ご褒美は温泉旅行 後編

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ご褒美は温泉旅行 後編」(2008/04/10 (木) 01:35:20) の最新版変更点

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前:[[ご褒美は温泉旅行]]  第五話「泣いちゃいそう」  比呂美がハッと顔を上げる。眞一郎は、繰り返した。 「一緒に、入らないか」 「…あ…え…」  自然に出た言葉だった。比呂美を抱きたいと、考えた事がないわ けではない。何度も、何度もそう思った事がある。だが今の言葉は、 そういった事とは意味合いが異なっていた。 「あのさ…一緒に入りたいんだ。なんなら、絶対に、指一本比呂美 には触れないって、約束する。目隠ししてもいい。背中合わせでい い。一緒に入りたいんだ」 「眞一郎くん…」  じっと目を見て話す眞一郎から、比呂美は目が離せなかった。そ もそも、比呂美自身も、部屋付きの露天風呂へ、一緒に入る事を考 えなかったわけではない。だがそうすれば、理恵子との、ヒロシと の、なにより眞一郎との約束が、守れなくなるかも知れない。その 事が怖かった。  淡い恋から焦がれる想いに。幼馴染みから恋人に。許嫁から婚約 者に。そして家族に。十年来の隙間を埋めながら、形も中身も育て て行く。その為に二人で決めた、一つの約束。名実共『ずっと隣り』 にいられる日まで、一時の感情には流されない。二人を理解してく れた理恵子とヒロシ。その気持ちに報いる為にも。それが二人の、 絶対の約束だった。 「…約束は守るから」 「…うん」 「あの約束は、絶対に守るから」 「…うん」 (もしも気持ちを押さえきれなくなったら…それを考えると恐い。 わたしは、きっと溺れてしまう。眞一郎くんがわたしを求めたら、 きっと拒めない。どんなに怖くても、わたしも、きっと…)  比呂美が、俯いたまま、そんな事を考えていると、眞一郎は、優 しく微笑みながら視線を落とし、柔らかな口調で話し出す。 「比呂美はさ…かっこいいんだ」 「えっ?」 「綺麗で、かっこよくて」 「………」 「だけど、触れたら、壊れそうなんだ」 「………」  眞一郎は、再び比呂美の目を見つめる。 「だから、今は我慢したいし、我慢する」 「…うん」 「でももし襲っちゃったら、大声だしてくれよ」  一転、戯けるようにそう言うと、軽くウインクしてみせた。 「うん」 「俺、先に入ってるから」 「うん」  明るく答えながら、比呂美は思う。『こんなにも大事に想ってく れる。この人を想い続けて本当に良かった』と。そして、それが余 程嬉しいのだろう、眞一郎の背中を見ながら、こう呟いた。 「泣いちゃいそう」  第六話「こういうのは…駄目かな…」 「あの…入るね」 「お、おう…」  軽く掛け湯をした後、比呂美が声を掛ける。眞一郎は背中を向け たままだ。 「えっと…お邪魔します」 「………」  まずは半身になって片足を入れ、次いで回るようにして、もう片 足を入れる。丁度、眞一郎とは背中合わせになる格好だ。 「気持ちいい…」 「少し温めだけど、平気か?」 「うん。丁度良いと思う」 「そっか。良かった」 「この位の方が長く入っていられるし…」 「そ、そうだな…」  特に深い意味はなかったのだが、その言葉が持ち得る別の意味に 気付き、急に恥ずかしくなった比呂美は、慌てて言い直そうとする。 「あ、あのね、そういう意味じゃなくて、その」 「あ、ああ、わかってるよ。い、一般論だよな」 「そ、そう…うん…そう」 「はは…」  眞一郎の気遣いが伝わる。それが嬉しくて、比呂美はそっと呟く。 