比呂美のバイト その7

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比呂美のバイト その7 - (2008/05/17 (土) 21:00:57) のソース

<p>【置いてかないで…】 比呂美のバイト その7(改)</p>
<p><br />
「比呂美?」<br />
 眞一郎が棺と比呂美が居る部屋に戻ろうとドアを開けた時、比呂美は入って<br />
くる自分を&quot;見て&quot;いた。比呂美が動いている…?<br />
「ごめんな。帰りが遅くなった」<br />
 彼女はまたすぐに顔を伏せた。それが自分の言葉に反応してのものかどうな<br />
のか、眞一郎にはわからなかった。<br />
 目にすがるような光が浮かんでいたように見えたのは、気のせいだろう…。<br />
彼女とはそこまで何かを期待できる関係ではないのだ。</p>
<p><br />
 眞一郎は比呂美の隣に座り、穏やかに語りかけた。<br />
「覚えてるか? お前、子供の頃、絵本が好きだっただろ」<br />
 返事はない。<br />
 わかっている事だ。構わず続けた。<br />
「おばさんに『ママ、本読んで』ってよく言ってたよな」<br />
 持って来た一冊の絵本を比呂美の前に置く。<br />
「ほら、これ。お前が大好きだった絵本。俺が遊びに行くと、いつも持ってた」<br />
 眞一郎は絵本を広げた。<br />
 比呂美の目が見開かれた。</p>
<p> そして、眞一郎は絵本を読みはじめた。<br />
 この部屋はなんて暗いのだろう。<br />
 電気はきちんとついているのに、光は足りているはずなのに、字を読む事が<br />
つらい。声を出すのがきつい。空気が重い。腰まで漬かった泥の中を歩くよう<br />
な気分だ。<br />
 短い絵本を読む、ただそれだけの事なのに、ひどく消耗する。<br />
 それでも眞一郎は絵本の朗読をやめなかった。<br />
 ゆっくり、一言ひとこと。心をこめて。<br />
 比呂美の心に届くように。それだけを願って。</p>
<p>「お母さん…」<br />
 比呂美がつぶやいた。<br />
 昨日の朝から、眞一郎が初めて聞く声だった。<br />
 その声に勇気づけられ、読み進める。<br />
「お母さん…。置いてかないで…」<br />
 眞一郎は、なんとか絵本を最後まで読み終える事ができた。心が汗をかいて<br />
いるように思った。涙かもしれない。息切れしていないのが不思議だった。<br />
 だが、心地よい疲労感でもあった。<br />
 比呂美のために何かをする時は、いつもそうだ。どんなに苦労しても、疲れ<br />
ても、心の中にある温かいものがそれを癒してくれるからだ。<br />
 そっと閉じて、絵本を比呂美に手渡す。<br />
 比呂美は…。絵本を受け取った。</p>
<p>「置いてかないで…」<br />
 絵本をしっかりと抱き締め、比呂美は繰り返した。<br />
「オイテカナイデ…」<br />
「比呂美、駄目だ」<br />
 比呂美は母の後を追いかけていたのだ。眞一郎はそれに気付いた。<br />
「お母さん…」<br />
「お前はまだ、行っちゃいけない」<br />
 彼は、懸命に比呂美に訴えかけた。<br />
「なんで…?」</p>
<p> 引き止める眞一郎を、比呂美が睨んでいた。<br />
「なんでよ。お母さんしんじゃったのに。お父さんもいないのに!」<br />
 比呂美の目に光が戻ってきた。<br />
「両親の分まで、ちゃんと幸せにならなきゃ」<br />
 酷いセリフだ。こんな事しか言えない自分がいやになる。<br />
 だが、どんなに下手でも、大した事が言えなくても、呼びかけをやめるわけ<br />
にはいかない。やっと言葉が通じるようになった、今、引き戻さなければなら<br />
ない。<br />
「いい加減なこといわないで!」<br />
 比呂美は手を握って、拳の底で眞一郎の胸をドンと叩いた。<br />
「比呂美…」<br />
 続けて、ドン、ドンと。<br />
(比呂美の痛み…)<br />
 本気で殴り合うような、強いものではない。力など強くない。<br />
