「蒿里」


蒿里誰家地、聚斂魂魄無賢愚、鬼伯一何相催促、人命不得少踟躕。

この荒れ果てた里は、誰の家地ですか。集まった魂、埋められた肉体に賢愚の差は無いのです。鬼伯は彼らに何を催促し、人の命は安息の地を得られず彷徨いつづけるのですか。

【踟躕】徘徊するさま。

関連:曹操【蒿里行】


「枯魚過河泣」

枯魚過河泣、何時悔復及。作書与魴鱮、相教慎出入。

干魚が河を渡りつつ泣いている。後悔は先にたたず。
お手紙かいて仲間に配った、「互いに教えあって出入を慎みなさい」

「枯魚」は魚の干物 。
釣られて悲しいので、魚仲間に「怪しい所を教えあって、釣られるな」と手紙を書いた。古代中国のドナドナ+α?
楽府詩集·卷七十四·雑曲歌辞十四


「悲歌」


悲歌可以當泣,遠望可以當歸。思念故郷,鬱鬱累累。
欲歸家無人,欲渡河無船。心思不能言,腸中車輪轉。

泣く代わりに悲しみを歌おう。帰れない代わりに遠くを望もう。故郷を思えば、木が鬱鬱とするように心が沈み、山が累累と連なるように悲しみも連なる。
帰りたくとも家に人は無く、河を渡ろうと欲しても船はない。心の思いを言うこともできず、せめて胸の中で車輪を故郷へ向けて転じよう。

 悲歌行ともいわれる。


「西門行」

アーカイヴ版 p87
解説
本辞と晋楽所奏の二通り。晋楽所奏版の訳は、解説参照。
 晋楽所奏は後半部分が五言ないし七言で揃っているのに対し、本辞は不ぞろいなので、晋楽所奏より作成時期は古いと思う。一番古い型かどうかは不明。

出西門,歩念之。今日不作樂,當待何時。
逮爲樂,逮爲樂當及時。何能愁拂鬱,當復待來茲。
醸美酒,炙肥牛。請呼心所懽,可用解憂愁。
人生不滿百,常懷千歳憂。晝短苦夜長,何不秉燭遊。
遊行去,去如雲。除獘車、羸馬為自儲。

西門を出て、歩きながら念じた。今日楽しまなければ、次の楽しみはいつのこと。
楽しい事をするなら、楽しい事をするならまさに今。何を悶々と愁い悩み、次の機会を待つのかい。
美酒を醸そう、肥牛を炙ろう。願わくば心に喜びを、かなうならば憂愁を解こう。
人生は百年にも満たず、常に千年先への憂いをいだく。
昼は短く夜の長きは苦しく、なにゆえ燭を手にとって遊ばない。
遊行して去り、去ること雲のごとし。潰れた車をどかせば、弱った痩せ馬も大儲け。

【獘車】壊れた、潰れた車
【羸馬(るいば)】弱った痩せ馬


「戦城南」

出典:《宋書》樂志、《樂府詩集》十六
原文:《宋書(国立公文書館の原文を、IA及び維基と突合せ)》

戰城南。死郭北。
野死不葬烏可食。為我謂烏。
且為客豪。野死諒不葬。腐肉安能去子逃。
水深激激。蒲葦冥冥。
梟騎戰死。駑馬裴回鳴。
梁築室,何以南?梁何北?
禾黍而穫君何食。願為忠臣安可得。
思子良臣。良臣誠可思。
朝行出攻。莫不夜歸。

  • 訳の一例
城南にて戦い。郭北に死に。
野に死して葬られることなく烏が食らおうとしている。我が為に烏に謂(い)う。
「しばし侠客らのために任侠心を出してくれ。野に死してまこと葬られず。腐肉がどうしてお前から逃げるものか」
水は深く激しく波打ち。蒲葦は鬱蒼として戦地を覆いかざす。
恐ろしい敵も、勇敢な味方も死に絶えて。駑馬はさまよって鳴いている。

梁をもって廟を築こう、どこが『南』か、梁は『北』を向いているか?
(または:梁(かけ声)廟を築こう、どこが『南』か、梁(かけ声)『北』を向いているか?)
禾黍だけが獲れたところで、君主だけでは封禅の儀は行えない。願わくば国の柱臣たらんとする者を、どのように得るか。
子の良臣たるを思う。良臣を心から思わずにはおれぬ。
まこと良臣たらんとするならば、朝に行きて攻め出でて。夜には必ず帰り来よ!

