「[[ある日の朋与]]」、「[[乃絵と比呂美のあいだに]]」を読んでから読むのをお奨めします。 「眞ちゃん!いい加減に起きないと遅刻するわよ!」 仲上家の長い廊下の端から、甲高い声がする。 何度か眞一郎に呼びかけていた『おばさん』だったが、結局諦めて居間に戻ってきた。 「まったく……」 『おばさん』は食卓について『おじさん』に愚痴り始める。 「春から3年だっていうのに……毎晩遅くまで何してるんだか」 「前にも言っただろ。眞一郎は眞一郎。好きにさせるさ」 それじゃ困るんです、と『おばさん』は声を荒らげる。 一年前なら萎縮して身体を震わせるところだが、今はそのようなこともない。 それどころか、比呂美は心の中で『おばさん』に賛同していた。 (そうそう、私の人生設計にも関わります) 内心で茶々を入れた事など欠片も感じさせず、涼しい顔で黙々と食事を続ける比呂美。 自分も神経が太くなったものだと、しみじみ思う。 「ごちそうさまでした」と手を合わせ、席を立とうとしたその時、 『おばさん』の口から意外な言葉が飛び出した。 「比呂美、出掛ける前に眞一郎を起こしてきてちょうだい」 「…え…私がですか?」 かつてのように憎悪をぶつけられる事は無くなったが、 やはり『おばさん』との関係は、まだまだぎこちない。 眞一郎と登下校を共にすることは黙認されていたが、 廊下で立ち話などしていると、どこからか咳払いが聞こえてきたりする。 てっきりまだ、自分と眞一郎の接近を警戒していると思っていたのだが……。 「……いいんですか?」 「仕方ないじゃない。私が部屋に入ろうとすると怒るのよ、最近」 あなたなら怒鳴り散らす事もないでしょう、と『おばさん』は言う。 どうしたんだろう、と思わないでもないが、『おばさん』が自分に悪意ある罠を仕掛けるとも思えない。 考えを巡らせても無意味だと思った比呂美は、「わかりました」と素直に答え、通学鞄を手にした。 「ニヤニヤしないの。はしたない」 比呂美は気づいていなかったが、先程から顔の筋肉は緩みっぱなしだった。 新聞に見入っていた『おじさん』にもフフッと笑われる。 (……やだ……) 急に恥ずかしくなった比呂美は、逃げるように二階に続く階段へと向かった。 屋内の暖気が上方に溜まるからだろうか。一階の居間より、眞一郎の部屋の前は暖かい気がする。 顔の火照りはそのせいだと比呂美は思いたかった。 でも、そうではないことを、誰よりも自分自身が一番良く分かっている。 (『幼馴染を起こしに来る女の子』か……) 漫画では良くある状況だが、自分が体験する……いや、体験できるとは思っていなかった。 『あの頃』に比べたら、夢のような展開だ。しかも『おばさん』公認である。 シチュエーションに酔っているな、と自覚しないでもないが、やはり嬉しいものは嬉しい。 意を決して、比呂美は中の眞一郎に声を掛けた。 「眞一郎くん、学校遅れるよ」 ………… 返事はない。この時間に熟睡できるとは「いい根性している」と比呂美は思った。 障子をゆっくりと開けると、まだベッドに埋もれている眞一郎が目に入る。 入室自体は初めてではないので、中へ踏み入る比呂美の足取りに躊躇いはない。 比呂美が傍に近づいても全く起きる気配を見せない眞一郎。 (布団、引き剥がしちゃおうかな) そうも考えたが止める。もし、漫画みたいに眞一郎の下半身が変化していたら……ちょっと対応に困る。 「眞一郎くん、本当に間に合わなくなるよ」 肩口の辺りに手をかけて身体を揺する。 すると短い唸り声のあとに、安眠を妨害する敵を捕捉しようと眞一郎の瞼が開いた。 目に映る人物が何者か理解すると、苛立ちと不満にまみれていた顔が、驚愕に染まる。 「ひ、比呂美!!」 冷水でも浴びたかのように飛び起きる眞一郎。幸か不幸か、下半身は布団に隠れて見えなかった。 「な、なんだよ。