と讃えるべき吉事も、素直に喜べないという内容。
・其の三
朝日樂相樂の作者は、曹操と曹丕の二通りある。
ネット上でみられる曹操作説の根拠となる書籍は《先秦漢魏晉南北朝詩》のみで、宋史、楽府詩集、漢魏六朝百三名家集では曹丕作とある。
ただ《楽府詩集(台湾)》を見る限り、曹操の作とする書があったのも確か。
>[一]武帝「朝日」:按魏文帝《善哉行》:「朝日樂相樂」,「朝日」非武帝辭,「朝日」當移至「文帝」下。
>(「朝日樂相樂」は武帝の項にあったけど、武帝の作品じゃないよ、文帝のところに移すべきだよ)
考えられるのは、「善哉行」其の三が、《古詩十九首》其の四に似ていること。
《古詩十九首》は曹操の作品と考えられていた時代があったので、その名残だと思う。
あるいは建安時代、曹操の命令により《古詩十九首》など古詩を再編する作業の中で、この作品も生まれた可能性がある。
-----
[[漢詩大会の漢詩全文/曹操]]インデックスに戻る
-----
ファイル削除不可能なので、本文のみ削除