 それなのに、実際の衝撃以上の、心に直接響くような痛みがあった。<br />
 だから眞一郎は叩くに任せる。一緒に痛みを感じられるなら、本望だと思っ<br />
た。そうでなくば比呂美に言葉が届くことはないはずだ。</p>
<p>「お母さん…」<br />
 力は急速に抜けた。<br />
 眞一郎の胸に拳を止め、比呂美の目から一筋の涙がこぼれた。<br />
 慌てて彼女はそれを拭う。<br />
「泣いちゃだめなのに、泣いたらお母さんが…」<br />
 いなくなってしまう。本当に死んでしまう。<br />
 眞一郎は比呂美の心の叫びを聞いたような気がした。<br />
「比呂美、悲しい時は泣いていいんだよ」<br />
 彼女は必死で自分の涙を拭い続けた。<br />
「イヤ」<br />
 次々とあふれ出る涙は、拭っても拭っても止まらない。<br />
「いいお母さんだったよな…」<br />
 こらえきれない、悲鳴のような細い声が、比呂美の喉から漏れた。<br />
 眞一郎の服を掴み、彼の胸に顔をうずめるようにして、母を失った娘は声を<br />
あげて泣いた。しゃくりあげて泣いた。<br />
「比呂美。うちにおいで。父さんがそう言ってくれてる」<br />
 眞一郎は、そっと比呂美の肩を抱いた。<br />
 比呂美が泣き疲れて眠るまで、眞一郎はその身体を支え続けていた。</p>
<p><br />
 翌朝。比呂美の伯母がその部屋を見た時、比呂美はきちんと敷かれた布団で<br />
寝ていた。昨日の異常な様子からは不思議なぐらい、安らかな寝顔だった。<br />
 驚いた事に、隣には仲上の息子が寝ている。こちらは比呂美の布団の外だっ<br />
た。<br />
 敷き布団も掛け布団もない、毛布やタオルケットも一切まとわず、彼は畳の<br />
上に転がっていた。<br />
 そして比呂美は、仲上の息子の手を両手でしっかりと握りしめて眠っていた。<br />
彼の右手だけが比呂美の布団の上にあった。<br />
 艶っぽい話でない事は、見ればすぐにわかる。どうやら比呂美を寝かしつけ<br />
て力尽きたらしい。</p>
<p> 昨日、彼がずっと比呂美についてやっていたことは知っていた。<br />
 彼だけではない。比呂美の心身の消耗と衰弱を、誰もがそれぞれに心配して<br />
いた。だが、会話も何も成立しない状態だった。その朝に両親を失った娘とし<br />
ては、仕方のない事だろう。<br />
 だが、あの状態の比呂美をどうやってきちんと寝かしつけたのだろう、とい<br />
う驚きがあった。昨日の比呂美は誰の手にも余ったからだ。だからこそ皆が避<br />
けていた。それなのに。<br />
 ともあれ、そろそろ二人をこの場から動かさなくてはならない。<br />
 風聞もある…。伯母はまず仲上の息子を起こしにかかった。</p>
<p><br />
 眞一郎が比呂美を寝かしつけた話は、湯浅の親戚一同、および仲上の両親に<br />
すぐ伝わった。<br />
 実のところ、湯浅の親戚はメンツと面倒を天秤にかけ、比呂美を仲上に渡す<br />
か湯浅で引き取るかを迷っていた所だったのだ。<br />
 昨日の様子を見て、親戚達は比呂美を引き取るのは相当な難事だと思い知ら<br />
されていた。いずれは回復するとしても、心のショックが大きすぎて、どんな<br />
行動を起こすか知れない。とても責任を取りきれないような事件が起きるかも<br />
しれない。<br />
 あまりにリスクが高すぎ、できれば引き取りたくなかったのが本音であった。</p>
<p>「比呂美が息子さんをこれほど頼りにしているなら、特別に、仲上さんに引き<br />
受けてもらっても良いのではないだろうか」<br />
 都合の良い言い訳である。これならば湯浅一族ののメンツを潰さずに、比呂<br />
美を手放す事ができる、それだけの。<br />
 仲上の主人は湯浅の親戚の葛藤と、醜い打算を知っていた。腹も立てていた。<br />
だが、そんな事はおくびにも出さず、彼は頭を下げた。<br />
「比呂美を、引き取らせて頂きます」<br />
 あとは本人の選択と気持ちだけである。<br />
 だが、半年近くもめていた引き取る家の問題は、比呂美が寝ている間に、ほ<br />