  • 単語の意味メモ
 戦城南は楽府のうちひとつである。楽府は、前漢武帝の代から発達した。
 おなじ武帝の代には、董仲野の助言などによって、儒教の影響が強まっている。
 よって、ここでは《詩経名物集成(国デジ)》などで掲載されている詩経(儒教)、漢代における意味を中心として掲載。

【烏】
 外見では雄雌老若の見分けがつかないもの、徳人のもとに集まる民などの喩え。
 周だと火の赤鳥は君主の徳を称える吉祥で、火徳の漢とも対立しない。楚辞や准南子だと、太陽と関係する。
 この時代、烏は不吉なのか? 何故ここで烏を用いたか?

+ 以下引用
国デジ>http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2557296/8
詩経北風「美黒匪烏」→黒くなければ烏ではない(烏が必ず黒いように、衛の役人は全て悪人)
詩経正月「瞻烏爰止、于誰之屋」→屋=烏の集うところ、烏は富人の家に止まり食を求める。同じように民も明君のもとに集うもの
「瞻烏爰止、誰知烏之雌雄」→鳥の雌雄を見分けがたきが如し

小爾雅「純黒而及哺する者謂之烏と是なり」
古今註「孝鳥、玄鳥」、典籍便覧「哺公鳥」、後漢天文志注「陽精」単子藻林「陽鳥」、本草綱目「慈鳥 烏鴉の二種あり」
朱註「烏鵜黒色皆不祥之物入所悪見者也」、准南子精神訓「日中有渡鳥」楚辞の太陽の烏から「楚烏(鳥)」

晋鼓吹曲の伯益《古今樂錄》曰:「《伯益》,言赤烏銜書,有周以興,今聖皇受命,神雀來也。」
《史記-周本紀》「武王俯取以祭。既渡, 有火自上復于下,至于王屋,流為烏,其色赤,其聲魄云。」
(台湾での注釈)(漢の)馬融曰:「王屋,王所居屋。流,行也。魄然,安定意也。」鄭玄曰:「書說云烏有孝名。武王卒父大業,故烏瑞臻。赤者,周之正色也。」

【且為客豪】《古詩源(国デジ)》では「死者の為に侠気を出して食わぬようにしてくれ」

【豪】または彊(強)、俠、健、俊の意味
+ 以下引用
《康熙字典》「《廣韻》俠也。《史記-信陵君傳》平原君之遊徒豪舉耳」
維基、台湾で時代を絞って検索
管子/第八十篇 輕重甲「故封遷食邑,富商蓄賈,積餘藏羨,跱蓄之家,此吾國之豪也
「吾祖迈明徳,結客豪長者。」「有金母,投壺玉女為客豪。」

【腐肉安能去子逃】《古詩源(国デジ)》では「(子は)烏に就いて曰ふ」

【梟騎戰死】梟騎は勇敢な騎兵。異民族の騎馬隊。梟は健、勇敢。《楽府詩集》では、「梟騎戰●死」、●部分に欠字があるとする
+ 以下引用
国デジ>http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2557296/13
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2557296/26
「古注云梟鴟悪声之鳥 同見鴞下」
大雅-瞻卬、陳風-墓門、魯頌-泮水
師古曰:「梟謂最勇健也。」
  • 漢書/本紀高帝 劉邦
 北貉、燕人來致梟騎助漢。(注釈)應劭曰:「北貉,國也。梟,健也。」張晏曰:「梟,勇也,若六博之梟也。」
  • 漢書/郊祀志第五上
 於是管仲睹桓公不可窮以辭,因設之以事,曰:「古之封禪,鄗上黍,北里禾,所以為盛; 江淮間一茅三脊,所以為藉也。 東海致比目之魚, 西海致比翼之鳥。 然後物有不召而自至者十有五焉。今鳳皇麒麟不至,嘉禾不生,而蓬蒿藜莠茂,鴟梟羣翔, 而欲封禪,無乃不可乎?」於是桓公乃止。
 (注釈)師古曰:「蓬蒿藜莠,皆穢惡之草。梟,不祥之鳥也。鴟,蓋今所謂角鴟也。梟,土梟也。」

