原文

  • 曲調
周西:清商平調(宋書)、對酒:清商平調(宋書)
  • 出典
(其の一のみ掲載):《昭明文選/卷27(近デジ)》/《藝文類聚/巻42(維基)》
(其の一、其の二掲載):《漢魏六朝百三名家集(国デジ)》/《宋書/卷21/志第11樂三(維基)》/《樂府詩集/卷30/相和歌辭五(維基)(台湾)》

其一

對酒當歌。人生幾何。譬如朝露。去日苦多。
慨當以慷。憂思難忘。何以解憂。唯有杜康。
青青子衿。悠悠我心。但為君故。沈吟至今。
呦呦鹿鳴。食野之苹。我有嘉賓。鼓瑟吹笙。
明明如月。何時可輟。憂従中来。不可断絶。
越陌度阡。枉用相存。契闊談讌。心念舊恩。
月明星稀。烏鵲南飛。繞樹三匝。何枝可依。
山不厭高。海不厭深。周公吐哺。天下歸心。

其一(晋楽所奏)

對酒當歌,人生幾何。譬如朝露,去日苦多。
慨當以慷,憂思難忘。以何解愁,唯有杜康。
青青子衿,悠悠我心。但為君故,沈吟至今。
明明如月,何時可輟。憂從中來,不可斷絶。
呦呦鹿鳴,食野之苹。我有嘉賓,鼓瑟吹笙。
山不厭高,水不厭深。周公吐哺,天下歸心。

其一(藝文類聚)

對酒當歌。人生幾何。譬如朝露。去日苦多。
明明如月。何時可掇。憂從中來。不可斷絕。
月明星稀。烏鵲南飛。繞樹三匝,無枝可依。
山不厭高。水不厭深。周公吐哺。天下歸心。

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●詩経の要素が非常に多いため、詩経で検索することを推奨

【人生幾何】
《左氏伝》襄公八年「俟河之清,人壽幾何」

【譬如朝露】
漢書,李陵謂蘇武曰「人生如朝露」、または古詩十九首其の十三「年命如朝露」

【去日苦多。慨當以慷,憂思難忘。以何解愁,唯有杜康】
古詩の《善哉行》「歡日尚少。戚日苦多。以何忘憂。彈箏酒歌」

【青青子衿】
[[《詩經》小雅「子衿」。
青青を学生のことと取るなら、同じ師に付き従った弟子同士で、旧交を温める詩になる。
女と取るなら女性への歌になるだろうが、女性説は朱子など後世の説である可能性がある。

【但為君故,沈吟至今】
本辞では、この二文は存在しないとする説あり(楽府詩集)。

【呦呦鹿鳴,食野之萍。我有嘉賓,鼓瑟吹笙】
[[《詩經》小雅「鹿鳴」の一句。

【越陌度阡】
《風俗通》:南北曰阡,東西曰陌。(南北に通じるを阡、東西に通じるを陌という。)そうだが、原文未確認。
 後世の風俗通注釈本に掲載されているものを、「風俗通曰、」としているのか?

【枉用相存】
「枉用」は、仕事を無理してまで。用件を曲げてまで。

【心念舊恩】「舊恩」自体は、「以前に受けた恩。昔恩」の意。
《漢書》巻97の孝宣許皇后の項で、
「時掖庭令張賀,本衛太子家吏,及太子敗,賀坐下刑,以『舊恩』養視皇曾孫甚厚。」
とあるため、張賀(wiki)の出自(皇帝に忠誠を尽くした宦官)と併せて、解説に引用されるケースあり。

【山不厭高、海不厭深】
《管子》「海不辭水,故能成其大;山不辭土,故能成其高;明主不厭人,故能成其衆」
海は水を厭わず、ゆえによく広大となる。山は土を厭わず、ゆえにその高きをなす。
明君は人を厭わず、ゆえに人は集まる。
「厭う」は、「嫌う」「嫌がる」という感じ。その人を拒絶しないので、人も集まってくる。

このくだりを、文選、古詩源では「海不厭深」とする。
《楽府詩集》晋楽所奏、《漢魏六朝百三名家集》では「水不厭深」とする。
「水」派については、典拠を、曹丕が短歌行で引用した《論語-雍也》「知者楽水、仁者楽山~(略)~仁者寿」にするからか