「でも…ずっと…こうしていたいって、そうも思う…かも…」 「ぁ…うん…俺も…」  二人はなんの合図もなく、揃って、空を見上げる。 「すごいな…」 「うん…空…綺麗…」  満天の星。二人の地元でも充分綺麗なのだが、今日の星空は別格 といって良いだろう。 「あのね…さっきはごめんなさい」 「え?」 「ちょっと疑っちゃった…約束の事」 「あ、ああ、いや、そんなの気にしなくていいよ」 「うん。ありがとう」 「礼もいいって」  穏やかに流れる時間。ずっとこのままでいたい。二人は、心から そう思っていた。 「でも嬉しかったな」 「何が?」 「なんでもない」 「なんだよそれ」 「いいの」 「気になるって…っ!」 「あっ…」  僅かに姿勢を変えようとして、腕を後ろに下げた比呂美。その手 が、眞一郎の指先に触れる。 「ご、ごめん」 「………」 「ごめん…」  心臓の鼓動がまた速くなる。全身が痺れるような感覚。湯の暖か さが、相手の体温にも思えてくる。 「………」 「!」  不意に、眞一郎が比呂美の手を握る。 「手くらい、いいよな…」 「そ、そう…だね…」 「そうさ…」 「………」  比呂美が手を握り返す。そして眞一郎が、また握り返す。暫くそ うしていると、やがて、お湯を通し、互いに触れあう感覚に包まれ る。そして幸福感が満ちていく。二人は、同じ感覚を共有している と、確信していた。 「あのね…こういうのは…駄目かな…」  そういうと、比呂美がもぞもぞと動く気配がする。比呂美の背中 が、眞一郎の背中に、僅かに、だが直接触れる。どうやら、さっき のもぞもぞは、巻いていたバスタオルを取ったようだ。 「い、いい、いいんじゃ…ないか…」 「うん…」  眞一郎は、今すぐ比呂美を抱きしめたい衝動に駆られるが、それ を必死に押さえ込む。これは、自分を信頼してくれるからこその行 動だと、どうしようもない程に理解出来るからだ。 「………」 「………」  徐々に、互いに、体重を預けていく。 (背中でも抱きしめ合えるんだな)  そんな眞一郎の思いが通じたのかのように、比呂美が言う。 「幸せ過ぎて怖いかも…」 「…そうだな」  その後、暫くの間、二人は黙って幸福感に身を委ねていた。眞一 郎が、自身の体の変化に気付くまで。 (でもさ…俺には拷問かも…)  第七話「なんでもないわ」 「ただいま」 「今戻りました」  仲上家の玄関で、居間に向かい、二人は声を掛ける。 「おかえりなさい二人とも」 「おかえり」 「あのこれ、お土産です」 「あら、ありがとう」 「すまないな」  理恵子とヒロシは、丁度居間に居合わせたようだ。 「さ、上がって。お茶でも煎れるわ」 「ありがとう御座います」 「俺は向こうに行ってるぞ」 「はいはい、後でそっちにも持っていきますから」 「ああ。比呂美はゆっくりしていきなさい」 「はい」  何事もないかのよう、仕事場に戻っていくヒロシだが、その実、 帰宅途中、事故にでも遭わないかと、ずっと心配していたのだ。二 人の帰宅に居合わせたのは、その為である。 「まったく、変な所で心配性なんだから」 「何それ?」 「いいから。眞ちゃんは着替えてらっしゃい」 「…はいよ」  そう言って、体よく眞一郎を追いやった理恵子。暫くの間、じっ と比呂美の様子を伺っていたが、不意に目を閉じ、呟いた。 「ありがとう」 「え?」 「なんでもないわ」 「あの…?」 「ちゃんとしてくれて嬉しいって事よ」  第八話「ご褒美は」  夕食後、二人は、比呂美の住むアパートに向かっている。 「お見通しかぁ…すごいな」 「ん?」 「わたしとおばさん、女同士の秘密です」 「ちぇっ」 「ふふっ。今度話してあげる」 「…楽しみにしてるよ」  旅行中の事、夕食時の事、学校の事、明日の事。