なんで比呂美が起こしに来るんだよ…」 「その……『おばさん』に……いわれたから……」 ……気まずい沈黙が流れる……。 もっと元気のいい幼馴染を演じるつもりだったのに、いざとなると言葉が出てこない。 『漫画ではよくある状況』というものは、実際に経験すると恥ずかしいものなのだ、と比呂美は知った。 緊張に耐えられず逃げ出そうとする比呂美を、眞一郎が咄嗟に手を掴んで止めた。 「……もうちょっと……ここにいろよ……」 「…………うん……」 ……考えてみれば、ふたりきりの時間は久しぶりだった。 比呂美は3年の高岡たちが引退したあと、女子バスケ部の副主将になっており、 新キャプテンの黒部朋与と共に、チームを統率しなければならない立場は日々多忙を極める。 一方の眞一郎は眞一郎で、次の絵本コンクールの締切が近いらしく、 余暇の殆どを原稿の製作に使わねばならない状態だった。 考えてみれば、『あの頃』よりも今のほうが眞一郎との時間は少ないかもしれない。 そんなすれ違いからくる『寂しさ』もあるのか、 最近の眞一郎は、比呂美に肉体的接触を求めてくる回数が増えている。 たまに二人で過ごしていると、頻繁に手を触れてきたり、唇を重ねてくることが多い。 そして……眞一郎が『その先』を望んでいることも、比呂美には分かっていた。 (……でも……それは…………) 眞一郎と一線を越えることを、比呂美はまだ躊躇っている。 比呂美も成熟を始めた肉体を持つ『女』である以上、そういうことに興味がないわけではない。 しかし……身体を重ねるのは、まだ怖かった。 それに、寂しさがそれで埋められるという考え方も、安直すぎる気がして受け入れられなかった。 ………… ………… 比呂美を身体ごと引き寄せようとする眞一郎に邪念を感じ、思わず腕を振り解く比呂美。 先程までの甘い雰囲気が瞬時に消し飛ぶ。 「……比呂美?」 「……やめて……朝から……」 つい悪態をついてしまう。 もっと気持ちから繋がりたい……そう伝えたいだけなのに、素直に口に出せない自分……。 これでは何も解決しないと分かっているが、生まれ持った性格は簡単には直せなかった。 少し乱暴に障子を閉め、部屋を出る。眞一郎が何か言った気がするが、比呂美は無視して階段を降りた。 『おばさん』に報告を済ませてから、ひとりで家を出る。 外の景色はすっかり彩度を失い、冬の深まりを比呂美に知らせていた。 ………… (……一年も経つのに……何か上手くいかない……) ……あの冬から一年…… 眞一郎と比呂美を隔てていた厚い氷が溶けて、再び手を繋ぐことができた……あの冬。 そう……すべてが終わり、そして始まったはずなのに……。 比呂美と眞一郎の関係は、あの頃からあまり進展してはいなかった。 放課後の体育館にドリブルの音が響く。だが試合をしているわけではない。 新キャプテン・黒部朋与の発案で、一年生は練習の前に基礎を徹底的に叩き込まれる事になったのだ。 「バスケの偉い人は言ったわ。『基礎ができてねぇ奴は、試合でも何もできねぇ』ってね!」 激を飛ばす朋与を横目に、「それ漫画でしょ」と呆れ顔の比呂美。 一年たちも、この時期になって基礎練習が増えるとは思わなかったのか、少し不満気だ。 しかし、そのあとの模擬戦を見て、比呂美は朋与の『リーダーとしての資質』を思い知った。 (みんなの動きが良くなってる気がする……) 本人たちは気づいていないが、繰り返された基礎練習の成果が彼女たちの動きに現れていた。 筋肉そのものに刷り込まれた動作が、全身を軽くしている。 考えるよりも先に身体が動いている感じ……そう比呂美には見えた。 「去年、比呂美が昼練でやってた事をやらせているだけよ」と、朋与は言う。 比呂美は先代の高岡キャプテンが、なぜ自分ではなく朋与を主将に指名したのか分かった気がした。 選手としての実力は自分が上だという自負が比呂美にはあったが、それだけではダメなのだ。 