 桓公が封禅の儀を行いたいと言った時に、管仲は不祥の鳥である梟を例のひとつに挙げて、止めている。
 戦城南では、この梟が死に絶えている。つまり、皇帝が天を祭るにあたり、障害が取り除かれた状態。
 また、封禅の儀には「鄗上黍」「北里禾」が必要だと言っている。すなわち、戦城南での【禾黍】。

思悲翁(戦城南と同じく、漢鼓吹鐃歌のひとつ)
「思悲翁,唐思,奪我美人侵以遇。悲翁也,但我思。蓬首狗,逐狡兔,食交君。梟子五,梟母六,拉沓高飛暮安宿。」

【駑馬】足がのろい馬。凶年にはこの馬に乗って、いけにえをもって祀る
この作品では乗り手が居ないから、徘徊していると解釈。凶年ではない、乗るべき人物が居ない。
+ 以下引用
戰國策、荀子、韓非子等
《周禮/夏官司馬/馬質(台湾)》「馬量三物。一曰戎馬。二曰田馬。三曰駑馬。」
《禮記》「孔子曰:凶年則乘駑馬,祀以下牲」礼記曲禮でも見た気がする。
《史記/刺客列博/荊輌(台湾)》
臣間男其額盛壮之時,一日而馳千里;至其衰老,駕馬先之。

【梁築室】《古詩源(国デジ)》死者とは棟梁の材なり廟堂にも用ひうる筈なりきと也
室は上記から考えるに、死者を祭る廟であると同時に、天を祭る封禅の儀の廟。
《至廣陵於馬上作/曹丕》「興農淮泗間。築室都徐方」

梁は掛け声との説あり。粱(コーリャンのリャン)とかける?
《楽府詩集(台湾)》注釈「兩(梁)字是表聲字。」
同じ漢鐃歌の翁離「擁離趾中可築室,何用葺之蕙用蘭。擁離趾中。」

【禾黍】穀物。黍は五穀の長? 上記のとおり封禅の儀に使うもの。殷の箕子が詠んだ詩。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2557295/41
《史記-宋微子世家》
「其後箕子朝周,過故殷虛,感宮室毀壞,生禾黍,箕子傷之,欲哭則不可,欲泣為其近婦人,乃作麥秀之詩以歌詠之。
其詩曰:麥秀漸漸兮,禾黍油油。彼狡僮兮,不與我好兮!」

【穫】ここでは収穫の意と解釈。
+ 以下引用
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2557295/89
植物の一種とする説あり。詩経大雅大東(七夕絡みの内容)。種木名。本草綱目「榔楡(アキニレ)」
→《毛詩草木鳥獣蟲魚疏》
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2555651/118
「無浸穫薪 穫今榔檎也」同注「古刻は穫に非ず」。
Twitterでときどき三国時代の侯の字は、今と違い右上の「ユ」の字が大きかったと言う画像が出るが、穫も同様に草冠が大きかった?
→「而」に、名詞、而、名詞の使用例はあるか?
→基本的に形容詞、動詞、節。名詞が前に来ることは少ない。よって名詞とは考えにくい。

【莫】説文解字を知っていれば常識レベルかもしれないが、日没後のうすくらい状態を示す「暮」を意味する(こともある)。
本来は「莫」が暮の意味だったが、のちに発音から「無い、無」としての意味が与えられたため、本来の莫の意味を持つ「暮」という字が作られたという説もある(白川静氏の字統など)。