話題も笑顔も絶 えない。そして、話が尽きない内に、玄関の扉が開けられた。 「とうちゃく~」 「お疲れさま。はい、荷物」 「ありがとう。寄っていく?」 「いや、今日はこれで。もう遅いし」 「送ってくれてありがとう」 「どう致しまして」 「………」 「………」  熱っぽい瞳。どちらからともなく、唇を寄せ合う。静かで、精一 杯気持ちを込めたキス。数秒の後、唇が静かに離れると、一瞬だけ 名残惜しそうな表情を見せ、すぐに照れたような笑顔で見つめ合う。 「おやすみ」 「帰り、気を付けて」 「ああ」 「また明日」 「また明日」  帰り道、眞一郎は空を見上げる。 「星には悪いけど、傍に比呂美がいないと、物足りないや」  窓を開け、比呂美は空を見上げる。 「眞一郎くんが一緒じゃないと、星も寂しく見えちゃうな」  同じ空を見て、同じように感じる二人。これからも、それは増え ていくだろう。二人互いを想う、時間と共に。 「あのさ…おふくろ、ありがと」 「何よあらたまって」 「旅行、許してくれたからさ」 「そんな事。比呂美ちゃん、よくやってくれてるし」 「そっか。うん、ありがとう」 「眞ちゃんは、荷物持ち兼、ボディーガードって処ね」 「…ありがとう」  眞一郎の笑顔が、引きつったような笑顔に変わる。それを、澄ま した顔で、こともなげにいなす理恵子。 「だから、どちらにしても、ご褒美なのよ」 「………。ご褒美は温泉旅行、か」  後日談 「眞一郎く~ん」  不気味なまでに、にやついている三代吉が、眞一郎の首を巻き込 むようにして話しかける。買い物の帰り、ふらりと立ち寄った、あ いちゃんの店内だ。 「どうだったよ、二人っきりの、お・ん・せ・ん・りょ・こ・う」 「どうって、何がどうなんだよ…」 「隠すな隠すな。しんゆう と書いて こころのとも だろ?」 「意味わかんないって」 「んん~…?」 「………」  じっと眞一郎の顔を覗き込む三代吉。やがて、呆れたと言わんば かりに、溜息をつく。 「はぁ…マジで?」 「お前にウソついてどうすんだよ…」 「…気付かなかったぜ。そこまでバカだったとは」 「断定かよ…あと哀れむような目で見るな」 「絶対ありえねーからそんなの。あ、もしかして…」 「なんだよ」 「お前って、インポ?」 「そんなわけないだろ…」  眞一郎は、最早こうするしかないとばかりに、苦笑いを見せる。 「じゃなきゃ若者が泊まりで何もないなんて、誰も信じないぜ?」 「うるさいって」 「まして、“あの”湯浅さんと温泉行って、何もないとか、まと もな成人男子なら絶対ねぇって」 「声でかいって」 「別にいいだろ、愛ちゃん出掛けてるし、客もいねーし」 「俺は客じゃないのかよ…第一“あの”って何だよ」 「全校生徒憧れの的」 「だからなんだよ」 「成績優秀、バスケ部のエース、美人で性格も良い。おまけに」 「おまけになんだよ」  三代吉は、一息入れてから、にやっと笑うとこう告げる。 「スタイル抜群ときたもんだ」 「いやらしい顔するな」 「あのなぁ…子供の頃から好きなんだろ?」  唐突に真剣な表情になる三代吉。眞一郎はその意図が掴めず、身 構えてしまう。 「なんだよ急に…」 「しかも両想いなわけだろ?」 「そりゃ…まぁ…」 「やっと想いが叶って、今じゃ恋人すっとばして許嫁だろ?」 「それも…まぁ…」 「卒業したら正式に婚約するんだろ?」 「うん…て、なんで知ってんだよっ!」  流石に慌てる眞一郎。卒業したら婚約する。結婚はまだ先になる として、自分の考えを形にしたいと、両親と比呂美の前で申し出た のは、もう一年半以上前の事だ。その数日後、両親が二人を呼び出 し、許可する代わりに、卒業までは許嫁として過ごすよう言い渡し たのは、その準備段階といった所だったろう。 