ファーストキス-1

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ファーストキス-1 - (2008/08/09 (土) 02:23:15) のソース

▲[[ファーストキス-序]]

――第一幕『嫌われるかもね』――

★六月十七日(火曜)くもり――

「おはよう」
 おはよう、と三人からそれぞれ返ってくる。
 翌朝、眞一郎が居間に入ったとき、ヒロシ、理恵子、比呂美の食事は終わりかけていた。
 眞一郎が自分の席に腰を下ろそうとすると、箸を置いた比呂美の手が眞一郎の器へと伸
びた。比呂美は、自分の脇においてある電子ジャーとお鍋から、ごはんと味噌汁をよそっ
てあげる。
 いつもと変わらぬ光景。いつもの仲上家の朝食。
 だが、比呂美の心中はいつもと違っていた。
 眞一郎は、比呂美がよそった器に手を伸ばしかけて、違和感を感じた。
「比呂美、逆だよ」
「え、なに?」
 ご飯の器に味噌汁がつがれ、味噌汁の器にごはんがよそってあった。
「あ、ほんと」
といって、比呂美は慌ててすぐその器に手を伸ばしたが、
「いいって、食べにくいことないし」といって眞一郎は、それを制した。
「でも……」
 比呂美は、自分の失敗をすぐ直させてもらえないことに、少し不満を覚えたが、でもこ
の瞬間は、眞一郎の様子を伺うには絶好チャンスだと思った。比呂美は、さりげなく眞一
郎を観察をする――自分に向ける柔らかな表情、瞳の動き、それらは、いつもと変わらな
いように見えた。
 比呂美は、申し訳なさそうに手を引っ込めていったが、眞一郎は、特に気にする風でも
なくそのまま食べだした。
 仲上家では、ごはんと味噌汁用の器は、木製のものを使っている。味噌汁用の方が、口
が若干狭いというだけで見た目はさほど変わらず、考え事をしていれば間違ってもおかし
くはないのだが、比呂美が仲上家に来て以来、彼女がこういう手違いをするのは、初めて
のことだった。
 そんな比呂美を、母・理恵子は、お茶をすすりながら静かに見ていた。
 まもなく比呂美は、食後の合掌をして、食器をひとまとめにして持ち、台所へ向かった。
流しで食器を水につけると、また居間へ戻り、学生鞄を持って居間を出ていく。
「いってきます」
いってらっしゃい、と三人がそれぞれ返す。
 比呂美の廊下を進む足音が聞こえなくなると、理恵子はそそくさと立ち上がり、廊下へ
出て比呂美の後を追った。
 理恵子が比呂美の姿を見たとき、比呂美は、勝手口で靴を履いていた。
「あなた……具合、悪いんじゃないの?」
「え?」
「生理?」と声を落として理恵子はいった。
「い、いえ違います、大丈夫です」
 比呂美は、先ほどの手違いで、これほど心配してくれる理恵子がなんだか可笑しかった
が、理恵子が自分の様子に敏感に反応する理由を、比呂美は理解していた。それを思うと、
嬉しいのやら、疎ましいのやら、複雑な気持ちなった。
 決して比呂美は体調が悪いわけではないが、昨晩なかなか寝付けなかったのは事実。
 眞一郎にかかってきた電話の内容は、それほど大した内容ではないと察していたものの、
眞一郎が昨日のうちに教えてくれなかったことに、比呂美は少し疑問を感じていた。
 今朝の眞一郎の様子は、比呂美が見る限りでは普段となんの変わりもなかった。その様
子から、電話の内容は、他愛もない愛子の店での約束に過ぎないのだろう、と比呂美は思
ったのだが……。
 でも、石動乃絵からの電話と知って盗み聞きしてしまった自分に対して、比呂美は歯痒
さを感じていたのだった。

……石動乃絵からの電話一本で、こんなに、心がぐらつくなんて……

 理恵子はまだ、比呂美をじっと見ていた。
「ほんとに何でもないですから。いってきます」
 比呂美は、少し拗ねたように理恵子に背を向け、勝手口の戸を開けた。
「いってらっしゃい」
 比呂美が外へ出て戸を閉めると、理恵子は少し苦笑して鼻で大きく息を吐いた。
「なに、恥ずかしがってんだか……」

