乃絵と比呂美のあいだに2

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前[[乃絵と比呂美のあいだに]] 病院へ行くには、竹やぶのトンネルを抜けて海岸通りに出るのが一番早い。 (眞一郎くん!!) 逢いたい、今すぐ眞一郎に逢いたい!! 比呂美の両脚は普段以上の力を発揮して、悪路を駆け抜けていく。 ……その時…… …………ガサガサッ…ガサッ……ザザッ………… 右側の竹やぶが不穏な音を立てて揺れ、何か塊の様なものが滑り降りてくる。 「!!」 バスケで鍛えた反射神経が反応して、頭が命じるより早く、比呂美の身体は止まった。 塊は人だった。見覚えのあるライトグリーンのコート………… 「比呂美っ!!」 息も絶え絶えの眞一郎が、比呂美の視界に飛び込んでくる。 突然のことに呆然としている比呂美を抱きしめようとする眞一郎だったが、 何かが彼の心にブレーキを掛け、その動作を止めさせる。 比呂美には、それが眞一郎の答えだと思えたが、もう決意が挫けることはなかった。 「母さんが…ハァ、ハァ……比呂美が…血相変えて…飛び出していったって……」 どうやら、おばさんが眞一郎の携帯に連絡して、遭遇を演出したらしい。 (おばさんったら……) 心遣いが嬉しかった。 最短距離を疾走してきたのか、眞一郎はまだ息が整わない様子である。 眞一郎の回復を待っている間に、ふと、辺りを見回す比呂美。 (……そういえば……) 偶然か、それとも必然か……この竹やぶは比呂美の恋が始まった場所だ。 終わるなら……ここが一番ふさわしいかもしれない。 ………… 「石動さん……お加減どうだった?」 「…………」 荒い呼吸が治まってきた眞一郎に問い掛ける比呂美。だが返事はない。 ただ真っ直ぐに……眞一郎は視線を比呂美の両眼に合わせてくる。 「比呂美っ!俺!!」 「待って!!!」 眞一郎の叫びを、もっと大きな比呂美の絶叫が遮る。 眞一郎は『ちゃんと』するつもりだ。どんな形、どんな結果にせよ、約束を守って『ちゃんと』してくれる。 …………でも………… 眞一郎に『してもらう』のは、もう駄目だ。自分が……自分から『ちゃんと』しなければ!! ………… 声の迫力に気圧されて絶句している眞一郎に、比呂美は静かに、だがハッキリと告げる。 「眞一郎くん……先に……私が『ちゃんと』したい」 「眞一郎くん……私ね……」 比呂美は静かに、秘めていた想いを……本当の自分を眞一郎に向けて解き放ち始める。 夏祭りの日、見つけてくれたあの日から……眞一郎に頼りきっていた自分…… それが当たり前なのだと、考えていた自分…… 何もしなくても、眞一郎が助けてくれると思っていた…ズルい自分…… だから…眞一郎に何かをしてあげられる乃絵が嫌いだった。 『兄妹』かもしれない、という壁に阻まれている自分を尻目に、 どんどん眞一郎の中へ入り込んでいく乃絵が憎かった。 眞一郎が『乃絵となら飛べる』ことに、気がついてしまうのが怖かった。 ……置いていかれるのが……怖かった…… 「……比呂美…」 「4番にね…『仲上に付き合えと頼まれた』って聞かされた時……辛かった……死んじゃいたいって思うくらい…」 比呂美の部屋に、初めて眞一郎が入ったあの時……別の何かを期待していた。 でも裏切られて……自分の嘘が原因なのに……悲しくて…… 自棄になって……好きでもない人と付き合って…… そうしたら、また眞一郎が遠退いていって……もっと悲しくなって…… 「おばさんにお母さんの事で責められて……私、ホッとしてた……これで眞一郎くんから逃げ出せるって……」 「…………」 でも眞一郎は必死で追いかけて来てくれた……抱きしめてくれた…… ……嬉しかった……嬉しかった…………本当に…嬉しかった…… 兄妹でも構わない、この人の側にいたい……ずっと…ずっと一緒にいたい……そう願った。 その後すぐ、血の繋がりなど無いと知らされて、想いは止まらなくなった。 でもまだ……自分から飛び込むのは怖くて……眞一郎に追いかけさせる、ズルいやり方を選んでしまった。 「勝ったと思ったの。石動さんから眞一郎くんの心を取り戻したんだって…………でも……違った……」 「…………」 部屋で二人になっても、海に散歩に出掛けても、……唇を重ねても……眞一郎の中から乃絵は消えなかった。 手遅れだったんだ……そう気がついても、待つことしか知らない自分には何も出来なかった。 そして麦端祭り…… 二人の絆を見せ付けられて……置いていかれて…………思い知らされた……。 自分で決める『フリ』だけして……全部、眞一郎に決めさせてきた……飛べない自分に罰が下ったんだって…… 眞一郎は身じろぎもせず、比呂美の想いを受け止めていた。 こんな自分に、眞一郎は真剣に向き合ってくれる……それだけで、比呂美の心は充分に満たされた。 ……あとは……この『想い』を……大きくて、持ちきれない……消せない愛を、眞一郎に……伝えたい…… 「こんなの……もう意味は無いんだって分かってる……でもね……やっぱり眞一郎くんに聞いて欲しい……」 比呂美の震える唇が、彼女の心の全てを載せた言葉を紡ぎだそうとする。 それは、比呂美が本当の意味で、自分の意志で道を選んだ瞬間だった。 「…………私…………私、眞一郎くんのことが!」 その時、話を聞いていた眞一郎が、比呂美との距離を一気に詰め、その身体を抱きしめた。 「!!!!」 抱擁で告白を遮られた比呂美は、刹那、絶望した。……自分は……想いを伝える事さえ許されないのかと……。 だが、悲しみに沈みかけた比呂美の心に、眞一郎の穏やかな声が、まるで福音のように響く。 「……その先の言葉……ちょっとだけ待ってくれ。……俺が、比呂美に『ちゃんと』してから……聞きたい……」 自分自身に向き合い、答えを見つけた比呂美を目にし、眞一郎は思った。 次は自分の番だと。