朋与の持つバランス感覚とでも言うべきモノ…… 全体を見通す力こそが、チームをまとめるには不可欠な要素なのかもしれない、と比呂美は思った。 ………… 「は~い、そこまで!休憩入るよ~」 練習がひと段落し、朋与の号令で部員たちの動きが止まる。 張り詰めた空気が緩み、そこかしこで皆が談笑する声が聞こえ始めた。 比呂美もタオルで汗を拭いながら、自分の分と朋与の分、二本のスポーツドリンクを用意する。 ……が、振り返ると、その朋与の姿が見当たらなかった。 「朋与は?」 「キャプテンなら携帯持って出てっちゃいましたけど」 緊急連絡用に、主将の朋与だけは練習に携帯電話を持ち込んでいる。 (先生から連絡でもあったのかな?) 後輩の指差した出口から外を覗いてみると、朋与の姿はすぐに見つかった。 誰かと話しているようだが、会話の様子がおかしい。 (??……先生じゃない……誰と話してるの?) 朋与は公私の区別をきっちりする人間だ。部活中の私用電話などしたことがない。 比呂美は朋与の話している相手が気になり、つい聞き耳を立ててしまう。 「……だからって……なんで私なのよ……」 迷惑そう?……違う、あの様子は喜んでる。相手は男だ、と比呂美は直感的に悟った。 「……そりゃ、そう言われればそうだけど……うん…うん……分かった、ちょっとだけなら」 朋与は明らかに『浮かれて』いる……。 彼女をそんな気持ちにさせる男……比呂美には一人だけ思い当たる人間がいた。 「うん、大丈夫よ。比呂美には分からないように行くから。じゃ、あとで」 電話を切る朋与の姿に反応し、素早く体育館内に戻る比呂美。 間違いない。電話の相手は眞一郎だ。朋与が自分に隠れて眞一郎と逢おうとしている!! 一年前の記憶が比呂美の脳裏をよぎる。朋与と殴り合いの喧嘩をしたあの日の記憶。 あの時……朋与は確かに身を引くと言ってくれた。なのに……なんで……。 ………… 「休憩終了~!始めるぞ~!」 戻ってきた朋与が開始の号令をかけると、皆がワラワラと動き出す。 「ん?どうしたの比呂美、怖い顔して」 比呂美の様子がおかしいことに気づき、朋与が声を掛けてくる。 「別に…何でもない……」 自分では平静を保っているつもりの比呂美だったが、その声色は刺々しい。 後輩数人を呼びつけると、自分との実力差など無視して『シゴキ』とも取れる特訓を始める。 比呂美はやり場のない苛立ちをコート内で吐き出し続け、その日の練習後半は荒れに荒れた。 朋与は校門をくぐり抜けると、待ち合わせ場所の駅前広場まで走った。 普段の走り込みでは、手を抜いて七割ほどの力しか出していないが、 今は心臓と肺を限界まで酷使し、先を急ぐ。 『周回遅れの女王』と一部で噂されている比呂美には及ばないが、 朋与の脚力もなかなかのもので、目指す駅前広場はすぐに見えてきた。 「仲上くん」 指定された場所に眞一郎の姿を見つけて手を振ると、眞一郎も軽く振り返してくる。 「ご、ごめん……ハァ、ハァ…ちょっと…遅れちゃった」 「いや………そこまで急いでくれなくても……平気か?」 胸を押さえてゼェゼェと息を整えている朋与を見て、さすがに心配になった眞一郎が顔を覗き込む。 「うん……ちょ、ちょっと待って」 片手で眞一郎を制しつつ、朋与は内心、自分の身体が思惑通りに反応してくれた事に安心していた。 朋与が全力疾走してきたのは、約束の時間を気にしたからではない。 (……こうすれば……ドキドキしてても変じゃない……) 『封印』した想いがひょっこり顔を出しては困るのだ。 眞一郎も、比呂美も、そして朋与自身も。 ………… ………… ショッピングモールへと向かう電車内で、少し間を開けて座席に着く朋与と眞一郎。 中途半端な時間帯だったのか、乗り込んだ車両には、ふたりの他に乗客はいなかった。 共通の話題もあまりないので、朋与は電話でされた依頼の内容を確認することにした。 