「何が?」 「俺と比呂美が、その…この春に婚約するって…」 「お前が自分で言ったんだろ。前にうちで飲んだとき」 「そうだっけ…」 「それで今まで何もないとか、普通はありえねーんだよ」 「しょうがないだろ…事実なんだから…」 「まったく、見てて焦れった過ぎんだよ、お前達は」 「いいだろ別に」 「もし俺が、愛ちゃんと温泉泊まりだったらと思うと…」 「………」 「あーもうたまんねぇぇぇぇぇっ!」 「駄目だこりゃ…。帰る。愛ちゃんによろしくな」 「え? っておいっ! …行っちまいやがった」  口をへの字に曲げながら、三代吉は目を細め、思い出す。 (今まで、すれ違ってばかりだったから、知らないことがまだまだ 沢山あるから、一つ一つ空き間を埋めていきたいから、ずっと隣り にいたいから、ずっと隣りで笑っていて欲しいから、か…)  いつかの眞一郎の言葉だ。 (頑張れよ、応援してっぞ)  そう心の中で声援を送ると、掃除を開始する。 「俺も負けてらんねーぜ」  二人を見守る暖かい視線は、ここにも一つあるようだ。 「ったく…三代吉のやつ…」  そう言いながらも、眞一郎は満足そうに笑っている。  この前の旅行は、ともすれば下手な噂を増やしかねない。でも三 代吉は、そんなものに負けるな、とばかりに笑い飛ばしてくれる。 「ありがとな。三代吉」  妙な満足感に包まれ、眞一郎はそう呟く。ふと時計を見ると、比 呂美が、家業の手伝いを終える時間だ。 「今日の夕飯は比呂美が作るって言ってたよな。たまには手伝って みるか」  知らなかった事に気付く毎日。出来ない事に挑戦する日々。十年 来の隙間が、一つ一つ確実に埋まってゆく実感。互いを大切に想い、 慎重に歩み続ける。決して焦らないよう、手を取り合い支え合って。 そんな二人だからこそ、周囲はそれを認め、助けてくれるのだろう。 「皿並べる位しか出来ないけど」  まだまだ、やるべき事は沢山ありそうだ。  おしまい
前編:[[ご褒美は温泉旅行]]  第五話「泣いちゃいそう」  比呂美がハッと顔を上げる。眞一郎は、繰り返した。 「一緒に、入らないか」 「…あ…え…」  自然に出た言葉だった。比呂美を抱きたいと、考えた事がないわ けではない。何度も、何度もそう思った事がある。だが今の言葉は、 そういった事とは意味合いが異なっていた。 「あのさ…一緒に入りたいんだ。なんなら、絶対に、指一本比呂美 には触れないって、約束する。目隠ししてもいい。背中合わせでい い。一緒に入りたいんだ」 「眞一郎くん…」  じっと目を見て話す眞一郎から、比呂美は目が離せなかった。そ もそも、比呂美自身も、部屋付きの露天風呂へ、一緒に入る事を考 えなかったわけではない。だがそうすれば、理恵子との、ヒロシと の、なにより眞一郎との約束が、守れなくなるかも知れない。その 事が怖かった。  淡い恋から焦がれる想いに。幼馴染みから恋人に。許嫁から婚約 者に。そして家族に。十年来の隙間を埋めながら、形も中身も育て て行く。その為に二人で決めた、一つの約束。名実共『ずっと隣り』 にいられる日まで、一時の感情には流されない。二人を理解してく れた理恵子とヒロシ。その気持ちに報いる為にも。それが二人の、 絶対の約束だった。 「…約束は守るから」 「…うん」 「あの約束は、絶対に守るから」 「…うん」 (もしも気持ちを押さえきれなくなったら…それを考えると恐い。 わたしは、きっと溺れてしまう。眞一郎くんがわたしを求めたら、 きっと拒めない。どんなに怖くても、わたしも、きっと…)  比呂美が、俯いたまま、そんな事を考えていると、眞一郎は、優 しく微笑みながら視線を落とし、柔らかな口調で話し出す。 