【周公】
文王の子、武王の弟。甥の成王を助け、また洛陽を建設した。wikiコトバンク

【周公吐哺】
(史記・魯周公世家>http://zh.wikisource.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B7033)より
「我文王之子,武王之弟,成王之叔父,我於天下亦不賤矣。
 然我一沐三捉髮,一飯三吐哺,起以待士,猶恐失天下之賢人。子之魯,慎無以國驕人」
 これが、のちに「一飯三吐哺(一飯に三たび哺を吐く)」という故事になった。

【天下歸心】
論語素王受命讖「河授圖,天下歸心」(原文未確認)

其二

周西伯昌,懷此聖德。三分天下,而有其二。
修奉貢獻,臣節不隆。崇侯讒之,是以拘繁。
後見赦原,賜之斧鉞,得使征伐。為仲尼所稱
達及德行,猶奉事殷,論敘其美。

齊桓之功,為霸之首。九合諸侯,一匡天下。
一匡天下,不以兵車。正而不譎,其德傳稱。
孔子所嘆,並稱夷吾,民受其恩。
賜與廟胙,命無下拜。小白不敢爾,天威在顏咫尺。

晉文亦霸,躬奉天王。受賜圭瓚,秬鬯彤弓,
盧弓矢千,虎賁三百人
威服諸侯,師之所尊。八方聞之,名亞齊桓。
河陽之會,詐稱周王,是其名紛葩。

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【賜與廟胙,命無下拜】
葵丘之会(wiki(中国語))での一幕。このとき、周王の使者から「(廟胙を賜る時)堂下に降りなくて良いよ」と言われた。
「廟胙」は祭壇のひもろぎ、祭祀のとき神にささげた肉を賜る。

【小白】桓公の別名の小白か。
桓公がまだ小白と名乗っていた頃、暗殺を狙った管仲に弓で射られたが、矢が運よく腰に当たり生き延びた。このあたりの幸運な逸話も踏まえているか。

【不敢爾】あえて近づかず?
 不敢は「自信がない」といったイントネーションだった気ガス。

【咫尺】傍ら、近く。このくだりは「天子の位に近づかずとも、天意は常に顔の傍らにあった」といった感じか。
 とか悩んでいたら、元ネタの「天威咫尺」が「そば近くに仕える」の意味だそうな。(大辞林)


てけとー訳(もしくは真面目な訳へのリンク)

其の一

戦前の翻訳例


●訳したのがかなり古いため、以下は参考程度に留めてください

酒を前にさぁ歌おう、人生の残りはどれほどか。
例えれば朝露の如し、去りし日々は雨の如し。
高まりゆく悲しみの歌声、積もりし憂いは忘れ難い。
何を以って憂いを解くか、唯だ酒のみが有る。

「青青たる君の衿、悠悠たる我が心」
ただ君のために、深く吟じて今に至る。
「鹿はゆうゆうと鳴き、野の萍を食む。
我に嘉き賓客あり、瑟を鳴らし笙を吹こう」

詩経の月のように明察する賢人を、いつ採ることができるのか。
憂いは私の裡から来て、いまもなお断絶しない。
君はあぜを越え道を渡り、我が前まで来て下さった。
酒を飲み交そう我が友よ、古きよしみを心に描こう。

月明らかに星稀に、詩経のように南へ飛ぶ烏鵲。
木を三たび巡れども、寄るべき枝はどこにある。
山は高きを厭わず、海は深きを厭わず。
周公こころを捧げ、天下の心はここに帰る。

其の二仮訳

周の文王、聖徳を裡にいだき。天下三分のうち、その二を有した。
貢献おおくも、臣の節を逸脱せず。諸侯の勧めにも、忠義をまげず。
天子を補佐し、軍事権を意味する斧鉞を賜るも、異民族征伐のために使った。
だから孔子も論語で文王の徳行に触れ、なお殷に仕えたことを褒め称えた。

斉の桓公は功をあげ,春秋五覇の筆頭となる。諸侯を糾合し,天下をひとつにまとめた。
天下を一つにまとめる時,兵車を用いず。正にしていつわらず,その徳は伝説となった。
孔子の嘆ずるところ,「並みいる異民族を打ち払い、民は其の恩を受けた」
堂に登り胙を受ける時も、堂下に降りて拝礼し。天子にかわることなく、天意の傍らにあった。

晋の文公も覇をとなえ,天子である周王を奉じた。圭瓚,秬鬯彤弓,盧弓矢千,虎賁三百人を受け賜わった。
その威に諸侯は屈服し,文公の軍を尊んだ。八方これを聞き,名を斉の桓公と並べ称した。
しかし文公は河陽の地に集い,狩りと詐称して周王を呼んだ,これで後世の評価は入り乱れた。