「買い物に付き合うのはいいけどさぁ……野伏じゃダメなの?」 「あぁ。電話でも言ったけど、物が物だから専門家の黒部の方がいいと思って。……やっぱ迷惑か?」 普段、眞一郎は朋与を『黒部さん』と敬称付きで呼ぶのだが、 比呂美がいないせいか、今は自然と『さん』が抜けている。 ほぼ一年ぶりに呼び捨てにされた嬉しさは心の奥に隠し、「そんなことないけど」と普通に応じる。 「バッシュなんて買ってどうすんの?……って決まってるか」 もちろん比呂美へのプレゼントだろう。時期的に見てホワイトデーのお返し…といったところか。 「言っておくけど、比呂美の好きそうなのは高いよ」 「うん、大丈夫だ。金はある……ちょっとだけど……」 なんでも以前に応募した絵本のコンクールで佳作に入選し、僅かだが賞金を貰ったらしい。 「へぇ、凄いじゃん」 眞一郎が夢に向かって確実に歩を進めている。それは『友人』として聞いても嬉しい話だった。 「俺が生まれて初めて『自分で稼いだ金』だからさ……一番大事な人の為に使いたい……」 「……ふ~ん……」 比呂美のことを思い浮かべているのだろう。嬉しそうに話す眞一郎の横顔は輝いて見えた。 (……焼けちゃうな……) 押し込んでも押し込んでも、心の奥底から顔を出そうとする『想い』。 危険を避けようと、朋与は話の筋道を軌道修正する。 「あたしもさぁ、仲上くんにチョコあげたよね?」 今回の報酬も合わせて、自分にも何か買えと要求する朋与。 「……お前がくれたのって……20円のチロルチョコじゃん……」 だが、買い物につき合わせている以上、不当要求と突っぱねる事も出来ず、眞一郎は朋与の注文を聞いた。 「猫缶買って。一番高級なやつね」 一年前に朋与と防波堤で出会った猫は、『ボー』と名づけられ、黒部家の住人となっていた。 「私も『自分で稼いだ金』を大切な存在の為に使ってみた~い」 ささやかな悪意を込めた笑顔を見せて、眞一郎をからかう朋与。 困ったように照れ笑いをすると、眞一郎は「わかったよ」と言って報酬の支払いを約束してくれた。 「やった~!」 交渉成立だ、という風に上体を背もたれに預け、両手を座席に投げ出す朋与。 その時、同じ様に座席の上に置かれていた眞一郎の手に、朋与の指が触れた。 ………… ………… ……眞一郎は逃げようとしない。 長い長い逡巡の後、朋与の指が眞一郎の手をきつく握り締める。 僅かに躊躇いをみせながら、眞一郎の手も朋与の手を握り返してくる。 視線を合わせず、無言のまま指と指を絡めあう二人。 固く握り合うだけでなく、何度も位置を組み替え、互いを愛撫するように蠢くふたりの指。 (…………私たち……指で……セックスしてる……) 眞一郎がしてくれる……おそらくこれが最大限の『浮気』……。 忘れられたのではない……。 あの時の想いも、今の眞一郎を形成する一部になっていると確信できて、朋与は満足だった。 (……ごめん比呂美……今だけ…今だけだから…………許して…………) ………… 指先の性交は、やがて静まりを見せ始め、指と指を結び合った状態で止まった。 どちらも俯いたままだったが、手を離そうとはしない。 その後、電車が駅に着くまでの間、朋与と眞一郎は一言も口を利かず、 ただ黙って、互いの指先に神経を集中し続けていた。 「こんばんわ」 仲上家の門前で掃き掃除をする従業員の少年に、比呂美は声を掛けた。 「比呂美さん、『こんばんわ』はおかしいッス」 彼が言うには、ここは比呂美の家なのだから、挨拶するなら『ただいま』だと。 とても嬉しい忠告であったが、比呂美は曖昧に笑って誤魔化した。 ……仲上の家を出てから、もう一年が経つ。 眞一郎と自分のぼやけた関係を整理するための旅立ちだったが、 実のところ、比呂美の生活サイクルに、あまり変化は見られない。 