ぼ解決していたと言って良かった。<br />
 この件について、理恵子は何も言わなかった。肯定も否定も、何も。</p>
<p><br />
 比呂美が目を覚ましたのは、母の棺の隣の部屋だった。<br />
 太陽は高く、すでに昼を過ぎている。エアコン全開で室温は低く、少し身震<br />
いしたが、それは事情が事情だけに仕方のない事ではあった。<br />
 眞一郎に取りすがって泣いた事までは覚えている。その後は記憶がない。ど<br />
うやらそのまま寝てしまったようだった。部屋が違うのは寝た後に動かされた<br />
のだろう。<br />
 深い悲しみと喪失感は薄れる事はない。だが、母親の後を追いたいと思う気<br />
持ちだけは抜けていた。いっぱい泣いたおかげだと思った。</p>
<p> 比呂美が起きてしばらくすると、物音を聞き付けた伯母が部屋に入ってきた。<br />
この伯母は、親戚一同の中では唯一、比呂美に心から同情的だったのだ。<br />
「比呂美ちゃん。起きたのね」<br />
「伯母さん…」<br />
 まだ弱々しいものの、比呂美の目には光が、唇には言葉が戻っている。<br />
「眞一郎くんは?」<br />
 比呂美の最初の言葉がそれだった。<br />
「仲上の息子さんは、朝まであなたに付き添っていたけれど、今は家に帰って<br />
るわ」<br />
 朝に引き続き、伯母の驚きは大きい。比呂美は驚異的な立ち直りを見せてい<br />
る。原因については語るまでもなかった。<br />
「そうですか…」<br />
「比呂美ちゃん。あのね」<br />
 湯浅一族の比呂美に対する扱いは、伯母から見ても酷いものがあった。昨晩<br />
は自分の夫に散々怒りをぶつけ、自分の家で引き取ると話をまとめかけてもい<br />
た。<br />
 だが、伯母は、比呂美が行くのにもっと相応しい家がある事を、今ここで理<br />
解した。<br />
「仲上さんから、あなたを引き取りたいという申し出がありました。一人で暮<br />
らしていけるわけではないから、誰かの家に行く事になるのだけれど…。仲上<br />
さんの事、考えておいて」<br />
「…はい」<br />
 比呂美は一応、返事をした。<br />
 彼女にとって、今はそんな事はどうでもよかった。この場に居て欲しい人が<br />
いない事だけが問題だった。</p>
<p><br />
 眞一郎が湯浅の家に戻ってきた頃には、もう陽がだいぶ傾いていた。<br />
 きちんと学生服に着替えて、通夜に備えている。彼は比呂美の姿を見つけ、<br />
小走りに駆け寄ってきた。<br />
「比呂美、大丈夫か?」<br />
 軽く咳き込んだ。体を冷やしたせいかもしれない。<br />
「眞一郎くん…」<br />
 比呂美の表情はまだ硬かった。母をなくしたばかりだ。笑顔など望めるわけ<br />
もない。<br />
 それでもこうして起き、動き、しっかり会話もできるようになっている。そ<br />
れが眞一郎には何より嬉しかった。<br />
「昨日は、ごめん…」<br />
 様々な想いがある。それを伝えきる術を、比呂美は知らなかった。<br />
「俺の方こそ、何もしてやれなかったのに」<br />
 眞一郎は本気でそう思っていた。<br />
 彼にとっては、比呂美を泣かせ、現実に引き戻して立ち直らせたのは、自分<br />
ではなかった。<br />
 自分の絵で比呂美の心を動かす事はできなかった。それができたのは、母と<br />
の思い出がつまった、比呂美の絵本だった。<br />
 彼はそう思い込んでいた。<br />
「眞一郎くん、今はまだ、つらくて…。きちんとお礼言えない…」<br />
「お礼なんか」<br />
「もうお母さんいないけど…。昨日は死にたかったけど…。生きていこうと思<br />
う…」<br />
 うん、と眞一郎が笑顔で答えた。泣きたいほど嬉しかった。<br />
「なあ、比呂美」<br />
「何?」<br />
「絵本っていいな…」<br />
 眞一郎はしみじみと言った。<br />
「…そうだね」<br />
 比呂美にはなぜ絵本がいいのかは、良くわからなかった。<br />
 彼女は、一生懸命語りかけてくる眞一郎の顔を、目を、唇を、ずっと見続け<br />