コメント:短歌行

其の一の日本語訳&解説 / 其の二の解説
関連:《詩經》小雅「子衿」 / 《詩經》小雅-鹿鳴 / 「短歌行(曹丕)

 『短歌行』本辞は、其の一、其の二がある。

 其の一について、今のところ知っている主なVer.は以下のとおり(他にも細かい派生はある)。

○作者について:現存している作品が、曹操の読んだ本辞であるという保証はない
 A)曹操
 B)曹操を主とする、宴会の参加者
 C)曹操が作った作品を、後世の人が弄った

○知られているバージョンについて
  • 文選版(今よく知られている文)
  • 魏晋楽所奏(宋書楽志だっけ?、楽府詩集等。文選版と並びが違う)
  • 藝文類聚版(文選版から詩経の要素を排除)
  • その他、明明→皎皎または皎明など、微妙に補正されたもの

○解釈
1)荊州で劉備を破り、意気軒昂として歌ったもの(一般的な説)
2)曹操が奇数句、部下が偶数句を歌った(現在の一仮説)
3)自分の公就任に関し、人材や配下を求めるもの(黄節箋1)
4)荀彧に対し、旧知のつながりと、自分の公就任に対する理解を求めたもの(黄節箋2)
5)呉への呼びかけから始まり、状況の変化によって頻繁に書き換えられた(蘇東坡の赤壁賦などからの仮説)

1)劉備関連脱は、劉備があちこちを放浪していることを指す。
 南へ飛ぶかささぎを劉備に、木を三たび巡っても拠点が無いと例えている(以下のリンク先の左下部分など)。
 ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898785/46

1)に対して出た意見
 「烏」は親子の志の繋がり、「鵲」は七夕や離ればなれの恋人を繋ぐ架け橋を意味するかささぎだと考えられる。
 だとしたら、曹操の一族と劉備の間に、結婚絡みの明らかな記録があったっけ?
 本来の對酒當歌は、劉備と関係ないのでは? 過去の説は、演義や蜀漢正統論に引きずられていないか?
 …という感じで、蜀漢正統論の見直しと共に?2)以降の説が、改めて見直されたのかな。
(この辺は判らない点も多いので、ご存じのかたがいらしたら解説お願いします)

2)は、「大学の教員によるミニ講義 短歌行」でググれぱ紹介ページが出るので、そちらに。
3)かささぎを、人材欲求に絡めた例えとして解釈したもの。
4)荀彧は曹操と古い繋がりがあり、子が曹操の娘と結婚しており、後に曹操の公就任に関して対立したという説がある。對酒當歌は、荀彧との仲を修復するために詠んだ説。
5)まず、孫氏は曹操の氏族と複数の婚姻関係にある。
  • 曹操の妹が孫匡の妻
  • 曹操の子(曹彰)の妻が孫賁の娘。
  • 上記の孫賁は曹操が荊州を破った時、人質を出して帰順しようとしている。人質が女性なら、3回の婚姻、つまり「三匝」。
 この動きを受けて、赤壁時に對酒當歌が作られたとすれば、1)劉備説とも並立する。

 また、阮瑀の「為曹公作書輿孫権」は、身内が曹操と婚姻関係にある孫権が、劉備と婚姻関係を結ぼうとしていることに対して送られたと言われる(劉備にも手紙を送っているらしいが、殆ど残ってない)。内容は、負け惜しみを言いつつ、何だかんだで孫権との誼を強調している。
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2551360/12
 この書内の鄭武というのは韓非子などに登場する話で、鄭の武公が胡に子を嫁がせ歓心を買った後、胡を討伐せよと進言した臣下を殺した。これによって胡が油断して鄭への備えをしなくなった所で、鄭は胡を滅ぼした。
 「曹操が婚姻で孫権を騙そうとしていた」と天下が噂するのを恐れるのは、逆に「孫権が婚姻で曹操を騙した」と疑っていることの裏返しでもあるか?
 とまぁ阮瑀「為曹公作書輿孫権」は、古い誼、婚姻関係、現在の対立などの内容がひっかかる。
 この視点から對酒當歌を解釈すると、以下のような感じ。

藝文類聚版
1 對酒當歌。人生幾何。譬如朝露。去日苦多。
2 明明如月。何時可輟。憂從中來。不可断絶。
3 月明星稀。烏鵲南飛。繞樹三匝,無枝可依。
4 山不厭高。水不厭深。周公吐哺。天下歸心。