比呂美に全てを……自分の全部を見せる! ……そして、想いを伝えるのは……ふたり一緒でなければ意味がない。……そう、眞一郎は確信していた。 一旦身体を離し、比呂美の目を見つめ直すと、眞一郎は話し始めた。 「ここだよな。あの時の場所……」 その短い言葉だけで、比呂美には眞一郎が何を言いたいのか分かった。黙ってコクリと頷く。 「俺……ずっとお前に謝りたかった」 あの時のこと……ちょっとした悪戯のつもりだったのに……自分は比呂美の心を深く傷つけた。 …………泣かせてしまった………… 下駄を探しに行く事は許してもらえなくて……おぶって歩く力は、まだ無くて…… どうしたらいいのか分からず……比呂美と同じように、片方を裸足にして歩くことしか出来なかった。 ……でも……比呂美はそれを喜んでくれた……笑ってくれた…… 「あの時……俺は決めたのかもしれない……比呂美を…ずっと笑顔にするんだって……」 「…………」 なのに……現実は逆だった。 笑顔になんて出来なかった……自分には何の力も無かったから…… 涙を流さず泣いている比呂美を、ただ見ていることしか出来なかった…… 本当は出来たのに……出来ないと思い込むことが、余計に比呂美を泣かせている事にも気づかなかった。 「そんな時に、アイツが…乃絵が現れたんだ」 「…………」 最初は変な奴だと思った。頭がおかしいに違いないと。 でも、親しくなるにつれて、深く話していくにつれて、乃絵への感情は変わっていった。 乃絵が口にした『飛ぶ』という単語が、心に引っ掛かった。 ……そして……比呂美に乃絵の兄貴が好きだと聞かされて…… 嫉妬して、苛立って、……でもそれが比呂美の望みなら、と思い直して…… なのに4番との仲立ちをしても、比呂美は笑ってくれなくて…… おまけに突然、比呂美と兄妹かもしれない、なんて言われて…… 自分の気持ちも、周りの状況も、どんどんグチャグチャになって…… 「混乱してる俺を見て、乃絵は『一緒に考えたい』って言ってくれた」 「…………」 その頃から、乃絵が自分に向けてくる感情に気づきはじめた。 自分のために用意してくれる弁当。自分のためにした比呂美との喧嘩。 そして、それが確信へと変わったとき……自分が乃絵を大切に思っていることにも気づいた。 「俺は乃絵が好きなんだ…………そう…思うことにしたんだ……」 黙って耳を傾けていた比呂美の表情が曇り、唇が噛み締められた。 自分はあと何度、比呂美を悲しませるのか……それを思うと、僅かながら決心が揺らぐ。 だが、これは避けられない事。比呂美と本当の意味で向き合う為には必要な事なのだ。 気持ちを奮い立たせ、眞一郎は話を続けた。 「でもさ……お前を…お前を諦めることなんて、出来るわけなかった」 比呂美が4番のバイクに乗って消えた時……家を出るといった時…… ……夢中だった。何も考えずに後を追った。 絶対に手放したくないモノ、それが何なのか……思い知った。 …………なのに………… 比呂美と気持ちが通じ合った後も、乃絵が自分の中から消えなかった。 自分は比呂美を一番大切に想っているはずなのに…… ……どうしても……乃絵の事が頭から離れない…… 自分の気持ちが自分で分からない……自分に向き合うことが出来ない…… …………向き合うことが…怖い…… 「ちゃんとするって言ったのに、何もちゃんと出来ない。……でも……それは俺だけじゃなかった」 祭りの前夜、いなくなった乃絵を見つけた時……聞いてしまった。 自分は飛べない……そう力無く呟く乃絵の声を…… 「アイツは……とっくに気づいてたんだ、俺の本心に。そして乃絵も、決める事を怖がっていた……」 ………家に帰って考えた……比呂美のいた部屋で……考えて……考えて……考えて…… ………… 「分かったんだ。俺が本当にしたいこと。俺がアイツにしてやれること。しなければならないこと」 ……それは自分が『飛んで』みせること…… 自分が何に向き合って、自分が何を選んで、自分が何を決めたのか……見せること。 乃絵自身にもそれが出来るのだと……飛ぶことが出来るのだと……彼女自身に分からせること。 ………… ……約束を果たそう……そう思った。乃絵とした二つの約束を。 その時、『雷轟丸と地べたの物語』のラストが見えた。 麦端踊りの本番……乃絵のために、舞の全てに魂を込めると決めた。 乃絵のお陰で自分は飛べた!その事を見せたかった! ……比呂美を傷つける……それを承知の上で…………その方法しか、自分には無かったから…… 黙って聞いていた比呂美の口から、吐息のように声が漏れる。 「……石動さんは……『飛べた』の?」 眞一郎は、優しい眼差しでゆっくりと頷く。 「……飛べた……俺も一緒に『飛んだ』。…………さよなら……したんだ。二人で」 乃絵との終焉を告げる眞一郎の言葉に、比呂美の心が激しく揺れる。 「俺は……不器用だからさ……乃絵と『ちゃんと』するまでは、お前と向き合えなかった……」 「…………」 消えると思っていた恋が……終わると覚悟してた愛が……また…繋がっていく…予感…… 比呂美は胸を震わせて、眞一郎の言葉を聞いていた。 「俺、『ちゃんと』した。……ちゃんと出来たんだ……   だから……俺が何を決めたか、何をしたいか……お前に……比呂美に聞いて欲しい……」 一陣の風が吹きぬけ、竹のトンネルをサワサワと鳴らす。 その隙間から差し込む蒼い月光が、両眼いっぱいに蓄えられた比呂美の涙を、キラキラと光らせていた。 「引越しの前に見た絵のこと……覚えてるか?」 身体を喜びで震わせながら、頷く比呂美。 忘れるはずがない。……比呂美が初めて目にした眞一郎の絵……とても奇麗な絵…… 赤く染まった空……とても広い空が、大粒の涙を流して泣いていた…… そして、その空を見上げる少女の後ろ姿…… きっと……きっと泣いている…少女の…… 彼女は自分なのだと、比呂美には分かっていた。 