「比呂美はさ…かっこいいんだ」 「えっ?」 「綺麗で、かっこよくて」 「………」 「だけど、触れたら、壊れそうなんだ」 「………」  眞一郎は、再び比呂美の目を見つめる。 「だから、今は我慢したいし、我慢する」 「…うん」 「でももし襲っちゃったら、大声だしてくれよ」  一転、戯けるようにそう言うと、軽くウインクしてみせた。 「うん」 「俺、先に入ってるから」 「うん」  明るく答えながら、比呂美は思う。『こんなにも大事に想ってく れる。この人を想い続けて本当に良かった』と。そして、それが余 程嬉しいのだろう、眞一郎の背中を見ながら、こう呟いた。 「泣いちゃいそう」  第六話「こういうのは…駄目かな…」 「あの…入るね」 「お、おう…」  軽く掛け湯をした後、比呂美が声を掛ける。眞一郎は背中を向け たままだ。 「えっと…お邪魔します」 「………」  まずは半身になって片足を入れ、次いで回るようにして、もう片 足を入れる。丁度、眞一郎とは背中合わせになる格好だ。 「気持ちいい…」 「少し温めだけど、平気か?」 「うん。丁度良いと思う」 「そっか。良かった」 「この位の方が長く入っていられるし…」 「そ、そうだな…」  特に深い意味はなかったのだが、その言葉が持ち得る別の意味に 気付き、急に恥ずかしくなった比呂美は、慌てて言い直そうとする。 「あ、あのね、そういう意味じゃなくて、その」 「あ、ああ、わかってるよ。い、一般論だよな」 「そ、そう…うん…そう」 「はは…」  眞一郎の気遣いが伝わる。それが嬉しくて、比呂美はそっと呟く。 「でも…ずっと…こうしていたいって、そうも思う…かも…」 「ぁ…うん…俺も…」  二人はなんの合図もなく、揃って、空を見上げる。 「すごいな…」 「うん…空…綺麗…」  満天の星。二人の地元でも充分綺麗なのだが、今日の星空は別格 といって良いだろう。 「あのね…さっきはごめんなさい」 「え?」 「ちょっと疑っちゃった…約束の事」 「あ、ああ、いや、そんなの気にしなくていいよ」 「うん。ありがとう」 「礼もいいって」  穏やかに流れる時間。ずっとこのままでいたい。二人は、心から そう思っていた。 「でも嬉しかったな」 「何が?」 「なんでもない」 「なんだよそれ」 「いいの」 「気になるって…っ!」 「あっ…」  僅かに姿勢を変えようとして、腕を後ろに下げた比呂美。その手 が、眞一郎の指先に触れる。 「ご、ごめん」 「………」 「ごめん…」  心臓の鼓動がまた速くなる。全身が痺れるような感覚。湯の暖か さが、相手の体温にも思えてくる。 「………」 「!」  不意に、眞一郎が比呂美の手を握る。 「手くらい、いいよな…」 「そ、そう…だね…」 「そうさ…」 「………」  比呂美が手を握り返す。そして眞一郎が、また握り返す。暫くそ うしていると、やがて、お湯を通し、互いに触れあう感覚に包まれ る。そして幸福感が満ちていく。二人は、同じ感覚を共有している と、確信していた。 「あのね…こういうのは…駄目かな…」  そういうと、比呂美がもぞもぞと動く気配がする。比呂美の背中 が、眞一郎の背中に、僅かに、だが直接触れる。どうやら、さっき のもぞもぞは、巻いていたバスタオルを取ったようだ。 「い、いい、いいんじゃ…ないか…」 「うん…」  眞一郎は、今すぐ比呂美を抱きしめたい衝動に駆られるが、それ を必死に押さえ込む。これは、自分を信頼してくれるからこその行 動だと、どうしようもない程に理解出来るからだ。 「………」 「………」  徐々に、互いに、体重を預けていく。 (背中でも抱きしめ合えるんだな)  そんな眞一郎の思いが通じたのかのように、比呂美が言う。 