 2―Bの教室。
 今日は少し曇っていた。この時期には珍しく涼しい風が吹いている。

……とにかく、様子を見よう……

 比呂美の席は、一番廊下側の一番後ろ。眞一郎の席は、一番窓際の後ろから三番目。そ
の後ろに野伏三代吉。
 眞一郎と乃絵が何かアイコンタクトすれば、比呂美の席は捕捉しやすい場所にある。休
み時間、廊下を往来する人物を確認しつつ、眞一郎の様子をチェックする比呂美。そうい
うときに限ってうるさく絡んでくる女が、前の席に座っている――そう、朋与だ。朋与も
結構敏感な感覚の持ち主なのだ。(バスケではなかなか発揮されないが)
「比呂美ぃ、なんかきょう、そわそわしてない?」
「べつに……」
 比呂美は、めんどくさそうにそう返すと、朋与は比呂美に顔を近づけて、
「あの日?」
と小声で言う。
 比呂美は、朋与の鼻を指で弾いてやろうかと思ったが、ぐっと堪えた。大人しくしてい
なければ、何かを見落としてしまいそうだったからだ。
 朋与の横槍をかわしつつ、学校へ来るなり索敵を開始した比呂美は、案外早くに昨日の
電話と結ぶつく眞一郎と乃絵の挙動に気づくことになった。
 それは、4時限目の前の休み時間。化学の授業で、実験室に移動してる時だった。
 実験室は、眞一郎らの教室のある校舎と平行に建っている別棟にあり、その別棟は、二
階から30メートルくらいの長さの連絡通路で繋がっていた。
 まばらに移動しだした生徒につられて、眞一郎と三代吉が2―Bの教室を出て行くと、
比呂美たちも席を立ち、眞一郎らの5メートル後方をついていった。
 すぐに一行は、三階から二階に下り、連絡通路に入る。すれ違う生徒が多い。それもそ
のはず、前の時限で2―Aが実験室を使っていたのだった。そう、石動乃絵のクラスだ。
 連絡通路を、十人ほどの生徒がぞろぞろと戻ってきている。乃絵は、まだその中にいな
い。眞一郎たちが連絡通路を三分の一くらい進んだところで、ようやく乃絵が別棟から姿
を現わした。乃絵は、二人の友達と談笑しながら向かってきていた。
 比呂美の鼓動は、少し早まった。石動乃絵との距離が徐々に縮まっていく。
 眞一郎と乃絵の距離が、5メートルくらいになったところで、乃絵は、眞一郎に視線を
送ると、大きく一つ目を瞬かせた。

……きたっ!

 比呂美は、乃絵の顔を注視した。特に牽制する意味を込めたつもりではなかったが、乃
絵は、比呂美の視線に気づくと、すぐに目を逸らした。

……なぜ?

 比呂美の心に広がる疑問。
 比呂美の知っている乃絵は、小柄で華奢だけどもいつも堂々としていた。今まで比呂美
と目が合うことは幾度とあったが、目を逸らすような態度をとったことは、一度もなかっ
た。
 なのに、なぜ、今、目を逸らした? 比呂美は、思わず顔をしかめてしまった。
 あの電話にはやはり何かあるのだろうか――という疑惑が再浮上してきた。
 比呂美の表情に気づいた乃絵は、まるで水面を飛び跳ねるみたいに眞一郎の前へ駆け寄
って、
「仲上君、愛子さんのお店で、夜、渡すから」
と無邪気に声をかけた。
「ぇ、あ、あぁ」
 まさか声をかけてくると思ってもみなかった眞一郎は、思わず反射的に身を反らした。
 昨日の電話で――比呂美に内緒でと言いだしたのは乃絵本人なのに――と眞一郎は、戸
惑いを隠せなかったが、ここでうろたえては、元も子もなくなると思い、比呂美に振り返
りかけたのを止め、平静を装った。比呂美に下手に弁明すると、返って疑念を生んでしま
うと思ったのだ。
 乃絵は、眞一郎に「じゃ」と明るくいって、すぐに連れの友達と一緒に去っていった。
 そのとき、乃絵は、比呂美とすれ違い様に、比呂美の顔をもう一度確認した。
 比呂美は、その気配を微かに感じ取った。
 ふたつのグループが何事もなかったように離れていく。
 乃絵が眞一郎に向けて大きな瞬きをしてからここまで、30秒と経っていない短い時間
の出来事だった。