何度も、何度も塗り重ねられた絵の具と紙の傷み具合…… それが自分を見つめ続けてくれた、眞一郎の時間の長さを物語っていた。 書き添えられた文章も、ハッキリと思い出せる。 ………… 「……ぼ…僕の……中の…き、君は…………いつ……いつも泣い……グスッ………泣いていて……」 浮かんでくる言の葉を紡ぎだそうとする比呂美だったが、こみ上げてくる嗚咽が、その声を詰まらせる。 眞一郎はその後を引き受け、自分の『想い』を比呂美に告げた。 「……君の涙を…………僕は…拭いたいと思う……」 比呂美の頬に眞一郎のしなやかな指が伸ばされ、零れ落ちる透明な雫を優しく拭った。 「……君の…………比呂美の…涙を……」 「!!!!」 互いの身体全体をぶつけ逢う様にして、眞一郎と比呂美は抱き逢った。 どちらからともなく求め逢う……相手の唇…… 溶け逢い、交じり逢う……眞一郎と比呂美の気持ち。 伝え逢う、お互いの存在と温もり…… ……そして……二人の内側からこみ上げ、溢れ出す、気持ち………… 「……比呂美…愛してる……ずっと、ずっと前から…お前が好きだった」 「……私も……私も…ずっと前からあなたが好き……眞一郎くん……愛してる……」 ………… ………… 風に揺られる笹の葉の音が、柔らかいメロディとなって二人を包み込む。 世界が奏でる優しい音楽を聞きながら、眞一郎と比呂美は、時間を忘れて抱き逢った。 もう決して離さない……もう決して離れない…… 誰かにではなく、自分たちの心に宣言する揺ぎない決意。 …………二人で向き合い、二人で決めた………… それが仲上眞一郎と湯浅比呂美が共に見つけた、『飛ぶ』ことの答えだった。 幾日かの時が流れ、麦端の街に春が近づいていた。 眞一郎たちは一学年を修了し、今は春休みである。 だが、黒部朋与の姿だけが、どういう訳か人気の無い校舎内にあった。 (あぁ……やっと終わった……。これで何とか進級できる……) 数Bの授業時間、その殆どを大口を開けて眠りこけていた朋与は、当然のごとく、期末試験で赤点を取った。 本来なら、もう一度一年生をやるべきところなのだが、担当教師の温情もあり、休み中の補習で免罪となったのだ。 (それにしても、あの二人……許せん!) 自分の愛らしい寝顔を見て、眞一郎は比呂美に、あろう事か『封印された妖怪』と報告したらしい。 その話を、比呂美がうっかり口を滑らせてあさみに喋ったのが運の尽き。 あさみから真由へ、真由から美紀子へ、そしてまた別の生徒へと伝わる内に、 学年中に『大口妖怪・黒部朋与』の名が知れ渡ってしまった。 (その妖怪と『あんなこと』したくせにっ!ム・カ・ツ・ク!!) ……と、内心で毒づいてみたものの……やっぱり眞一郎は嫌いになれない…… そんな風に考える自分自身が、朋与はちょっとだけ好きだった。 (さて、用も済んだし、アホな事考えてないで帰ろ) 渡り廊下を通り、玄関へと向かう。 フッと眼を向けた鶏小屋の前に、朋与は見覚えのある赤いコートを見つけた。 (…………石動……乃絵……) 麦端祭りの日に、赤い実の木から転落した乃絵は、ついに学年の修了まで、学校に姿を現さなかった。 最初は軽傷と診断されたが、検査の結果、頭部にダメージが発見されて、入院が長期化したのだ。 最終的には問題なしとなったらしいが、結局、終了式にも間に合わなかった。 おまけに、就職が決まった兄にくっついて、東京に転校してしまうらしい。 (しかし……ほぼ無関係だった私が、これだけ情報を得てるってのも凄いわね……) 石動乃絵の噂は千里を走る……なんだかんだ言って人気者だった……という事なのだろう。 (また鶏に餌をあげてんのかな?) 確か『地べた』とかいったか。 凄い名前だよね~、などと考えて乃絵を見ている内に……朋与は何やら、乃絵に話し掛けたくなってきた。 驚かさないように、慎重に乃絵に近づく。 「石動乃絵……さん」 しゃがみ込んでいた乃絵が、朋与の声に反応して、ピョンと立ち上がる。 振り向いた乃絵の顔を見て、朋与は少し驚いた。表情が……全然違う。 「黒部さん、こんにちわ!」 信じられないことに、乃絵は朋与の名を『さん付け』で呼び、ニッコリと微笑んだ。 (目つきだ……目つきが全然違う……) 朋与は乃絵の眼が大嫌いだった。 超然と人の上に立ち、他者を見下ろして値踏みするような……そんな眼をしていたのに…… 固まっている朋与に、乃絵は屈託の無い笑顔を向けてくる。かつて、眞一郎だけに向けていた笑顔を。 「ちょっと意外……私の名前、覚えてたんだ?」 「湯浅さんに紹介してもらったじゃない」 と、乃絵はまた笑う。あれだけ敵意を剥き出しにしていた比呂美にも『さん付け』だ。 (どうなってんの?) 朋与は自分の中に、僅かに残っていた乃絵への悪意が、スッと抜けてしまうを感じた。 思わず友達に訊く様に、素直に質問をぶつけてしまう。 「石動さん……凄く変わった。なんで?何があったの?」 乃絵は笑顔のまま、「いろいろ」とだけ答えた。 (いろいろ……いろいろ…か……) 自分は『それ』を訊いては駄目なんだろうな……そう朋与は思う。 きっとその『いろいろ』には、眞一郎と比呂美のことが沢山含まれている。ほとんど全部かもしれない。 ……自分は眞一郎を『諦める』ことを選択した。 その自分が三人の……三人だけの秘めた出来事に嘴を突っ込んではいけない…… ………… 朋与は少し開きかけた心の鍵を閉めなおし、気分と話題を切り替えた。 「転校……しちゃうんだってね……」 「えぇ。これからすぐ出発だから、地べたにお別れを言いに来たの」 「そう……って!これからすぐ?」 乃絵の話では、荷物は既に引き払ってしまい、4番のバイクでツーリングがてら、東京に向かうとの事。 一緒に行くとはいっても、向こうに着けば乃絵は母親と、4番はひとりで暮らすらしい。 「兄妹で最後のツーリングなの。凄く楽しみ!」 ………… どうしてか朋与には、乃絵が無理にはしゃいでいる様に見えて仕方なかった。 