「幸せ過ぎて怖いかも…」 「…そうだな」  その後、暫くの間、二人は黙って幸福感に身を委ねていた。眞一 郎が、自身の体の変化に気付くまで。 (でもさ…俺には拷問かも…)  第七話「なんでもないわ」 「ただいま」 「今戻りました」  仲上家の玄関で、居間に向かい、二人は声を掛ける。 「おかえりなさい二人とも」 「おかえり」 「あのこれ、お土産です」 「あら、ありがとう」 「すまないな」  理恵子とヒロシは、丁度居間に居合わせたようだ。 「さ、上がって。お茶でも煎れるわ」 「ありがとう御座います」 「俺は向こうに行ってるぞ」 「はいはい、後でそっちにも持っていきますから」 「ああ。比呂美はゆっくりしていきなさい」 「はい」  何事もないかのよう、仕事場に戻っていくヒロシだが、その実、 帰宅途中、事故にでも遭わないかと、ずっと心配していたのだ。二 人の帰宅に居合わせたのは、その為である。 「まったく、変な所で心配性なんだから」 「何それ?」 「いいから。眞ちゃんは着替えてらっしゃい」 「…はいよ」  そう言って、体よく眞一郎を追いやった理恵子。暫くの間、じっ と比呂美の様子を伺っていたが、不意に目を閉じ、呟いた。 「ありがとう」 「え?」 「なんでもないわ」 「あの…?」 「ちゃんとしてくれて嬉しいって事よ」  第八話「ご褒美は」  夕食後、二人は、比呂美の住むアパートに向かっている。 「お見通しかぁ…すごいな」 「ん?」 「わたしとおばさん、女同士の秘密です」 「ちぇっ」 「ふふっ。今度話してあげる」 「…楽しみにしてるよ」  旅行中の事、夕食時の事、学校の事、明日の事。話題も笑顔も絶 えない。そして、話が尽きない内に、玄関の扉が開けられた。 「とうちゃく~」 「お疲れさま。はい、荷物」 「ありがとう。寄っていく?」 「いや、今日はこれで。もう遅いし」 「送ってくれてありがとう」 「どう致しまして」 「………」 「………」  熱っぽい瞳。どちらからともなく、唇を寄せ合う。静かで、精一 杯気持ちを込めたキス。数秒の後、唇が静かに離れると、一瞬だけ 名残惜しそうな表情を見せ、すぐに照れたような笑顔で見つめ合う。 「おやすみ」 「帰り、気を付けて」 「ああ」 「また明日」 「また明日」  帰り道、眞一郎は空を見上げる。 「星には悪いけど、傍に比呂美がいないと、物足りないや」  窓を開け、比呂美は空を見上げる。 「眞一郎くんが一緒じゃないと、星も寂しく見えちゃうな」  同じ空を見て、同じように感じる二人。これからも、それは増え ていくだろう。二人互いを想う、時間と共に。 「あのさ…おふくろ、ありがと」 「何よあらたまって」 「旅行、許してくれたからさ」 「そんな事。比呂美ちゃん、よくやってくれてるし」 「そっか。うん、ありがとう」 「眞ちゃんは、荷物持ち兼、ボディーガードって処ね」 「…ありがとう」  眞一郎の笑顔が、引きつったような笑顔に変わる。それを、澄ま した顔で、こともなげにいなす理恵子。 「だから、どちらにしても、ご褒美なのよ」 「………。ご褒美は温泉旅行、か」  後日談 「眞一郎く~ん」  不気味なまでに、にやついている三代吉が、眞一郎の首を巻き込 むようにして話しかける。買い物の帰り、ふらりと立ち寄った、あ いちゃんの店内だ。 「どうだったよ、二人っきりの、お・ん・せ・ん・りょ・こ・う」 「どうって、何がどうなんだよ…」 「隠すな隠すな。しんゆう と書いて こころのとも だろ?」 「意味わかんないって」 「んん~…?」 「………」  じっと眞一郎の顔を覗き込む三代吉。やがて、呆れたと言わんば かりに、溜息をつく。 「はぁ…マジで?」 「お前にウソついてどうすんだよ…」 「…気付かなかったぜ。