  • 対酒~
 人生のはかなさに対する憂い
  • 明明月光~
 月光=曹操政権をいつ完全なものにできるのか。憂いは止むことが無い。
  • 月明星稀~
 かささぎは七夕、天の川に架かる橋として知られる。曹一族と孫一族の婚姻関係を指す。
 明るい月=曹操と仲良くするのが良いことは明らかだ。
 カササギが依る場所を見つけられない=曹氏と何度も婚姻を結んだ孫家が、長江に、魏との間に橋をかけるのは何時か。
  • 山高不厭~
 いかな困難も拒否するな。周公が天下を従えたように、江南の心を従えよう。

 その後、魏晋代に對酒當歌の改変があった。タイミングとしては、

○孫権が臣従した時
○曹丕の代
5)説なら、鹿鳴の解は、曹丕短歌行では親から子への教えを意味する。為曹公作書輿孫権では、呉王夫差がたてた姑蘇台は、子鹿の遊び場となった。子鹿たる私が呉を征服し、遊び場としよう。曹丕が呉への動きを見せたのも、短歌行を曹操の陵に対して奏でたのも、曹操に対し呉への恨みは忘れないという宣言。
○晋代

 つまり對酒當歌は魏晋代に何度か書き換えられたという説もあり、解釈も一筋縄ではいかなかったりする。


 其の二については、《昭明文選》には掲載されておらず、《宋書》、《楽府詩集》に出てくる。
 《宋書》では、其の一と其の二が逆なので、当初は其の二→其の一が正しい順番だったかも?
 二首のうち、其の一だけが晋楽所奏の形式と共に伝わり、後世で楽府の代表格のひとつとされるほど有名になった(”《樂府解題》曰:“《短歌行》,魏武帝‘對酒當歌,人生幾何’,晉陸機‘置酒高堂,悲歌臨觴’,皆言當及時為樂也。”)模様。

 人材を求める志を読んだとされる一首目が有名だが、全文を通して読むと、作者の思考や精神の複雑さが伺える。
 一首目は、積もる憂いのなかで、旧友?との再会を喜び、周公の逸話で終わる。
 二首目は、3つの構成からなる。
 天子の権限を預かりながら、なお臣であり続けた周文王。
 己の徳と才で天下をすべ、天子の権限を預かっても使用しなかった斉桓公。
 天子から多くを預かり、さらに天子=天を騙した晋文公。

 孫盛の記録では、臣による帝位就任の奏上に対し、曹操がこのように述べたとされる。
「もし天命が吾にあっても、吾は周の文王となろう」
 この一文と、当時の他の作品(王粲の公讌詩など)から、曹操は己を周文王になぞらえたとされる。
 実際に残っている作品や記録を見ると、確かに、曹操は己を、周公、斉桓公をはじめ、様々な古人になぞらえている。
 しかし、周文王は、曹操の記述にあまり登場しない。この作品ぐらい?
 回りの文章は様々だが、曹操本人は、己をいったい何になぞらえていたのか?

 さらに、晋文公のくだりについては、一種の韜晦を感じられる。
 曹操が漢の名声を利用した一方で、当時は袁兄弟の話に見られるように、皇帝軽視の風潮も存在した。
 後に、曹魏の皇帝は、臣下に廃され、あるいは殺され、「晋」という王朝によって終焉を迎えた。
 この皮肉に満ちた未来さえ、繰り返される歴史として曹操は認識していたかもしれない。

 其の二の解説にあるように、また魏王朝をみるに、曹操は新時代の創造者になりきれず、後漢の気風に縛られた一面もある。
 限りなく天に近い才人の、己の限界を知る故の虚無と寂寥。
 『短歌行』第二首の節々にたゆたう棘が、『短歌行』第一首の憂いをより深めている。

●追記(12/12/22)
 まず、曹操の短歌行は、少なくとも2つ現存している。其の一は有名な「對酒當歌」、其の二が「周西伯昌」。
 この「周西伯昌」の最後の「晋文」が、司馬氏による「晋」王朝、司馬懿の当初の諡号である「文」と一致している。

 で、前に「周西伯昌」を訳したときは、(まぁ偶然だろうが、当時も気づいた人はいただろう。
 晋書宣帝紀の「曹操は夢を見て、司馬氏がいつか曹氏に取って代わると予言した」という話は、こういう話から生まれた寓話かもなぁ。
 晋書のオカルトも、元ネタが有るならバカにできんぞ)、という所で止まっていた。

 ところが、2chの「三国時代の文学スレッド」で、話の流れから「周西伯昌」を紹介したところ、「司馬昭が、晋公の称号をいったん断っている」「司馬懿の諡号を変えるよう上奏している」という指摘を頂いた。
 つまり、「周西伯昌」が、実際に、魏晋禅譲の流れに影響を及ぼしている可能性が出てきた。
 該当スレへのリンク