地べたに会いに来たなんて言っているが、本当は……本当は別の誰かに逢いたかったのではないのか? 「…………いいの?……逢っていかなくて…」 思わず、朋与は訊いてしまった。刹那…乃絵の眼が昔の魔女めいたモノに変わったが、すぐに元に戻った。 少し俯いてから、ちょっとだけ悲しみを混ぜ込んだ笑顔を朋与に向ける乃絵。 「眞一郎は…………眞一郎は、私が飛べるって…教えてくれた。だからもう、いいの」 飛べる……眞一郎が『あの時』言っていた言葉…… (そうか……) 朋与は理解した。乃絵が変わった理由、眞一郎と比呂美が、どこか以前と違う理由を……。 (……みんな……飛べたんだ……) 何がどうなったのか、朋与は知らないし分からない。 ただ、三人が何かを乗り越えて、一歩前に踏み出せた…… それを知る事が出来たのは……嬉しい。朋与は素直にそう感じた。表情が……自然と柔らかくなる。 その様子を見て、突然、乃絵が朋与の前に回り込んだ。 朋与の左手を、その小さな両手で包み、祈るように目を閉じる。 なんだろう?とは思ったが、悪い感じはしなかったので、朋与はそのまま乃絵のしたいようにさせた。 「ありがとう。……あの時、眞一郎を助けてくれたの……あなたでしょ?」 一瞬で朋与の顔が茹でたタコのように真っ赤になった。 口をパクつかせ、何かを喋ろうとするが、言葉にならない。 そんな朋与を見て、乃絵の顔も真っ赤になってしまう。 「ご、ごめんなさい!その…詳しく知ってるわけじゃなくて!あの……」 二人の少女は手を繋いだまま俯き、硬直してしまった。 先に気持ちが落ち着いてきた朋与が、乃絵の様子を伺う。 小さな唇を真一文字に結んで赤くなっている様子は、カエルみたいで可愛かった。 思わず吹き出して笑ってしまう。そして乃絵も、朋与の笑い声に釣られて、大声で笑い出した。 ………… ………… 「お礼が言いたかったの。……私には、出来ない事だったから……」 笑い疲れてまだ呼吸を荒くしている朋与に、乃絵は静かにそう呟いた。 乃絵の真剣な感謝の気持ち……でも、そのまま返すのは……ちょっと照れくさい。 「男ってさぁ……」 「?」 「……面倒くさいよね~」 また笑い出す二人。朋与も乃絵も、相手が同じ男の顔を思い浮かべて笑っていると知っている。 (…………) 何だろうか、この不思議な気持ちは…… あれほど嫌いだった乃絵に、自分は共感している。 もしかすると自分の気持ちは、比呂美より乃絵に近いのかもしれない……そんな風に朋与は感じ始めていた。 「乃絵ーもう行くぞぉー」 声のする方に視線を向けると、4番……石動純が乃絵を呼んでいた。 今行く!と叫び返すと、乃絵は朋与に向き直る。 「行くわ。…………最後に会えたのが、あなたで良かった」 そう言うと、兄のいる方向へ駆け出す乃絵。 「ちょっ……待ってよ!!」 朋与もその後を追って駆け出す。 結局、朋与は麦端高校の校門から出発する石動兄妹を見送ることになった。 ビッグスクーターのアイドリング音が辺りに響く。 出発の準備をする石動兄妹を見ながら、旅といっても普段とあまり変わらないんだな、と朋与は思った。 「あんた……9番だったよな」 「え?」 4番が自分の存在を気にしていたとは意外だったので、朋与は少し驚いた。 「フリースローの時、重心が右にブレてる。気持ち、左に寄せて打ってみろ。……もっと入るようになる」 そう朋与にアドバイスを送り、「見送りの礼だ」と言って4番は笑った。 「準備できたわ、お兄ちゃん」 ヘルメットとゴーグルをつけた乃絵が、タンデムシートに跨る。 「たまには地べたに会いに行ってやって。寂しがるから」 乃絵は振り返って朋与を見ると、そう告げた。 「……うん、わかった」 「……じゃあ……黒部さん……」 苗字で呼びかける乃絵に、朋与は首を横に振った。 「『朋与』だよ。……友達は下の名前で呼び合う事。……分かった?」 満面の笑顔で喜びを表す乃絵。 ゴーグルの奥がキラリと光ったように見えたが、それは朋与の気のせいだったかも知れない。 「さよなら!朋与!」 「うん、元気で!乃絵!」 排気音が大きくなり、ビッグスクーターは滑るように走り出す。 東京へ……乃絵と純の新天地へ向かって。 徐々にスピードを上げていく車影。その姿は見る見る小さくなっていく。 「乃絵ぇぇ~!!」 遠ざかっていく赤いコートに向かって、朋与は両腕を振り回して合図を送った。 乃絵も純にしがみついたまま、左手を朋与に向かって振り続ける。 ……そして……ふたりは春の訪れを告げる暖かな風にのって、麦端の街を旅立っていた。 ………… ………… 「……行っちゃった」 フッとため息を吐いてから、つくづく朋与は思う。なんと慌ただしい人生なのだろうと。 眞一郎との四時間だけの恋愛…… 乃絵との十五分だけの友情…… (私、役に立ってるのかな……) などとガラにもなく考えかけて、すぐに止める。 ウジウジするなんて自分には似合わない。そんなことは比呂美に任せておこうと。 ……比呂美に…………比呂美? 朋与の脳みその中にある電球が、ピカッと輝いた。 携帯を取り出し、アドレスから比呂美の番号を素早く呼び出す。 (アイツら最近、調子にのってるからな~。ここらでチョットお仕置きだべぇ~) 受話口に耳をあてながら、乃絵の話をしたら二人にどんな波風が立つだろう、と想像を膨らませる朋与。 ……でも、本当は知っている。もう眞一郎と比呂美の間がひび割れる事が無いのを……朋与は知っている。 だからこれは、ほんの些細なイタズラ。二人に『妖怪』にされたのだ。この位はしたっていいじゃないか。 《ハイ、もしもし》 「あ、比呂美?アタシだけど~」 比呂美と話しながら朋与は、乃絵の去っていた方向に眼をやった。 ……彼女の向かった新しい場所が、優しい世界でありますように…… そんな気持ちを視線に込め、朋与は『十五分だけの親友』に暫く思いを馳せていた。 つづく
