原文

【其一】

堯任舜禹,當復何為。百獸率舞,鳳凰來儀。
得人則安,失之則危。唯賢知賢,人不易知。
歌以詠言,誠不易移。鳴條之役,萬舉必全。
明德通靈,降福自天。

【其二】

朝與佳人期,日夕殊不來。
嘉看不嘗,旨酒停杯。寄言飛鳥,告余不能。
俯折蘭英,仰結桂枝。佳人不在,結之何為。
從爾何所之,乃在大海隅。靈若道言,貽爾明珠。
企予望之,步立躊躕。佳人不來,何得斯須。

【其三】

泛泛綠池,中有浮萍。寄身流波,隨風靡傾。
芙蓉含芳,菡萏垂榮。朝采其實,夕佩其英。
采之遺誰,所思在庭。雙魚比目,鴛鴦交頸。
有美一人,婉如清揚。知音識曲,善為樂方。

其の一

堯は舜と禹を任じ これ以上何をする必要がある
百獣は群れて舞い 鳳皇は来たり儀をただす
人を得れば何をなすにも容易く 人を失わば危険がおとずれる
ただ賢人のみが賢人を知り 才は他人は知られにくい
歌を以て想いを詠言するも 誠実な行動に移すことは難しいけれど
鳴條の戦いのように 聖人の萬の行いは必す全うされる
明徳は霊に通じ 天はおのずと福を降らせる

其の二

朝に佳人と会うを期すも 夕方来ずに立ちつくす
嘉き肴も手をつけず 旨き酒杯をとどめる
飛鳥よ言葉を伝えよ 余は待ちきれぬと告げよ
俯いて蘭英を折り 仰ぎて桂枝を結ぶ
佳人在らざれば 枝を結ぶも何のため
君に従い赴けば 今頃は大海の隅にいて
海神霊若と道術を語り 明珠を貰っていたのだろう
首背を伸ばしてこれを望み 立ちあるいて躊躇する
佳人来たらず どうして私は暇なのか

其の三

広々たる緑池の 水中に浮草あり
流れる波に身を寄せ 風に随いなびき傾く
芙蓉は芳しきを含み 蓮華は栄を垂る
朝にその実を採り 夕に其の英を佩びる
採ったら誰に贈るか 思う所は庭に在り
双魚は目を比し 鴛鴦は頸を交える
美しきひとり有り 婉如にして清揚
音を知り曲を解し 善く音楽の則を修める


単語

【鳴條之役】
 殷の湯王が夏の桀王を破って新王朝をひらいた戦

【佳人】
 直訳すれば「よき人」だが、具体的に誰をさすかは諸説あり。
 思いを寄せる美女か、覇道を手助けする賢人か。

【折蘭英、結桂枝】
 中国では、蘭、梅、竹、菊とあわせて「四君子」と呼ぶ。
 蘭英がいわゆる「蘭」か、秋の七草の一つである「蘭草(フジバカマ)」か、どっちなのかは不明。
 屈原「楚辞」のうち、離騷経に『結幽蘭而延佇』、九歌‧大司命に「結桂枝兮延佇,美愈思兮愁人」とある。

【有美一人,婉如清揚】
 野有蔓草(詩経-国風-鄭風)「有美一人,婉如清揚」


コメント

 関連:秋胡行(曹操)/古詩十九首 其の六/野有蔓草(詩経-国風-鄭風)

 ポイントは、佳人が来ないためにゆれ動く作者の心情。

 相和歌·清調曲に属する。
 朱乾《樂府正義》ではこの詩を『魏文思賢之詩』と記している。
 其三は、内容が「善哉行」「古詩十九首/其の六」と似ていることもあり、維基文庫では本当に秋胡行其の三扱いかどうか、異論がある?模様。
 まぁ古詩の方は「誰も居ない」悲しみを歌っているのに対し、こちらには「池に誰かが居る」救いがあるが。

 ついでに言うと「秋胡行」は、昔、魯の国に秋胡という人物がおり、その妻の貞操を称えて作られる漢詩。
《西京雜記》《列女傳》と作品によって違いはあるが、大抵は以下のようなストーリー。

新婚の夫が、妻を置いて単身赴任
 ↓
数年後、夫は出世して郷里に戻る。
桑畑で見かけた女性に、正体が自分の妻と知らず、結婚を申し出る(妻は貞操を通す、義母に尽くすため等と断る)
 ↓
家に戻り、お互い夫婦と気づく。妻、夫の不義を恥じて、河に身を投げる

 現在の京劇では、母親が仲介して仲直りする、ハッピーエンディングになっている様子。
 この古典から思ったことを詠むのが、後世の形式らしい(作品例

 曹操、曹丕はもちろん、曹植も「秋胡行」という題で漢詩を詠んだという。
 曹植の原文は見つからない(「魏徳論」のことか?)が、親兄弟そろって、別れ、口説き等の骨格だけ採用し、原典をごっそり無視しているのが共通点。
 後世ではこういう突っ込みもある。

 《廣題》:“曹植《秋胡行》,但歌魏德,而不取秋胡事,與文帝之辭同也。
 (曹植の秋胡行だけどさ、魏の徳ばっか詠ってて、秋胡の逸話はちっとも取り上げてねーぞ。文帝の秋胡行も同じだゴルァ)

 ただ現存している秋胡行のうち曹操の詩が最古であり、この三人がルールを守らないのか、「原典を踏まえて読む」ルールが成立していなかったのかは不明。
 まぁ、元ネタを踏まえた上で、曹操や曹丕の秋胡行を深読みすると、豪壮な景観やのどかな日常の裏に、とたんに複雑な陰影がまとわりつくっつー面もある、かな?



最終更新:2019年01月31日 06:08