……どういうこと? なぜ、わたしの目の前で堂々と……

 乃絵にここまで堂々をされたら、逆に疑問に思わない方がおかしい、と思った比呂美は、
聞こえなかった言葉を訊き返すように眞一郎に尋ねた。
「いまの、渡すって、なに?」
「あ、えっとぉ……」と目を逸らす眞一郎。芝居ができないのは、相変わらずだ。

……えぇ? なぜ、口ごもるの……

 眞一郎は、少し顔を赤くして、頭を掻いた。それは比呂美に対して後ろめたさを感じて
いる仕草ではなかった。単にはずかしい、といった仕草だった。
 比呂美は、なぜ、はずかしがるの? と益々分からなくなっていった。
「家帰ったら、ちゃんと見せるから……その……」
「…………」
 比呂美は、眞一郎の言葉を待ったが、
「ちゃんといいなさいよ!」と朋与がいきなり割り込んだ。
「朋与ぉ」
 比呂美は、少し切れかかっていた朋与をなだめる。
「多分あれだと思うんだ、ちゃんと見せるから……ちゃんと……」
 眞一郎は、へへっと苦笑いしながら、比呂美の目を頑張って見てそういった。

……多分あれ? 眞一郎くんもよく分かっていないってこと?

「うん、いいけど……」
 比呂美は、別にどうでもいいよと、気にしない素振りをした。

 昼休み――。
 グラウンドに面した階段のお弁当スポットで、比呂美と朋与はいつものように昼食を取
っていた。
「石動乃絵の逆襲だわ」
 朋与は、箸にソーセージを突き刺して口を尖らせた。さしずめ、このソーセージは乃絵
のつもりなのだろう。
「別に、そんなんじゃ……」
「あのとき、あの子、比呂美から目を逸らしたよね」
「…………」
 やはり、こういうことに鋭い子――朋与は気づいていた。
「それに、なにあれ、あのときの仲上君。エロ本を見つかった少年みたいにドギマギしち
ゃってッ。まったく、あいつはー」
といって唇をかんでいる朋与と同じことを思ってしまった比呂美も、心の中で苦笑した。
「ぜったい、なんかあるよ、比呂美ぃ」
「…………」
 朋与は、売店で買ったコーヒー牛乳をちゅーっと飲んだ。
「渡すって、なにかな? なにかモノだよね、ふつうに考えると」
「うん」
「あ、そうだ、愛子さんのお店でっていってたよね」
「うん。……たぶん、漫画か何かかな。それとも……むかし描いてあげた絵とか……」
 比呂美の最後の言葉に朋与はハッとして、比呂美の顔を覗き込んだ。
「やっぱり、気にしてんじゃない……」
「少しね……」
 比呂美は、正直にそう返した。
 比呂美が素直に気にしていると認めたことで、朋与は悪ふざけの度合いを半分に落とし
た。
「今夜、いってみる? 愛ちゃんの店」
「眞一郎くんに、ああ言われたし……」
「そうね……」
 会話はいったんそこで途切れ、沈黙がつづいた。ふたりは、お弁当を黙々と食べた。