前[[乃絵と比呂美のあいだに]] 病院へ行くには、竹やぶのトンネルを抜けて海岸通りに出るのが一番早い。 (眞一郎くん!!) 逢いたい、今すぐ眞一郎に逢いたい!! 比呂美の両脚は普段以上の力を発揮して、悪路を駆け抜けていく。 ……その時…… …………ガサガサッ…ガサッ……ザザッ………… 右側の竹やぶが不穏な音を立てて揺れ、何か塊の様なものが滑り降りてくる。 「!!」 バスケで鍛えた反射神経が反応して、頭が命じるより早く、比呂美の身体は止まった。 塊は人だった。見覚えのあるライトグリーンのコート………… 「比呂美っ!!」 息も絶え絶えの眞一郎が、比呂美の視界に飛び込んでくる。 突然のことに呆然としている比呂美を抱きしめようとする眞一郎だったが、 何かが彼の心にブレーキを掛け、その動作を止めさせる。 比呂美には、それが眞一郎の答えだと思えたが、もう決意が挫けることはなかった。 「母さんが…ハァ、ハァ……比呂美が…血相変えて…飛び出していったって……」 どうやら、おばさんが眞一郎の携帯に連絡して、遭遇を演出したらしい。 (おばさんったら……) 心遣いが嬉しかった。 最短距離を疾走してきたのか、眞一郎はまだ息が整わない様子である。 眞一郎の回復を待っている間に、ふと、辺りを見回す比呂美。 (……そういえば……) 偶然か、それとも必然か……この竹やぶは比呂美の恋が始まった場所だ。 終わるなら……ここが一番ふさわしいかもしれない。 ………… 「石動さん……お加減どうだった?」 「…………」 荒い呼吸が治まってきた眞一郎に問い掛ける比呂美。だが返事はない。 ただ真っ直ぐに……眞一郎は視線を比呂美の両眼に合わせてくる。 「比呂美っ!俺!!」 「待って!!!」 眞一郎の叫びを、もっと大きな比呂美の絶叫が遮る。 眞一郎は『ちゃんと』するつもりだ。どんな形、どんな結果にせよ、約束を守って『ちゃんと』してくれる。 …………でも………… 眞一郎に『してもらう』のは、もう駄目だ。自分が……自分から『ちゃんと』しなければ!! ………… 声の迫力に気圧されて絶句している眞一郎に、比呂美は静かに、だがハッキリと告げる。 「眞一郎くん……先に……私が『ちゃんと』したい」 「眞一郎くん……私ね……」 比呂美は静かに、秘めていた想いを……本当の自分を眞一郎に向けて解き放ち始める。 夏祭りの日、見つけてくれたあの日から……眞一郎に頼りきっていた自分…… それが当たり前なのだと、考えていた自分…… 何もしなくても、眞一郎が助けてくれると思っていた…ズルい自分…… だから…眞一郎に何かをしてあげられる乃絵が嫌いだった。 『兄妹』かもしれない、という壁に阻まれている自分を尻目に、 どんどん眞一郎の中へ入り込んでいく乃絵が憎かった。 眞一郎が『乃絵となら飛べる』ことに、気がついてしまうのが怖かった。 ……置いていかれるのが……怖かった…… 「……比呂美…」 「4番にね…『仲上に付き合えと頼まれた』って聞かされた時……辛かった……死んじゃいたいって思うくらい…」 比呂美の部屋に、初めて眞一郎が入ったあの時……別の何かを期待していた。 でも裏切られて……自分の嘘が原因なのに……悲しくて…… 自棄になって……好きでもない人と付き合って…… そうしたら、また眞一郎が遠退いていって……もっと悲しくなって…… 「おばさんにお母さんの事で責められて……私、ホッとしてた……これで眞一郎くんから逃げ出せるって……」 「…………」 でも眞一郎は必死で追いかけて来てくれた……抱きしめてくれた…… ……嬉しかった……嬉しかった…………本当に…嬉しかった…… 兄妹でも構わない、この人の側にいたい……ずっと…ずっと一緒にいたい……そう願った。 その後すぐ、血の繋がりなど無いと知らされて、想いは止まらなくなった。 でもまだ……自分から飛び込むのは怖くて……眞一郎に追いかけさせる、ズルいやり方を選んでしまった。 「勝ったと思ったの。石動さんから眞一郎くんの心を取り戻したんだって…………でも……違った……」 「…………」 部屋で二人になっても、海に散歩に出掛けても、……唇を重ねても……眞一郎の中から乃絵は消えなかった。 手遅れだったんだ……そう気がついても、待つことしか知らない自分には何も出来なかった。 そして麦端祭り…… 二人の絆を見せ付けられて……置いていかれて…………思い知らされた……。 自分で決める『フリ』だけして……全部、眞一郎に決めさせてきた……飛べない自分に罰が下ったんだって…… 眞一郎は身じろぎもせず、比呂美の想いを受け止めていた。 こんな自分に、眞一郎は真剣に向き合ってくれる……それだけで、比呂美の心は充分に満たされた。 ……あとは……この『想い』を……大きくて、持ちきれない……消せない愛を、眞一郎に……伝えたい…… 「こんなの……もう意味は無いんだって分かってる……でもね……やっぱり眞一郎くんに聞いて欲しい……」 比呂美の震える唇が、彼女の心の全てを載せた言葉を紡ぎだそうとする。 それは、比呂美が本当の意味で、自分の意志で道を選んだ瞬間だった。 「…………私…………私、眞一郎くんのことが!」 その時、話を聞いていた眞一郎が、比呂美との距離を一気に詰め、その身体を抱きしめた。 「!!!!」 抱擁で告白を遮られた比呂美は、刹那、絶望した。……自分は……想いを伝える事さえ許されないのかと……。 だが、悲しみに沈みかけた比呂美の心に、眞一郎の穏やかな声が、まるで福音のように響く。 「……その先の言葉……ちょっとだけ待ってくれ。……俺が、比呂美に『ちゃんと』してから……聞きたい……」 自分自身に向き合い、答えを見つけた比呂美を目にし、眞一郎は思った。 次は自分の番だと。比呂美に全てを……自分の全部を見せる! ……そして、想いを伝えるのは……ふたり一緒でなければ意味がない。……そう、眞一郎は確信していた。 