+ この詩の考証
A)同じ単語の繰り返し、対比が使われている。繰り返しは見てのとおり、対比は以下のとおり。
1 南=戦、北=死
2 野死諒不葬、良臣誠可思
3 前半と後半
 前半 後半
 野死不葬烏可食 禾黍而穫君何食
 為我謂烏。且為客豪。野死諒不葬。腐肉安能去子逃。  為忠臣安可得。思子良臣。良臣誠可思。
 鳥騎=死 駑馬=徘徊鳴

B)二つの解釈
 戦城南は二つの解釈が存在する様子。
 一つは軍歌(おそらく上記の宋書の戦城南)、もう一つはのような反戦歌。
 この戦城南をはじめ漢曲は誤字が多かったらしく、《古詩源》では「誤が多いから、載せるべきものだけ掲載する」とまで書かれている。

《楽府詩集》《古詩源》版
戰城南。死郭北。野死不葬烏可食。為我謂烏。
「且為客豪。野死諒不葬。腐肉安能去子逃」
水深激激。蒲葦冥冥。梟騎戰門死。駑馬徘徊鳴。
'築室。何以南何北'。'禾黍不穫'君何食。願為忠臣安可得。
思子良臣。良臣誠可思。朝行出攻。'暮不夜歸'。

《古詩源(国デジ)》
「漢鼓吹鐃歌十八曲。字に訛誤(かご)多し。故に其の誦すべき者のみを禄す」

 宋書版との違いとして、禾黍を収穫できない、最後で兵士が帰ってこないことがあげられる。
 どちらが先に出来たかは、判らない。
 漢の楽府が各地から集めた詩を改変した? 後で改変された?

《樂府古題要解-戰城南》唐代呉兢を見ると、同じタイトルでも、版によって内容が違う。…初版というか、最古の版を探して検証しろってか?
(維基版)「右:其詞大略言"戰城南,死郭北",野死不得葬,為烏鳥所食,願為忠臣,朝出攻戰而不得歸也。」
(国デジ版)「右其詞、大略言、戰城南、死郭北、野死不得葬、為烏鳥所食、願為忠臣、朝出攻戰、而不得歸也」

 なお宋書楽志によると、戦城南は漢鼓吹鐃歌のうち一曲とされる。
 楽府詩集によると、鼓吹鐃歌とは鼓吹曲(短簫鐃歌)。
蔡邕《禮樂誌》曰:“漢樂四品,其四曰短簫鐃歌,軍樂也。黃帝岐伯所作,以建威揚德、風敵勸士也。”
 要は支配者が士気高揚を目的として作成した軍楽曲であり、だからこそ魏、呉、晋以降も、この戰城南を元に曲を作ったのだろう。

《晉書·樂誌》曰:“改漢《戰城南》為《定武功》,言曹公初破鄴,武功之定始乎此也。”
《古今樂錄》曰:“《克皖城》者,言魏武誌圖並兼,而令朱光為廬江太守。孫權親征光,破之於皖城也。當漢《戰城南》。”
古《戰城南行》。《古今樂錄》曰:“《景龍飛》,言景帝克明威教,賞從夷逆,祚隆無疆,崇此洪基也。”

 為政者への恨みを、歴代政権が軍楽曲にすることは考えにくい。
 このことから戦城南は、支配者が、悲惨な戦で死んだ将兵を弔い、もって忠臣を求める内容とみなす。

 ただ、このあたりの考え方を突き詰めると、他の漢鼓吹鐃歌は軍楽歌なのか?という問題が発生する。
 《有所思》のように浮気した旦那を恨みたくとも恨めない、といった解釈がなされる歌も存在する。
 仮説として、幾つか考えられるが、まあこの辺は場を改めて。

  • 漢鼓吹鐃歌は、もともと何曲だった?
《古今樂錄》曰:「漢章帝元和中,有宗廟食舉六曲,加《重來》《上陵》二曲,為《上陵》食舉」(《上陵》も漢鼓吹鐃歌のひとつ)



「上邪(上雅)」

我欲与君相知、長命無絶衰。
山無陵、江水為竭、冬雷震震、夏雨雪
天地合、即敢与君絶。

天よ互いを知り合おう 想いは絶え消ゆる事なく
山の陵が平らとなり 江の水も枯れ果てて
陰冬の空に陽雷が轟き 陽夏の地を雪氷が覆い
天地一つとなって 貴方と共に踵をあげよう