『おばさん』の方針もあり、比呂美は朝夕を問わず、殆どの食事を仲上家の食卓で採っていたし、 経理の仕事を勉強がてら手伝う機会も多くなって、この家には、ほぼ毎日出入りしていると言ってよかった。 ……でも…… この場所で素直に『ただいま』と言えるのは、もう少し先のような気がしていた。 (まだ言えない……きっと…自然にそう言えるようになるのは……) 自分と眞一郎がもっと大人になってから……。 そんなことを考えながら玄関の引き戸を開くと、珍しく『おばさん』が出迎えてくれた。 「あら、眞一郎と買い物じゃなかったの?」 「……いえ……今日は約束してませんけど……」 『おばさん』の話では、先ほど眞一郎から電話があり、買い物のついでに夕食は外で済ますと連絡してきたらしい。 電話口から微かに女の子の声がしたので、てっきり比呂美と一緒だと思ったようだ。 「まぁいいわ。電話もらった時にはもう、仕度が終わってたのよ」 無駄にならなくて良かった、と呟いて『おばさん』は台所へと戻っていく。 ………… (…………眞一郎くんが、まだ帰ってきてない……) ………… 『おばさん』からの情報を加えて、状況を冷静に考えてみる。 ……もう眞一郎が朋与と一緒にいることは疑いようがない。 比呂美は部活を終えた後、一度自分のアパートでくつろいでから、身支度を整えて仲上家に来た。 朋与が眞一郎と合流したとして、相当の時間が経っているはずだ。 こんな時間まで一体何をしているのか……。何を……。買い物?……本当に?……怪しいものだ。 別の『何か』をしているのではないのか? だって……だって本当は……朋与は眞一郎が好きなのだから……。 ………… (……なにを……しているのよ……) 無意識に下唇を噛み締める比呂美。それは心が嫉妬に狂うと出てしまう癖だ。 ………… 「比呂美、なにしてるの。お膳並べるの手伝ってちょうだい」 奥の方から『おばさん』の声がする。 「は、はい」 両胸の間にモヤモヤしたものを抱えたまま、比呂美は台所へと向かった。 『おじさん』と『おばさん』、そして自分だけの食卓は、別に珍しくはない。 視線の左側に眞一郎がいない事など、よくある日常にすぎない。 だが、今夜の比呂美は心穏やかではいられなかった。 考え込んで静止したかと思えば、落ち着きなく箸を動かし『おばさん』に注意される。 (…………) 今、眞一郎と共にいるのがアサミや他の女生徒ならば、こんなにも心を乱されることはなかっただろう。 仮に石動乃絵が現れたとしても、比呂美は眞一郎を信じることが出来る。 ……しかし…… (……朋与はダメよ……絶対にダメ……) 黒部朋与に自分は勝てない……彼女が本気になったら、絶対に負けてしまう……。 根拠の無い……漠然とした不安……そんな不確かなものでは決してない。直感とも違う。 ……自分は朋与に女として、大きく水をあけられている……。 そんな確信めいたものが比呂美にはあった。 あの時の……あの朋与の言葉……。 《教えてあげる。眞一郎がどうやって私を抱いたか……》 朋与が比呂美の決断を促すためについた『嘘』……。 心に小さな『わだかまり』として残ったそれが、今、大きく黒い疑惑となって比呂美の中に広がる。 胸元がムカつき、頭が熱に犯されたようにクラクラする。 食事も半ばで、比呂美は箸を置き食卓を立った。 二人への挨拶もそこそこに、上着を羽織って居間を出る比呂美。 「待ちなさい」 追い掛けてきた『おばさん』に呼び止められ、比呂美の身体が硬直した。 嫌味か小言が飛んでくる覚悟をしていたが、『おばさん』はそっと風邪薬の瓶を手渡してくれる。 「具合が悪いなら飲んでおきなさい」 素っ気無く言うと、踵を返して居間へと戻る『おばさん』。 病気ではない、と言おうとしたが止める。『おばさん』は全部見抜いている……なんとなく、そんな気がした。 夜道は危ないから送ります、という従業員の少年の申し出を丁寧に断り、ひとりで自室へと向かう比呂美。 