一旦身体を離し、比呂美の目を見つめ直すと、眞一郎は話し始めた。 「ここだよな。あの時の場所……」 その短い言葉だけで、比呂美には眞一郎が何を言いたいのか分かった。黙ってコクリと頷く。 「俺……ずっとお前に謝りたかった」 あの時のこと……ちょっとした悪戯のつもりだったのに……自分は比呂美の心を深く傷つけた。 …………泣かせてしまった………… 下駄を探しに行く事は許してもらえなくて……おぶって歩く力は、まだ無くて…… どうしたらいいのか分からず……比呂美と同じように、片方を裸足にして歩くことしか出来なかった。 ……でも……比呂美はそれを喜んでくれた……笑ってくれた…… 「あの時……俺は決めたのかもしれない……比呂美を…ずっと笑顔にするんだって……」 「…………」 なのに……現実は逆だった。 笑顔になんて出来なかった……自分には何の力も無かったから…… 涙を流さず泣いている比呂美を、ただ見ていることしか出来なかった…… 本当は出来たのに……出来ないと思い込むことが、余計に比呂美を泣かせている事にも気づかなかった。 「そんな時に、アイツが…乃絵が現れたんだ」 「…………」 最初は変な奴だと思った。頭がおかしいに違いないと。 でも、親しくなるにつれて、深く話していくにつれて、乃絵への感情は変わっていった。 乃絵が口にした『飛ぶ』という単語が、心に引っ掛かった。 ……そして……比呂美に乃絵の兄貴が好きだと聞かされて…… 嫉妬して、苛立って、……でもそれが比呂美の望みなら、と思い直して…… なのに4番との仲立ちをしても、比呂美は笑ってくれなくて…… おまけに突然、比呂美と兄妹かもしれない、なんて言われて…… 自分の気持ちも、周りの状況も、どんどんグチャグチャになって…… 「混乱してる俺を見て、乃絵は『一緒に考えたい』って言ってくれた」 「…………」 その頃から、乃絵が自分に向けてくる感情に気づきはじめた。 自分のために用意してくれる弁当。自分のためにした比呂美との喧嘩。 そして、それが確信へと変わったとき……自分が乃絵を大切に思っていることにも気づいた。 「俺は乃絵が好きなんだ…………そう…思うことにしたんだ……」 黙って耳を傾けていた比呂美の表情が曇り、唇が噛み締められた。 自分はあと何度、比呂美を悲しませるのか……それを思うと、僅かながら決心が揺らぐ。 だが、これは避けられない事。比呂美と本当の意味で向き合う為には必要な事なのだ。 気持ちを奮い立たせ、眞一郎は話を続けた。 「でもさ……お前を…お前を諦めることなんて、出来るわけなかった」 比呂美が4番のバイクに乗って消えた時……家を出るといった時…… ……夢中だった。何も考えずに後を追った。 絶対に手放したくないモノ、それが何なのか……思い知った。 …………なのに………… 比呂美と気持ちが通じ合った後も、乃絵が自分の中から消えなかった。 自分は比呂美を一番大切に想っているはずなのに…… ……どうしても……乃絵の事が頭から離れない…… 自分の気持ちが自分で分からない……自分に向き合うことが出来ない…… …………向き合うことが…怖い…… 「ちゃんとするって言ったのに、何もちゃんと出来ない。……でも……それは俺だけじゃなかった」 祭りの前夜、いなくなった乃絵を見つけた時……聞いてしまった。 自分は飛べない……そう力無く呟く乃絵の声を…… 「アイツは……とっくに気づいてたんだ、俺の本心に。そして乃絵も、決める事を怖がっていた……」 ………家に帰って考えた……比呂美のいた部屋で……考えて……考えて……考えて…… ………… 「分かったんだ。俺が本当にしたいこと。俺がアイツにしてやれること。しなければならないこと」 ……それは自分が『飛んで』みせること…… 自分が何に向き合って、自分が何を選んで、自分が何を決めたのか……見せること。 乃絵自身にもそれが出来るのだと……飛ぶことが出来るのだと……彼女自身に分からせること。 ………… ……約束を果たそう……そう思った。乃絵とした二つの約束を。 その時、『雷轟丸と地べたの物語』のラストが見えた。 麦端踊りの本番……乃絵のために、舞の全てに魂を込めると決めた。 乃絵のお陰で自分は飛べた!その事を見せたかった! ……比呂美を傷つける……それを承知の上で…………その方法しか、自分には無かったから…… 黙って聞いていた比呂美の口から、吐息のように声が漏れる。 「……石動さんは……『飛べた』の?」 眞一郎は、優しい眼差しでゆっくりと頷く。 「……飛べた……俺も一緒に『飛んだ』。…………さよなら……したんだ。二人で」 乃絵との終焉を告げる眞一郎の言葉に、比呂美の心が激しく揺れる。 「俺は……不器用だからさ……乃絵と『ちゃんと』するまでは、お前と向き合えなかった……」 「…………」 消えると思っていた恋が……終わると覚悟してた愛が……また…繋がっていく…予感…… 比呂美は胸を震わせて、眞一郎の言葉を聞いていた。 「俺、『ちゃんと』した。……ちゃんと出来たんだ……   だから……俺が何を決めたか、何をしたいか……お前に……比呂美に聞いて欲しい……」 一陣の風が吹きぬけ、竹のトンネルをサワサワと鳴らす。 その隙間から差し込む蒼い月光が、両眼いっぱいに蓄えられた比呂美の涙を、キラキラと光らせていた。 「引越しの前に見た絵のこと……覚えてるか?」 身体を喜びで震わせながら、頷く比呂美。 忘れるはずがない。……比呂美が初めて目にした眞一郎の絵……とても奇麗な絵…… 赤く染まった空……とても広い空が、大粒の涙を流して泣いていた…… そして、その空を見上げる少女の後ろ姿…… きっと……きっと泣いている…少女の…… 彼女は自分なのだと、比呂美には分かっていた。 何度も、何度も塗り重ねられた絵の具と紙の傷み具合…… それが自分を見つめ続けてくれた、眞一郎の時間の長さを物語っていた。 書き添えられた文章も、ハッキリと思い出せる。 ………… 「……ぼ…僕の……中の…き、君は…………いつ……いつも泣い……グスッ………泣いていて……」 浮かんでくる言の葉を紡ぎだそうとする比呂美だったが、こみ上げてくる嗚咽が、その声を詰まらせる。 眞一郎はその後を引き受け、自分の『想い』を比呂美に告げた。 「……君の涙を…………僕は…拭いたいと思う……」 比呂美の頬に眞一郎のしなやかな指が伸ばされ、零れ落ちる透明な雫を優しく拭った。 「……君の…………比呂美の…涙を……」 「!!!!」 互いの身体全体をぶつけ逢う様にして、眞一郎と比呂美は抱き逢った。 どちらからともなく求め逢う……相手の唇…… 溶け逢い、交じり逢う……眞一郎と比呂美の気持ち。 伝え逢う、お互いの存在と温もり…… ……そして……二人の内側からこみ上げ、溢れ出す、気持ち………… 「……比呂美…愛してる……ずっと、ずっと前から…お前が好きだった」 「……私も……私も…ずっと前からあなたが好き……眞一郎くん……愛してる……」 ………… ………… 風に揺られる笹の葉の音が、柔らかいメロディとなって二人を包み込む。 世界が奏でる優しい音楽を聞きながら、眞一郎と比呂美は、時間を忘れて抱き逢った。 もう決して離さない……もう決して離れない…… 誰かにではなく、自分たちの心に宣言する揺ぎない決意。 …………二人で向き合い、二人で決めた………… それが仲上眞一郎と湯浅比呂美が共に見つけた、『飛ぶ』ことの答えだった。 幾日かの時が流れ、麦端の街に春が近づいていた。 眞一郎たちは一学年を修了し、今は春休みである。 だが、黒部朋与の姿だけが、どういう訳か人気の無い校舎内にあった。 (あぁ……やっと終わった……。これで何とか進級できる……) 数Bの授業時間、その殆どを大口を開けて眠りこけていた朋与は、当然のごとく、期末試験で赤点を取った。 本来なら、もう一度一年生をやるべきところなのだが、担当教師の温情もあり、休み中の補習で免罪となったのだ。 (それにしても、あの二人……許せん!) 自分の愛らしい寝顔を見て、眞一郎は比呂美に、あろう事か『封印された妖怪』と報告したらしい。 その話を、比呂美がうっかり口を滑らせてあさみに喋ったのが運の尽き。 あさみから真由へ、真由から美紀子へ、そしてまた別の生徒へと伝わる内に、 学年中に『大口妖怪・黒部朋与』の名が知れ渡ってしまった。 (その妖怪と『あんなこと』したくせにっ!ム・カ・ツ・ク!!) ……と、内心で毒づいてみたものの……やっぱり眞一郎は嫌いになれない…… そんな風に考える自分自身が、朋与はちょっとだけ好きだった。 (さて、用も済んだし、アホな事考えてないで帰ろ) 渡り廊下を通り、玄関へと向かう。 フッと眼を向けた鶏小屋の前に、朋与は見覚えのある赤いコートを見つけた。 (…………石動……乃絵……) 麦端祭りの日に、赤い実の木から転落した乃絵は、ついに学年の修了まで、学校に姿を現さなかった。 最初は軽傷と診断されたが、検査の結果、頭部にダメージが発見されて、入院が長期化したのだ。 最終的には問題なしとなったらしいが、結局、終了式にも間に合わなかった。 おまけに、就職が決まった兄にくっついて、東京に転校してしまうらしい。 (しかし……ほぼ無関係だった私が、これだけ情報を得てるってのも凄いわね……) 石動乃絵の噂は千里を走る……なんだかんだ言って人気者だった……という事なのだろう。 (また鶏に餌をあげてんのかな?) 確か『地べた』とかいったか。 凄い名前だよね~、などと考えて乃絵を見ている内に……朋与は何やら、乃絵に話し掛けたくなってきた。 驚かさないように、慎重に乃絵に近づく。 「石動乃絵……さん」 しゃがみ込んでいた乃絵が、朋与の声に反応して、ピョンと立ち上がる。 振り向いた乃絵の顔を見て、朋与は少し驚いた。表情が……全然違う。 「黒部さん、こんにちわ!」 信じられないことに、乃絵は朋与の名を『さん付け』で呼び、ニッコリと微笑んだ。 (目つきだ……目つきが全然違う……) 朋与は乃絵の眼が大嫌いだった。 超然と人の上に立ち、他者を見下ろして値踏みするような……そんな眼をしていたのに…… 固まっている朋与に、乃絵は屈託の無い笑顔を向けてくる。かつて、眞一郎だけに向けていた笑顔を。 「ちょっと意外……私の名前、覚えてたんだ?」 「湯浅さんに紹介してもらったじゃない」 と、乃絵はまた笑う。あれだけ敵意を剥き出しにしていた比呂美にも『さん付け』だ。 (どうなってんの?) 朋与は自分の中に、僅かに残っていた乃絵への悪意が、スッと抜けてしまうを感じた。 思わず友達に訊く様に、素直に質問をぶつけてしまう。 「石動さん……凄く変わった。なんで?何があったの?」 乃絵は笑顔のまま、「いろいろ」とだけ答えた。 (いろいろ……いろいろ…か……) 自分は『それ』を訊いては駄目なんだろうな……そう朋与は思う。 きっとその『いろいろ』には、眞一郎と比呂美のことが沢山含まれている。ほとんど全部かもしれない。 ……自分は眞一郎を『諦める』ことを選択した。 その自分が三人の……三人だけの秘めた出来事に嘴を突っ込んではいけない…… ………… 朋与は少し開きかけた心の鍵を閉めなおし、気分と話題を切り替えた。 「転校……しちゃうんだってね……」 「えぇ。これからすぐ出発だから、地べたにお別れを言いに来たの」 「そう……って!これからすぐ?」 乃絵の話では、荷物は既に引き払ってしまい、4番のバイクでツーリングがてら、東京に向かうとの事。 一緒に行くとはいっても、向こうに着けば乃絵は母親と、4番はひとりで暮らすらしい。 「兄妹で最後のツーリングなの。凄く楽しみ!」 ………… どうしてか朋与には、乃絵が無理にはしゃいでいる様に見えて仕方なかった。 地べたに会いに来たなんて言っているが、本当は……本当は別の誰かに逢いたかったのではないのか? 「…………いいの?