原文

出典:《漢魏六朝百三名家集(国デジ)》 《楽府詩集(台湾)》

厥初生 造化之陶物
莫不有終期 莫不有終期
聖賢不能免 何為懐此憂
願螭龍之駕
思想崑崙居 思想崑崙居
見欺於迂怪
志意在蓬莱 志意在蓬莱
周孔聖徂落
會稽以墳丘 會稽以墳丘
陶陶誰能度
君子以弗憂 年之暮奈何
時過時來微


てけとーな日本語

その命の来し方。自然にこねられた陶人形。
いつかは砕け土に帰す。いつかは砕け土に帰す。
この定めは聖賢といえど免がれぬ。何の為に、この憂いを懷くのか。

ねがわくば螭龍をつないだ馬車に乗り。
崑崙に居まわんと思い馳せる。崑崙に居まわんと思い馳せる。
されど、迂怪に欺かれる。

蓬莱に旅立とうと思い立つ。蓬莱に旅立とうと思い立つ。
されど、いまや周公孔子も土の中。
會稽を以って墳丘たり。會稽を以って墳丘たり。

和して楽しんだところで、誰がよく陶人形の定めを逃れうる。
君子は定めを憂えず。ただ命の行く末を、いかに暮らすか考える。
時は過ぎ、また静かに訪れる。


単語解説


【造化之陶物】
混沌が形なす過程で、自然に生まれた陶器の製品。
《太平御覧 巻360》” 《風俗通》曰:天地初開未有人,女媧搗黄土爲人,力不暇,乃引筋于泥中以爲人。”
(《風俗通》 いわく、天地がひらけた直後には、まだ人が居なかった。女媧が黄土を(餅つきみたいに)ついて人にしたが、忙しかった(?力がなかった?)ので、泥中に縄を引いて人間にした)
女媧は神話で天地を創造した三皇(伏羲・神農・女媧など諸説あり)の一人。

【莫不有終期】
「終期の有らずなし」。終りのない状況ではない、永遠性の否定。

【聖賢不能免、何為懷此憂】
「不能免」は「不勝」とするものもある。
古詩十九首其の13の「聖賢莫能度~」に通じるか。

【螭龍】
みずち等、諸説あり。字自体は「みずち」「竜」なんですが、ちょっと調べないと、何とも言えませんorz

【崑崙】
西域にあるとされた、神仙の住む山。

【見欺於迂怪】
迂怪は、神や妖怪のこと。騙されて辿りつけなかった。どのように騙されたかは不明。

【蓬莱】
東方の海の中にある、伝説の島。

【周孔聖】
《史記-淮南衝山列伝》、蓬莱へ行くルートとして、山東半島から東南へ行くというものがある。
同じ山東省は、かっての周公旦によって建立され、孔子を輩出した魯国があった。
蓬莱へ行こうとするも、道中で眠る古の聖人を思い立ち止まる、といった感じ。

【會稽以墳丘】
会稽山は、三皇の次に来る五帝のひとり禹が死去した場所。今も禹王廟がある。
創造者の女媧に最も近い彼らさえ、死の定めからは免れない。
やがて死ぬことに変わりはないのに、蓬莱に行く必要などあるんだろうかね。

【陶陶】
和して楽しむ様子。
《詩経王風·君子陽陽》:“君子陶陶,左执翿,右招我由敖,其楽只且。” 毛伝:“陶陶,和楽貌。”《晋書·劉伶伝》:“其辞曰:'先生於是方捧甖承槽,衔杯漱醪,奋髯箕踞,枕麴藉糟,无思无慮,其楽陶陶。

【君子以弗憂】
君子はエロい人。じゃない、偉い人。弗は、不に通じる。

【年之暮】
そのまま。年の暮れ。

【時過時来微】
 現代中国語だと、「来微」が動詞に続く場合、「ひそかに」「こっそり」というような意味合いだったと思う。
 ただ、この文章については、動詞に続かないのなー。

 …と思いつつ古典眺めていたら、「時」には「時(こ)れ」という読み方もあった(書経尭典「光被す」「時(こ)れ薙ぐ」)。つまり「時は時(こ)れ来微(しずか)に過ぐ」。


コメント

陶人形が砕けて土にかえるように、どんな聖人も、どんな楽しみも、必ず最後には土になり、それが積み上げられて古墳の丘となる。
春になれば、丘の上に新たな命が芽生える。
長いときが過ぎれば、再び自然の造形が、壊れた陶人形に命を与え、再び楽園を甦らせるやもしれず。
「陶」の字、「弗憂≒不憂」から、そんな感じに解釈してみた。

が、最終列については自信なし。
もし時の解釈があっていれば、「陶物」「陶陶」、「時」、同じ字で意味の違うものを並べた、遊び心の垣間見える作品とも読める。



漢詩大会の漢詩全文/曹操インデックスに戻る
最終更新:2018年12月25日 17:16