そこまでバカだったとは」 「断定かよ…あと哀れむような目で見るな」 「絶対ありえねーからそんなの。あ、もしかして…」 「なんだよ」 「お前って、インポ?」 「そんなわけないだろ…」  眞一郎は、最早こうするしかないとばかりに、苦笑いを見せる。 「じゃなきゃ若者が泊まりで何もないなんて、誰も信じないぜ?」 「うるさいって」 「まして、“あの”湯浅さんと温泉行って、何もないとか、まと もな成人男子なら絶対ねぇって」 「声でかいって」 「別にいいだろ、愛ちゃん出掛けてるし、客もいねーし」 「俺は客じゃないのかよ…第一“あの”って何だよ」 「全校生徒憧れの的」 「だからなんだよ」 「成績優秀、バスケ部のエース、美人で性格も良い。おまけに」 「おまけになんだよ」  三代吉は、一息入れてから、にやっと笑うとこう告げる。 「スタイル抜群ときたもんだ」 「いやらしい顔するな」 「あのなぁ…子供の頃から好きなんだろ?」  唐突に真剣な表情になる三代吉。眞一郎はその意図が掴めず、身 構えてしまう。 「なんだよ急に…」 「しかも両想いなわけだろ?」 「そりゃ…まぁ…」 「やっと想いが叶って、今じゃ恋人すっとばして許嫁だろ?」 「それも…まぁ…」 「卒業したら正式に婚約するんだろ?」 「うん…て、なんで知ってんだよっ!」  流石に慌てる眞一郎。卒業したら婚約する。結婚はまだ先になる として、自分の考えを形にしたいと、両親と比呂美の前で申し出た のは、もう一年半以上前の事だ。その数日後、両親が二人を呼び出 し、許可する代わりに、卒業までは許嫁として過ごすよう言い渡し たのは、その準備段階といった所だったろう。 「何が?」 「俺と比呂美が、その…この春に婚約するって…」 「お前が自分で言ったんだろ。前にうちで飲んだとき」 「そうだっけ…」 「それで今まで何もないとか、普通はありえねーんだよ」 「しょうがないだろ…事実なんだから…」 「まったく、見てて焦れった過ぎんだよ、お前達は」 「いいだろ別に」 「もし俺が、愛ちゃんと温泉泊まりだったらと思うと…」 「………」 「あーもうたまんねぇぇぇぇぇっ!」 「駄目だこりゃ…。帰る。愛ちゃんによろしくな」 「え? っておいっ! …行っちまいやがった」  口をへの字に曲げながら、三代吉は目を細め、思い出す。 (今まで、すれ違ってばかりだったから、知らないことがまだまだ 沢山あるから、一つ一つ空き間を埋めていきたいから、ずっと隣り にいたいから、ずっと隣りで笑っていて欲しいから、か…)  いつかの眞一郎の言葉だ。 (頑張れよ、応援してっぞ)  そう心の中で声援を送ると、掃除を開始する。 「俺も負けてらんねーぜ」  二人を見守る暖かい視線は、ここにも一つあるようだ。 「ったく…三代吉のやつ…」  そう言いながらも、眞一郎は満足そうに笑っている。  この前の旅行は、ともすれば下手な噂を増やしかねない。でも三 代吉は、そんなものに負けるな、とばかりに笑い飛ばしてくれる。 「ありがとな。三代吉」  妙な満足感に包まれ、眞一郎はそう呟く。ふと時計を見ると、比 呂美が、家業の手伝いを終える時間だ。 「今日の夕飯は比呂美が作るって言ってたよな。たまには手伝って みるか」  知らなかった事に気付く毎日。出来ない事に挑戦する日々。十年 来の隙間が、一つ一つ確実に埋まってゆく実感。互いを大切に想い、 慎重に歩み続ける。決して焦らないよう、手を取り合い支え合って。 そんな二人だからこそ、周囲はそれを認め、助けてくれるのだろう。 「皿並べる位しか出来ないけど」  まだまだ、やるべき事は沢山ありそうだ。  おしまい

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