比呂美をアパートへ送り届けるのは、いつもは眞一郎の仕事だった。 眞一郎は比呂美の帰宅する時間には必ず家にいて、この役目を疎かにしたことは一度もない。 (……ふたりの大切な時間を朋与が掠め取った……) そんな思いが脳裏をよぎると同時に、比呂美は一番の親友をそんな風に見ている自分自身に嫌気がさしていた。 (……性格って…なかなか直らないな……) もうこんな気分を味わうことはないと思っていたのに……。 物事を悪い方へ悪い方へと考えるのは良くないと、理屈ではわかっている。 しかし、『また眞一郎においていかれる』という恐怖感を、比呂美は拭い去ることが出来なかった。 ………… 海沿いのT字路を曲がったところで、前から近づいてくる二つの人影に気づく比呂美。 脚がピタリと止まり、表情が強張る。 5メートルほど先の路上に、比呂美の姿を見つけて気まずそうに立ち尽くす眞一郎と朋与がいた。 遠目に比呂美の姿を見つけた時、眞一郎は自分の計画が失敗した事を悟った。 曲がり角のところで鉢合わせれば、手にしたプレゼントを見られるのは避けられない。 (それにしても比呂美のやつ……部屋に帰るの、やけに早いな……) 眞一郎は、比呂美が帰宅する時間を、きちんと把握している。 今日もアパートへ送っていく時刻には、間に合う様に帰ってきたつもりだった。 眞一郎が何かの用事で出掛け、帰宅が遅くなる時は、比呂美がその帰りを必ず待っている。 ひとりで部屋へ戻るなど、今まで一度もなかったことだ。 それに様子もどこかおかしい。今朝の不機嫌さとは、別の違和感を感じる。 緩い坂道をフラフラと下ってきたかと思うと、自分たちを見つけるなり、突然顔を険しくする。 「……お帰りなさい……遅かったのね…」 比呂美の声は穏やかだったが、その中に何か濁りのようなものが混じっている様に思えた。 「比呂美、いつもならまだ食事してる時間だろ。……どっか具合でも悪い……」 話し掛けている途中で眞一郎は気づく。比呂美は自分の声を聞いていない。見てもいない。 彼女の突き刺さる様な視線は、眞一郎の隣に立つ人物へ一直線に向けられていた。 「…………あのさ……仲上くんとそこで会って…」 「嘘ッ!!!」 比呂美の一喝で見え透いた虚言が吹き飛ぶ。朋与の膝が震え出し、手から猫缶を提げた袋が落ちた。 眞一郎も声を失い、身動きが出来なくなってしまう。 「…ち、違うよ……ねぇ聞いて比呂美!私たち、比呂美が考えてるような事してない!」 眞一郎と朋与がふたりで買い物に出掛けていた事を、比呂美が曲解しているのは間違いない。 だが眞一郎には、比呂美がどうしてそんな風に考えるのか理解できない。 (なんで……そう思うんだ……) 朋与と眞一郎だって、一年の時はクラスメイトだったのだ。比呂美を通じてある程度の交流はあった。 友人同士で出掛けることもある……そう考えるのが普通ではないのか? (…………比呂美……あの日の事を…………) 眞一郎の脳裏に、朋与との一夜を比呂美が知ったのではないかという疑念が浮かぶ。 そんな……ありえない。どうやって知るというのか?比呂美はあの事を知らない……知るはずが無いのだ……。 「か…買い物に行ってたんだよ。ほら、ホワイトデーのお返しをさ……黒部さんに選んでもらって……」 あの日の事はさておき、今日の眞一郎と朋与に後ろ暗いところは何も無い。 まずは比呂美の誤解を解いて落ち着かせようと、眞一郎はプレゼントの入った紙袋を差し出す。 だが比呂美は、包みを眞一郎から引き剥がすように奪うと、そのまま力任せに地面に叩きつけた。 「!!」 雪解け水と泥の混合液が跳ね上がり、綺麗に仕上げられた包装を茶色く染める。 「……いらない…………朋与の選んだ物なんて……欲しくない!!」 眞一郎には信じられなかった。比呂美がこんな、人の気持ちを踏みつけにする様な真似をするなど。 それも一番の親友・黒部朋与を、どうしてここまで拒絶しなければならない……。 ……そのわけは……比呂美がそこまで激発する理由は……。 ありえないと否定した可能性が現実味を帯びた時、眞一郎の口が思わず滑った。 「……比呂美……『あの日』のこと知って……」 「仲上くんっ駄目ッッ!!!」 場に充満した冷気を切り裂くように発せられた朋与の悲痛な叫び。 だが、眞一郎の言葉を朋与が打ち消そうとした事が、比呂美に真実を悟らせた。 自分の中で渦を巻いていた黒い妄想が、思い込みなどではなかった事を知り、比呂美の両眼が見開かれる。 「…………あの話…………本当……なのね……」 朋与は何も答えない。ただ、顔を蒼くして全身を震わせていた。 (……俺……俺は……) ……隠し通せばいい……そう考えた自分の愚かさを、眞一郎は今、嫌というほど思い知らされていた。 違うんだ、と否定すれば簡単だったのかもしれない。 朋与を傷つける事を承知の上で「冗談だよ」と笑えば、比呂美は信じたかもしれない。 ……だが、眞一郎は追い詰められて、ようやく気づいた。 朋与との夜を『無かった事』には出来ない。 それは、今ここにいる『仲上眞一郎』を全否定する事になってしまうから。 比呂美が大好きで、比呂美を心から愛している『仲上眞一郎』がここにいられるのは、 『黒部朋与』のおかげなのだと分かっているから。 あの日…ズタズタになった心を朋与が包んでくれなかったら…… 身体を捧げて眞一郎の傷を癒し、行くべき道を指し示してくれなかったら…… きっと比呂美とは、何ひとつ繋がらなかった。 周りの人たちを全部傷つけて、ひとりぼっちで生きていたはずなのだ。 ……だから……だからこそ、眞一郎は助けを求め、すがり付いてくる比呂美の視線に答えられない。 これ以上口を開けば、もっと比呂美を傷つけることも分かっているから……。 ………… 何も返せずにいる眞一郎の瞳を見て、比呂美の眼光が『懇願』から『絶望』に変わる。 怒りの矛先は裏切っていた男ではなく、裏切らせた女に向けられた。 瞬間、比呂美の身体が鞭のようにしなり、眞一郎の隣で震える朋与の頬に、稲妻のような一閃を見舞う。 鍛え上げられた比呂美の筋肉は、憎悪という燃料を得て、凄まじい破壊力を見せた。 朋与の身体はバランスを崩し、除雪された雪塊の上に倒れ込んでしまう。 「比呂美ッ!!」 筋違いな叱責なのは承知している。それでも眞一郎は叫ばずにはいられなかった。 「…………」 表情を隠し、逃げるように走り去る比呂美。 眞一郎の脚は反射的に追いかけようとするが、その資格はない、という思いが脚を止めてしまう。 「馬鹿っ!早く追って!!」 雪塊から身を起こした朋与が、頬を赤く腫らしながら叫ぶ。 だがその時には、もう比呂美の姿は遙か彼方に消え去っていた。 ………… 眞一郎はしばらくの間、その場に立ち尽くしていたが、すすり泣く朋与の声を聞いて我に返った。 両脇に腕を差し入れ、朋与を抱き起こす眞一郎。 「……『朋与』……大丈夫か?」 眞一郎はあえて、一年前の誓いを破った。だがそれは比呂美への裏切りや決別では決してない。 朋与にもそれは充分過ぎるほど分かっていて、喜びを見せることはなかった。 「うぅ……ごめん…………ごめんなさい……ぐすっ…うぅぅ…わた、私の……せいで……」 朋与を落ち着かせるように抱きしめ、背中を擦りながら、眞一郎は首を横に振った。 「違う。朋与のせいじゃない。全部、俺のせいなんだ」 そう……全部ちゃんとすると言ったのに……本当の意味で『ちゃんと』してこなかった自分の責任……。 比呂美の涙を拭うと誓ったのに、また悲しみの涙を流させた責任……。 (何やってんだ、俺っ) 眞一郎は、自分と比呂美の間に残っていた、最後の壁……見えないフリをしていたそれに、立ち向かう決意をした。 今度こそ、本当の自分を比呂美に見せなければならない。 たとえ比呂美が許してくれなくても…………。 つづく [[ある日の比呂美2]]