シンプルなので、中国でも人気がある古典。「上邪≒天ロ馬!≒天よ!」という感じらしい。
ただ、「戦城南」と同じで、元は軍歌だという話もある(《楽府詩集》等)。
その場合は「いかなる困難も乗り越え、君のために戦おう」という感じになるのかしら。
なお江戸幕府教育機関の文書(国立公文書館所有)に、この上邪を「上雅」とする記述がある。参考まで。


おまけ「善哉行」

来日大難。口燥脣乾。今日相樂。皆當喜歡。
經歴名山。芝草翻翻。仙人王喬。奉藥一丸。
自惜袖短。内手知寒。慚無靈輒。以報趙宣。

月没参横。北斗闌干。親交在門。饑不及餐。
歡日尚少。戚日苦多。以何忘憂。彈箏酒歌。
淮南八公。要道不煩。參駕六龍。游戲雲端。

一日が来るたびに大難に苦しみ。口喉は焼け付き、唇も乾く。今日だけはお互いに楽しみ。皆で歓喜を共にしよう。     
名山を巡り歩けば。香草が風に波立ち。仙人の王子喬に。仙薬一丸をもらえるだろう。
我が袖が短いったらありゃしねぇ。腕手が冷えるったらありゃしねぇ。恥ずかしいことに、霊輒のような気概もねぇ。趙宣に報いることもできやしねぇ。

月が沈み、参宿の星座も傾き。北斗の星々はあんな鮮やかだというに。親友が門前に現れても。食料が乏しく、宴会を設けるようなこともできない。
歓喜に満ちた日々は貴重で。憂う日々、苦しみだけが多い。何をもって憂いを忘れるか。琴を引けや飲めや歌おうや。
淮南王の食客8人は。煩わされることなく神仙の道を往き。ついには六龍の馬車を馳せ。雲の果てに遊んだというじゃまいか。

【經歴名山。芝草翻翻。仙人王喬。奉藥一丸】
曹操秋胡行「經歴名山」「王喬」

【趙宣】春秋戦国時代、晋の人。
 翳桑という場所で、病気のせいで三日間食べていない霊輒に出会い、食を与える。
 のちに君主の霊公によって暗殺されかけたが、霊輒によって助けられた。

【霊輒】晋の人。
 翳桑に居たとき、趙宣に食を与えられるが、飢えていたにも関わらず食事の半分を残した。
 理由を問われ、「官について三年たったが、母の安否がまだわからない。頂いた食事を母に遺したいのだ」と答え、感じ入った趙宣に、さらに食を与えられた。                                     
 その後、趙宣を暗殺するよう命じられるが、逆に趙宣を助け、趙宣から名を問われたのに対し「翳桑の餓人」とだけ答え、ついに名乗らずに去った。
近デジ掲載の一例

【歡日尚少。戚日苦多。以何忘憂。彈箏酒歌。】
曹操短歌行「去日苦多。慨當以慷。憂思難忘。何以解憂。唯有杜康。」

【淮南八公】
道教では有名な八人。
前漢の淮南王、劉安は《淮南子》を編纂したことで知られる。この《淮南子》編纂に最も貢献し、最後には仙人になったとされる八人の食客が、「淮南八公」。一説によると、蘇飛、目尚、左呉、田由、雷被、毛被、伍被、晋昌。
淮南市八公山には、この人たちが由来となった国立公園が存在する。というか地名もだw


解説「古楽府」

楽府の歴史について→『支那文学考:楽府の項(近デジ)』

 詩経さえ《墨子-公孟編》に「誦詩三百,弦詩三百,歌詩三百,舞詩三百」とあるように、当時の詩は基本的に誦し、演奏し、歌い舞うものだった。
 前漢恵帝の時に「樂府令」という役職が定められ、漢武帝の時に「樂府署」、いわゆる楽府が成立した。

『前漢書・禮樂志』
至武帝即位,進用英雋,議立明堂,制禮服,以興太平。 
(武帝は優秀な人物を登用し、堂をたて、礼服を定め、もって太平を築いた)