 この問題に対し、文学スレッドで、「周西伯昌」側からのアプローチと、「司馬懿の諡変更問題」側からのアプロ-チを行った。
 以下抄訳

▼「周西伯昌」における、2つの謎
1)史書の掲載
晋書楽志に「周西伯昌」は掲載されていない。宋書については、この作品だけ順番が逆。
2)「周西伯昌」に込められた志
曹操の作品は楽府、人前で奏でることを前提に作られた。
また、短歌行は、曹丕が曹操の追悼に使ったタイトルであり、重要な曲。
曹操が重要な曲を使って歌い上げる必要があった「周西伯昌」の志は何か?
漢魏禅譲にまつわる曹操の志をこめたという説がある。

▼「司馬懿の諡変更問題」
 嘉平三年秋八月、司馬懿が死去したとき、安平郡公を贈られ、諡は文とされた。

 正元二年、司馬師の死去後、司馬昭が「司馬懿の文、司馬師の武の諡を変えるよう」上奏。
(晋書から引用)
「臣亡父不敢受丞相相國九命之禮,亡兄不敢受相國之位,誠以太祖常所階歴也。今諡與二祖同,必所祗懼。
 昔蕭何、張良、霍光咸有匡佐之功,何諡文終,良諡文成,光諡宣成。必以文武為諡,請依何等就加。」
(「(司馬昭の)亡父(司馬懿)は丞相、相国、九命の礼をあえて受けず、亡兄は相国の位をあえて受けなかったのは、まこと太祖(曹操)がつねづね地位の区別をしていたからです。いま諡号が(魏の)二祖(武帝、文帝)と同じであり、父も兄も必ず恐懼するでしょう。
 むかし蕭何、張良、霍光は補佐の功がありましたが、蕭何は文終と諡され、張良は文成と諡され、霍光は宣成と諡されました。どうしても文武という諡を頂けるのであれば、蕭何ら(の前例)によって(文字を)追加なさいますよう」
 詔勅により許され、(司馬師は)忠武と諡された。

 次に、景元四年冬十月、司馬氏の功を称え、晋公とする詔の一文。
故齊魯之封,於周為弘,山川土田,邦畿七百,官司典策,制殊羣后。惠襄之難,桓文以翼戴之勞,猶受錫命之禮,咸用光疇大德,作範于後。
(斉・魯の封地は、周において広くなり、~。(周)恵襄王の難のとき、斉桓公・晋文公は国を助けた労をもって、錫命の礼を受け~)
 司馬昭は死後、晋文と贈名された。
 司馬一族は、本来ならもっと早くに、由緒正しい晋文を名乗りたかったが、曹操の「周西伯昌」が邪魔だった。そこで曹操が別々に分けた斉桓・晋文を、曹魏の皇帝に同等のものとさせることで、晴れて晋文を名乗れた、ということも出来てしまう。

 個人的にはやや懐疑的。
 晋書のうち、司馬師の斉王廃立等の内容が《漢書》霍光の記述に似ており、晋もしくは後世の意図が入り込んでいる可能性があるため。
 晋書以外の資料(三国志正史、当事者の手紙等)を調べた上で、諡を決めたのが誰か、こうしたシナリオを誰が作ったか、分析する必要があると思う。

●晋の称号について
 司馬一族の出身地は春秋時代の晋に属するので、禅譲を受けるなら、よほどの事情がない限りは、出身地の国号である晋を名乗ることになる。
 戦国時代の魏は、春秋時代の晋から分裂して出来た。これは司馬晋の、曹魏に対する優位性を示せる事項であり、問題にならない。
 王朝の名称は、魏晋代まで国号=出身地、本拠地という一定の法則がみられるが、これが六朝以降、必ずしも本拠地とは限らなくなるのは、単に異民族の王朝だったからか?
 ちなみに中国の王朝は、北「魏」の後、隋、唐と続く。唐という国号は、春秋戦国時代の「晋」の旧国号でもある。

 以上、備忘録として纏めておく。誰かやってくれるなら歓迎。

 下手すると「周西伯昌」は、漢魏と魏晋、2度の禅譲に影響した作品ってことになってしまう。実際にそうなのか、どうなのか。
 いずれにせよ、「周西伯昌」がもってしまった歴史的意義は、作者の意図や後世の想像以上に重いかもしれない、というのが現時点での感想。



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最終更新:2019年01月31日 06:03