……逢っていかなくて…」 思わず、朋与は訊いてしまった。刹那…乃絵の眼が昔の魔女めいたモノに変わったが、すぐに元に戻った。 少し俯いてから、ちょっとだけ悲しみを混ぜ込んだ笑顔を朋与に向ける乃絵。 「眞一郎は…………眞一郎は、私が飛べるって…教えてくれた。だからもう、いいの」 飛べる……眞一郎が『あの時』言っていた言葉…… (そうか……) 朋与は理解した。乃絵が変わった理由、眞一郎と比呂美が、どこか以前と違う理由を……。 (……みんな……飛べたんだ……) 何がどうなったのか、朋与は知らないし分からない。 ただ、三人が何かを乗り越えて、一歩前に踏み出せた…… それを知る事が出来たのは……嬉しい。朋与は素直にそう感じた。表情が……自然と柔らかくなる。 その様子を見て、突然、乃絵が朋与の前に回り込んだ。 朋与の左手を、その小さな両手で包み、祈るように目を閉じる。 なんだろう?とは思ったが、悪い感じはしなかったので、朋与はそのまま乃絵のしたいようにさせた。 「ありがとう。……あの時、眞一郎を助けてくれたの……あなたでしょ?」 一瞬で朋与の顔が茹でたタコのように真っ赤になった。 口をパクつかせ、何かを喋ろうとするが、言葉にならない。 そんな朋与を見て、乃絵の顔も真っ赤になってしまう。 「ご、ごめんなさい!その…詳しく知ってるわけじゃなくて!あの……」 二人の少女は手を繋いだまま俯き、硬直してしまった。 先に気持ちが落ち着いてきた朋与が、乃絵の様子を伺う。 小さな唇を真一文字に結んで赤くなっている様子は、カエルみたいで可愛かった。 思わず吹き出して笑ってしまう。そして乃絵も、朋与の笑い声に釣られて、大声で笑い出した。 ………… ………… 「お礼が言いたかったの。……私には、出来ない事だったから……」 笑い疲れてまだ呼吸を荒くしている朋与に、乃絵は静かにそう呟いた。 乃絵の真剣な感謝の気持ち……でも、そのまま返すのは……ちょっと照れくさい。 「男ってさぁ……」 「?」 「……面倒くさいよね~」 また笑い出す二人。朋与も乃絵も、相手が同じ男の顔を思い浮かべて笑っていると知っている。 (…………) 何だろうか、この不思議な気持ちは…… あれほど嫌いだった乃絵に、自分は共感している。 もしかすると自分の気持ちは、比呂美より乃絵に近いのかもしれない……そんな風に朋与は感じ始めていた。 「乃絵ーもう行くぞぉー」 声のする方に視線を向けると、4番……石動純が乃絵を呼んでいた。 今行く!と叫び返すと、乃絵は朋与に向き直る。 「行くわ。…………最後に会えたのが、あなたで良かった」 そう言うと、兄のいる方向へ駆け出す乃絵。 「ちょっ……待ってよ!!」 朋与もその後を追って駆け出す。 結局、朋与は麦端高校の校門から出発する石動兄妹を見送ることになった。 ビッグスクーターのアイドリング音が辺りに響く。 出発の準備をする石動兄妹を見ながら、旅といっても普段とあまり変わらないんだな、と朋与は思った。 「あんた……9番だったよな」 「え?」 4番が自分の存在を気にしていたとは意外だったので、朋与は少し驚いた。 「フリースローの時、重心が右にブレてる。気持ち、左に寄せて打ってみろ。……もっと入るようになる」 そう朋与にアドバイスを送り、「見送りの礼だ」と言って4番は笑った。 「準備できたわ、お兄ちゃん」 ヘルメットとゴーグルをつけた乃絵が、タンデムシートに跨る。 「たまには地べたに会いに行ってやって。寂しがるから」 乃絵は振り返って朋与を見ると、そう告げた。 「……うん、わかった」 「……じゃあ……黒部さん……」 苗字で呼びかける乃絵に、朋与は首を横に振った。 「『朋与』だよ。……友達は下の名前で呼び合う事。……分かった?」 満面の笑顔で喜びを表す乃絵。 ゴーグルの奥がキラリと光ったように見えたが、それは朋与の気のせいだったかも知れない。 「さよなら!朋与!」 「うん、元気で!乃絵!」 排気音が大きくなり、ビッグスクーターは滑るように走り出す。 東京へ……乃絵と純の新天地へ向かって。 徐々にスピードを上げていく車影。その姿は見る見る小さくなっていく。 「乃絵ぇぇ~!!」 遠ざかっていく赤いコートに向かって、朋与は両腕を振り回して合図を送った。 乃絵も純にしがみついたまま、左手を朋与に向かって振り続ける。 ……そして……ふたりは春の訪れを告げる暖かな風にのって、麦端の街を旅立っていた。 ………… ………… 「……行っちゃった」 フッとため息を吐いてから、つくづく朋与は思う。なんと慌ただしい人生なのだろうと。 眞一郎との四時間だけの恋愛…… 乃絵との十五分だけの友情…… (私、役に立ってるのかな……) などとガラにもなく考えかけて、すぐに止める。 ウジウジするなんて自分には似合わない。そんなことは比呂美に任せておこうと。 ……比呂美に…………比呂美? 朋与の脳みその中にある電球が、ピカッと輝いた。 携帯を取り出し、アドレスから比呂美の番号を素早く呼び出す。 (アイツら最近、調子にのってるからな~。ここらでチョットお仕置きだべぇ~) 受話口に耳をあてながら、乃絵の話をしたら二人にどんな波風が立つだろう、と想像を膨らませる朋与。 ……でも、本当は知っている。もう眞一郎と比呂美の間がひび割れる事が無いのを……朋与は知っている。 だからこれは、ほんの些細なイタズラ。二人に『妖怪』にされたのだ。この位はしたっていいじゃないか。 《ハイ、もしもし》 「あ、比呂美?アタシだけど~」 比呂美と話しながら朋与は、乃絵の去っていた方向に眼をやった。 ……彼女の向かった新しい場所が、優しい世界でありますように…… そんな気持ちを視線に込め、朋与は『十五分だけの親友』に暫く思いを馳せていた。 つづく [[乃絵と比呂美のあいだに3]]

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