……石動乃絵に、先手を打たれたんだ……

 比呂美は、さっきの乃絵のコンタクト(接触)を冷静に考えていた。

……目を逸らしたのは、わざとだ。
  眞一郎くんも、それに気づいたはず。
  わたしが、なにか感づいていると咄嗟に判断して、
  眞一郎くんに警戒するように合図を送ったんだ。
  だから、眞一郎くんはすぐに振り返らなかったんだ。
  愛ちゃんの店で渡す、って堂々と開き直り、
  他愛もないことと周りの人間に認識させれば、
  わたしが、愛ちゃんの店へ一緒についていくと
  言いだしにくくなる。
  嫉妬深さを露呈するようなものだから。
  もう、今からじゃ、昨日の電話のことも、
  石動乃絵がいつ今日のことを約束したのかも、切りだしにくい。
  うまく切りだせない。
  全て、先手を打たれたんだ……

「朋与ぉ」
「んに?」
 なに、って朋与は返したつもりだったが、ちょうどご飯を流し込んでいるところで、変
な発音になってしまう。
「カレシの電話を盗み聞きしたらどうする?」
 朋与は、一瞬ギョッとしたが、すぐきっぱりと答えた。
「そりゃぁ、一生知らないフリするか、すぐ謝るかでしょ?」
「そうよね」
 比呂美も異論はない。
「でもぉ、なにかのついででバレちゃうと、嫌われるかもね」
と朋与は付け加えた。比呂美はその言葉に息を呑んだ。
「なに、仲上君の話?」
「……うん」
「謝ればぁ? 仲上君、べつに怒んないでしょ? そんくらいで」
「…………」
「そもそもぉ、仲上君って比呂美に怒れるほど度胸あるの?」
 学校での眞一郎は、確かに頼りなく見えたが、それでもえらい言われようだ。
「怒るときは、怒るよ、ふつうに」
 これは、本当だ。
「ふぅ~ん」
 朋与は、売店で買ったコーヒー牛乳をちゅーっと飲んだ。ちょうど中身が終わったらし
く、ズゴーと音を立てる。
 その直後、朋与は、頭の中でなにかが閃いたように比呂美の顔を覗き込んだ。
「まさか! 石動乃絵からの電話を聞いたとか?」
「あっ!」
 玉子焼きが、比呂美の箸からこぼれた。
「あ~もったいな~い」
 玉子焼きは、階段を転げ落ち、地面に達した。
「じべたにでもあげる?」
「……そんな酷いことできないよ」
といった比呂美は、ポーチ(女性がよく持つ小物入れ)からティッシュを取り出した。
 朋与は、んーと考え込んだが、すぐ比呂美の言葉の意味に気づいた。
「そ、そっか、これって共食いになるんだ」
 比呂美は、落ちた玉子焼きをつまみ、ティッシュに包むと、声に出さずに、おばさんご
めんなさい、と謝った。
 朋与は、売店で買った二つ目のコーヒー牛乳をちゅーっと飲んだ。
「それで……あんた……」
 朋与は、ニヤッと笑い、
「朝から、そわそわしてたんだ」と比呂美の顔を覗き込んだ。
「……それだけじゃ……ないけどね……」
 石動乃絵には、完全にやられた、と比呂美は思った。
 石動乃絵が眞一郎と会うことに、抵抗を感じているわけではない。
 骨折した乃絵が退院して、愛子と親しくなり、愛子の店で幾度と眞一郎と乃絵が顔を合
わせていたことは知っていた。眞一郎も、比呂美にきちんと話をしていた。
 今回もそれと同じことだろうと思ったが、昨日からずっと心のモヤモヤが晴れなかった。
 眞一郎の電話を盗み聞きしてしまったという後ろめたさはあったが、とにかく気に入ら
なかったのだ――眞一郎が、昨日の電話のときに『乃絵』と口にしたことが――眞一郎の
部屋で、『乃絵』という波動が広がったことが。
 乃絵は、眞一郎のことを『しんいちろう』とはもう決して呼んでいないというのに。

……わたしも、一度も石動純の名前を口にしたことがないというのに……

 眞一郎の部屋は、比呂美にとって聖域そのものだった。なぜなら、その場所で唯一眞一
郎に甘えることができたからだ――他のだれでもない、眞一郎に。
 今日は涼しい所為か、外で昼食を取ったり、グラウンドで遊んだりする生徒が多かった。
 そんな中、乃絵は、比呂美と朋与のやりとりを遠く離れたところでじっと見ていた。

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