至武帝定郊祀之禮,祠太一於甘泉,就乾位也;祭后土於汾陰,澤中方丘也。乃立樂府,采詩夜誦,有趙、代、秦、楚之謳。 
(武帝は郊祀之禮を定め、太一(漢代の最高神)の祠を甘泉宮、乾位(長安の西北)に就けた。后土(地の神)を汾陰の地、沢中の方丘に祭った。楽府をたて、詩を集め夜も練習させており、趙、代、秦、楚の唄があった)

 こうして成立した楽府は、各地の詩歌を集め、改良を加えた。
 そのいきさつから、樂府の詩曲は下々や反乱が起きたような南方の影響が強く、また貴族外戚の影響力が強まるに従い、淫侈過度になった。

是時,鄭聲尤甚。黃門名倡丙強、景武之屬富顯於世,貴戚五侯定陵、富平外戚之家淫侈過度,至與人主爭女樂。 
(是の時、鄭聲が尤も甚しかった。黄門の名倡である丙強、景武の氏族も富むこと世に顯らかで,貴戚、五侯、定陵、富平外戚の家は淫侈過度にして、主人は女楽の技巧を争った。)

 最終的には、前漢哀帝により「楽府官を罷免する。郊祭の楽や古の武楽を良くし、鄭衛の音曲を持たないもののみ、別の部署につけるよう」命令を受け、不要な音の整理を余儀なくされる。

『漢書・禮樂志』
漢書評林. 巻21-23
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774591/88
漢書評林. 巻之22,23
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774626/21
哀帝自為定陶王時疾之,又性不好音,及即位,下詔曰「惟世俗奢泰文巧,而鄭、衛之聲興。夫奢泰則下不孫而國貧,文巧則趨末背本者衆。鄭、衛之聲興則淫辟之化流,而欲黎庶敦樸家給,猶濁其源而求其清流,豈不難哉!孔子不雲乎?『放鄭聲,鄭聲淫。』其罷楽府官。郊祭楽及古兵法武楽,在經非鄭、衛之楽者,條奏,別屬他官。」 
(哀帝は定陶王だった時、之を疾(にく)み,また性格も音を好まなかったので,後に即位したとき,詔を下した。すなわち、
「世俗は贅沢にして文巧にはしり,鄭、衛の聲に興じている。贅沢は高慢を招き、國を貧しくする,文巧は則ち瑣末な技巧に趨(はし)るものであり、音楽の本筋といえるのか?
 鄭、衛の聲は淫であり、忌むべき流れである,
 人民は、正直で飾り気のなく、豊かな暮らしを欲している,濁った水源に、清き流れを求めるなど,難しいに決まってる!
 かって孔子も嘆かなかったか?『聞こえるは鄭国の音曲ではないか、鄭国の音曲はみだらだ』と。
 ゆえに、樂府官を罷免する。郊祭の楽や古の武楽を良くし、鄭衛の音曲を奏でない者を報告せよ、別にして他の官に所属させるように」)

 哀帝の改革にも外戚を押さえるような効果はなく、王莽によって前漢は簒奪された。
 そして建安文学の復興まで、楽府の復活はなかった。

 後漢の漢詩技術については、二つの説がある。
 まずはwiki日本語版等、後漢期に五言詩が成熟し、蔡伯(蔡邕)が完成させたと言う説。
 次に、台湾中央研究院のサイトなどで書かれている説。
 前漢末の哀帝により楽府が廃止されたことに伴い、後漢期は漢詩の作製技術も衰えたが、詩経など儒教でも聖典とされたものは残り、楽府も一部の学者により保管された。
 後漢末期に、蔡邕が楽府や前漢の詩の収集、復元を行なった。
 弟子の王粲や娘の蔡文姫、彼らの庇護者であり蔡邕の友人でもあった曹操らによって楽府の復元が引き継がれ、副次的な産物として建安文学が花開いたとするもの。
 これは曹操や曹丕の作品に楽府の影響があることや、蜀や呉で漢詩作製技術が発達しなかった理由の説明にもなる。


最終更新:2021年11月22日 19:18