ていた。</p>
<p><br />
「お前が小さな頃に好きだった絵本があったから。それを読んだ。覚えてるよ」<br />
 眞一郎は言った。<br />
「眞一郎くんが絵本を読んでくれたおかげで、こうして生きてこれたのよ」<br />
 絵本のおかげで、ではない。それが眞一郎に通じているだろうか。<br />
「大げさだな」<br />
 今日&quot;倉庫&quot;に来てはじめて、苦笑気味の比呂美だった。彼は鈍いのだ。時と<br />
して腹が立って仕方がないほどに。</p>
<p>「それでもこの家具は諦めてたんだけどね。おじさんが、私が大人になるまで<br />
とっておいてくれるって。そのためにこの部屋を借りてくれたのよ。ほら、ア<br />
パートにあるテレビと机は、ここから」<br />
「そうだったのか…。どこから持ってきたんだろうって不思議だった」<br />
 比呂美は洋服ダンスを開けた。<br />
「ほら。服もあるのよ。おかあさんの服、今なら着れるかなあ…」<br />
 この家に入った時の寂しそうな影は、もう比呂美の上には見られなかった。</p>
<p><br />
--------------------------------------------------------------<br />
改稿版について。</p>
<p>大筋は同じですが、表現を多少変えてあります。</p>
<p>以前は時間がなく、中途半端な状態でアップしてしまってすみませんでした。<br />
あれを残してある事が恥ずかしかったのですが、とても手が回らず…。<br />
やっと修正できました。</p>
<p>--------------------------------------------------------------</p>
<p>重い話につき合わせてしまって、すみません。</p>
<p>なんでこんなに長くなるんだろう…。<br />
でも、商業作品じゃないから、いいよね。と自分を慰めてます。orz</p>
<p>たぶん、前回の引きで予想された方は多かったと思います。絵本でした。<br />
「なぜ、眞一郎は絵本作家を目指すのか」これを書いてみたかったのです。</p>
<p> 本編では乃絵との絡みで語られる事が多かった絵本ですが、<br />
本編の構図そのままだと、絵本は乃絵方面、酒蔵は比呂美方面という方向性が<br />
生まれます。比呂美と眞一郎がくっついたとしても、お互いの方向を潰し合う<br />
関係になりかねないわけです。<br />
(潰しあう関係については、三代吉に否定させてみました)</p>
<p> だからこそそこでの葛藤は物語にできるわけですが、そこを<br />
「絵本を描くのも、元々比呂美のためだった」という話にしてみました。<br />
 比呂美スレ的な解釈としては、「絵本作家をめざすのは比呂美のため」<br />
とするのは、考え方の一つになると思います。</p>
<p> 葬式後、眞一郎は自分の「絵」については、ダメだと思い込んでいます。<br />
 そして比呂美の心を動かした「絵本」の力を認めました。(眞一郎らしい誤解です)<br />
 だから比呂美に「絵」は見せる事はなくなり、影で努力して「絵本作家」を<br />
目指すわけです。比呂美のために。<br />
 比呂美に「絵」を見せていたのは、病院での短期間だけとなります。</p>
<p> それから「なぜ比呂美が眞一郎の事をこれほど想うのか」の部分。</p>
<p> 他にも、母の死で比呂美は心を閉ざしかけますが、ここは乃絵との対比。<br />
 乃絵の場合は4番にそこまでの度量がなく、泣く事を肯定してくれなかった<br />
事になります。眞一郎の「未完の大器」論から、そう導きました。</p>
<p> また、過去の同様な経験は、なぜ乃絵が泣けない事に眞一郎があれほど<br />
対応しようとしたのかにも繋がってきます。</p>
<p> 細かい事ですが、本編設定は2010年としてあります。<br />
 それなら(2007~8年産の)大型テレビもアリでしょう。</p>
<p> 本編補完設定は色々仕込んでいますが、ネタバレはこのへんで…  </p>
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